歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

南日本新聞連載コラム「さつま人国誌」第14回
―毒殺? 急病? 死因は謎―

右下のリンク欄からご覧になれます。

島津家久についての3回目の拙稿です。
今回は家久にまつわる最大の謎、「毒殺」一件について書いてみました。
もっとも、すっきりした結論が出たわけではありません。今後に残る検討課題だと思います。
とくに、島津義久が家久に宛てた書状の解釈がひとつのポイントになると思っております。そのうち、少し詳しく検討したいので、ご意見も賜れば幸いです。
スポンサーサイト

【2007/06/30 22:34】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


武藤 臼
家久が毛利家における隆景の役割を演じるつもりだったということでしょうか。
家久が五大老になって関ヶ原で大活躍・・・なんてIF小説としてはマニアックでしょうか。

家久の死について
市川
桐野先生、こんにちは。
早速ですが、私が思うに島津家久は優秀な軍略家である一方。良き夫、良き父親だったのではないかと思います。
佐土原が包囲される以前から家久は病気であり、どこかで死期を悟っていた。このまま自分が死ねば、恐らく息子の豊久は城を守って討ち死にする。そうなる前に降伏して家族を守ろう、と考えた。それに主戦派の自分が降伏すれば、兄達も降伏しやすくなる。そして秀長の本陣に行った後、自分の真意を豊久に話して死んだ……。
そんなドラマを想像してしまいます。

中務家久の死
桐野先生、こんばんは
かつてある島津氏関連の本を読んで、その著者は家久が秀長に降伏するのは彼自身が側室の子で義久、義弘、歳久とは違うから、独立しようとしたんだと指摘します。
先生はどう思われますか。


家久と隆景
桐野
武藤臼さん、こんにちは。

ご指摘のように、島津家と毛利家は大名権力の構造が似ている感じがしますね。当主を支える一門が強くて、分散的な傾向がある点がとくに。

家久については、果たして豊臣政権にどういう態度をとろうとしていたのかよくわかりません。
初めは恭順的だったのは間違いありませんから、そこから、隆景とのアナロジーというのもありえることかもしれません。秀長が家久を気に入ったという面もあるかも知れませんね。
それだけに、突然の急死が不可解で、毒殺説がささやかれる余地が出てくるのでしょうね。

家久の覚悟
桐野
市川さん、はじめましてだったでしょうか?

家久が病気で死期を悟っていたというご意見、なるほどと思います。
私も相対的にもっとも無理のない推論だと思っています。ただ、それを証明する史料がないのが弱点ですね。
前年暮れには、戸次川の合戦で豊臣軍を破っていますし、表面上は元気に見えます。それにまだ41歳と若いですからね。
家久死後、豊久がそのまま家督を継ぎ、旧領を安堵されていますし、ご存じのように、豊久は関ヶ原合戦で、伯父義弘の身代わりになって討死するくらいですから、本宗家への忠節を失っていません。もし父が本宗家に毒殺されたなら、豊久はこんな態度をとらないのではないかとも思えます。



家久と他の兄弟
桐野
胡さん、こんにちは。

ご指摘のように、家久は他の3人の兄とは母が違いますね。生母の違いが兄弟同士の諍いになるというのは、武家の家ではよくあることではあります。

ただ、島津家の場合、家久が格別そのことで差別的な待遇を受けていたとも思えません。むしろ、優遇されているように思えます。
日向の伊東氏を追放したのち、太守義久は家久を日向守護代に任じています。本来なら、伊東氏征服にもっとも功のあった義弘が任命されてもおかしくなったはずです。
義久は義弘を肥後方面に差し向けようとする構想をもっていたからだと思われますが、それでも、家久への処遇は厚くないでしょうか。
義久は歳久よりも家久を厚遇しているようにも見えます。そう結論するには、家久が佐土原付近でどの程度の知行地を与えられたのかを明らかにしないとならないわけですが、残念ながらよくわかりません。
それでも、家久が日向一国の守護代であることを考えると、知行地も少なくなかったという推定はできそうです。豊久の所領は3万石前後ありますので、家久もほぼ同様だったのではないかと思われます。

