歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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日本海域3

前から欲しかった『日本海域歴史大系』第四巻・近世篇Ⅰ(清文堂、2005)が比較的安く手に入った。

このシリーズはタイトルにあるように、海(とくに環日本海域)をテーマとしながら、境界や周縁という問題を取り扱っていて興味深い。

そのなかで、中野等「豊臣政権の大陸侵攻と境界認識の変容」という論考が面白かった。中野氏は豊臣政権の展開と朝鮮侵略を主要テーマにしてすでに定評のある研究者だが、秀吉の「天下」観念がどのようなものだったかを跡づけている。

私たちは信長や秀吉の「天下統一」といえば、漠然と現・日本列島の統一だろうと考えていて、ゲームなどにもそれは反映しているのではないか。それでもなお、蝦夷地や琉球は含まれるのかどうかという点も曖昧なままである。

秀吉もまた「本朝六十余州」とか「日本六十余州」という言葉を使っているが、どうやらそれは「天下」とイコールではないらしい。
たとえば、家臣の亀井茲矩(これのり)に「琉球守」や「台州守」(浙江省台州)という官途名を与えているのもその傍証ではないかと、中野氏はいう。

また西洋の境界論でいえば、秀吉の「天下」とは単なるバウンダリー(一次元のライン)ではなく、フロンティア(二次元の地帯・ゾーン)ではないかと中野氏は述べる。
つまり、あらかじめ何らかの歴史的経緯で定められた境界線が存在するのではないというのである。秀吉の場合、「叡慮」を政権の正統性の根拠とし、その委任者・執行者としての立場から「惣無事令」を遂行したことはすでによく知られている。
その際、豊臣政権の、つまり「天下」の境界は「叡慮」に服属した勢力とそれを拒絶した「兇徒」との間に存在する。だから、秀吉の意志によって可変的であり、かつ拡大的に再生産される。フロンティアとはそういう意味である。

したがって、秀吉はフロンティアの外側の「兇徒」を次々と伐り従えて「天下」を拡げていくことになる。それはフロンティアの外延化であり、一種の帝国的境界である。
その際、外国の王も例外ではない。「叡慮」に服するかどうかがすべての基準であり、その意味では、秀吉にとって戦国大名も朝鮮国王も唐国も同じである。

秀吉が大陸派兵の意図を表明したのは、関白任官直後の天正13年(1585)9月のことだが、それに伴い、九州出兵も命じている。毛利輝元に宛てた朱印状のなかで、秀吉は「唐国(明国)までも征服しようと思っていたが、島津が命令に背いたのが幸いなので、これを機に九州征伐を命じる」と述べている。
つまり、大陸派兵と九州出兵は一体というか、むしろ、九州出兵は大陸派兵に従属した一環だともいえそうだ。一方の島津側は秀吉のそうした意図をどこまで認識していたのだろうか。

中野論文を読んで連想したのは、では信長の「天下」観念はどのようなものだったのかという点である。信長が出羽下国の安東氏を服属させて、日ノ本将軍として遇したのではないかと言われていることから、蝦夷地も「天下」の範疇に含まれていた可能性が高い。しかし、その死によって、西の境界までは不明のままである。

同書にはほかにも、池内敏「近世から近代に到る竹島(鬱陵島)認識について」という興味深い論考の収録されている。なお、この「竹島」は現在、日韓で係争中の「竹島」(独島)ではない。
池内論考はあくまで文献史学的な手法でこの問題にアプローチしている。
元禄年間の徳川幕閣が「竹島・松島そのほか、因幡・伯耆に附属する島は存在しない」という見解を表明したこと。
また明治政府もこの問題を調査して、外務官僚の北澤正誠が竹島・松島が「古来我版図外の地たるや知るべし」といった報告を出し、明治政府も渡航禁止令を出していること。
こうした歴史的事実も踏まえて、冷静な議論が必要だろうと感じた。

『日本海域歴史大系』第四巻・近世篇Ⅰ
長谷川成一・千田嘉博 編
清文堂、2005年
中国・オランダを例外として国を鎖していたとされる近世。しかし日本海域に目を向けると、アイヌを介した北方との交易、北前船を通じた内外の交流の海として、新たな地域史像が浮かび上がってくる。本巻では、異国との接触を始めとして、海域の城郭・鉱山、海運と港町の発展、災害や信仰から見た地域社会、赤瓦や擂鉢等の移動など、多様な社会相を明らかにしていく。
ISBN4-7924-0584-X
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【2006/11/25 13:29】 | 古書
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天下か殿下か
桐野
自己レスです(懐かしいフレーズだ)。

ふと思ったのですが、秀吉の「天下」がそういうものだったとすれば、秀吉が消息などで、「てんか」と自署するのは何を意味するのでしょうか?

