歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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本日(10日)、表題の学会が中央大学後楽園キャンパスで開催されたので、初めて参加。
昨日が初日だったが、本日の報告のほうが関心が高かったのと、友人の研究者、町田明広氏の報告があったので、それを楽しみに参加した。

町田氏の報告は朝いちのトップバッターだった。演題は次の通り。

幕末中央政局における「皇国復古」―島津久光率兵上京を中心として―

町田報告とは別に、小生も久光の率兵上京が朝主幕従の体制確立や幕政人事への外様雄藩の前代未聞の介入、副産物としての参勤交代の廃止など、従来の幕藩体制に風穴を開ける強引な横紙破りであり、その後の維新変革の端緒として評価すべきだと、前々から思っていたし、小文を書いたこともあった。
だから、非常に興味深く拝聴した。

町田報告の第一の特徴は「皇国復古」という言葉を大久保一蔵の文書などから発見して、それを勅命主導による国家体制「天皇親裁体制」実現のためのイデオロギーないしは大義名分だと位置づけたことである。
従来、当該期の国制に使用される「公武合体」という用語の曖昧性や多義性とくらべると、その意味や性格がわかりやすいと感じた。
(と同時に、同じ史料用語として「王政復古」との違いはあるのか否かがやや気にはなった)。

第二は、同じ「皇国復古」という言葉が、諸侯(久光)、朝廷・公家、尊攘系志士という三者の間で意味内容が異なり、その食い違いがそれぞれの政治路線や行動の違いとなって表面化し、寺田屋事件などの軋轢を生むメカニズムを明らかにしたことである。
同じ言葉を使っても、意味内容が異なるという、この時期特有の悲喜劇の背景がわかったような気がした。

ほかにも興味深い考察として、寺田屋事件の背景、とくに久光が上意討ちを急いだ理由が、長州藩と有馬新七らの薩摩藩内義挙派との結合の可能性に危機感を抱いたからではないかという視点が興味深かった。寺田屋事件の背景に薩長のせめぎ合いを見るというのはなかなか面白い。

個人的に少しわからなかった点としては、「天皇親政」と「天皇親裁体制」という用語の違いがあまり理解できなかったことである。
町田報告によれば、勅諚主導(朝主幕従)の体制、あるいは政令二途から一途への収斂という方向性における天皇の主導性を「天皇親裁体制」と規定していたように感じた。

一方、「天皇親政」は岩倉ら王政復古派公家が構想したもので、「天皇親裁体制」はあくまで一過程であり、最終的には「天皇親政」をめざすものするものの、その中味は不明というものだった。
それとは別に、尊攘系志士が構想した「天皇親政」とは、青蓮院宮(朝彦親王)を征夷大将軍として押し立て、国是を攘夷とし徳川将軍家を諸侯の列に落とすという具体的なものだった。これは後醍醐天皇の建武の新政をイメージしたと考えてよいのだろうか。

この岩倉構想と志士構想は結合する可能性はあったと町田報告は認めているが、両者の「天皇親政」の意味内容は同じなのか違うのか、よくわからなかった。
建武の新政方式のような「天皇親政」は可能なのかどうか、文久年間では実現性は薄く現実的ではないような気がするのが一点。もう一点は「天皇親政」が公武にまたがる権力概念ではなく、むしろ朝廷内の「関白―両役」体制の打破(幕府の影響力の排除)という朝廷内改革とでもいうべき限定的な意味合いをもっていた可能性はなかったのかなど、いろいろ憶測してしまった。

それはともあれ、幕末薩摩藩をフィールドにしている小生には、刺激的で興味深い内容だった。

ほかの報告は以下の3つ(敬称略)。

牧野雅司「明治維新と日朝関係の変質」
刑部芳則「栄典制度の形成と華族」
星野尚文「明治初年における藩邸処分問題の展開」


3報告とも面白かったが、とくに刑部報告はユニークだった。内容を伴いつつも、軽妙洒脱な語り口は、これまでの学会報告ではお目にかかったことがないほど個性的で、思わず引き込まれてしまった。
そのなかの史料で面白かったのは、討幕の密勅の署名者の一人で、自他ともに認める維新の功臣のはずの嵯峨実愛(正親町三条実愛)が伯爵止まりで侯爵になれなかったことに愚痴をこぼしていたこと。古文書講座「てらこや」でおなじみの人物だっただけに、その立場に「その気持ちはわかるよ」と思わず相づちを打ってしまった(笑)。

途中、すごい豪雨もあったが、意義深い一時だった。
会場で、「てらこや」の受講生で友人でもあるT氏と出会い、終了後も歓談して時間を忘れるほど楽しかった。
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【2007/06/11 00:13】 | 幕末維新
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ありがとうございました。
町田明広
桐野さま

町田です。先日はお忙しいところ、拙い報告をお聞きいただき、誠にありがとうございました。大会報告は、評価がいかがだったか、気になるところですが、個人的には、私としてはまずまずの出来であり、得がたい経験となりました。非常に楽しい、充実した一時でした。
また、コメントをいただきまして、重ねて御礼申し上げます。今回の報告で説明が至らなかった点、成稿における留意点を的確にご指摘いただいております。

