歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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歴読8月号

表題の本が発売になった。
詳しくはここへ。目次が見られます。

同誌は先月号から文庫サイズの別冊を付けている。
今回は『「信長記」の大研究』と題して、友人の信長研究者である和田裕弘氏と小生との共著である。
『信長記』は多くの伝本があり、それを語るのはとても難しい。
歴読別冊

今回は、和田氏が複雑な『信長記』世界の俯瞰を試みている。とくに、首巻を有する伝本、たとえば陽明文庫本や改訂史籍集覧本(我自刊我本)などの成立時期や経緯を探る意味で、斎藤義龍が信長暗殺のために放った刺客、青木加賀右衛門の名前の有無が手がかりになると指摘している。これまで語られなかった視点であり、注目される。

小生は各論を担当した。桶狭間合戦、長篠合戦、信康事件、本能寺の変など、重要事件に再検討を迫るような問題提起も一部したつもりである。とくに、天理大学本を中心に桶狭間合戦をかなり詳しく検討してみた。
また尊経閣文庫(加賀藩前田家)が所蔵する伝本のひとつがとても変わっているので紹介してみた。とくに本能寺の変以降の出来事、備中高松城の水攻め、清水宗治の自害、秀吉と毛利の和睦、山崎合戦、光秀の最期などが詳しく記載されている。
筆致が本格的な漢文に近く、太田牛一のそれとは異なる。また、牛一の別著『大かうさまくんきのうち』(太閤さま軍記のうち)からの引用もあることから、いくつかの著作から抜き出して追筆したのでないかと思われる。

この別冊とは別に、本誌のほうには次の記事を書いている。

新発見! 「本能寺の変」三日前の光秀書状

これは、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)でも紹介した光秀文書だが、紙数の関係で年次の考証を端折ったため、この記事で改めて検討したもの。

今号は「書き換えられた戦国合戦の謎」という特集もあります。
興味のある方はお買い求め下さい。
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【2007/06/24 00:56】 | 新刊
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甫庵の再評価について
Tm.
お久ぶりになりますがTm.です。
『甫庵信長記』と天理本の関係についての素朴な疑問です。

天理本については内容的にも全く無知なので何とも言えないのですが、首巻の記述に類似性が見られるることで従来の『甫庵』に対する評価に再検討の必要性をご指摘されているようなのですが、現に天理本の第七冊が『甫庵』系統のものによって補われているとのことからすれば、その首巻もまた『甫庵』の影響を受け改変されているという可能性はないのでしょうか。
如何に牛一系の伝本とはいえ写本であり、しかも牛一の子孫が係わっていないということで、むしろそうした余地(裁量)が多いにあったのではないかとも思われますが如何でしょう。

『甫庵』の復権を訴えるに、天理本の記述との類似のみでは説得力は弱く、牛一系とは異なるそれらを裏付ける第三の史料の存在が望まれるところですが、ご研究のなかではそれについて何か発見されているのでしょうか。

天理本巻十二加之
桐野
Tm.さん、こんばんは。

諸事多忙のため、コメントが遅くなりすみません。

ご指摘のように、天理本第七冊(信長公記巻十一、十二に相当)は甫庵信長記がほぼそのまま書写されています。

そのことにより、首巻が甫庵信長記の影響をうけているのではないかという疑問、もっともです。
私も以前、その可能性があるのではないかと思っていました。しかし、斎藤義龍の刺客、青木加賀右衛門の名前の有無から、天理本が陽明文庫本よりも古いと思われることから、むしろ、天理本が甫庵信長記に影響を与えた可能性のほうが高いと思うようになりました。

それで、天理本第七冊ですが、これは厳密には、次のように二つに分かれています。

1,信長記十二:天正六年

2,信長記十二 加之:天正七年

天理本は首巻を巻一としていますから、陽明文庫本とくらべて一巻ずつずれることになり、「十二」が巻十一に、「十二加之」が巻十二に相当します。
ここで問題になるのは当然、2のほうです。「加之」とある点が注意です。ご指摘のように、これはほぼ『甫庵信長記』の写しです。しかも、この巻(~加之)だけ、別筆です。
そして、年次を見ればわかるように、信康事件のあった年であることに留意すべきでしょう。