私は以前、雑誌にこれは「殿下」の意味だ、秀吉は北政所はじめ家族にそう呼ばせていたんだという趣意のことを書いたけど、秀吉が「天下」にこれだけのこだわりをもっていることを考えると、やはり「天下」なのでしょうかね?

発想のてんか「ん?」
かわい
 まずはお約束のオヤジギャグを(笑)。

 秀吉の「天下」が修辞的なだけでなく、実際に論理的にも「天上」に対するものだったと仮定するなら、当時の西欧社会におけるカトリック普遍主義を背景にした世界帝国の概念にほぼ合致することになりますね。惣無事令の普遍化などは、神の国の普遍化から宗教色を除いただけで、事実上は同一概念ですから。
 とすると、地の果てまでもすべてが天下ということになり、さらに切支丹禁令はカトリック普遍主義の否定西欧社会への宣戦という見方も可能になりますが、殿下も天下も「てんか」なのが厄介ですね。単純に天下様の様を取って自称した可能性も十分ありそうですし、一筋縄ではどれと決め難いだけに、研究者の方々の議論に触れる機会であるところのこうした本を紹介していただけると、大変ありがたいです。論文掲載誌をことごとくチェックするなど、私のような一般人には難事業ですから。
 で、信長ですが、御神体を置いた安土城を天上と天下を結ぶ世界の中心と位置づけていたのだとしたら、信長もまた天下人この世の主という発想だったのかもしれませんし、宣教師が伝えた西欧社会の様相(教皇と皇帝を聖俗それぞれの神の代理人とする)から拝借した可能性もありますし、解釈としてはなんでも成立してしまいそうですね。

天下と公儀
桐野
かわいさん。

オヤジギャグ、どうもです。

信長が「天下布武」の印判を使うようになったのは、イエズス会との本格的交渉の前からですが、その後の「天下」の用例を見ると、当初とくらべて変容というか発展している可能性がありますね。
巨視的=世界史的に見れば、信長の「天下」とカトリック的普遍主義のアジアへの登場とがほぼ軌を一にしているのは単なる偶然ではなく、信長がそれに刺激・影響されて、それと融合・折衷した産物だったのかもしれませんね。

ただ、信長と秀吉の差異もあったかもしれず、信長存命なら「叡慮」を含まない「天下」の展開を考えたのではないかという気がします。

なお、研究者の間では、信長の「天下」は足利将軍的「公儀」を自称できなかった(もしくはその条件を持ちえなかった)からだとして、「公儀」よりも「天下」を過小評価する傾向が強いですが、どうも国内的な、内向きの議論ではないかという気がします。

秀吉の「天下」が信長の「天下」を継承し、しかも、列島世界を超越している観念であるなら、、信長の「天下」を「公儀」の下位に位置づけるのはおかしくなります。

「天下」を標榜した信長・秀吉の織豊時代が、前近代においてカトリック的普遍主義が東アジアでいちばん勢力を有した時期と重なっている、その国際的な契機を重視するほうがよいのではとも思います。

むしろ、「公儀」概念こそ、「天下」という日本的普遍主義を断念もしくは放棄したのちの、内向きな志向を示しているとも考えられないでしょうか。


神国思想
桐野
>かわいさん

追加です。

>惣無事令の普遍化などは、神の国の普遍化から宗教色を除いただけで、事実上は同一概念ですから。

秀吉の対外侵略は「神国思想」を理論的武器に展開されたというのは、かなり通説化されてきましたね。ですから、「天下」の展開は宗教的でもあります。

もっとも、それは神仏混淆の付け焼き刃的なもののようですが。


秀吉の政策における宗教性
かわい
 詳細な解説、ありがとうございます。信長万能主義的な大衆信仰(笑)に対する掣肘と考えれば、研究者が過小評価に傾く気持ちもわからなくはないですね。

