歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今晩(11日)の番組、桶狭間合戦を取りあげていた。

さっそく黒田日出男氏の「乱取状態急襲」説(甲陽軍鑑典拠)が登場していた(詳しくはここ)。今年の仮説がもうTVに登場したのだから驚きである。果たしてそれほどの学説なのかどうか、まだまだ検証が必要だろう。

そして、今川義元の視点からだと新味を打ち出したと強調しながらも、桶狭間合戦の重要な論点はすべてスルーされていた。少なくとも私にとっては、ほとんど見るべき値打ちがない番組だった。

スタジオ出演の小和田哲男氏も、黒田説をどのように考えているのか、また奇襲か正面攻撃かという点についてもコメントしないままで終わった。

乱取状態急襲」説って、そんなに説得力があるのかな? 新説好きのNHKが飛びついただけじゃないのか。
 そもそも、『甲陽軍鑑』への史料批判はまだ確たる結論が出たとは思えない。少なくとも『信長公記』首巻よりもそんなに信用できる史料なのかという疑問がある。お膝元の武田氏関連の記事さえ、おかしい点がたくさんあるのに、他国の記事がそれほど信用できるとは思えないのだが……。

 たとえば、武田氏研究で知られる平山優氏は近刊のあとがきで、『甲陽軍鑑』をもとに山本勘助を書くと研究者仲間に話したところ、止めた方がいいという否定的な反応が多かった、大げさにいえば研究者生命を賭していたと書いていたほどである。『甲陽軍鑑』の再評価が進んだ現在でもかくのごとしである。
 これに対して、『信長記』(信長公記)をもとにして信長を書くといっても、同様な反応があるとは思えない。
 この反応の違いこそ、両史料の信頼性のありようを如実に示している。

また、黒田説では「急襲」の定義が奇襲と強襲のどちらなのか曖昧である。あるいはそんな区別は不要なのだろうか。これは藤本正行説(これは正面強襲説だろう)との関わりからも、曖昧にできないのではないか。

素朴な疑問をあげれば、乱取って今川軍だけにかかわらず、すべての戦国大名に共通する性向であろう。藤木久志氏が描いた「雑兵の世界」は上杉謙信の関東出陣から着想したものだと思う。
だったら、川中島合戦だって、上杉軍は北信四郡で乱取をほしいままにしたはずなのに、その隙を武田軍に衝かれたという話は聞かないし、いわゆる第4次川中島合戦では、上杉軍は整然と行動しているイメージがある。

今川軍だけ、よほど間抜けなんだろうか?

しかし、番組では今川義元は緻密な軍団を組織したって褒めていたのに、矛盾を感じないのかな? 上杉軍などよりずっと軍律が厳しそうな感じで解説していたけどなあ。

桶狭間合戦を取りあげるなら、そうした肝心な課題を避けられないはずで、それに取り組む気がなかったら、作らないほうがましではないか、という印象をもった。
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【2007/07/12 00:59】 | 信長
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橋場
仰せの通り、「乱取」なんて別に珍しくもありませんし、その隙を衝かれて大敗するようなチンケな指揮系統の軍勢な訳が無いのに、番組は「緻密な組織」と「乱取」の間で見事に論理破綻していましたね。

寄親寄子制
桐野
橋場殿下

まったく何のために作った番組なのかよくわかりませんね。
冒頭に今川義元の再評価、名誉回復といった趣旨を強調していましたが、それも看板倒れでした。
理由として挙げていたのは、せいぜい寄親寄子制だけでしたかね(今川仮名目録追加もあったけど形だけ)。
その寄親寄子制も極端に単純化して紹介してましたけど、寄子って百姓だけですかね。百姓といっても、上層の名主百姓や被官百姓だと思うし、寄親になれない小規模な領主だって寄子に編成されたはずではないでしょうか。
単純化は不正確と同義ではないと思いますが……。

乱取のターゲット
かわい
 番組は観なかったのですが、そもそもあのへんて乱取の対象になるような場所でしたっけ?