ご存じかもしれませんが、池田家本も巻十二だけが別筆で、おそらく陽明文庫本の引き写しです。
Tm.さんは池田家本のこの事実をもって、同本が陽明文庫本の影響をうけているのではないかとお考えになるでしょうか? おそらくそうではないと思います。池田家本の巻十二以外は、陽明文庫本とは明らかに違います。

となれば、天理本も同様だと思います。
天理本の他の部分も『甫庵信長記』とは一部に似た箇所はあっても、全体的には明らかに異なります。

信康事件のあった巻十二が、信長記諸本のなかで、いかにデリケートな存在だったかがおわかりかと思います。
自筆本の池田家本には果たして最初から自筆の巻十二は存在しなかったのか。それとも、存在したが、のちに徳川家に遠慮して廃棄し、その巻だけ書き直したのか、という想定はできます。
天理本も似たような経緯ではなかろうかと思います。

『甫庵信長記』については、果たして天理本とどれほど類似しているのか、全面的に検討したわけではありません。そのためには、天理本の全文翻刻が不可欠ですが、まだその作業を終えていません。
復権ということになるかどうかはそれからだろうと思います。ただ、全否定するという態度はとれないだろうという感触はあります。
申し訳ないですが、今のところはそれくらいしかお答えできません。


天理本の成立について
Tm.
桐野先生、お忙しい中のご返事、何時ものことながらありがとうございます。

そもそも「首巻」については牛一直筆のものがなく、その意味においては、はたして本当に牛一自身の著述によるものなのかという疑問もあります。和田さんも述べられておられるように、その発見が望まれるところですね。

ご指摘の青木加賀右衛門や桶狭間における服部小藤太の名の有無、異同については、一方で一端削除されたものが復活、そして改変された可能性もあるやに思われ、天理本の首巻については、その過程で甫庵本も参照にされ成立した改著版である可能性もあるのではないでしょうか。

天理本の古態性と言う点に注目するなら、問題となる首巻以前に、尊経閣文庫蔵の『永禄十一年年記』(直筆)や『安土日記』(写本)、それに個人蔵の『太田牛一旧記』(直筆)との比較検討も必要であり、それらに共通するものがあれば、改めて注目すべきものであるかと思います。

天理本と甫庵本
桐野
Tm. さん、こんばんは。

ご指摘のように、天理本が甫庵本を参照して取り入れた可能性はないとはいえないでしょう。
ただ、前回も書いたように、天理本の全容を把握し、さらに他の伝本との比較のうえで、最終的な結論を出すべきでしょうね。

個人的には、天理本は池田家本でも建勲神社本でもない、別の祖本(自筆本かそれに近いもの)の写本ではないかという感触があります。あくまで漠然としたものですが。

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この記事へのコメント
甫庵の再評価について
お久ぶりになりますがTm.です。
『甫庵信長記』と天理本の関係についての素朴な疑問です。

天理本については内容的にも全く無知なので何とも言えないのですが、首巻の記述に類似性が見られるることで従来の『甫庵』に対する評価に再検討の必要性をご指摘されているようなのですが、現に天理本の第七冊が『甫庵』系統のものによって補われているとのことからすれば、その首巻もまた『甫庵』の影響を受け改変されているという可能性はないのでしょうか。
如何に牛一系の伝本とはいえ写本であり、しかも牛一の子孫が係わっていないということで、むしろそうした余地(裁量)が多いにあったのではないかとも思われますが如何でしょう。

『甫庵』の復権を訴えるに、天理本の記述との類似のみでは説得力は弱く、牛一系とは異なるそれらを裏付ける第三の史料の存在が望まれるところですが、ご研究のなかではそれについて何か発見されているのでしょうか。
2007/07/04(Wed) 07:29 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
天理本巻十二加之
Tm.さん、こんばんは。