以上から、生母の違いが家久の行動に大きな影響を与えたとは考えにくいように思います。
一般的に、大名の分家や一門には、本家に取って代わろうとしたり、独立したり、他の大名に従おうとする傾向がありますから、家久の場合もそうした視点から見たほうがいいかもしれませんね。



こっちの家久、人気ありますね(苦笑)
ばんない
じゃあ、どっちの家久が人気がないといいたいんだ、といえば「あの」家久なんですが(汗)

3回通して興味深く読ませていただきました。紙面が限られていたので本当はもっと書きたいことがあったのを削りに削ったという印象を持ちました。

家久は豪勇で知られている武将ですが、最初に取り上げられた「家久君上京日記」では山賊を怖がるような文章を書いているなど意外な点が見られるのが興味深いです。戦で闘うのと山賊とはまた別問題ということだったんでしょうか。

最終回の義久の手紙の解釈についてですが、原昭午氏の解釈と全く正反対なので、意表を突かれました。あの「義久の手紙」は非常に解釈が難しい物だと思いますが、私個人の考えでは、あの手紙を「義久が家久を暗殺した犯人」の証拠とする原昭午氏の説には賛同しかねます。あの原氏の論は憶測に憶測を重ねた空想に近い内容で、何でここまで人気の説になってしまったのか不思議です。
フロイスの「日本史」を読むと家久の死に関しては早くから秀吉の暗殺説が飛び交っていたことが分かります。同本によれば吉川元春も暗殺説が飛び交っていたようですね。島津家も毛利家もキリシタンとは不仲だったので贔屓目でこういう話を書いたとは考えにくく、西国ではこういう噂が飛び交っていたのは事実と見て良いのではと考えています。

家久宛て義久書状
桐野
ばんないさん、こんばんは。

仰せの通り、分量の制限があって、十分意を尽くせないものになりました。
ただ、家久宛ての義久書状についてはどうしても触れておくべきだと思い、かなり重視しました。
ご指摘のとおり、家久毒殺の動機を島津家側に求めるのは原昭午氏がその嚆矢ではないかと思われます。その典拠もこの義久書状ですね(原昭午「兵農分離と幕藩制」 『大系日本国家史』3・近世 東京大学出版会、1975年)。
私も以前、原説にそれほど異論をもってはいなかったのですが、どうもその解釈では据わりが悪いなと感じておりました。
原説と拙説の一番の違いは「公界」の解釈だろうと思います。原説はこれを「島津公儀」と解釈し、家久が上洛すれば、島津家の「公界」が崩壊するととらえています。

一方、拙説では、これを「豊臣公儀」だと解釈しました。それはこの書状の尚々書に「上洛可然様御納得肝心たるへく候」の解釈とリンクさせてのことです。この一節を素直に読むと、義久が家久の上洛を阻止しようとしているようには読めず、むしろ逆に上洛を督促しているように読めてしまいます。そうであれば、「公界」は豊臣政権になるだろうと思いました。
もっとも、原説ではなぜかこの尚々書の部分を引用していません。

この書状については、一度詳しく検討してみたいと思っておりますので、ばんないさんのお知恵も拝借できればと思います。

イエズス会史料から見ていくのはよいやり方かもしれませんね。解釈の隘路を突破できるかもしれません。今度じっくり読んでみます。

西国から見た秀吉
ばんない
こんばんは。

あんな話を書いておいてなんですが、当方個人的には「家久は病死だろう」と思っています(汗)。しかし、フロイス「日本史」の記述から見て、早くから「秀吉による暗殺説」が広まっていたことには興味があります。
島津家久も吉川元春も武勇で知られた武将であり、西国の民衆には「もしこの2人が生きていたら…」という待望論があり、それがこの噂の背景にあるのでは、と私なりに考えています。
逆に考えると、西国では「秀吉の天下統一」というのは、実は歓迎されざる物だったのではないかということが想定されます。