ターゲット
桐野
かわいさん、どうも。

そうなんです。
いつぞやの議論でも、あの一帯は丘陵地帯で田圃もありそうもないし、とても人口が多いとは思えません。2万5千の兵が乱取するには割に合わない地域だと思いますよ。

そもそも乱取は敵との遭遇の可能性が少ない状況で恩賞的に許可されるか、苅田・放火のように、意図的・戦術的な狙いでやるかのどちらかだと思います。
眼前に信長の主力がいるのに、それを無視して野放図にやるとは思えませんね。今川軍だって、最低限の軍法があったはずですから、それなりの統制が効いていたと思われますし、最前線で乱取なんかやっている場合じゃないと思うんですがね。



現地の状況
板倉丈浩
かわいさん、桐野さん、こんばんは。

さて、黒田説ですが私も同様な疑問を持っていました。
といいますのも、『桶狭間合戦記』に次のような記述があるからです。
「此時分ニハ有松村・落合村ハ有間敷也。大脇村の古老の咄ニ、其頃ハ此辺、皆野山・田畑にして今の往還もなし」
つまり、この時代は東海道(往還)が有松付近を通っていなかったので、村すらなかったということなんですね。
現地を知らない甲陽軍鑑の作者が、誤った伝聞をそのまま記事にしてしまったということではないかと。
甲陽軍鑑以外の史料に乱取の記述がないのも当然ですよね・・・。


近世東海道
桐野
板倉さん、こんばんは。

「桶狭間合戦記」といえば、参謀本部の「迂回奇襲」説の典拠となった史料ですね。
たしかに、ご紹介の記述がありました。田畑はあったけど、往還はない、慶長13年(1608)、伊奈備前守らの検地をきっかけに開け、近世東海道となったとありますね。
ただ、そうなると、この一帯の近世東海道はまったく人為的に作られたことになりますね。たしかに沓掛から善照寺へと向かう中世東海道(鎌倉往還)は遠回りですから、距離を短縮するために開発されたということになるのでしょうか?

余談ですが、藤本氏の正面攻撃説はまさにこの有松の谷筋の回廊を今川・織田両軍が正反対から進んできて激突したという構図になるわけですね。
もし同書のとおり、合戦当時に往還さえなかったら、今川の大軍がこの筋を通るとはまず考えられませんね。
一方、織田軍にとっては今川方に気づかれずに接近できたともいえそうで(だとすれば奇襲的要素があるのでは)、そうした未開の環境が幸いしたということになるのでしょうか? そうだとすれば、乱取説よりも、まだ説得力があるように思うのは私だけでしょうか。

でも、藤本説では同書は一刀両断で切り捨てられています(笑)。まあ、江戸後期の成立ですし、どこまで信じていいのやらという面もあるので致し方ないですが、それにしても、「按するに」という一節を掲げて、著者の考証が展開されています。それがまったく的はずれともいえない気もしますが……。
たとえば、佐久間信盛の所領が愛智郡山崎にあったから、山崎城を佐久間が守ったという解説など、まったくの作り話だともいえない気がしますが……。

「甲陽軍鑑」や「桶狭間合戦記」に厳密な史料批判を加えれば、使わない方がいいということなりそうですが、かといって、すべて切り捨ててよいのかといえば、そうでもない気がします。
一方で、桶狭間合戦で比較的史料批判に耐えうる史料は「信長公記」首巻や「三河物語」などだけですけど、これだと、史料不足で、結局、真相がわからないという隘路に陥ってしまいます。
厳密な史料批判も、痛し痒しといったところですね。




武藤 臼
寄親寄子制で始まって、乱取急襲で終わったというなんとも奇妙な番組でしたね。

寄親寄子制という言出しには多少惹かれたんですが、つまるところ今川の影響ってあるんですか?

