歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日、武蔵野大学でのオムニバス講座「薩摩と明治維新」2の一環として、表題の講座に出講。

200人もの受講者。
これだけの人を集める主催者側の努力に敬服。
また次期大河ドラマの主人公という旬の話題も募集の大きなプラスになったのではないかと思う。

写真28枚のスライドショー、A3で10枚のレジュメ。
これだけのものを1時間半で話すのはどう考えても無理なので、ある程度端折りながら話した。
スライドショーについては、使用する写真ファイルがデジカメの性能によって精粗があるため、あまり大写しにすると、ぼやけてしまうのではないかと危惧していたが、かなり大きなスクリーンにもかかわらず、比較的よく映っていたように思える。あとで聞いたところ、後ろの受講者もよく見えたとのこと。ただ、小さな字はわからなかったとのこと。

内容については、外様藩の薩摩藩からなぜ2度にわたり、将軍御台所を輩出できたのか、その事情を中心にお話しした。
竹姫問題を起点に説き起こしたが、一橋家と重豪の縁組のところで、ひとつ話を抜かしていたことと、島津家と徳川家が開幕以来、予想以上に関係が良好で、それが幕末まで維持されていたことを強調することを失念してしまったのが反省点。

最後はやはり時間切れで、篤姫や和宮のエピソードをかなり割愛せざるをえなかったのが、少し残念である。

終了後、拙ブログによくコメントをいただく板倉さん、先日明治維新史学会で報告を拝聴した町田さん、東京龍馬会の方、古文書講座「てらこや」の常連受講者の方々、拙著をよく読んでくれている学生さんなどからわざわざ挨拶していただく。時間の関係で、きちんとお話できずに申し訳なかった。

次回講座は、7月28日(土)で、榎本武揚の子孫、榎本隆充氏の「戊辰の役と明治維新の対露外交に果した榎本武揚の役割」と題した講演である。詳しくはこちらをご覧下さい。




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【2007/07/01 17:25】 | 幕末維新
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おつかれさまでした
板倉丈浩
こっそり受講するつもりが、ついつい話しかけてしまった板倉です(笑)
レジュメも充実していて、説明もお上手で、良い講座だったと思います。
朝から食事抜きだったとのことで、その熱血先生ぶりは受講者のみなさんもさぞかし満足されたことではないでしょうか。
ただ、やはり天璋院に関する史料は少ないんですねえ(勝海舟のホラ話はかなり割引いて考えるべきでしょうし・・・)。
その中で、松平慶永あて島津斉彬書簡を引用し、天璋院に対する斉彬の「密命」は存在したが、外堀の本寿院(家定生母)への働きかけの段階で挫折したのではないかとする見解は興味深かったです。

同書簡で「一橋は御いやと其うへ奥向皆々きらひ候」と本寿院だけではなく大奥が皆慶喜を嫌っていたとあり、一方『慶喜公伝』の朝比奈閑水の談話では「慶喜の容貌を大奥女中が賞賛するので家定が嫉妬した」とあるので、慶喜を嫌ったのは将軍家定か大奥か、大奥が慶喜を嫌った理由は何か、といった点がちょっと気になりました(慶喜による大奥改革を忌避したとか、斉昭の女性問題が悪影響したとかいろいろ考えられますが・・・)。

最後に、本能寺の本を読んだという経済学部の学生さんが感激の面持ちで桐野さんに話しかける光景を目撃しました。
私も大学では経済理論など勉強していましたので、何とも懐かしく、心温まる心境になりました。

興味深く拝聴しました。
町田明広
昨日はお疲れ様でした。90分の制約の中で、あれだけの内容が盛り込まれ、かつ、レジュメ(というより資料集)も今後参考にさせていただくことになると確信できるほど、充実しており、有意義な時間でした。
私の薩摩藩知識は文久期に限定されており、その前後を今後学ばなければという思いから、もちろん桐野さんのご講演ということがあってですが、受講いたしました。
基本的事項から密命に関する事項まで、実に興味深く拝聴しました。どうもありがとうございました。また今後とも、様々ご教示をお願いいたします。

本寿院と大奥
桐野
板倉丈浩さん、こんばんは。

篤姫入輿前後の大奥は完全に本寿院(跡部氏)によって支配されていると思います(将軍家慶御台所の有栖川宮家喬子もすでに他界しています)。やはり将軍生母の力は絶大です。身分的にも、中臈から老女にまで上りつめています。
本寿院の意向は大奥の意向だといってよいと思います。
講座で紹介した松平慶永宛て島津斉彬書状でも、本寿院の激怒が書かれていましたが、彼女としては、息子家定が若いのに後継問題をあれこれ言われることが癇に障っていたみたいで、家定が50歳になるまでは跡継ぎ問題は封印するとまで言っていたと思います。

あと、いわゆる将軍=譜代結合の幕府ですから、伝統的な価値観が重視され、将軍継嗣問題でもその一番の基準は血統だったと思います。
当時の徳川宗家は一橋系統が支配しており、家斉との血縁の親疎が重視されたと思います。その点、紀州慶福は一橋系統で、水戸出身の慶喜よりはるかに家斉に近いです。一橋派といい条、実際の一橋系統は紀州の慶福だったというのも逆説的ですね。


嘉永・安政期の薩摩藩
桐野
町田明広さん、こんばんは。

わざわざご参加いただき痛み入ります。
一般愛好者向けの講座でしたので、内容的に物足りなかったのではないでしょうか?