 秀吉の神国思想についてですが、先の西欧社会との対比において、私が明確な差異として意識していたのは、宗教が目的と手段のどちらに立脚しているか、ということでした。つまり、西欧社会における帝国概念では宗教が手段ではなく目的であったと考えられるのに対して、秀吉は宗教を手段として用いることを重視していたように思えたのです。
 神聖ローマ皇帝の目的が多くの場合、宗教的な同一性を広域的に確立することにあり、そのために制圧と秩序の回復という手段を必要としていたと考えられるのに対して、秀吉の政策にはそうした目的性が感じられず、広域的な支配の貫徹とそのための秩序回復がそれ自体目的であったかのように見えたからです。
 これはある意味、仰せのような「神仏混淆の付け焼き刃的なもの」であることを意識しすぎた結果なのかもしれず、その点ではかなり的外れなことを書いてしまったのかもしれません。
 実際、神聖ローマ皇帝のスタンスにおいても、戦争目的の正当化に宗教的裏づけを求めていたことは通説化していますし、三十年戦争に帰結する神性ローマ帝国の悪あがきも新教勢力の存在による政治的結合性の揺らぎが大きな動機とされているようですから、秀吉の宗教性を一刀両断に切り捨ててしまうのはいささか早計であったようです。

神国思想
桐野
かわいさん。

ヨーロッパとの比較論まで展開していただき、有難うございます。私にはとても苦手な分野でして、書いていることがけっこう支離滅裂です(笑)。

で、秀吉の神国思想、神国観が手段か目的かといえば、やはり目的だったのではないかと思います。

朝尾直弘氏や高木昭作氏らの議論によれば、秀吉や家康など統一権力者の神国観(あるいは神国・仏国観)は、中世に流行した仏教優位の本地垂迹説を逆転させた、いわば「神本仏迹説」に基づいているとのこと。

本来、仏教の圧倒的優位だったものが、密教の天台本覚論などの影響で、日本の神がインドに出現して仏教を説き、中国に渡って儒教を説いたこと、したがって、日本こそがインド・中国に優越する神国・仏国だという説です。

これは蒙古襲来という民族的大事件以来、「末法の辺土」という「劣等コンプレックス」(島国根性とでも申しましょうか)の裏返しとして成立したようですが、織豊期や近世初期に登場して、わが国の国家観に影響を与えたのには、やはり固有の時代背景があると見るべきで、おそらく明国を中心とする華夷秩序(パックス・チャイニーナ)の衰退に規定されてのことだと思います。

信長・秀吉・家康はこうした神国観によって、明国に対する文化的優位を主張したかったのかもしれません。それは東アジア秩序を自分たちで再編統合しようとする動きの思想的根拠となったのかもしれませんね。


一方、この明国を中心とする東アジア的秩序が衰退するのには内外の要因がありますが、とくにヨーロッパ勢力=カトリック的普遍主義の東アジアへの登場もその外因です。
これは対明国のみならず、日本においても潜在的脅威であり、秀吉の神国観が一方で大陸侵略のイデオロギーとなりつつ、他方で、キリシタン追放令ともリンクしていたことは周知の通りです。
したがって、秀吉・家康の神国観は対外的ばかりでなく、国内統治の根拠にもなるという二面性があったように思います。

このあたりのことは、高木昭作氏の『将軍権力と天皇―秀吉・家康の神国観―』(青木書店、2003)に詳しいです。

余談ですが、信長とよく結びつけられる「第六天魔王」。これも神国思想のなかでは面白い位置づけにあり、私たちの常識を覆してくれます。


なるほど!
かわい
 たびたびの懇切なご説明に加えて参考文献までご紹介いただき、ありがとうございます。これまで大雑把に流してきた部分だったのですが、実は非常に面白い視点を見逃してきたことがわかりました。大変勉強になりました。
 とくに華夷秩序の衰退との関連は興味深いですね。早速、ご紹介いただいた本を探してみることにします。

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天下か殿下か
自己レスです(懐かしいフレーズだ)。

ふと思ったのですが、秀吉の「天下」がそういうものだったとすれば、秀吉が消息などで、「てんか」と自署するのは何を意味するのでしょうか?

