歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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串木野留学生渡航の地

鹿児島県串木野の英国留学生渡航の地

先日、慶応元年(1865)の英国留学生の一人、堀孝之のことを書いた。

すると、本日(13日)の南日本新聞サイトに、同じく英国留学生の長沢鼎(本名:磯永彦輔)のカリフォルニア州サンタ・ローザにあったブドウ園跡が公園として保存されることになったという記事が載っていた。ここです。
ブドウ園跡やワイン醸造所がまだ残っていたということ自体、驚きである。

長沢鼎は19名の留学生中、最年少の13歳だった。
英国からアメリカに渡った長沢は苦労の末、広大なブドウ園の開拓に成功し、「葡萄王」の異名をとり、「サクセスワイン」という銘柄のワインがアメリカやヨーロッパだけでなく、日本にも大量に輸入されて売れたという。
長沢は事業の成功で莫大な富を築いたが、生涯独身を通した。

死ぬまでに帰国したのは2回だけで、留学するときに藩主から与えられた変名の長沢鼎を生涯通した。没したのは1934年、83歳だった。

犬塚隆明『薩摩藩英国留学生』(中公新書)に面白いエピソードが紹介されている。
明治末年、島津家の当主、島津忠重(最後の薩摩藩主忠義の嫡男)が海軍の士官候補生として練習艦でサンフランシスコに寄港したとき、長沢は馬車を仕立てて忠重を迎え、サンタ・ローザの邸宅に招いた。そして門前で旧主に土下座したので、周囲のアメリカ人を驚かしたという。長沢は若かったため、すぐに欧米に適応したが、そのために、不完全な「藩意識」を残存させていたことが、彼にこのような行為をとらせたと、犬塚氏は指摘している。

長沢鼎生誕の地

長沢鼎生誕の地(鹿児島市上之園町)

カリフォルニアの葡萄王として著名な人物だったが、一面では忘れ去られていた人でもあった。しかし、ゆかりの遺跡があると、少しは身近に感じられるものである。もっとも、すぐ訪ねていくわけにもいかないので、とりあえず上記に生誕地跡の石碑を紹介しておく。
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【2007/06/14 02:42】 | 幕末維新
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薩摩藩英国留学生
ばんない
長沢鼎は晩年はちょうどあの「禁酒法」に引っかかって肝心の商品を売れない事態となり、結構苦労したようですね。第二次世界大戦に巻き込まれる前に亡くなったのが不幸中の幸いでしょうか。一度何かの本で、留学した頃?の長沢鼎の写真を見たことがありますが、生涯独身だったことと照らし合わせて、いろいろ考えさせられました(苦笑)。

薩摩藩の英国留学生+アルコールときたら、破滅的な末路をたどった村橋久成の方が個人的に印象に残っています。日本をビール大国?にした偉人の一人であることは確実ですが、実際英国留学せず、明治維新も来なかった方が彼にとっては幸せだったんじゃなかったろうか、とその人生を見ると、いろいろ考えさせられます。
村橋は最後神戸で行路人となって倒れているところを発見され、死亡が確認されるのですが、ネットで調べた限りでは、神戸のどこで死んだのかがはっきり分からないですね。

別記事で話題になっていた町田久成も、出家遁世して公的な場から身をひいていますし、五代友厚、寺島宗則、森有礼みたいにその後の政財界で大活躍した人物もいますが、薩摩藩留学生は全体として意外に維新後の時流に乗れなかった人が多いような印象を受けます。

留学生の傾向
桐野
ばんないさん、こんにちは。

薩摩藩留学生で政治家になった人はほとんどいませんね。寺島宗則や森有礼は大臣になっていますが、どちらかといえば官僚ですね。
そういえば、黒田清隆も第2次の英国留学生の候補になっていたのですが、慶応末年の動乱のため、候補者リストからはずされています。成果が出るのが遠い先である留学生より、即戦力として要請されたということで、政治家・軍人と留学生の分かれ目があるようにも思います。
薩摩藩留学生の選抜基準も藩校である開成所の成績によって決められているようですから、やはり学究膚の人物が選ばれている傾向がありますね。どちらかといえば、政治家には不向きかと。

村橋久成については、明治14年(1881)の開拓使官有物払い下げ事件のショックが大きかったような気がしますね。疑獄事件を目の当たりにして、とくに黒田清隆に幻滅した可能性がありますし、留学生仲間の五代もこの事件で再起不能になっていますが、そのことと関係があるのかどうか、真相はよくわかりません。

最近、「長州ファイブ」という映画が封切られましたが、こちらは長州藩の英国留学生たちを描いたもので、現地で薩摩藩留学生と出会い、激論を交わす場面などもあるそうです。
長州藩の留学生も伊藤博文と井上馨を除くと、政治家になった人はいませんね。薩摩藩と似たような傾向かも知れません。


教えて欲しいのですが…
ほうしん
鹿児島に「ちゃわん虫の唄」という戯れ歌があります。「茶碗蒸し」を虫の料理か何かと勘違いする「愚かさ」を揶揄する内容だったように記憶しています。犬塚先生か誰かの著作の中に「長澤」がこの日本語「ちゃわんむし」を忘れてしまっていたというエピソードを書かれていたように記憶していますが、この「ちゃわん虫の唄」は一体何時できて、長澤のエピソードとは全く無関係なのでしょうか?ご教示くださいませ。