九州と秀吉
桐野
ばんないさん、こんばんは。

そういえば、吉川元春も急な病死ということになっていますね。
でも、豊臣政権が元春まで毒殺したとは考えにくいですね。もしばれたら、毛利両川は秀吉から離反し、西国は大変なことになります。島津攻めどころではなく、秀吉が九州で孤立する事態にもなりかねません。

家久については、拙コラムで書いたように、もし心変わりして上京を取り止めたとすれば、いろんな推測ができますね。
ひとつは、上京といい条、実際は豊臣政権が家久を島津家から引き離したうえで、惣無事令違反の詰め腹を切らすつもりだったのではないか。
あるいは、家久が真偽定かならぬ風聞をそのように伝聞して、ある程度信じた(あるいは島津本宗家がそのように吹き込んだ)可能性もないとはいえません。

そうだとすれば、上京しないと豊臣政権との約定違反、上京すると、殺害される可能性がある……。
家久は進退窮まってしまい、あるいは病死という形にしたうえで自害し、嫡男豊久の地位と佐土原家の保全を優先したのかという妄想さえ浮かんできます(笑)。

九州の人々にとって、秀吉は招かれざる客だったことはたしかでしょうね。肥後に入部した佐々成政は国人一揆によって自滅しているくらいで、豊臣流儀の押しつけははた迷惑で、とくに朝鮮陣はその極致でしょうね。

コメントが続いて申し訳ありません
市野澤 永
こんばんわ。

>肥後に入部した佐々成政は国人一揆によって自滅している

山鹿市立博物館
春の企画展「肥後国衆一揆展」
平成23年3月25日(金)~平成23年7月10日(日)
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1264127825069/index.html

関連記事
秀吉朱印状など並ぶ
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000001104090003

昨日、埼玉県立文書館で埼玉地方史研究会と合同で催された戦国史研究会例会で報告者の伊藤一美氏から安保氏に関わる坂本龍馬の書状の話が出ました。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
家久が毛利家における隆景の役割を演じるつもりだったということでしょうか。
家久が五大老になって関ヶ原で大活躍・・・なんてIF小説としてはマニアックでしょうか。
2007/06/30(Sat) 23:49 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
家久の死について
桐野先生、こんにちは。
早速ですが、私が思うに島津家久は優秀な軍略家である一方。良き夫、良き父親だったのではないかと思います。
佐土原が包囲される以前から家久は病気であり、どこかで死期を悟っていた。このまま自分が死ねば、恐らく息子の豊久は城を守って討ち死にする。そうなる前に降伏して家族を守ろう、と考えた。それに主戦派の自分が降伏すれば、兄達も降伏しやすくなる。そして秀長の本陣に行った後、自分の真意を豊久に話して死んだ……。
そんなドラマを想像してしまいます。
2007/07/01(Sun) 00:42 | URL  | 市川 #-[ 編集]
中務家久の死
桐野先生、こんばんは
かつてある島津氏関連の本を読んで、その著者は家久が秀長に降伏するのは彼自身が側室の子で義久、義弘、歳久とは違うから、独立しようとしたんだと指摘します。
先生はどう思われますか。
2007/07/01(Sun) 03:01 | URL  | 胡 #-[ 編集]
家久と隆景
武藤臼さん、こんにちは。

ご指摘のように、島津家と毛利家は大名権力の構造が似ている感じがしますね。当主を支える一門が強くて、分散的な傾向がある点がとくに。

家久については、果たして豊臣政権にどういう態度をとろうとしていたのかよくわかりません。
初めは恭順的だったのは間違いありませんから、そこから、隆景とのアナロジーというのもありえることかもしれません。秀長が家久を気に入ったという面もあるかも知れませんね。
それだけに、突然の急死が不可解で、毒殺説がささやかれる余地が出てくるのでしょうね。
2007/07/01(Sun) 14:53 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
家久の覚悟
市川さん、はじめましてだったでしょうか?