私は以前、雑誌にこれは「殿下」の意味だ、秀吉は北政所はじめ家族にそう呼ばせていたんだという趣意のことを書いたけど、秀吉が「天下」にこれだけのこだわりをもっていることを考えると、やはり「天下」なのでしょうかね?
2006/11/25(Sat) 13:57 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
発想のてんか「ん?」
 まずはお約束のオヤジギャグを(笑)。

 秀吉の「天下」が修辞的なだけでなく、実際に論理的にも「天上」に対するものだったと仮定するなら、当時の西欧社会におけるカトリック普遍主義を背景にした世界帝国の概念にほぼ合致することになりますね。惣無事令の普遍化などは、神の国の普遍化から宗教色を除いただけで、事実上は同一概念ですから。
 とすると、地の果てまでもすべてが天下ということになり、さらに切支丹禁令はカトリック普遍主義の否定西欧社会への宣戦という見方も可能になりますが、殿下も天下も「てんか」なのが厄介ですね。単純に天下様の様を取って自称した可能性も十分ありそうですし、一筋縄ではどれと決め難いだけに、研究者の方々の議論に触れる機会であるところのこうした本を紹介していただけると、大変ありがたいです。論文掲載誌をことごとくチェックするなど、私のような一般人には難事業ですから。
 で、信長ですが、御神体を置いた安土城を天上と天下を結ぶ世界の中心と位置づけていたのだとしたら、信長もまた天下人この世の主という発想だったのかもしれませんし、宣教師が伝えた西欧社会の様相(教皇と皇帝を聖俗それぞれの神の代理人とする)から拝借した可能性もありますし、解釈としてはなんでも成立してしまいそうですね。
2006/11/25(Sat) 15:35 | URL  | かわい #-[ 編集]
天下と公儀
かわいさん。

オヤジギャグ、どうもです。

信長が「天下布武」の印判を使うようになったのは、イエズス会との本格的交渉の前からですが、その後の「天下」の用例を見ると、当初とくらべて変容というか発展している可能性がありますね。
巨視的=世界史的に見れば、信長の「天下」とカトリック的普遍主義のアジアへの登場とがほぼ軌を一にしているのは単なる偶然ではなく、信長がそれに刺激・影響されて、それと融合・折衷した産物だったのかもしれませんね。

ただ、信長と秀吉の差異もあったかもしれず、信長存命なら「叡慮」を含まない「天下」の展開を考えたのではないかという気がします。

なお、研究者の間では、信長の「天下」は足利将軍的「公儀」を自称できなかった(もしくはその条件を持ちえなかった)からだとして、「公儀」よりも「天下」を過小評価する傾向が強いですが、どうも国内的な、内向きの議論ではないかという気がします。

秀吉の「天下」が信長の「天下」を継承し、しかも、列島世界を超越している観念であるなら、、信長の「天下」を「公儀」の下位に位置づけるのはおかしくなります。

「天下」を標榜した信長・秀吉の織豊時代が、前近代においてカトリック的普遍主義が東アジアでいちばん勢力を有した時期と重なっている、その国際的な契機を重視するほうがよいのではとも思います。

むしろ、「公儀」概念こそ、「天下」という日本的普遍主義を断念もしくは放棄したのちの、内向きな志向を示しているとも考えられないでしょうか。
2006/11/25(Sat) 17:04 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
神国思想
>かわいさん

追加です。

>惣無事令の普遍化などは、神の国の普遍化から宗教色を除いただけで、事実上は同一概念ですから。

秀吉の対外侵略は「神国思想」を理論的武器に展開されたというのは、かなり通説化されてきましたね。ですから、「天下」の展開は宗教的でもあります。

もっとも、それは神仏混淆の付け焼き刃的なもののようですが。
2006/11/25(Sat) 17:17 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
秀吉の政策における宗教性
 詳細な解説、ありがとうございます。信長万能主義的な大衆信仰(笑)に対する掣肘と考えれば、研究者が過小評価に傾く気持ちもわからなくはないですね。