ちゃわんむしの唄
桐野
ほうしんさん、はじめまして。

その唄、私も子どもの頃、「茶碗についた虫じゃろかい~」と意味もわからずに歌っていた記憶があります(笑)。

俗謡の成立時期はいつかというのは、私はまったくの門外漢でよくわかりません。ネットで検索したら、次のようなサイトがありました。

http://www.minc.ne.jp/~mictky/kagosima/tyawan.html

これによれば、大正年間に作られた唄ということらしいです。そうなると、長沢鼎が知っていたという話とは矛盾しますね。もし長沢が知っていたというのがたしかなら、あるいはオリジナルの唄が江戸時代か幕末あたりにはすでにあったということでしょうか?
サイトにある歌詞は何となく新しい感じがしますけどね。

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薩摩藩英国留学生
長沢鼎は晩年はちょうどあの「禁酒法」に引っかかって肝心の商品を売れない事態となり、結構苦労したようですね。第二次世界大戦に巻き込まれる前に亡くなったのが不幸中の幸いでしょうか。一度何かの本で、留学した頃?の長沢鼎の写真を見たことがありますが、生涯独身だったことと照らし合わせて、いろいろ考えさせられました(苦笑)。

薩摩藩の英国留学生+アルコールときたら、破滅的な末路をたどった村橋久成の方が個人的に印象に残っています。日本をビール大国?にした偉人の一人であることは確実ですが、実際英国留学せず、明治維新も来なかった方が彼にとっては幸せだったんじゃなかったろうか、とその人生を見ると、いろいろ考えさせられます。
村橋は最後神戸で行路人となって倒れているところを発見され、死亡が確認されるのですが、ネットで調べた限りでは、神戸のどこで死んだのかがはっきり分からないですね。

別記事で話題になっていた町田久成も、出家遁世して公的な場から身をひいていますし、五代友厚、寺島宗則、森有礼みたいにその後の政財界で大活躍した人物もいますが、薩摩藩留学生は全体として意外に維新後の時流に乗れなかった人が多いような印象を受けます。
2007/06/15(Fri) 23:33 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
留学生の傾向
ばんないさん、こんにちは。

薩摩藩留学生で政治家になった人はほとんどいませんね。寺島宗則や森有礼は大臣になっていますが、どちらかといえば官僚ですね。
そういえば、黒田清隆も第2次の英国留学生の候補になっていたのですが、慶応末年の動乱のため、候補者リストからはずされています。成果が出るのが遠い先である留学生より、即戦力として要請されたということで、政治家・軍人と留学生の分かれ目があるようにも思います。
薩摩藩留学生の選抜基準も藩校である開成所の成績によって決められているようですから、やはり学究膚の人物が選ばれている傾向がありますね。どちらかといえば、政治家には不向きかと。

村橋久成については、明治14年(1881)の開拓使官有物払い下げ事件のショックが大きかったような気がしますね。疑獄事件を目の当たりにして、とくに黒田清隆に幻滅した可能性がありますし、留学生仲間の五代もこの事件で再起不能になっていますが、そのことと関係があるのかどうか、真相はよくわかりません。

最近、「長州ファイブ」という映画が封切られましたが、こちらは長州藩の英国留学生たちを描いたもので、現地で薩摩藩留学生と出会い、激論を交わす場面などもあるそうです。
長州藩の留学生も伊藤博文と井上馨を除くと、政治家になった人はいませんね。薩摩藩と似たような傾向かも知れません。
2007/06/16(Sat) 12:18 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
教えて欲しいのですが…
鹿児島に「ちゃわん虫の唄」という戯れ歌があります。「茶碗蒸し」を虫の料理か何かと勘違いする「愚かさ」を揶揄する内容だったように記憶しています。犬塚先生か誰かの著作の中に「長澤」がこの日本語「ちゃわんむし」を忘れてしまっていたというエピソードを書かれていたように記憶していますが、この「ちゃわん虫の唄」は一体何時できて、長澤のエピソードとは全く無関係なのでしょうか?ご教示くださいませ。
2007/06/16(Sat) 22:53 | URL  | ほうしん #-[ 編集]
ちゃわんむしの唄
ほうしんさん、はじめまして。

その唄、私も子どもの頃、「茶碗についた虫じゃろかい~」と意味もわからずに歌っていた記憶があります(笑)。

俗謡の成立時期はいつかというのは、私はまったくの門外漢でよくわかりません。ネットで検索したら、次のようなサイトがありました。

http://www.minc.ne.jp/~mictky/kagosima/tyawan.html

これによれば、大正年間に作られた唄ということらしいです。そうなると、長沢鼎が知っていたという話とは矛盾しますね。もし長沢が知っていたというのがたしかなら、あるいはオリジナルの唄が江戸時代か幕末あたりにはすでにあったということでしょうか?
サイトにある歌詞は何となく新しい感じがしますけどね。
2007/06/17(Sun) 10:59 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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2007/06/19(Tue) 23:26 |   |  #[ 編集]
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2008/02/26(Tue) 08:20 |   |  #[ 編集]
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