歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日の大河ドラマ「風林火山」第24回。
表題の尾籠、失礼のほどを。今回のキーワードだったもので。

ガクト景虎が出るというので見たが、ほんの顔見せ程度だった。

真田幸隆(正確には幸綱)がいよいよ武田氏に帰属することを決める。
しかし、武田氏を一番の仇敵のように非難していたけど、これは村上義清も加わっていた戦いによるものだから、武田氏だけが悪し様に言われるのはおかしいし、地縁的な関係からは、むしろ村上氏が真田氏の宿敵ではないかと思うが……。

それはさておき、この脚本家は女性の心情を描くことが非常に下手だという印象を受ける(男性のそれもうまいわけではない)。
一時期の由布姫の錯乱と迷走もそうだし、今回の幸隆夫人の忍芽もそうだ。武田氏は父たちの宿敵だからと言っておきながら、その下の根も乾かぬうちに、兄が夫を裏切り者だと罵ると、一転して夫の味方をする。はあ~という感じだ。
女性は山の天気のように変わりやすいとでも考えているのだろうか。少しは思考に整合性をもたせるか、心情の変化を何らかの形で視聴者に理解させる工夫をしてみたらどうかと思うが……。
女は意地と怨恨だけで生きるものという偏見でもあるのかねと思ってしまう。

さて、今回は勘助が鉄炮で負傷した一件で、よく馬糞が出てきた。晴信に鉄炮で負傷した感想を聞かれた勘助は馬糞の味がしたとまで引っ張った。

幸隆ゆかりの僧侶が勘助の傷の手当てをし、馬糞を溶いて呑ませたら治ったと豪語していた。馬糞で治療というのはあまりに唐突で、面食らった人も多いだろう。
でも、出典はすぐピンと来た。

『雑兵物語』(浅野長武監修、人物往来社、1968年)

である。
これには、いろんな種類の足軽や中間、小者といった武家奉公人の逸話が独特の口語文でたくさん載っている。
そのなかに負傷の手当てをどうしたかということも書かれている。たとえば、傷が疼く場合の対処法としては、

「疵ががいにうずくべいならば、おのれが小便をのみなされろ。やはらぎ申べい」

傷がズキズキ痛むなら、自分の小便を呑めば症状が和らぐというのである。一時期、自分の小水を呑む健康法も流行ったから、あながち非科学的でもあるまい(笑)。

また傷の手当てについて。とくに鉄炮傷と特定したわけではないが、次のように書かれている。

「がいに胴腹の疵から血がはしる。又、血が胴へ落るもんだぞ。あし毛馬の糞を水にたてゝくらへば、胴へおちた血が下りて、疵もはやくいゑるものだ。あし毛馬の血をのんでも、胴へ落た血がくだるといふぞ。去ながら馬の血はうぬがまゝにとられまい。くそをくらったがましだ」

大意をとると、
「胴や腹の負傷で出血が多かったり、内出血しているときには、葦毛馬の糞を水に溶いて喰らえば、内出血した血が滞留せずに降りて、傷が早く治るというものだ。葦毛馬の血を呑んでも同様の効果が得られるが、馬の血を得るには殺さないとできないから、糞のほうが簡単に入手できるのでこちらがましである」

ドラマのシーンはこの一節からヒントを得たのだと思う。

さて、由布姫が晴信に勘助や板垣信方のことをあれこれ告白したために、晴信の顔色が変わり、軍議の場でも、板垣に皮肉を言ったり、板垣の進言をあえて無視する挙に出た。
いかにも嫉妬心丸出しで、器量が小さい晴信にされている。
しかも、これは単発のエピソードではなくて、おそらく上田原での板垣の討死(おそらく憤死として描かれるだろう)の伏線であろうことは想像に難くない。

あるいは、由布姫の無意識のなかに(諏訪氏の怨念という)夜叉の顔が隠されており、それが期せずして、武田家中の反目や分裂をもたらすという、一種のたたり神として含意されていると思うのは穿ちすぎか。
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【2007/06/18 21:46】 | 風林火山
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大河の出典は『甲陽軍鑑』かと
かわい
 松山合戦の際の甘利左衛門と米倉彦次郎の逸話がありますから、たぶんこちらでしょう。脚本家氏はアレンジが下手なだけで、『甲陽軍鑑』はけっこう読み込んでいるようですよ。

