歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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薩摩拵

友人の調所一郎氏が4年前に上梓した本の改訂増補新版である。ご恵贈いただき感謝。

これまで初版から改定増補版、改定増補版二刷、そして今回と増補を重ねながら何度も版を重ねてきた。
この種の特殊な業界の本にしては、ベストセラーといってよいのではないか。

「拵」は、刀剣の外装一式を意味する。鞘・鍔・柄などすべてを含む。
私は調所氏とこの本によって、薩摩藩に伝わる薩摩拵なる概念を初めて知った。その特徴は実戦本位で驚愕的なものだった。いくつか覚えているのをあげると、

鍔が極端に小さいこと(鍔競り合いを禁じているのと、トンボの構えのとき、鍔が耳にあたらないように)。

返角の形状(帯から抜けやすくなっている)。

柄の反り(通常の刀と異なり、内反りになっている)

そうした知識を前提に、幕末薩摩藩士の写真を見ると、薩摩拵の刀剣をほとんどが所持していることがわかったのも驚きだった。

刀剣に興味のある方には必携かもしれない。

薩摩拵(改訂増補新版)
著者:調所一郎
版元:里文出版
定価:2.800円+税
体裁:A5版、152頁、カラー写真多数


薩摩刀 波平

なお、調所氏には最近、鹿児島の黎明館で開催された企画展「薩摩刀 波平―武の国の刀工―」の図録も頂戴した(写真参照)。こちらも感謝。
調所氏はこの展示の企画に関わり、展示中、講演も行っている。拵だけでなく、刀剣そのものにも造詣が深い人である。とくに薩摩藩独特の刀工波平の由緒・技術などについて一家言もっている。

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【2007/07/07 01:57】 | 新刊
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調所
拙著他ご紹介頂き有難うございます。薩摩拵の鐔は細いというか小さいといった感じでしょうか。大きくして防御の姿勢を表したくなかったという事もあるようです。柄は他国物より長いことも特徴です。図録は、これに限らず刀剣関係一般に値段が高くて申し訳ないのですが、刃文などを映しこむ特殊撮影、及び撮影に耐える状態にするのにかなりの費用がかかってしまうので、御了承頂けますればうれしいです。


桐野
調所さん、どうも。
わざわざのコメント有難うございます。
ご指摘を含めて本文を修正加筆しました。
これからもいろいろ教えて下さい。



調所
こちらこそ色々と教えて頂きました。有難うございます。そこで以前から刀剣関係者の間で話題になっていたのですが、高杉晋作の有名な写真で、典型的な、通称さるすべりという返角のついた薩摩拵を持っているものがあるのですが、薩摩藩士に刀をもらった記述など、どこかに残っているのでしょうか?


ぼっけもん新聞
さすがは、見るところが違いますね。
桐野様の回答が楽しみです。

高杉晋作の佩刀
桐野
調所さん、どうも。

高杉晋作の刀というのは、例の有名な晋作の写真に写っている佩刀のことでしょうか?
よく見てみましたが、これがいわゆるさるすべりの返角なのかどうか、素人目にはよくわかりません(笑)。晋作の左手の親指と人差し指で握っている部分ですよね?

この写真の佩刀だという前提での議論ですが、
『東行先生遺文』の口絵写真には「この写真は慶応二年四月先生長崎に於て写され、その夫人に贈られしものなり」という説明文がついています。

晋作はたしかにその時期に長崎に行っていますので、間違いないところでしょう。
となると、晋作の佩刀は写真撮影時期以前に薩摩藩士の誰かからもらったものと考えるべきでしょうね。

私は、その刀は晋作が長崎でもらったものではないかと思っています。もし長州領内でもらったものなら、さすがに薩摩拵の刀を日頃携行しないのではないかと思うからです。
長崎である薩摩藩士からこの刀をもらい、長崎来訪記念に写真撮影したときに一緒に写した。あるいは写真館訪問も薩摩藩側の手配だったかもしれません。

このとき、晋作が会った薩摩藩士が誰かということですが、判明しているのは側用人市来六郎右衛門です。この人は長崎常駐の役人だったかもしれません。
晋作が慶応2年(1866)3月28日付で、木戸貫治(孝允)と井上聞多(馨)に宛てた書簡がありますが、それには次のように書かれています。

