歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨夜、古文書塾「てらこや」に出講。
5回講座の最終回である。

土佐藩重役寺村左膳の日記をずっと読んできたが、今期中に何としても終わらせるため、慶応3年(1867)12月分を一気に駆け足で読んだ。
途中、天満屋事件など重要事件があったのだが、王政復古政変に絞るために、断腸の思いで端折る。

でも、日記に注釈を加えながら12月晦日まで読み終えたときには、すでに1時間10分を過ぎていて、残りは20分だけ。これで王政復古政変を解説するのは無理……。

それでも、越前藩の「丁卯日記」を中心に、政変の経緯を読み解く。視座を大久保一蔵VS後藤象二郎に設定する。

兵庫開港期日である12月7日に合わせて、直近5日を政変決行日に定めた薩摩藩に対して、後藤が越前・尾張・紀州・芸州の支持を取りつけて、在京雄藩だけで平和裡の新政権樹立構想で対抗する。
すると、今度は大久保が後藤に政変決行日を意図的にリークして牽制する。政変決行が不可避と知った後藤は、越前の松平春嶽を通じて、この情報を徳川慶喜に流す。
それは政変阻止のためではなく、政変を決行させながら、慶喜の「反正」を強硬に迫り、新政権内での主導権確保を狙う薩摩藩の意図を挫こうという「薩遺算(違算か)失望」の策である。
そのためには、慶喜が幕府内の保守派や会津・桑名などの強硬派を押さえるのが前提だった。慶喜は阿吽の呼吸で、後藤の意図を察し、永井尚志や平山敬忠ら幕閣の要人を使って反対派を押さえつけるのに成功した。

まさに大久保と後藤が見かけは「雷同」して手を携えながら、裏では「同床異夢」「呉越同舟」で突入したのが王政復古政変である。
一方の慶喜の立場からみたら、まさに「やらせクーデタ」だった。

薩摩藩討幕派としては、慶喜の大政奉還により、討幕の密勅実行の大義名分を失い、宮廷クーデタという形に後退した政変になったが、何としても慶喜に打撃を与えて、KOは無理でも判定勝ちに持ち込みたいという意図が見え隠れする。
小御所会議で、辞官納地を強引に認めさせた大久保だったが、越前・尾張の周旋により、慶喜の議定就任や納地が懲罰的なものではなく、徳川家も諸藩も同等に一定の禄高を差し出すことによって新政権の財政基盤をつくるという決定を見て、むしろ、後藤が判定勝ちしそうな雲行きになった。

大坂に下っていた慶喜の上京も決定した。このままいけば、慶喜の復権が劇的になされるはずだったが……。

というところで、日記は終わる。
結局、予定の時間を30分近くオーバーして何とか解説を終えることができた。

日記全体を通してみると、日記の主、寺村左膳の進退もよく示されていた。もともと佐幕派だった寺村だが、政変決行に加担した後藤・福岡・神山のトリオへの不信感を露わにし、小御所会議代理出席を断って、ついに後藤らと決裂する。
これを機に、寺村は明治政府での栄達の道を断たれたといっても過言ではない。この日記は、寺村の「遺恨」や「痛憤」を書き綴った日記でもあることが最後に明らかになったように思えた。

あとで、受講生の方から「後藤は一人で頑張ったんですね」という感想をいただき、我が意を得たりという思いだった。
私がこの日記を読むにあたって、ひそかに設定していた裏テーマは後藤象二郎の復権だったからである。14回に及んだ講座のなかでも、折に触れて後藤に関する史料をたくさん紹介したつもりである。

次期は、次のテーマでやります。
開講日は7月10日(火)で、隔週火曜日の5回です。

大河ドラマ「篤姫」の見方

天璋院篤姫の出自はむろん、幕府と薩摩藩の関係を中心にしつつ、幕府政治のあり方が篤姫の入輿によって変化が生じたのか否か。大奥の実態なども含めて、幕末という時代を裏側から読んでいきたいと思っています。
関心があって時間とお金に少し余裕のある方はご検討下さい。
主催者はここです。ただ、まだ新講座はアップされていないようです。
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【2007/06/13 12:33】 | てらこや
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