歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」の第7回分が同紙サイトに掲載されました。興味のある方はご覧下さい。

なお、この連載のURLは右下のリンク欄にもありますので、ご利用下さい。
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【2007/05/19 10:03】 | さつま人国誌
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かじやちょう
かじやちょうです。
HPで見られるようになって毎回楽しみに拝見しています。

川田氏に興味があり、川田城の跡を訪ねて郡山の山奥まで行ったことがあります。川田氏の墓所にも行きました(笑)。
薩摩の軍配者が重要な役割を果たしているのはわかるのですが、どのような身分でどのような権限を与えられていたのか理解するのがなかなか難しいです。義朗についてももう少し知りたいのですが・・・なかなか(笑)。
ところで、勝鬨についておもしろいご解説ありがとうございました。勝鬨は気を扱うことなので、軍配者の仕事だったとのことですが、勝鬨を担当した者は軍配者と考えて宜しいのでしょうか?

軍配者の権限
桐野
かじやちょうさん、どうも。

>薩摩の軍配者が重要な役割を果たしているのはわかるのですが、どのような身分でどのような権限を与えられていたのか理解するのがなかなか難しいです。

う~ん、これは難しいですね。
薩摩島津家の軍配者は必ずしも一人ではなかったようですが、メインは日新斎・貴久の時代の伊集院忠朗、義久の時代の川田義朗というのはほぼ固定されているように思います。
どちらかといえば、忠朗も義朗も島津家当主との個人的関係や信任が強かったように思います。

島津家の場合、ご存じのとおり、軍略の策定にあたっては、最高意思決定の方法として鬮取りが重視されました。でも、軍配者は鬮取りとは直接関わっておらず、むしろ、修験者が担っています。

軍配者は軍略や対外方針の決定には関与していない、あるいはできないのかもしれませんね。

ただ、天正14年頃、島津氏が筑前・筑後と豊後の二正面戦をしていた頃、いったん鬮取りで豊後攻めを決めたにもかかわらず、筑紫広門の離反により、急遽、筑前攻めに方針変更したとき、鬮取りの結果を否定しないという体裁をととのえるためでしょうか、豊後領内に「伏せ針」をしています。おそらく大友氏が日向に出てこないようにという封印だと思います。
その針に霊力をもたせるため、加持祈祷をしたのが川田義朗でした。
そうした義朗の働きをどのように理解するのかという課題もありますね。
また、甲陽軍鑑によれば、山本勘助は「城取」(城の設計)をしています。これも地鎮祭の一種ですから、軍配者の役目だというのもわかりますが、義朗が城取に関わったのかどうかはわかりませんね。
ただ、合戦に出陣したとき、本陣をどこにおくか、その吉凶を占う「地取」はやっていたと思われます。

いずれにせよ、なかなかの難問です。


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この記事へのコメント
かじやちょうです。
HPで見られるようになって毎回楽しみに拝見しています。

川田氏に興味があり、川田城の跡を訪ねて郡山の山奥まで行ったことがあります。川田氏の墓所にも行きました(笑)。
薩摩の軍配者が重要な役割を果たしているのはわかるのですが、どのような身分でどのような権限を与えられていたのか理解するのがなかなか難しいです。義朗についてももう少し知りたいのですが・・・なかなか(笑)。
ところで、勝鬨についておもしろいご解説ありがとうございました。勝鬨は気を扱うことなので、軍配者の仕事だったとのことですが、勝鬨を担当した者は軍配者と考えて宜しいのでしょうか?
2007/05/20(Sun) 11:36 | URL  | かじやちょう #-[ 編集]
軍配者の権限
かじやちょうさん、どうも。

>薩摩の軍配者が重要な役割を果たしているのはわかるのですが、どのような身分でどのような権限を与えられていたのか理解するのがなかなか難しいです。

う~ん、これは難しいですね。
薩摩島津家の軍配者は必ずしも一人ではなかったようですが、メインは日新斎・貴久の時代の伊集院忠朗、義久の時代の川田義朗というのはほぼ固定されているように思います。
どちらかといえば、忠朗も義朗も島津家当主との個人的関係や信任が強かったように思います。

島津家の場合、ご存じのとおり、軍略の策定にあたっては、最高意思決定の方法として鬮取りが重視されました。でも、軍配者は鬮取りとは直接関わっておらず、むしろ、修験者が担っています。

軍配者は軍略や対外方針の決定には関与していない、あるいはできないのかもしれませんね。

ただ、天正14年頃、島津氏が筑前・筑後と豊後の二正面戦をしていた頃、いったん鬮取りで豊後攻めを決めたにもかかわらず、筑紫広門の離反により、急遽、筑前攻めに方針変更したとき、鬮取りの結果を否定しないという体裁をととのえるためでしょうか、豊後領内に「伏せ針」をしています。おそらく大友氏が日向に出てこないようにという封印だと思います。
その針に霊力をもたせるため、加持祈祷をしたのが川田義朗でした。
そうした義朗の働きをどのように理解するのかという課題もありますね。
また、甲陽軍鑑によれば、山本勘助は「城取」(城の設計)をしています。これも地鎮祭の一種ですから、軍配者の役目だというのもわかりますが、義朗が城取に関わったのかどうかはわかりませんね。
ただ、合戦に出陣したとき、本陣をどこにおくか、その吉凶を占う「地取」はやっていたと思われます。

いずれにせよ、なかなかの難問です。
2007/05/20(Sun) 22:19 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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