「弟事も長崎薩邸罷り越し候処、幸に側用人市来六郎右衛門御邸にて御使者之事談判候処、六郎右衛門申し候には」云々

このとき、晋作が長崎に行き、薩摩藩の役人と接触したのは、英国公使パークスが薩摩藩を表敬訪問するので、その場に潜り込んでパークスらと接触しようと考え、その仲介を薩摩藩側に依頼するのが目的のひとつでした。すでに薩長同盟が結ばれていますから、晋作も気安く頼もうとしたわけです。
結局、晋作は市来から薩摩藩には「固陋之者」が多くて何が起こるかわからないから、入薩は考え直したほうがいいのではないかと諭され、入薩は断念したのではないかと思われます。
そのほか、晋作は薩摩藩の斡旋で軍艦購入の手配をしております。
こうした交渉の過程で、晋作は市来と親交を深めて例の刀を贈られたのではないかと推測もできます。

ほかに、晋作と交流があった薩摩藩士は五代才助(友厚)、大山格之助(綱良)、伊集院兼寛、黒田清綱、村田新八などがいます。
このなかで、書簡のやりとりなどをしてとくに親しかったのは、五代才助と大山格之助だろうと思います。

五代が晋作に宛てた書簡には互いに贈り物をした記述があります(慶応2年5月26日付)。晋作が薩摩藩士とのやりとりで贈り物があったとする史料はこれだけではないかと思います。その尚々書に次のような興味深い一説があります。
「御互いに国家危急相救うべきの御交りにて、かかる御謝礼等に預かり候ては、実に心外の至りに存じ奉り候、随て此の品誠に以て麁器(粗器)赤面の至りに御座候得共、持ち合いに任せ進呈仕り候」

晋作から五代に意外な贈り物があったので、五代も恐縮しつつ「麁器」を贈っていることがわかります。もっとも、これが刀だとは限りません。
それと、残念なことに、この書簡は晋作の長崎滞在より以後のことなので、写真に写るはずがないですね。

以上から、晋作の薩摩拵の刀は、上に挙げた薩摩藩士の誰かから贈られた可能性が高いと思いますが、とくに長崎で会った市来六郎右衛門の可能性が一番高いのではないかと思います。
市来六郎右衛門がどんな人なのか、ほかに史料があればいいんですけどね。

>ぼっけもんさん

コメント有難うございます。
以上のように考えてみました。


調所
桐野様 有難うございました。お忙しい中、私の道楽につきあわせてしまい申し訳ございませんでした。その一番有名な写真で、左手の親指と人差し指の間に位置するのは栗形で、小指の付け根下二センチ程の所に丸い返角が付いてます。印刷によっては黒くつぶれてしまっているものもありますが、柄も目抜の付いてない潰し巻きで、よくある薩摩拵です。いずれにしろ大変すばらしい回答を頂き、恐縮しております。有難うございました。

栗形と返角
桐野
調所さん、どうも。

もう一度よく写真を見てみたところ、ご指摘の部分に何か突起状のものが付いているのがわかりました。
私は栗形と返角を取り違えていたようです。不勉強ですみません。
潰し巻きも見たことがありますので、納得です。
ほかにも長い柄、小さい鍔、全体に武骨なつくりなど、なるほど薩摩拵の特徴がよく表れていますね。
これが薩摩拵だと唱えた人は今まで誰もいなかったと思います。古写真の情報はやはり貴重ですね。
晋作は薩摩藩とは疎遠だと言われていましたが、必ずしもそうではないことも同時に明らかになったと思います。

高杉晋作の刀
板倉丈浩
こんばんは。
私が高杉晋作の刀と聞いて思い出したのは、田中光顕『維新風雲回顧録』にある次のエピソードです。

これによると、光顕が十津川にいたときに、薩摩浪人・梶原鉄之助(本名左近允右嘉衛門)から譲ってもらった二尺六寸の名刀で、安芸国佐伯荘藤原貞安作、永禄六年八月吉と銘があったそうです。
その後、光顕は中岡慎太郎に従って長州に入り、高杉に薩長提携の必要を説くのですが、その席で高杉が光顕の刀を欲しいと言い出し、断っても聞かないので「弟子にしてくれるなら」という条件で譲った・・・という話です。

光顕は「彼はこの刀がよほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって私のところに送り届けてくれた。それを見ると断髪を分けて着流しのまま椅子に腰をおろしている。そして貞安の一刀を腰へんにぴたとつけ、洒落な風姿の中に一脈の英気、颯爽として、おのずから眉宇の間に閃いている。彼は死ぬときまでこれを手放さなかった」と記していますので、多分間違いないのではないかと思います。


