歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第11回
―信長、光秀と京で出会う―

右下のリンク欄からご覧になれます。
今回から2回にわたり、島津家久を取り上げます。
1回目は、天正3年(1575)の家久の上京を『家久君上京日記』から紹介しました。とくに、信長と光秀との出会いが中心です。

次回は、秀吉との戦い、島津本宗家内での家久の立場などから、いわゆる「毒殺」の一件を考察したいと思います。
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【2007/06/16 11:12】 | さつま人国誌
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質問です
市川
こんにちは
私は最近先生の本を読ませていただいたものですが、桐野先生にご質問があります。
2005年に先生が出版された「島津義久」の中で、島津義弘の息子・島津忠恒は二男ということになっておりますが、本日南日本新聞に掲載された「知られざる猛将・島津家久」では忠恒は三男となっております。大変お忙しいと思いますが、ぜひこの違いを教えていただけないでしょうか?

二男でも三男でも
桐野
市川さん、はじめまして。

拙著を読んでいただき、有難うございます。

島津家久(忠恒)を二男とするか、三男とするかですが、『島津氏正統系図』などによれば、義弘の男子で一番先に生まれたのは鶴寿丸です。生没年は1569~76年で、8歳で夭逝しています。
その次が久保(1573~1593)で、三番目が忠恒(家久)ですね。

要は、鶴寿丸をカウントするかどうかという点です。彼が長男だったことは間違いありませんから、それを重視すれば、忠恒は三男です。

一方、鶴寿丸は成人しておりませんし、時期が天正後半以降なら、実質的には忠恒が二男ということにしても必ずしも間違いではないと思います。

南日本新聞では、前者の考え方といいますか、『島津氏正統系図』に従った書き方をしました。拙著「島津義久」での記述と統一がとれていないのは問題かもしれませんが、二男でもとくに間違いではないと思います。



ありがとうございました
市川
桐野先生お忙しい中質問に答えていただきありがとうございました。
そういう違いだったんですね。
勉強になりました。

これからもがんばってください。

さつま人国誌読ませていただきました。
織田 創
いつも楽しく拝見させていただいています。
島津家久が上洛して信長や光秀と出会った話は知っていましたが、今回の記事で詳しい状況が分かりました。ありがとうございます。

記事から判断しますと、光秀とは親交を深めたようですが、信長に関しては、“見かけただけ”だったと判断しても良いのでしょうか?
多分、この頃は長篠城が危機を向かえその対応で信長も忙しかったかもしれませんが・・・
愚問で申し訳ありません!

長篠合戦との関連
桐野
織田 創さん、こんにちは。

ご指摘のとおり、家久は信長をたまたま見ただけですね(笑)。
この時期、信長は足利義昭を追放してまだ二年足らず。信長の天下が確立するかどうかまだ流動的な情勢でした。島津氏は一方で義昭と交流がありましたから、信長支持という形で完全に軸足を移しておらず、両者と等距離外交だったと思います。
そのため、家久は信長を表敬訪問して、正式に島津方の態度を表明する用意はなかったものと思われます。それが信長と公式に対面しなかった理由だと思います。

家久が里村紹巴との関係で紹巴の弟子、心前宅に宿泊しているのが、光秀を訪問するポイントだったかもしれませんね。紹巴と光秀は連歌仲間でしたから。紹巴が九州の珍しい客がいると紹介したので、光秀が興味を示したのではないでしょうか。

なお、家久が坂本城に光秀を訪ねたのは、ご指摘のとおり、長篠合戦の数日前です。
光秀は二日間だけ家久の相手をしましたが、三日目は会うのを控えています。その理由は主君が三河で対陣しているのに、家来の自分が遊興していてはいけないというものでした。
光秀は信長に気を遣っていたことがうかがえます。

それからほどなく、家久は近衛前久の家宰、進藤長治から長篠での信長の勝利を聞かされていますが、どの程度の情報だったかはわかりません。


すいません!有難うございます!
織田 創
お忙しい中、私の愚問に詳細なご回答本当に有難うございます!
家久は信長に会うためというか織田家と友好を深めるために上洛したわけではなかったんですね。勉強になりました。