寄親寄子制
桐野
武藤 臼さん、こんばんは。

寄親寄子制は今川家だけの専売特許じゃないと思いますね。武田も北条も毛利も島津も程度の差こそあれ、あるいは名称こそ違え、寄親寄子制じゃないんですかね。

戦国大名にかなり普遍的な軍団編成方法だとすると、何らかの共通点があるということだと思います。

おそらく軍役や陣立をより合理的に組織しようと思えば、だいたい似たような編成方法をとらざるをえないんのではないでしょうか。

で、織田軍はどうなんでしょうね。
少なくとも桶狭間合戦のあった永禄初年頃までは、寄親寄子制がはっきりした形で成立しているように見えないような。林とか佐久間といった宿老クラスが大きな備えを率いているようには見えないのですが、どうなんでしょうね?

美濃平定後はある程度知行宛行の史料もあって、たとえば、西美濃三人衆クラスだと、与力の所領も一括して寄親に安堵しているようですけどね。

寄親寄子制2
橋場
織田家の場合、初期ですと林秀貞とかでも七百とかの小勢しか率いてませんね。寄親寄子となると、その秀貞に「荒子の前田与十郎」が付属している形跡が『信長公記』に見られるくらいだったでしょうか。
かえって桶狭間直後三河統一戦過程の徳川家の方が寄親寄子制を鮮明に導入していますね。

東西両頭制?
桐野
橋場殿下

徳川氏のばあい、桶狭間後に寄親寄子制の展開が見て取れるのですね。

記憶が定かではありませんが、三河国を東西に分け、一方を酒井忠次が、他方を石川家成(数正だったか)が受け持つというのがそれにあたるのでしょうか?




備後守家の場合
かわい
 そもそも自分の家が大和守家から寄子を託される寄親の立場ですから、自分の被官の寄親化は部分的にしか進んでいないのではないでしょうか。

なるほど
桐野
かわいさん、こんばんは。

備後守家じたいが大和守家の寄親だったというのは面白い考え方ですね。
林や平手などの家も、もとから備後守家の根本被官だったんですかね? 何となく独立性の強い国人にも見え、信秀の代に傘下に入ったようにも見えますが。




板倉丈浩
桐野さん、こんばんは。

>「桶狭間合戦記」といえば、参謀本部の「迂回奇襲」説の典拠となった史料ですね。

参謀本部説は『桶狭間合戦記』のルートから中島砦を大胆にカットするなど、ほとんど独自説といってもよいもので、軍事的合理性からはよく考えられたものだと思いますが、史学的には問題有りまくりですね(笑)

>乱取説よりも、まだ説得力があるように思うのは私だけでしょうか。

いえいえ。私もそう思います。

>まあ、江戸後期の成立ですし、どこまで信じていいのやらという面もあるので

『桶狭間合戦記』については、史料というよりは研究書、文献に近いですね。
ただ、原本は江戸前期の山澄英竜によって書かれたもので、また、生存者や古老からの聞き取りや熱田の加藤家の記録などが多数含まれており、こういった地元密着の情報は貴重だと思います。
先に引用した以外では、信長の馬を引いたという「大老人」の「信長の御馬を山へ乗上げ乗り下ろしし給ふなどといふより外、別事なし」という証言が興味深いです。
これによると、信長本隊は山を上り下りするなど、難渋な行軍をしたようなんですよね・・・。

なお、織田家の寄親寄子制については、越前支配における柴田勝家・前田利家の関係で見ると、軍事的指揮系統の面ではその残存が認められるものの、寄親による訴訟取次の慣行は否定されており、寄親寄子制は解体の方向にあったとされています(岩澤愿彦『前田利家』)。

桶狭間合戦の時点ではどうだったかについてはよくわかりませんが、この時期の織田軍の強さは信長直属の馬廻衆(数百人)の機動力・戦闘力に負っていた部分が大きかったのではないでしょうか。
清洲城での軍議とか佐々・千秋の抜け駆けとかを見る限り、信長の統制力が行き渡っていたとは言い難いですからね・・・。