巻第卅二
桐野
にありました。どこにあるか探しましたよ(笑)。

「葦毛馬の糞、水にたてゝのみ候へば、血をくだすと申て」云々とあり、しかも、鉄炮疵の手当て法だと書いていますので、こちらのほうを参照したのでしょうね。
ただ、これは永禄5年(1562)の話で、河越夜戦のあった天文15年(1546)から16年後の話なんですね。

米倉丹後の発明した「竹束」に関連する記事だったわけですな。

そういえば、この記事のあたりに、武田家に鉄炮が持ち込まれた話が出ています。信虎時代の大永5年(1525)に、鉄炮2挺が初めて甲府に来たとあります。
通説の鉄炮伝来より17年前になりますが、信じていいのでしょうか?
橋場殿下あたりは東国への鉄炮伝来を早めに想定していたような(うろ覚え)。

楽しく読ませていただいています。
ぶるぼん
桐野先生、以前、『新・歴史群像シリーズ』でお世話になりましたぶるぼんです。いろいろな先生方の歴史ブログを見ていましたら、先生のブログにたどり着きました。先生のブログは大変タメになり、いろいろと参考になります。ぜひぜひ大河ドラマも続けてみてください。橋場先生、かわい先生のブログともども毎週楽しみにしています。僕のほうもアドレスのブログで毎週『風林火山』のコメントを書いています。

真田郷の長谷寺
桐野
ぶるぼんさん、はじめまして。

すみません。お知り合いの編集者の方のようですが、お書きになっているブログではわかりませんでした(笑)。

ブログに書かれている「風林火山」の記事読みました。
私なんかよりずっと詳しいですね。
馬糞を勘助に呑ませた例の坊さんがのちに真田幸綱に招かれて長谷寺の開基になったのですか。そういう関係だったのですね。
真田郷の長谷寺には昨夏行きました。幸綱と夫人と昌幸の墓が裏手にありましたね。


ぶるぼん
桐野先生、これは失礼致しました。
メインの当社アドレスを貼っておきます。
もっとも最近はこちらのブログ
http://d.hatena.ne.jp/shugoro/
がハンドルネームになっていることが多いのですが……。
まあ、こちらは競馬予想がメインです。

思い出しました
桐野
ぶるぼんさん

あらためて貴ブログを拝見して、思い出しました。
その節にはお世話になりました。その後も歴群の仕事はされているのでしょうか。

はい
ぶるぼん
細々とですが、今回も携わっています。
また、担当になった場合はよろしくお願いします。
まあ、基本的にフリーですので、他の書籍等でもご縁がありましたらぜひ。

すみません
かわい
>桐野先生
 もう少し細かい内容まで踏み込んで書けばよかったですね。お手数をおかけしました。
 鐵炮の話は、種子島とそれ以前の『応仁記』なんかに登場するものを分けて考えるなら、大永5年もありなのかもしれません。それ以前の武田家は鐵炮どころではなかったでしょうし。
 このあたり、橋場さんはどうお考えですかね。

>ぶるぼんさん
 徒歩圏内のご近所なのでそのうち遊びにうかがいます。

鉄炮
桐野
かわいさん、こんばんは。

武田氏や北条氏の史料では、鉄炮の記事が種子島への伝来よりも早めに登場していますね。
考えてみれば、教科書的な史実の典拠は「鉄炮記」という後世の二次史料ですから、「応仁記」や「甲陽軍鑑」とさほど変わりません。「鉄炮記」だけが重視されるというのもおかしいですね。

鉄砲伝来
胡でございます。
恐れ入りますが、この討論には私を参与させていただきたいんです。

一般的には、鉄砲伝来は天文12年のことだと伝われているが、個人的にはポルトガルより、倭寇(日本の商人たち)は中国、琉球との密貿易で鉄砲を日本に導入したのではないだろうかと考えます。

「鉄砲記」には、天文十三年ころに、ある貿易船が伊豆に漂着したとの記事があり、一方、「北条五代記」には、永正十年に玉滝坊という山伏は堺で中国から伝来した鉄砲を入手して北条氏綱に献上したとの記事もある。