 秀吉の神国思想についてですが、先の西欧社会との対比において、私が明確な差異として意識していたのは、宗教が目的と手段のどちらに立脚しているか、ということでした。つまり、西欧社会における帝国概念では宗教が手段ではなく目的であったと考えられるのに対して、秀吉は宗教を手段として用いることを重視していたように思えたのです。
 神聖ローマ皇帝の目的が多くの場合、宗教的な同一性を広域的に確立することにあり、そのために制圧と秩序の回復という手段を必要としていたと考えられるのに対して、秀吉の政策にはそうした目的性が感じられず、広域的な支配の貫徹とそのための秩序回復がそれ自体目的であったかのように見えたからです。
 これはある意味、仰せのような「神仏混淆の付け焼き刃的なもの」であることを意識しすぎた結果なのかもしれず、その点ではかなり的外れなことを書いてしまったのかもしれません。
 実際、神聖ローマ皇帝のスタンスにおいても、戦争目的の正当化に宗教的裏づけを求めていたことは通説化していますし、三十年戦争に帰結する神性ローマ帝国の悪あがきも新教勢力の存在による政治的結合性の揺らぎが大きな動機とされているようですから、秀吉の宗教性を一刀両断に切り捨ててしまうのはいささか早計であったようです。
2006/11/25(Sat) 20:01 | URL  | かわい #-[ 編集]
神国思想
かわいさん。

ヨーロッパとの比較論まで展開していただき、有難うございます。私にはとても苦手な分野でして、書いていることがけっこう支離滅裂です(笑)。

で、秀吉の神国思想、神国観が手段か目的かといえば、やはり目的だったのではないかと思います。

朝尾直弘氏や高木昭作氏らの議論によれば、秀吉や家康など統一権力者の神国観(あるいは神国・仏国観)は、中世に流行した仏教優位の本地垂迹説を逆転させた、いわば「神本仏迹説」に基づいているとのこと。

本来、仏教の圧倒的優位だったものが、密教の天台本覚論などの影響で、日本の神がインドに出現して仏教を説き、中国に渡って儒教を説いたこと、したがって、日本こそがインド・中国に優越する神国・仏国だという説です。

これは蒙古襲来という民族的大事件以来、「末法の辺土」という「劣等コンプレックス」(島国根性とでも申しましょうか)の裏返しとして成立したようですが、織豊期や近世初期に登場して、わが国の国家観に影響を与えたのには、やはり固有の時代背景があると見るべきで、おそらく明国を中心とする華夷秩序(パックス・チャイニーナ)の衰退に規定されてのことだと思います。

信長・秀吉・家康はこうした神国観によって、明国に対する文化的優位を主張したかったのかもしれません。それは東アジア秩序を自分たちで再編統合しようとする動きの思想的根拠となったのかもしれませんね。


一方、この明国を中心とする東アジア的秩序が衰退するのには内外の要因がありますが、とくにヨーロッパ勢力=カトリック的普遍主義の東アジアへの登場もその外因です。
これは対明国のみならず、日本においても潜在的脅威であり、秀吉の神国観が一方で大陸侵略のイデオロギーとなりつつ、他方で、キリシタン追放令ともリンクしていたことは周知の通りです。
したがって、秀吉・家康の神国観は対外的ばかりでなく、国内統治の根拠にもなるという二面性があったように思います。

このあたりのことは、高木昭作氏の『将軍権力と天皇―秀吉・家康の神国観―』(青木書店、2003)に詳しいです。

余談ですが、信長とよく結びつけられる「第六天魔王」。これも神国思想のなかでは面白い位置づけにあり、私たちの常識を覆してくれます。
2006/11/25(Sat) 22:35 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
なるほど!
 たびたびの懇切なご説明に加えて参考文献までご紹介いただき、ありがとうございます。これまで大雑把に流してきた部分だったのですが、実は非常に面白い視点を見逃してきたことがわかりました。大変勉強になりました。
 とくに華夷秩序の衰退との関連は興味深いですね。早速、ご紹介いただいた本を探してみることにします。
2006/11/26(Sun) 22:56 | URL  | かわい #-[ 編集]
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