桶狭間合戦記
桐野
板倉さん、こんにちは。

『桶狭間合戦記』の原典が近世前期まで遡るとなると、『三河物語』と遜色ないわけで、本来は無視できない史料になるはずですが、参謀本部が変な使い方をしたために、同書まで葬り去られたことになりますね。

藤本説が近年、学界で受け容れられつつありますが、それは参謀本部の迂回奇襲説だけでなく、『桶狭間合戦記』まで否定した地点に構築された学説だということになります。
それで真相が解明されたのなら、何も言うことはありませんが、果たして解明されたといえるでしょうかね。

織田氏の寄親寄子制について、岩澤愿彦説のご紹介を有難うございます。

佐久間信盛が本願寺合戦の頃、8カ国だったかに与力を抱えていたことが、信長折檻状に見えますが、あれって、寄親寄子制なんでしょうかね?

織田権力は領国拡大に伴い、寄親寄子制では対応できなくなり、分国分郡ごと、いわば国郡支配に移行したように思います。
ただ、ご指摘のように、訴訟などが分国大名の権限に担保されたかどうかは不透明ですね。

信長の強さが譜代旗本衆中心の編成にあった(そうせざるをえなかった)というのは、私も賛成です。それについて別論を書きました。

同感
橋場
『桶狭間合戦記』だけでなく、迂回奇襲説打破の為に否定もしくは無視されている史料は数多く存在しますね。その中には重大な内容を含むものがあるのですが。
そのあたり、まさにリアルタイムで目下の愚生のテーマとして日々格闘中です。

迂回奇襲説の史料
桐野
橋場殿下、こんばんは。

迂回奇襲説の典拠は「桶狭間合戦記」のほかにもありますか? 甫庵「信長記」も違うような気がします。

「松平記」が二手分進策を紹介して若干迂回奇襲を匂わせているようにも感じますが、明確に打ち出しているとも思えません。「笠寺の東の道」からだと、迂回になりますかね?

俗書と言われるものも含めて、改めて総ざらいしたほうがいいように思います。



笠寺の東
かわい
 たぶん赤塚合戦のときに三の山までの移動で信長が使ったらしい守山から南下する道ではないでしょうか。鳴海の北方に至る道ですから、熱田からの道と合流してしまいますね。

 藤本説は奇襲の定義を誤っているので、実は奇襲説の否定になっていません。小和田先生の正面奇襲説もややこしく考えすぎで、シンプルに考えても正面奇襲は十分成立します。
 この点、今川勢の状態に着目した黒田説は正鵠を射ている部分もあると思いますが、原因が乱取というのがちょっとね。

備後守家の寄子らしき人々
かわい
 流れが速いので書き忘れました(^_^;。
 『公記』首巻の「あづき坂」の記事でいえば、清須衆の那古野弥五郎はおそらく寄子でしょう。問題はこいつが交名のど真ん中に書かれていることで、その後をすべて清須衆(寄子)とすると、下方、佐々、赤川、山口などとは直接の被官関係はなかったことになります。

 ただ、勘十郎が家中(勘十郎家被官)の主だった侍をみな津々木蔵人の寄子にしたために、怒った柴田が信長に寝返ったという記事がありますから、林や平手なども含めて、おとな衆は寄親であったと考えてよいのかもしれません。

迂回奇襲
橋場
>桐野 様

「迂回奇襲」という明快な表現の史料は、勿論ありません。
また、愚生自身信長本人が迂回奇襲軍の中にいたとも考えておりません。
しかし、別働隊の存在と義元本陣後方からの攻撃が有った事はほぼ確実だろうと思っておりまして、その辺りは史料的にもある程度論証できるだろうと、今回入稿した「今川義元の東海道経済圏二十年戦争」(学研歴史群像向け)の続きとして準備中です。