さて、今回ご指摘いただいた諸点につきまして、お返事が遅くなりまして恐縮ですが、若干のコメントをさせていただきます。

「皇国復古」と「王政復古」のイデオロギー的差異をどのように捉えるかですが、「皇国復古」は文久期前半の政策用語であり、諸勢力によってその理解に位相があり、朝廷(岩倉等廷臣)、諸侯(久光)、西国志士間でその到達点およびそこに至るプロセス(戦略・具体的方策)に相違があったと考えます。一方、「王政復古」は慶應期に登場し、国体変革を意識したスローガンであり、「皇国復古」に比して、凡そ勢力間に共通認識を持ちえた概念と捉えます。よって、報告者の中では両概念は峻別されています。

「天皇親政」と「天皇親裁体制」の概念の相違点ですが、天皇親政は文字通り、天皇が最高意思決定者として政治を司る政体を指し、大政委任は否定され、律令(太政官制)に復した状態を想起しています。一方、天皇親裁ですが、天皇が最高意思決定者であることには変わりありませんが、幕府への大政委任は容認しており、国事に関わることは天皇に奏聞の上、親裁を仰ぐ必要があります。幕府は執行機関という位置づけですが、奏聞事項を精査し、勅裁案を検討できる状況にあります。

久光は皇国復古を天皇親裁体制実現のためにイデオロギー化し、一橋慶喜・松平春嶽の登用等を計り、久光自身が幕政参画・当期政局の実質的リーダーとなり、挙国一致体制実現(公武融和)、最終的には徳川公儀体制維持・封建制存続を企図したと考えます。

なお、政令二途は攘夷別勅旨および文久国是策定を巡る文久2年後半以降、松平春嶽がその実態を指摘し始め、文久3年3月の家茂上京時に関白鷹司輔煕から「征夷将軍儀是迄通御委任被遊候上ハ、彌以叡慮遵奉君臣之名分相正、闔國一致奏攘夷之成功人心帰服之所置可有之候、國事之儀ニ付テハ事柄ニ寄直ニ諸藩ヘ御沙汰被爲有候間、兼テ御沙汰被成置候事」と沙汰されて以降、顕然化したと考えます。

「天皇親政」における朝廷(岩倉等廷臣)および西国志士の連関性ですが、両者がそれぞれ志向した政治形態は、岩倉は斬新論であり、そのプロセスや最終形は明らかにしていません。一方、西国志士はまさしく「建武の新政」をイメージしていたと考えます。寺田屋事件以降、それは噴出し、建武の新政、楠正成、後醍醐天皇が様々な場面で取り上げられます。

今回のご指摘で「この岩倉構想と志士構想は結合する可能性はあったと町田報告は認めているが、両者の「天皇親政」の意味内容は同じなのか違うのか、よくわからなかった」点に関しましては、確かに岩倉は具体的には述べていませんが、推量すべきことと考えました。恐らく、岩倉と西国志士では摂関制存続に関して差異があったと推察します。岩倉は廃止まではこの時点で思いが至っていなかったと考えます。

なお、岩倉は「天皇親政」を文久年間で実現できるとは考えておらない斬新論ですが、西国志士はかなり杜撰な計画ですが、可能と考えました。しかし、条件として大諸侯の挙兵を念頭に置いていたため、彼らの行為はあくまでも「魁」でした。また、天皇親裁はあくまでも「公武にまたがる権力概念」と考えます。例えば、「朝廷内の「関白―両役」体制の打破」といったことは、朝廷人事改革であり、天皇親裁という政治形態そのものではないという認識です。

実に分かり難いコメントで恐縮ですが、現時点でご用意できたものはこのレベルです。次回、お会いできた際にでもお話しができればと思います。よろしくお願いいたします。

また、本報告は成稿を期したいと思います。概念の精緻化はなかなか難しい課題ですが、時間をかけるつもりでやってまいります。

今後も様々ご教示いただきたく、どうかよろしくお願いいたします。

有難うございます
桐野
町田明広さん、こんばんは。

小生の雑評に詳しいコメント有難うございます。
おおかた理解することができました。
「皇国復古」をキーワードにした分析は新しい見方だと思います。
また、「天皇親政」と「天皇親裁体制」の違いについても、大政委任の有無によるという点、よくわかりました。
もっとも、文久2年段階で、「天皇親政」はとても無理だと思います。主体的条件がととのっていません。朝廷にとっては摂関制度の廃止さえ大変ですし、諸侯は幕府の存在を認めていますしね。仰せの通り、無謀な「魁」だったと思います。

コメント有難うございました。
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2007/06/11(Mon) 20:06 | URL  | 日本ブログ新聞 #-[ 編集]
ありがとうございました。
桐野さま