家久が病気で死期を悟っていたというご意見、なるほどと思います。
私も相対的にもっとも無理のない推論だと思っています。ただ、それを証明する史料がないのが弱点ですね。
前年暮れには、戸次川の合戦で豊臣軍を破っていますし、表面上は元気に見えます。それにまだ41歳と若いですからね。
家久死後、豊久がそのまま家督を継ぎ、旧領を安堵されていますし、ご存じのように、豊久は関ヶ原合戦で、伯父義弘の身代わりになって討死するくらいですから、本宗家への忠節を失っていません。もし父が本宗家に毒殺されたなら、豊久はこんな態度をとらないのではないかとも思えます。

2007/07/01(Sun) 15:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
家久と他の兄弟
胡さん、こんにちは。

ご指摘のように、家久は他の3人の兄とは母が違いますね。生母の違いが兄弟同士の諍いになるというのは、武家の家ではよくあることではあります。

ただ、島津家の場合、家久が格別そのことで差別的な待遇を受けていたとも思えません。むしろ、優遇されているように思えます。
日向の伊東氏を追放したのち、太守義久は家久を日向守護代に任じています。本来なら、伊東氏征服にもっとも功のあった義弘が任命されてもおかしくなったはずです。
義久は義弘を肥後方面に差し向けようとする構想をもっていたからだと思われますが、それでも、家久への処遇は厚くないでしょうか。
義久は歳久よりも家久を厚遇しているようにも見えます。そう結論するには、家久が佐土原付近でどの程度の知行地を与えられたのかを明らかにしないとならないわけですが、残念ながらよくわかりません。
それでも、家久が日向一国の守護代であることを考えると、知行地も少なくなかったという推定はできそうです。豊久の所領は3万石前後ありますので、家久もほぼ同様だったのではないかと思われます。

以上から、生母の違いが家久の行動に大きな影響を与えたとは考えにくいように思います。
一般的に、大名の分家や一門には、本家に取って代わろうとしたり、独立したり、他の大名に従おうとする傾向がありますから、家久の場合もそうした視点から見たほうがいいかもしれませんね。

2007/07/01(Sun) 15:19 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こっちの家久、人気ありますね(苦笑)
じゃあ、どっちの家久が人気がないといいたいんだ、といえば「あの」家久なんですが(汗)

3回通して興味深く読ませていただきました。紙面が限られていたので本当はもっと書きたいことがあったのを削りに削ったという印象を持ちました。

家久は豪勇で知られている武将ですが、最初に取り上げられた「家久君上京日記」では山賊を怖がるような文章を書いているなど意外な点が見られるのが興味深いです。戦で闘うのと山賊とはまた別問題ということだったんでしょうか。

最終回の義久の手紙の解釈についてですが、原昭午氏の解釈と全く正反対なので、意表を突かれました。あの「義久の手紙」は非常に解釈が難しい物だと思いますが、私個人の考えでは、あの手紙を「義久が家久を暗殺した犯人」の証拠とする原昭午氏の説には賛同しかねます。あの原氏の論は憶測に憶測を重ねた空想に近い内容で、何でここまで人気の説になってしまったのか不思議です。
フロイスの「日本史」を読むと家久の死に関しては早くから秀吉の暗殺説が飛び交っていたことが分かります。同本によれば吉川元春も暗殺説が飛び交っていたようですね。島津家も毛利家もキリシタンとは不仲だったので贔屓目でこういう話を書いたとは考えにくく、西国ではこういう噂が飛び交っていたのは事実と見て良いのではと考えています。
2007/07/01(Sun) 23:16 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
家久宛て義久書状
ばんないさん、こんばんは。