「皆津々木に付けられ候」
橋場
>かわいさん
これは蒙を啓かれました。
なるほど、勘十郎に関するこの記述はまさに寄親寄子ですね。戦国大名論集「織田政権の研究」の中で奥野高広氏は「信長の軍隊組織は与力の制」としてやはり前田与十郎を例に挙げていますが、それだけの話でそれ以上解析は無く、前段の部分では「信秀の権力構造も直属家臣団と直轄領にある」、としています。
これはやはり守護代の奉行レベルの信秀段階では寄親でしかなかったものが、子の代になって勘十郎家にも寄親寄子制が導入できるほど発展した、と見るべきなのでしょうか。

側面か背面か
かわい
 の違いはあるかもしれませんが、私も正面への攻撃とは別に、別働部隊が存在していたと思っています。
 これについてはすでに歴群の拙稿「今川義元一代記」でも触れましたが、そのときは考証の大半を割愛しましたし、なにより『公記』首巻の記事の一部を故意に無視しましたから、橋場さんの御説を楽しみにしています。

 ところで信秀時代の寄子ですが、『公記』首巻の山口父子の記事に「備後守殿御目を懸けられ候処」とあるのは、寄子の被官化を示唆しているとはいえないでしょうか。
 また、虵池の記事では後半が佐々の逆心に話が切り替わりますが、これも信長の介入に佐々家中が反発したように見えなくもないわけで、被官と考えるには独立性がいささか強いように見えます。
 このあたり、どうとでも取れる部分ではありますが、天文・弘治期の信長の残存発給文書がかなり狭い範囲に限定されていることと併せると、考えさせられる情報ではあると思います。

別働隊
桐野
橋場殿下、かわいさん

信長軍に別働隊がいたというのが確実ならば、桶狭間合戦はまったく違った様相になりますね。
殿下の玉稿を楽しみにしております。

織田氏の寄親寄子制
桐野
かわいさん、こんにちは。

織田勘十郎(信勝)のお気に入り、津々木蔵人が新たに寄親に引き立てられたのではないかというご指摘、面白いですね。

同じく首巻に、守山の織田孫十郎(信次)を勘十郎勢と信長勢が攻める場面がありますが、このとき、勘十郎勢は柴田と津々木が大将だとあります。ご指摘の以前から、津々木は寄親だった可能性はないでしょうか? 同じ寄親でも、柴田の寄子が多かったのに、津々木のほうを増やした、あるいは柴田の寄子を津々木に配属させたので、柴田が不満をもって信長に寝返ったということでしょうかね。

織田氏というより、勘十郎家も独立した家中で、寄親が少なくとも、林秀貞・柴田勝家・津々木蔵人と3人いることになりますね。もしかすると、秀貞弟の美作も寄親だった可能性もないでしょうかね。

また、上記の守山城攻めのとき、佐久間右衛門(信盛)が信長に、孫十郎の家来のうち、角田新五・坂井喜左衛門が「惣別守山の両長なり」云々と進言しています。
となると、角田・坂井も孫十郎の寄親ということでしょうか?

いずれにしろ、信長が尾張統一の過程で、諸一門家を再編統合し、そのなかの有力者を改めて寄親にしたのかもしれませんね。

若衆津々木蔵人の地位
かわい
 ご指摘の通り、首巻に登場する津々木蔵人は、つねに柴田権六と併記されており、その地位の高さは「おとな」の柴田に比肩するものであったことをうかがい知ることができると思います。勘十郎の若衆とありますから、おそらく信長にとっての池田勝三郎みたいなものだろうと思いますが、それを早くから大将に引き上げているわけで、依怙贔屓もかなりのものだったといえそうですね。
 で、ご下問の件ですが、私も津々木は守山攻め時点から寄親だったと考えています。
 それぞれが抱えていた寄親は、信長が林佐渡、青山某、内藤勝介あたり、勘十郎家が柴田、佐久間、津々木、孫十郎家が角田、坂井といったところでしょうか。
 青山家は与三右衛門→藤六→与三と世代交代するうちに漸次寄親から脱落したのではないかと思います。藤六は内藤勝介とともに赤塚合戦の足軽衆の交名に見えますから、寄親といっても徒衆を付けられていたのではないかと。で、両人の名はその後に見えないので、赤塚で討死した三十騎に含まれていると想像してみたのですが……。
 ちなみに、孫十郎家中を引き継いだ安房守の謀殺に際し、角田が岩崎丹羽家を引き入れていますから、これを寄親寄子の関係と見ることは可能かもしれません。
 こうして見ると、寄親に見える家臣はけっこう多いですね。どうも原稿を修正する必要が出てきたようです。