調所
板倉さま 初めまして。貴重な情報有難うございます。六年程前に高杉晋作の薩摩拵に気付き日刀保などで話題にしてきたのですが、どなたも由来をご存知ありませんでした。様々な分野の方と情報交換するのは、やはり有意義ですね。今後とも宜しくお願い致します。因みに先程、目抜と書きましたが目貫の転換ミスでした。

維新風雲回顧録
桐野
板倉さん、調所さん

板倉さんご紹介の本、私も持っていたので確認しましたが、たしかに高杉の刀のようですね。
そんないきさつがあったとは、灯台もと暗しでした。

高杉が薩摩拵の刀を日常的に持ち歩くはずがないと思い込んだのが間違いでしたね。

勉強になりました。

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コメント
この記事へのコメント
拙著他ご紹介頂き有難うございます。薩摩拵の鐔は細いというか小さいといった感じでしょうか。大きくして防御の姿勢を表したくなかったという事もあるようです。柄は他国物より長いことも特徴です。図録は、これに限らず刀剣関係一般に値段が高くて申し訳ないのですが、刃文などを映しこむ特殊撮影、及び撮影に耐える状態にするのにかなりの費用がかかってしまうので、御了承頂けますればうれしいです。
2007/07/07(Sat) 11:13 | URL  | 調所 #-[ 編集]
調所さん、どうも。
わざわざのコメント有難うございます。
ご指摘を含めて本文を修正加筆しました。
これからもいろいろ教えて下さい。
2007/07/07(Sat) 14:08 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こちらこそ色々と教えて頂きました。有難うございます。そこで以前から刀剣関係者の間で話題になっていたのですが、高杉晋作の有名な写真で、典型的な、通称さるすべりという返角のついた薩摩拵を持っているものがあるのですが、薩摩藩士に刀をもらった記述など、どこかに残っているのでしょうか?
2007/07/07(Sat) 19:10 | URL  | 調所 #-[ 編集]
さすがは、見るところが違いますね。
桐野様の回答が楽しみです。
2007/07/07(Sat) 21:55 | URL  | ぼっけもん新聞 #-[ 編集]
高杉晋作の佩刀
調所さん、どうも。

高杉晋作の刀というのは、例の有名な晋作の写真に写っている佩刀のことでしょうか?
よく見てみましたが、これがいわゆるさるすべりの返角なのかどうか、素人目にはよくわかりません(笑)。晋作の左手の親指と人差し指で握っている部分ですよね?

この写真の佩刀だという前提での議論ですが、
『東行先生遺文』の口絵写真には「この写真は慶応二年四月先生長崎に於て写され、その夫人に贈られしものなり」という説明文がついています。

晋作はたしかにその時期に長崎に行っていますので、間違いないところでしょう。
となると、晋作の佩刀は写真撮影時期以前に薩摩藩士の誰かからもらったものと考えるべきでしょうね。

私は、その刀は晋作が長崎でもらったものではないかと思っています。もし長州領内でもらったものなら、さすがに薩摩拵の刀を日頃携行しないのではないかと思うからです。
長崎である薩摩藩士からこの刀をもらい、長崎来訪記念に写真撮影したときに一緒に写した。あるいは写真館訪問も薩摩藩側の手配だったかもしれません。

このとき、晋作が会った薩摩藩士が誰かということですが、判明しているのは側用人市来六郎右衛門です。この人は長崎常駐の役人だったかもしれません。
晋作が慶応2年(1866)3月28日付で、木戸貫治(孝允)と井上聞多(馨)に宛てた書簡がありますが、それには次のように書かれています。

「弟事も長崎薩邸罷り越し候処、幸に側用人市来六郎右衛門御邸にて御使者之事談判候処、六郎右衛門申し候には」云々

このとき、晋作が長崎に行き、薩摩藩の役人と接触したのは、英国公使パークスが薩摩藩を表敬訪問するので、その場に潜り込んでパークスらと接触しようと考え、その仲介を薩摩藩側に依頼するのが目的のひとつでした。すでに薩長同盟が結ばれていますから、晋作も気安く頼もうとしたわけです。
結局、晋作は市来から薩摩藩には「固陋之者」が多くて何が起こるかわからないから、入薩は考え直したほうがいいのではないかと諭され、入薩は断念したのではないかと思われます。
そのほか、晋作は薩摩藩の斡旋で軍艦購入の手配をしております。
こうした交渉の過程で、晋作は市来と親交を深めて例の刀を贈られたのではないかと推測もできます。

ほかに、晋作と交流があった薩摩藩士は五代才助(友厚)、大山格之助(綱良)、伊集院兼寛、黒田清綱、村田新八などがいます。
このなかで、書簡のやりとりなどをしてとくに親しかったのは、五代才助と大山格之助だろうと思います。