「鉄砲記」と「北条五代記」の史料としての信用度がまだ問題だが、種子島から、ただ一年で関東北条氏まで鉄砲が伝えられたことは考えにくいし、それに、その一年間に、鉄砲の作り方が習得できたかどうかまだ疑問があります。その二つの史料によれば、むしろ鉄砲伝来の時点は天文12年以前のことだという可能性が高いのではないでしょうか。

以上愚見ですが。






鉄炮伝来
桐野
胡さん、こんばんは。

ご指摘のように、天文12年(1543)より以前に鉄炮が何らかのルートで伝来していてもおかしくないですね。

最近は種子島への伝来も天文11年説が有力視されています。
あと、種子島に来たポルトガル人も王直という倭寇(後期倭寇)の船に乗ってきたと言われています。いずれにしろ、倭寇ルートは無視できませんね。



はしば
くしゃみが二回出たのでやって参りました(笑)。
難しい話は分からないんですが(いつもながら)、鉄炮自体の到来は関東でも早かった可能性は高いのではないでしょうか。ただ、実用に供する為の製造・運用技術やインフラ整備となると、拙ブログでも触れたようにあまりさかのぼれないのではないか、と。

なるほど
桐野
はしば殿下、わざわざおでましいただき有難うございます。

なるほど、伝来は早かったかもしれないけど、ライセンス生産する技術力がなかったということですね。
東国戦国史のなかで、鉄炮が一定の数量で戦力として表れるのは、「勝山記」(500挺だったか)の武田勢が最初でしたかね。

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コメント
この記事へのコメント
大河の出典は『甲陽軍鑑』かと
 松山合戦の際の甘利左衛門と米倉彦次郎の逸話がありますから、たぶんこちらでしょう。脚本家氏はアレンジが下手なだけで、『甲陽軍鑑』はけっこう読み込んでいるようですよ。
2007/06/19(Tue) 00:13 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
巻第卅二
にありました。どこにあるか探しましたよ(笑)。

「葦毛馬の糞、水にたてゝのみ候へば、血をくだすと申て」云々とあり、しかも、鉄炮疵の手当て法だと書いていますので、こちらのほうを参照したのでしょうね。
ただ、これは永禄5年(1562)の話で、河越夜戦のあった天文15年(1546)から16年後の話なんですね。

米倉丹後の発明した「竹束」に関連する記事だったわけですな。

そういえば、この記事のあたりに、武田家に鉄炮が持ち込まれた話が出ています。信虎時代の大永5年(1525)に、鉄炮2挺が初めて甲府に来たとあります。
通説の鉄炮伝来より17年前になりますが、信じていいのでしょうか?
橋場殿下あたりは東国への鉄炮伝来を早めに想定していたような(うろ覚え)。
2007/06/19(Tue) 22:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
楽しく読ませていただいています。
桐野先生、以前、『新・歴史群像シリーズ』でお世話になりましたぶるぼんです。いろいろな先生方の歴史ブログを見ていましたら、先生のブログにたどり着きました。先生のブログは大変タメになり、いろいろと参考になります。ぜひぜひ大河ドラマも続けてみてください。橋場先生、かわい先生のブログともども毎週楽しみにしています。僕のほうもアドレスのブログで毎週『風林火山』のコメントを書いています。
2007/06/19(Tue) 22:54 | URL  | ぶるぼん #-[ 編集]
真田郷の長谷寺
ぶるぼんさん、はじめまして。

すみません。お知り合いの編集者の方のようですが、お書きになっているブログではわかりませんでした(笑)。

ブログに書かれている「風林火山」の記事読みました。
私なんかよりずっと詳しいですね。
馬糞を勘助に呑ませた例の坊さんがのちに真田幸綱に招かれて長谷寺の開基になったのですか。そういう関係だったのですね。
真田郷の長谷寺には昨夏行きました。幸綱と夫人と昌幸の墓が裏手にありましたね。
2007/06/20(Wed) 00:42 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野先生、これは失礼致しました。
メインの当社アドレスを貼っておきます。
もっとも最近はこちらのブログ
http://d.hatena.ne.jp/shugoro/
がハンドルネームになっていることが多いのですが……。
まあ、こちらは競馬予想がメインです。
2007/06/20(Wed) 02:15 | URL  | ぶるぼん #-[ 編集]
思い出しました
ぶるぼんさん