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この記事へのコメント
仰せの通り、「乱取」なんて別に珍しくもありませんし、その隙を衝かれて大敗するようなチンケな指揮系統の軍勢な訳が無いのに、番組は「緻密な組織」と「乱取」の間で見事に論理破綻していましたね。
2007/07/12(Thu) 09:38 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
寄親寄子制
橋場殿下

まったく何のために作った番組なのかよくわかりませんね。
冒頭に今川義元の再評価、名誉回復といった趣旨を強調していましたが、それも看板倒れでした。
理由として挙げていたのは、せいぜい寄親寄子制だけでしたかね(今川仮名目録追加もあったけど形だけ)。
その寄親寄子制も極端に単純化して紹介してましたけど、寄子って百姓だけですかね。百姓といっても、上層の名主百姓や被官百姓だと思うし、寄親になれない小規模な領主だって寄子に編成されたはずではないでしょうか。
単純化は不正確と同義ではないと思いますが……。
2007/07/12(Thu) 19:18 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
乱取のターゲット
 番組は観なかったのですが、そもそもあのへんて乱取の対象になるような場所でしたっけ?
2007/07/12(Thu) 19:31 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
ターゲット
かわいさん、どうも。

そうなんです。
いつぞやの議論でも、あの一帯は丘陵地帯で田圃もありそうもないし、とても人口が多いとは思えません。2万5千の兵が乱取するには割に合わない地域だと思いますよ。

そもそも乱取は敵との遭遇の可能性が少ない状況で恩賞的に許可されるか、苅田・放火のように、意図的・戦術的な狙いでやるかのどちらかだと思います。
眼前に信長の主力がいるのに、それを無視して野放図にやるとは思えませんね。今川軍だって、最低限の軍法があったはずですから、それなりの統制が効いていたと思われますし、最前線で乱取なんかやっている場合じゃないと思うんですがね。

2007/07/12(Thu) 20:18 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
現地の状況
かわいさん、桐野さん、こんばんは。

さて、黒田説ですが私も同様な疑問を持っていました。
といいますのも、『桶狭間合戦記』に次のような記述があるからです。
「此時分ニハ有松村・落合村ハ有間敷也。大脇村の古老の咄ニ、其頃ハ此辺、皆野山・田畑にして今の往還もなし」
つまり、この時代は東海道(往還)が有松付近を通っていなかったので、村すらなかったということなんですね。
現地を知らない甲陽軍鑑の作者が、誤った伝聞をそのまま記事にしてしまったということではないかと。
甲陽軍鑑以外の史料に乱取の記述がないのも当然ですよね・・・。
2007/07/12(Thu) 21:08 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
近世東海道
板倉さん、こんばんは。

「桶狭間合戦記」といえば、参謀本部の「迂回奇襲」説の典拠となった史料ですね。
たしかに、ご紹介の記述がありました。田畑はあったけど、往還はない、慶長13年(1608)、伊奈備前守らの検地をきっかけに開け、近世東海道となったとありますね。
ただ、そうなると、この一帯の近世東海道はまったく人為的に作られたことになりますね。たしかに沓掛から善照寺へと向かう中世東海道(鎌倉往還)は遠回りですから、距離を短縮するために開発されたということになるのでしょうか?