五代が晋作に宛てた書簡には互いに贈り物をした記述があります(慶応2年5月26日付)。晋作が薩摩藩士とのやりとりで贈り物があったとする史料はこれだけではないかと思います。その尚々書に次のような興味深い一説があります。
「御互いに国家危急相救うべきの御交りにて、かかる御謝礼等に預かり候ては、実に心外の至りに存じ奉り候、随て此の品誠に以て麁器(粗器)赤面の至りに御座候得共、持ち合いに任せ進呈仕り候」

晋作から五代に意外な贈り物があったので、五代も恐縮しつつ「麁器」を贈っていることがわかります。もっとも、これが刀だとは限りません。
それと、残念なことに、この書簡は晋作の長崎滞在より以後のことなので、写真に写るはずがないですね。

以上から、晋作の薩摩拵の刀は、上に挙げた薩摩藩士の誰かから贈られた可能性が高いと思いますが、とくに長崎で会った市来六郎右衛門の可能性が一番高いのではないかと思います。
市来六郎右衛門がどんな人なのか、ほかに史料があればいいんですけどね。

>ぼっけもんさん

コメント有難うございます。
以上のように考えてみました。
2007/07/08(Sun) 14:22 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様 有難うございました。お忙しい中、私の道楽につきあわせてしまい申し訳ございませんでした。その一番有名な写真で、左手の親指と人差し指の間に位置するのは栗形で、小指の付け根下二センチ程の所に丸い返角が付いてます。印刷によっては黒くつぶれてしまっているものもありますが、柄も目抜の付いてない潰し巻きで、よくある薩摩拵です。いずれにしろ大変すばらしい回答を頂き、恐縮しております。有難うございました。
2007/07/08(Sun) 15:42 | URL  | 調所 #-[ 編集]
栗形と返角
調所さん、どうも。

もう一度よく写真を見てみたところ、ご指摘の部分に何か突起状のものが付いているのがわかりました。
私は栗形と返角を取り違えていたようです。不勉強ですみません。
潰し巻きも見たことがありますので、納得です。
ほかにも長い柄、小さい鍔、全体に武骨なつくりなど、なるほど薩摩拵の特徴がよく表れていますね。
これが薩摩拵だと唱えた人は今まで誰もいなかったと思います。古写真の情報はやはり貴重ですね。
晋作は薩摩藩とは疎遠だと言われていましたが、必ずしもそうではないことも同時に明らかになったと思います。
2007/07/08(Sun) 16:39 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
高杉晋作の刀
こんばんは。
私が高杉晋作の刀と聞いて思い出したのは、田中光顕『維新風雲回顧録』にある次のエピソードです。

これによると、光顕が十津川にいたときに、薩摩浪人・梶原鉄之助(本名左近允右嘉衛門)から譲ってもらった二尺六寸の名刀で、安芸国佐伯荘藤原貞安作、永禄六年八月吉と銘があったそうです。
その後、光顕は中岡慎太郎に従って長州に入り、高杉に薩長提携の必要を説くのですが、その席で高杉が光顕の刀を欲しいと言い出し、断っても聞かないので「弟子にしてくれるなら」という条件で譲った・・・という話です。

光顕は「彼はこの刀がよほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって私のところに送り届けてくれた。それを見ると断髪を分けて着流しのまま椅子に腰をおろしている。そして貞安の一刀を腰へんにぴたとつけ、洒落な風姿の中に一脈の英気、颯爽として、おのずから眉宇の間に閃いている。彼は死ぬときまでこれを手放さなかった」と記していますので、多分間違いないのではないかと思います。
2007/07/08(Sun) 19:34 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
板倉さま 初めまして。貴重な情報有難うございます。六年程前に高杉晋作の薩摩拵に気付き日刀保などで話題にしてきたのですが、どなたも由来をご存知ありませんでした。様々な分野の方と情報交換するのは、やはり有意義ですね。今後とも宜しくお願い致します。因みに先程、目抜と書きましたが目貫の転換ミスでした。
2007/07/08(Sun) 20:35 | URL  | 調所 #-[ 編集]
維新風雲回顧録
板倉さん、調所さん

板倉さんご紹介の本、私も持っていたので確認しましたが、たしかに高杉の刀のようですね。
そんないきさつがあったとは、灯台もと暗しでした。

高杉が薩摩拵の刀を日常的に持ち歩くはずがないと思い込んだのが間違いでしたね。

勉強になりました。
2007/07/08(Sun) 21:14 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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