松山合戦の際の甘利左衛門と米倉彦次郎の逸話がありますから、たぶんこちらでしょう。脚本家氏はアレンジが下手なだけで、『甲陽軍鑑』はけっこう読み込んでいるようですよ。
にありました。どこにあるか探しましたよ(笑)。
「葦毛馬の糞、水にたてゝのみ候へば、血をくだすと申て」云々とあり、しかも、鉄炮疵の手当て法だと書いていますので、こちらのほうを参照したのでしょうね。
ただ、これは永禄5年(1562)の話で、河越夜戦のあった天文15年(1546)から16年後の話なんですね。
米倉丹後の発明した「竹束」に関連する記事だったわけですな。
そういえば、この記事のあたりに、武田家に鉄炮が持ち込まれた話が出ています。信虎時代の大永5年(1525)に、鉄炮2挺が初めて甲府に来たとあります。
通説の鉄炮伝来より17年前になりますが、信じていいのでしょうか?
橋場殿下あたりは東国への鉄炮伝来を早めに想定していたような(うろ覚え)。
桐野先生、以前、『新・歴史群像シリーズ』でお世話になりましたぶるぼんです。いろいろな先生方の歴史ブログを見ていましたら、先生のブログにたどり着きました。先生のブログは大変タメになり、いろいろと参考になります。ぜひぜひ大河ドラマも続けてみてください。橋場先生、かわい先生のブログともども毎週楽しみにしています。僕のほうもアドレスのブログで毎週『風林火山』のコメントを書いています。
ぶるぼんさん、はじめまして。
すみません。お知り合いの編集者の方のようですが、お書きになっているブログではわかりませんでした(笑)。
ブログに書かれている「風林火山」の記事読みました。
私なんかよりずっと詳しいですね。
馬糞を勘助に呑ませた例の坊さんがのちに真田幸綱に招かれて長谷寺の開基になったのですか。そういう関係だったのですね。
真田郷の長谷寺には昨夏行きました。幸綱と夫人と昌幸の墓が裏手にありましたね。
ぶるぼんさん
あらためて貴ブログを拝見して、思い出しました。
その節にはお世話になりました。その後も歴群の仕事はされているのでしょうか。
細々とですが、今回も携わっています。
また、担当になった場合はよろしくお願いします。
まあ、基本的にフリーですので、他の書籍等でもご縁がありましたらぜひ。
>桐野先生
もう少し細かい内容まで踏み込んで書けばよかったですね。お手数をおかけしました。
鐵炮の話は、種子島とそれ以前の『応仁記』なんかに登場するものを分けて考えるなら、大永5年もありなのかもしれません。それ以前の武田家は鐵炮どころではなかったでしょうし。
このあたり、橋場さんはどうお考えですかね。
>ぶるぼんさん
徒歩圏内のご近所なのでそのうち遊びにうかがいます。
かわいさん、こんばんは。
武田氏や北条氏の史料では、鉄炮の記事が種子島への伝来よりも早めに登場していますね。
考えてみれば、教科書的な史実の典拠は「鉄炮記」という後世の二次史料ですから、「応仁記」や「甲陽軍鑑」とさほど変わりません。「鉄炮記」だけが重視されるというのもおかしいですね。
胡でございます。
恐れ入りますが、この討論には私を参与させていただきたいんです。
一般的には、鉄砲伝来は天文12年のことだと伝われているが、個人的にはポルトガルより、倭寇(日本の商人たち)は中国、琉球との密貿易で鉄砲を日本に導入したのではないだろうかと考えます。
「鉄砲記」には、天文十三年ころに、ある貿易船が伊豆に漂着したとの記事があり、一方、「北条五代記」には、永正十年に玉滝坊という山伏は堺で中国から伝来した鉄砲を入手して北条氏綱に献上したとの記事もある。
「鉄砲記」と「北条五代記」の史料としての信用度がまだ問題だが、種子島から、ただ一年で関東北条氏まで鉄砲が伝えられたことは考えにくいし、それに、その一年間に、鉄砲の作り方が習得できたかどうかまだ疑問があります。その二つの史料によれば、むしろ鉄砲伝来の時点は天文12年以前のことだという可能性が高いのではないでしょうか。
以上愚見ですが。
胡さん、こんばんは。
ご指摘のように、天文12年(1543)より以前に鉄炮が何らかのルートで伝来していてもおかしくないですね。
最近は種子島への伝来も天文11年説が有力視されています。
あと、種子島に来たポルトガル人も王直という倭寇(後期倭寇)の船に乗ってきたと言われています。いずれにしろ、倭寇ルートは無視できませんね。
くしゃみが二回出たのでやって参りました(笑)。
難しい話は分からないんですが(いつもながら)、鉄炮自体の到来は関東でも早かった可能性は高いのではないでしょうか。ただ、実用に供する為の製造・運用技術やインフラ整備となると、拙ブログでも触れたようにあまりさかのぼれないのではないか、と。
はしば殿下、わざわざおでましいただき有難うございます。
なるほど、伝来は早かったかもしれないけど、ライセンス生産する技術力がなかったということですね。
東国戦国史のなかで、鉄炮が一定の数量で戦力として表れるのは、「勝山記」(500挺だったか)の武田勢が最初でしたかね。