仰せの通り、分量の制限があって、十分意を尽くせないものになりました。
ただ、家久宛ての義久書状についてはどうしても触れておくべきだと思い、かなり重視しました。
ご指摘のとおり、家久毒殺の動機を島津家側に求めるのは原昭午氏がその嚆矢ではないかと思われます。その典拠もこの義久書状ですね(原昭午「兵農分離と幕藩制」 『大系日本国家史』3・近世 東京大学出版会、1975年)。
私も以前、原説にそれほど異論をもってはいなかったのですが、どうもその解釈では据わりが悪いなと感じておりました。
原説と拙説の一番の違いは「公界」の解釈だろうと思います。原説はこれを「島津公儀」と解釈し、家久が上洛すれば、島津家の「公界」が崩壊するととらえています。

一方、拙説では、これを「豊臣公儀」だと解釈しました。それはこの書状の尚々書に「上洛可然様御納得肝心たるへく候」の解釈とリンクさせてのことです。この一節を素直に読むと、義久が家久の上洛を阻止しようとしているようには読めず、むしろ逆に上洛を督促しているように読めてしまいます。そうであれば、「公界」は豊臣政権になるだろうと思いました。
もっとも、原説ではなぜかこの尚々書の部分を引用していません。

この書状については、一度詳しく検討してみたいと思っておりますので、ばんないさんのお知恵も拝借できればと思います。

イエズス会史料から見ていくのはよいやり方かもしれませんね。解釈の隘路を突破できるかもしれません。今度じっくり読んでみます。
2007/07/03(Tue) 01:10 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
西国から見た秀吉
こんばんは。

あんな話を書いておいてなんですが、当方個人的には「家久は病死だろう」と思っています(汗)。しかし、フロイス「日本史」の記述から見て、早くから「秀吉による暗殺説」が広まっていたことには興味があります。
島津家久も吉川元春も武勇で知られた武将であり、西国の民衆には「もしこの2人が生きていたら…」という待望論があり、それがこの噂の背景にあるのでは、と私なりに考えています。
逆に考えると、西国では「秀吉の天下統一」というのは、実は歓迎されざる物だったのではないかということが想定されます。
2007/07/04(Wed) 22:55 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
九州と秀吉
ばんないさん、こんばんは。

そういえば、吉川元春も急な病死ということになっていますね。
でも、豊臣政権が元春まで毒殺したとは考えにくいですね。もしばれたら、毛利両川は秀吉から離反し、西国は大変なことになります。島津攻めどころではなく、秀吉が九州で孤立する事態にもなりかねません。

家久については、拙コラムで書いたように、もし心変わりして上京を取り止めたとすれば、いろんな推測ができますね。
ひとつは、上京といい条、実際は豊臣政権が家久を島津家から引き離したうえで、惣無事令違反の詰め腹を切らすつもりだったのではないか。
あるいは、家久が真偽定かならぬ風聞をそのように伝聞して、ある程度信じた(あるいは島津本宗家がそのように吹き込んだ)可能性もないとはいえません。

そうだとすれば、上京しないと豊臣政権との約定違反、上京すると、殺害される可能性がある……。
家久は進退窮まってしまい、あるいは病死という形にしたうえで自害し、嫡男豊久の地位と佐土原家の保全を優先したのかという妄想さえ浮かんできます(笑)。

九州の人々にとって、秀吉は招かれざる客だったことはたしかでしょうね。肥後に入部した佐々成政は国人一揆によって自滅しているくらいで、豊臣流儀の押しつけははた迷惑で、とくに朝鮮陣はその極致でしょうね。
2007/07/05(Thu) 23:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントが続いて申し訳ありません
こんばんわ。

>肥後に入部した佐々成政は国人一揆によって自滅している

山鹿市立博物館
春の企画展「肥後国衆一揆展」
平成23年3月25日(金)~平成23年7月10日(日)
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1264127825069/index.html

関連記事
秀吉朱印状など並ぶ
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000001104090003

昨日、埼玉県立文書館で埼玉地方史研究会と合同で催された戦国史研究会例会で報告者の伊藤一美氏から安保氏に関わる坂本龍馬の書状の話が出ました。
2011/04/10(Sun) 21:31 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。