諸事多忙のため、コメントが遅くなりすみません。

ご指摘のように、天理本第七冊(信長公記巻十一、十二に相当)は甫庵信長記がほぼそのまま書写されています。

そのことにより、首巻が甫庵信長記の影響をうけているのではないかという疑問、もっともです。
私も以前、その可能性があるのではないかと思っていました。しかし、斎藤義龍の刺客、青木加賀右衛門の名前の有無から、天理本が陽明文庫本よりも古いと思われることから、むしろ、天理本が甫庵信長記に影響を与えた可能性のほうが高いと思うようになりました。

それで、天理本第七冊ですが、これは厳密には、次のように二つに分かれています。

1,信長記十二:天正六年

2,信長記十二 加之:天正七年

天理本は首巻を巻一としていますから、陽明文庫本とくらべて一巻ずつずれることになり、「十二」が巻十一に、「十二加之」が巻十二に相当します。
ここで問題になるのは当然、2のほうです。「加之」とある点が注意です。ご指摘のように、これはほぼ『甫庵信長記』の写しです。しかも、この巻(~加之)だけ、別筆です。
そして、年次を見ればわかるように、信康事件のあった年であることに留意すべきでしょう。

ご存じかもしれませんが、池田家本も巻十二だけが別筆で、おそらく陽明文庫本の引き写しです。
Tm.さんは池田家本のこの事実をもって、同本が陽明文庫本の影響をうけているのではないかとお考えになるでしょうか? おそらくそうではないと思います。池田家本の巻十二以外は、陽明文庫本とは明らかに違います。

となれば、天理本も同様だと思います。
天理本の他の部分も『甫庵信長記』とは一部に似た箇所はあっても、全体的には明らかに異なります。

信康事件のあった巻十二が、信長記諸本のなかで、いかにデリケートな存在だったかがおわかりかと思います。
自筆本の池田家本には果たして最初から自筆の巻十二は存在しなかったのか。それとも、存在したが、のちに徳川家に遠慮して廃棄し、その巻だけ書き直したのか、という想定はできます。
天理本も似たような経緯ではなかろうかと思います。

『甫庵信長記』については、果たして天理本とどれほど類似しているのか、全面的に検討したわけではありません。そのためには、天理本の全文翻刻が不可欠ですが、まだその作業を終えていません。
復権ということになるかどうかはそれからだろうと思います。ただ、全否定するという態度はとれないだろうという感触はあります。
申し訳ないですが、今のところはそれくらいしかお答えできません。
2007/07/05(Thu) 23:14 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天理本の成立について
桐野先生、お忙しい中のご返事、何時ものことながらありがとうございます。

そもそも「首巻」については牛一直筆のものがなく、その意味においては、はたして本当に牛一自身の著述によるものなのかという疑問もあります。和田さんも述べられておられるように、その発見が望まれるところですね。

ご指摘の青木加賀右衛門や桶狭間における服部小藤太の名の有無、異同については、一方で一端削除されたものが復活、そして改変された可能性もあるやに思われ、天理本の首巻については、その過程で甫庵本も参照にされ成立した改著版である可能性もあるのではないでしょうか。

天理本の古態性と言う点に注目するなら、問題となる首巻以前に、尊経閣文庫蔵の『永禄十一年年記』(直筆)や『安土日記』(写本)、それに個人蔵の『太田牛一旧記』(直筆)との比較検討も必要であり、それらに共通するものがあれば、改めて注目すべきものであるかと思います。
2007/07/09(Mon) 13:40 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
天理本と甫庵本
Tm. さん、こんばんは。

ご指摘のように、天理本が甫庵本を参照して取り入れた可能性はないとはいえないでしょう。
ただ、前回も書いたように、天理本の全容を把握し、さらに他の伝本との比較のうえで、最終的な結論を出すべきでしょうね。

個人的には、天理本は池田家本でも建勲神社本でもない、別の祖本(自筆本かそれに近いもの)の写本ではないかという感触があります。あくまで漠然としたものですが。
2007/07/10(Tue) 01:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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 たまたま仕事にかぶるタイムリーな記事が盛り沢山だったので、いつもは買わない歴読本誌を購入してみたのですが、う~ん、ちょっと期待ハズレだったかな。 まず、最優先の尾張統一戦争関連についてですが、本誌のほうにお役立ち記事がまったくないことは承知していたので
2007/06/25(Mon) 23:36:58 |  豊泉堂雑記
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