余談ですが、藤本氏の正面攻撃説はまさにこの有松の谷筋の回廊を今川・織田両軍が正反対から進んできて激突したという構図になるわけですね。
もし同書のとおり、合戦当時に往還さえなかったら、今川の大軍がこの筋を通るとはまず考えられませんね。
一方、織田軍にとっては今川方に気づかれずに接近できたともいえそうで(だとすれば奇襲的要素があるのでは)、そうした未開の環境が幸いしたということになるのでしょうか? そうだとすれば、乱取説よりも、まだ説得力があるように思うのは私だけでしょうか。

でも、藤本説では同書は一刀両断で切り捨てられています(笑)。まあ、江戸後期の成立ですし、どこまで信じていいのやらという面もあるので致し方ないですが、それにしても、「按するに」という一節を掲げて、著者の考証が展開されています。それがまったく的はずれともいえない気もしますが……。
たとえば、佐久間信盛の所領が愛智郡山崎にあったから、山崎城を佐久間が守ったという解説など、まったくの作り話だともいえない気がしますが……。

「甲陽軍鑑」や「桶狭間合戦記」に厳密な史料批判を加えれば、使わない方がいいということなりそうですが、かといって、すべて切り捨ててよいのかといえば、そうでもない気がします。
一方で、桶狭間合戦で比較的史料批判に耐えうる史料は「信長公記」首巻や「三河物語」などだけですけど、これだと、史料不足で、結局、真相がわからないという隘路に陥ってしまいます。
厳密な史料批判も、痛し痒しといったところですね。

2007/07/12(Thu) 22:11 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
寄親寄子制で始まって、乱取急襲で終わったというなんとも奇妙な番組でしたね。

寄親寄子制という言出しには多少惹かれたんですが、つまるところ今川の影響ってあるんですか?
2007/07/13(Fri) 00:02 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
寄親寄子制
武藤 臼さん、こんばんは。

寄親寄子制は今川家だけの専売特許じゃないと思いますね。武田も北条も毛利も島津も程度の差こそあれ、あるいは名称こそ違え、寄親寄子制じゃないんですかね。

戦国大名にかなり普遍的な軍団編成方法だとすると、何らかの共通点があるということだと思います。

おそらく軍役や陣立をより合理的に組織しようと思えば、だいたい似たような編成方法をとらざるをえないんのではないでしょうか。

で、織田軍はどうなんでしょうね。
少なくとも桶狭間合戦のあった永禄初年頃までは、寄親寄子制がはっきりした形で成立しているように見えないような。林とか佐久間といった宿老クラスが大きな備えを率いているようには見えないのですが、どうなんでしょうね?

美濃平定後はある程度知行宛行の史料もあって、たとえば、西美濃三人衆クラスだと、与力の所領も一括して寄親に安堵しているようですけどね。
2007/07/13(Fri) 00:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
寄親寄子制2
織田家の場合、初期ですと林秀貞とかでも七百とかの小勢しか率いてませんね。寄親寄子となると、その秀貞に「荒子の前田与十郎」が付属している形跡が『信長公記』に見られるくらいだったでしょうか。
かえって桶狭間直後三河統一戦過程の徳川家の方が寄親寄子制を鮮明に導入していますね。
2007/07/13(Fri) 10:19 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
東西両頭制?
橋場殿下

徳川氏のばあい、桶狭間後に寄親寄子制の展開が見て取れるのですね。

記憶が定かではありませんが、三河国を東西に分け、一方を酒井忠次が、他方を石川家成(数正だったか)が受け持つというのがそれにあたるのでしょうか?