私も斉彬期の薩摩藩についてはよく知りません。「島津斉彬文書」もありますが、ちゃんと読んだことはありませんしね。拾い読みしただけでも、非常に面白そうですが、何せ、文久期以降とくらべて、関係人物が様変わりしており、馴染みが少ない点が取っつきにくい最大の理由のような気がしています。西郷なんかはよく生き残ったなと思います。
あるいは、文久2年の久光主導の藩政改革が急激で、人事も含めて大幅な刷新がなされたせいでしょうか?


Re:本寿院と大奥
板倉丈浩
いつもお世話になります。

>本寿院の意向は大奥の意向だといってよいと思います。
>家定が50歳になるまでは跡継ぎ問題は封印するとまで言っていたと思います。

なるほど。大奥の反慶喜もあまり深い理由ではなさそうですね。
大奥トップの感情的反発と"譜代の論理"が結びついて将軍継嗣問題の流れを決定づけたといったところでしょうか。
御教示ありがとうございました。


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この記事へのコメント
おつかれさまでした
こっそり受講するつもりが、ついつい話しかけてしまった板倉です(笑)
レジュメも充実していて、説明もお上手で、良い講座だったと思います。
朝から食事抜きだったとのことで、その熱血先生ぶりは受講者のみなさんもさぞかし満足されたことではないでしょうか。
ただ、やはり天璋院に関する史料は少ないんですねえ(勝海舟のホラ話はかなり割引いて考えるべきでしょうし・・・)。
その中で、松平慶永あて島津斉彬書簡を引用し、天璋院に対する斉彬の「密命」は存在したが、外堀の本寿院(家定生母)への働きかけの段階で挫折したのではないかとする見解は興味深かったです。

同書簡で「一橋は御いやと其うへ奥向皆々きらひ候」と本寿院だけではなく大奥が皆慶喜を嫌っていたとあり、一方『慶喜公伝』の朝比奈閑水の談話では「慶喜の容貌を大奥女中が賞賛するので家定が嫉妬した」とあるので、慶喜を嫌ったのは将軍家定か大奥か、大奥が慶喜を嫌った理由は何か、といった点がちょっと気になりました(慶喜による大奥改革を忌避したとか、斉昭の女性問題が悪影響したとかいろいろ考えられますが・・・)。

最後に、本能寺の本を読んだという経済学部の学生さんが感激の面持ちで桐野さんに話しかける光景を目撃しました。
私も大学では経済理論など勉強していましたので、何とも懐かしく、心温まる心境になりました。
2007/07/01(Sun) 18:50 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
興味深く拝聴しました。
昨日はお疲れ様でした。90分の制約の中で、あれだけの内容が盛り込まれ、かつ、レジュメ(というより資料集)も今後参考にさせていただくことになると確信できるほど、充実しており、有意義な時間でした。
私の薩摩藩知識は文久期に限定されており、その前後を今後学ばなければという思いから、もちろん桐野さんのご講演ということがあってですが、受講いたしました。
基本的事項から密命に関する事項まで、実に興味深く拝聴しました。どうもありがとうございました。また今後とも、様々ご教示をお願いいたします。
2007/07/01(Sun) 19:57 | URL  | 町田明広 #-[ 編集]
本寿院と大奥
板倉丈浩さん、こんばんは。

篤姫入輿前後の大奥は完全に本寿院(跡部氏)によって支配されていると思います(将軍家慶御台所の有栖川宮家喬子もすでに他界しています)。やはり将軍生母の力は絶大です。身分的にも、中臈から老女にまで上りつめています。
本寿院の意向は大奥の意向だといってよいと思います。
講座で紹介した松平慶永宛て島津斉彬書状でも、本寿院の激怒が書かれていましたが、彼女としては、息子家定が若いのに後継問題をあれこれ言われることが癇に障っていたみたいで、家定が50歳になるまでは跡継ぎ問題は封印するとまで言っていたと思います。

あと、いわゆる将軍=譜代結合の幕府ですから、伝統的な価値観が重視され、将軍継嗣問題でもその一番の基準は血統だったと思います。
当時の徳川宗家は一橋系統が支配しており、家斉との血縁の親疎が重視されたと思います。その点、紀州慶福は一橋系統で、水戸出身の慶喜よりはるかに家斉に近いです。一橋派といい条、実際の一橋系統は紀州の慶福だったというのも逆説的ですね。
2007/07/03(Tue) 00:44 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
嘉永・安政期の薩摩藩
町田明広さん、こんばんは。

わざわざご参加いただき痛み入ります。
一般愛好者向けの講座でしたので、内容的に物足りなかったのではないでしょうか?

私も斉彬期の薩摩藩についてはよく知りません。「島津斉彬文書」もありますが、ちゃんと読んだことはありませんしね。拾い読みしただけでも、非常に面白そうですが、何せ、文久期以降とくらべて、関係人物が様変わりしており、馴染みが少ない点が取っつきにくい最大の理由のような気がしています。西郷なんかはよく生き残ったなと思います。
あるいは、文久2年の久光主導の藩政改革が急激で、人事も含めて大幅な刷新がなされたせいでしょうか?
2007/07/03(Tue) 00:53 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
Re:本寿院と大奥
いつもお世話になります。

>本寿院の意向は大奥の意向だといってよいと思います。
>家定が50歳になるまでは跡継ぎ問題は封印するとまで言っていたと思います。

なるほど。大奥の反慶喜もあまり深い理由ではなさそうですね。
大奥トップの感情的反発と"譜代の論理"が結びついて将軍継嗣問題の流れを決定づけたといったところでしょうか。
御教示ありがとうございました。
2007/07/03(Tue) 06:45 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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