町田です。先日はお忙しいところ、拙い報告をお聞きいただき、誠にありがとうございました。大会報告は、評価がいかがだったか、気になるところですが、個人的には、私としてはまずまずの出来であり、得がたい経験となりました。非常に楽しい、充実した一時でした。
また、コメントをいただきまして、重ねて御礼申し上げます。今回の報告で説明が至らなかった点、成稿における留意点を的確にご指摘いただいております。

さて、今回ご指摘いただいた諸点につきまして、お返事が遅くなりまして恐縮ですが、若干のコメントをさせていただきます。

「皇国復古」と「王政復古」のイデオロギー的差異をどのように捉えるかですが、「皇国復古」は文久期前半の政策用語であり、諸勢力によってその理解に位相があり、朝廷(岩倉等廷臣)、諸侯(久光)、西国志士間でその到達点およびそこに至るプロセス(戦略・具体的方策)に相違があったと考えます。一方、「王政復古」は慶應期に登場し、国体変革を意識したスローガンであり、「皇国復古」に比して、凡そ勢力間に共通認識を持ちえた概念と捉えます。よって、報告者の中では両概念は峻別されています。

「天皇親政」と「天皇親裁体制」の概念の相違点ですが、天皇親政は文字通り、天皇が最高意思決定者として政治を司る政体を指し、大政委任は否定され、律令(太政官制)に復した状態を想起しています。一方、天皇親裁ですが、天皇が最高意思決定者であることには変わりありませんが、幕府への大政委任は容認しており、国事に関わることは天皇に奏聞の上、親裁を仰ぐ必要があります。幕府は執行機関という位置づけですが、奏聞事項を精査し、勅裁案を検討できる状況にあります。

久光は皇国復古を天皇親裁体制実現のためにイデオロギー化し、一橋慶喜・松平春嶽の登用等を計り、久光自身が幕政参画・当期政局の実質的リーダーとなり、挙国一致体制実現(公武融和)、最終的には徳川公儀体制維持・封建制存続を企図したと考えます。

なお、政令二途は攘夷別勅旨および文久国是策定を巡る文久2年後半以降、松平春嶽がその実態を指摘し始め、文久3年3月の家茂上京時に関白鷹司輔煕から「征夷将軍儀是迄通御委任被遊候上ハ、彌以叡慮遵奉君臣之名分相正、闔國一致奏攘夷之成功人心帰服之所置可有之候、國事之儀ニ付テハ事柄ニ寄直ニ諸藩ヘ御沙汰被爲有候間、兼テ御沙汰被成置候事」と沙汰されて以降、顕然化したと考えます。

「天皇親政」における朝廷(岩倉等廷臣)および西国志士の連関性ですが、両者がそれぞれ志向した政治形態は、岩倉は斬新論であり、そのプロセスや最終形は明らかにしていません。一方、西国志士はまさしく「建武の新政」をイメージしていたと考えます。寺田屋事件以降、それは噴出し、建武の新政、楠正成、後醍醐天皇が様々な場面で取り上げられます。

今回のご指摘で「この岩倉構想と志士構想は結合する可能性はあったと町田報告は認めているが、両者の「天皇親政」の意味内容は同じなのか違うのか、よくわからなかった」点に関しましては、確かに岩倉は具体的には述べていませんが、推量すべきことと考えました。恐らく、岩倉と西国志士では摂関制存続に関して差異があったと推察します。岩倉は廃止まではこの時点で思いが至っていなかったと考えます。

なお、岩倉は「天皇親政」を文久年間で実現できるとは考えておらない斬新論ですが、西国志士はかなり杜撰な計画ですが、可能と考えました。しかし、条件として大諸侯の挙兵を念頭に置いていたため、彼らの行為はあくまでも「魁」でした。また、天皇親裁はあくまでも「公武にまたがる権力概念」と考えます。例えば、「朝廷内の「関白―両役」体制の打破」といったことは、朝廷人事改革であり、天皇親裁という政治形態そのものではないという認識です。

実に分かり難いコメントで恐縮ですが、現時点でご用意できたものはこのレベルです。次回、お会いできた際にでもお話しができればと思います。よろしくお願いいたします。

また、本報告は成稿を期したいと思います。概念の精緻化はなかなか難しい課題ですが、時間をかけるつもりでやってまいります。

今後も様々ご教示いただきたく、どうかよろしくお願いいたします。
2007/06/24(Sun) 17:23 | URL  | 町田明広 #-[ 編集]
有難うございます
町田明広さん、こんばんは。

小生の雑評に詳しいコメント有難うございます。
おおかた理解することができました。
「皇国復古」をキーワードにした分析は新しい見方だと思います。
また、「天皇親政」と「天皇親裁体制」の違いについても、大政委任の有無によるという点、よくわかりました。
もっとも、文久2年段階で、「天皇親政」はとても無理だと思います。主体的条件がととのっていません。朝廷にとっては摂関制度の廃止さえ大変ですし、諸侯は幕府の存在を認めていますしね。仰せの通り、無謀な「魁」だったと思います。

コメント有難うございました。
またお会いしたときにいろいろ教えて下さい。
2007/06/26(Tue) 02:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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