もうすぐ『歴史読本』発売されますね。楽しみです!
それではこれからも更新楽しみにしています。




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質問です
こんにちは
私は最近先生の本を読ませていただいたものですが、桐野先生にご質問があります。
2005年に先生が出版された「島津義久」の中で、島津義弘の息子・島津忠恒は二男ということになっておりますが、本日南日本新聞に掲載された「知られざる猛将・島津家久」では忠恒は三男となっております。大変お忙しいと思いますが、ぜひこの違いを教えていただけないでしょうか?
2007/06/16(Sat) 14:26 | URL  | 市川 #-[ 編集]
二男でも三男でも
市川さん、はじめまして。

拙著を読んでいただき、有難うございます。

島津家久(忠恒)を二男とするか、三男とするかですが、『島津氏正統系図』などによれば、義弘の男子で一番先に生まれたのは鶴寿丸です。生没年は1569~76年で、8歳で夭逝しています。
その次が久保(1573~1593)で、三番目が忠恒(家久)ですね。

要は、鶴寿丸をカウントするかどうかという点です。彼が長男だったことは間違いありませんから、それを重視すれば、忠恒は三男です。

一方、鶴寿丸は成人しておりませんし、時期が天正後半以降なら、実質的には忠恒が二男ということにしても必ずしも間違いではないと思います。

南日本新聞では、前者の考え方といいますか、『島津氏正統系図』に従った書き方をしました。拙著「島津義久」での記述と統一がとれていないのは問題かもしれませんが、二男でもとくに間違いではないと思います。

2007/06/16(Sat) 17:02 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました
桐野先生お忙しい中質問に答えていただきありがとうございました。
そういう違いだったんですね。
勉強になりました。

これからもがんばってください。
2007/06/16(Sat) 17:25 | URL  | 市川 #-[ 編集]
さつま人国誌読ませていただきました。
いつも楽しく拝見させていただいています。
島津家久が上洛して信長や光秀と出会った話は知っていましたが、今回の記事で詳しい状況が分かりました。ありがとうございます。

記事から判断しますと、光秀とは親交を深めたようですが、信長に関しては、“見かけただけ”だったと判断しても良いのでしょうか?
多分、この頃は長篠城が危機を向かえその対応で信長も忙しかったかもしれませんが・・・
愚問で申し訳ありません!
2007/06/17(Sun) 16:19 | URL  | 織田 創 #-[ 編集]
長篠合戦との関連
織田 創さん、こんにちは。

ご指摘のとおり、家久は信長をたまたま見ただけですね(笑)。
この時期、信長は足利義昭を追放してまだ二年足らず。信長の天下が確立するかどうかまだ流動的な情勢でした。島津氏は一方で義昭と交流がありましたから、信長支持という形で完全に軸足を移しておらず、両者と等距離外交だったと思います。
そのため、家久は信長を表敬訪問して、正式に島津方の態度を表明する用意はなかったものと思われます。それが信長と公式に対面しなかった理由だと思います。

家久が里村紹巴との関係で紹巴の弟子、心前宅に宿泊しているのが、光秀を訪問するポイントだったかもしれませんね。紹巴と光秀は連歌仲間でしたから。紹巴が九州の珍しい客がいると紹介したので、光秀が興味を示したのではないでしょうか。

なお、家久が坂本城に光秀を訪ねたのは、ご指摘のとおり、長篠合戦の数日前です。
光秀は二日間だけ家久の相手をしましたが、三日目は会うのを控えています。その理由は主君が三河で対陣しているのに、家来の自分が遊興していてはいけないというものでした。
光秀は信長に気を遣っていたことがうかがえます。

それからほどなく、家久は近衛前久の家宰、進藤長治から長篠での信長の勝利を聞かされていますが、どの程度の情報だったかはわかりません。
2007/06/17(Sun) 17:13 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
すいません!有難うございます!
お忙しい中、私の愚問に詳細なご回答本当に有難うございます!
家久は信長に会うためというか織田家と友好を深めるために上洛したわけではなかったんですね。勉強になりました。

もうすぐ『歴史読本』発売されますね。楽しみです!
それではこれからも更新楽しみにしています。


2007/06/17(Sun) 19:49 | URL  | 織田 創 #-[ 編集]
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2014/07/22(Tue) 14:16 |   |  #[ 編集]
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2014/07/25(Fri) 22:22 |   |  #[ 編集]
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2007/06/17(Sun) 00:25:11 |  むとうすブログ
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