あらためて貴ブログを拝見して、思い出しました。
その節にはお世話になりました。その後も歴群の仕事はされているのでしょうか。
2007/06/20(Wed) 13:05 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
はい
細々とですが、今回も携わっています。
また、担当になった場合はよろしくお願いします。
まあ、基本的にフリーですので、他の書籍等でもご縁がありましたらぜひ。
2007/06/20(Wed) 16:13 | URL  | ぶるぼん #-[ 編集]
すみません
>桐野先生
 もう少し細かい内容まで踏み込んで書けばよかったですね。お手数をおかけしました。
 鐵炮の話は、種子島とそれ以前の『応仁記』なんかに登場するものを分けて考えるなら、大永5年もありなのかもしれません。それ以前の武田家は鐵炮どころではなかったでしょうし。
 このあたり、橋場さんはどうお考えですかね。

>ぶるぼんさん
 徒歩圏内のご近所なのでそのうち遊びにうかがいます。
2007/06/20(Wed) 21:15 | URL  | かわい #DWxJCw.Y[ 編集]
鉄炮
かわいさん、こんばんは。

武田氏や北条氏の史料では、鉄炮の記事が種子島への伝来よりも早めに登場していますね。
考えてみれば、教科書的な史実の典拠は「鉄炮記」という後世の二次史料ですから、「応仁記」や「甲陽軍鑑」とさほど変わりません。「鉄炮記」だけが重視されるというのもおかしいですね。
2007/06/20(Wed) 23:35 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
鉄砲伝来
胡でございます。
恐れ入りますが、この討論には私を参与させていただきたいんです。

一般的には、鉄砲伝来は天文12年のことだと伝われているが、個人的にはポルトガルより、倭寇(日本の商人たち)は中国、琉球との密貿易で鉄砲を日本に導入したのではないだろうかと考えます。

「鉄砲記」には、天文十三年ころに、ある貿易船が伊豆に漂着したとの記事があり、一方、「北条五代記」には、永正十年に玉滝坊という山伏は堺で中国から伝来した鉄砲を入手して北条氏綱に献上したとの記事もある。

「鉄砲記」と「北条五代記」の史料としての信用度がまだ問題だが、種子島から、ただ一年で関東北条氏まで鉄砲が伝えられたことは考えにくいし、それに、その一年間に、鉄砲の作り方が習得できたかどうかまだ疑問があります。その二つの史料によれば、むしろ鉄砲伝来の時点は天文12年以前のことだという可能性が高いのではないでしょうか。

以上愚見ですが。




2007/06/21(Thu) 02:33 | URL  | 胡 #-[ 編集]
鉄炮伝来
胡さん、こんばんは。

ご指摘のように、天文12年(1543)より以前に鉄炮が何らかのルートで伝来していてもおかしくないですね。

最近は種子島への伝来も天文11年説が有力視されています。
あと、種子島に来たポルトガル人も王直という倭寇(後期倭寇)の船に乗ってきたと言われています。いずれにしろ、倭寇ルートは無視できませんね。
2007/06/21(Thu) 22:07 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
くしゃみが二回出たのでやって参りました(笑)。
難しい話は分からないんですが(いつもながら)、鉄炮自体の到来は関東でも早かった可能性は高いのではないでしょうか。ただ、実用に供する為の製造・運用技術やインフラ整備となると、拙ブログでも触れたようにあまりさかのぼれないのではないか、と。
2007/06/21(Thu) 23:21 | URL  | はしば #-[ 編集]
なるほど
はしば殿下、わざわざおでましいただき有難うございます。

なるほど、伝来は早かったかもしれないけど、ライセンス生産する技術力がなかったということですね。
東国戦国史のなかで、鉄炮が一定の数量で戦力として表れるのは、「勝山記」(500挺だったか)の武田勢が最初でしたかね。
2007/06/22(Fri) 09:09 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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