2007/07/13(Fri) 15:15 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
備後守家の場合
 そもそも自分の家が大和守家から寄子を託される寄親の立場ですから、自分の被官の寄親化は部分的にしか進んでいないのではないでしょうか。
2007/07/13(Fri) 17:29 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
なるほど
かわいさん、こんばんは。

備後守家じたいが大和守家の寄親だったというのは面白い考え方ですね。
林や平手などの家も、もとから備後守家の根本被官だったんですかね? 何となく独立性の強い国人にも見え、信秀の代に傘下に入ったようにも見えますが。

2007/07/13(Fri) 23:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野さん、こんばんは。

>「桶狭間合戦記」といえば、参謀本部の「迂回奇襲」説の典拠となった史料ですね。

参謀本部説は『桶狭間合戦記』のルートから中島砦を大胆にカットするなど、ほとんど独自説といってもよいもので、軍事的合理性からはよく考えられたものだと思いますが、史学的には問題有りまくりですね(笑)

>乱取説よりも、まだ説得力があるように思うのは私だけでしょうか。

いえいえ。私もそう思います。

>まあ、江戸後期の成立ですし、どこまで信じていいのやらという面もあるので

『桶狭間合戦記』については、史料というよりは研究書、文献に近いですね。
ただ、原本は江戸前期の山澄英竜によって書かれたもので、また、生存者や古老からの聞き取りや熱田の加藤家の記録などが多数含まれており、こういった地元密着の情報は貴重だと思います。
先に引用した以外では、信長の馬を引いたという「大老人」の「信長の御馬を山へ乗上げ乗り下ろしし給ふなどといふより外、別事なし」という証言が興味深いです。
これによると、信長本隊は山を上り下りするなど、難渋な行軍をしたようなんですよね・・・。

なお、織田家の寄親寄子制については、越前支配における柴田勝家・前田利家の関係で見ると、軍事的指揮系統の面ではその残存が認められるものの、寄親による訴訟取次の慣行は否定されており、寄親寄子制は解体の方向にあったとされています(岩澤愿彦『前田利家』)。

桶狭間合戦の時点ではどうだったかについてはよくわかりませんが、この時期の織田軍の強さは信長直属の馬廻衆(数百人)の機動力・戦闘力に負っていた部分が大きかったのではないでしょうか。
清洲城での軍議とか佐々・千秋の抜け駆けとかを見る限り、信長の統制力が行き渡っていたとは言い難いですからね・・・。
2007/07/14(Sat) 01:02 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
桶狭間合戦記
板倉さん、こんにちは。

『桶狭間合戦記』の原典が近世前期まで遡るとなると、『三河物語』と遜色ないわけで、本来は無視できない史料になるはずですが、参謀本部が変な使い方をしたために、同書まで葬り去られたことになりますね。

藤本説が近年、学界で受け容れられつつありますが、それは参謀本部の迂回奇襲説だけでなく、『桶狭間合戦記』まで否定した地点に構築された学説だということになります。
それで真相が解明されたのなら、何も言うことはありませんが、果たして解明されたといえるでしょうかね。

織田氏の寄親寄子制について、岩澤愿彦説のご紹介を有難うございます。

佐久間信盛が本願寺合戦の頃、8カ国だったかに与力を抱えていたことが、信長折檻状に見えますが、あれって、寄親寄子制なんでしょうかね?

織田権力は領国拡大に伴い、寄親寄子制では対応できなくなり、分国分郡ごと、いわば国郡支配に移行したように思います。
ただ、ご指摘のように、訴訟などが分国大名の権限に担保されたかどうかは不透明ですね。

信長の強さが譜代旗本衆中心の編成にあった(そうせざるをえなかった)というのは、私も賛成です。それについて別論を書きました。
2007/07/14(Sat) 17:59 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
同感
『桶狭間合戦記』だけでなく、迂回奇襲説打破の為に否定もしくは無視されている史料は数多く存在しますね。その中には重大な内容を含むものがあるのですが。
そのあたり、まさにリアルタイムで目下の愚生のテーマとして日々格闘中です。
2007/07/14(Sat) 19:05 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
迂回奇襲説の史料
橋場殿下、こんばんは。

迂回奇襲説の典拠は「桶狭間合戦記」のほかにもありますか? 甫庵「信長記」も違うような気がします。

「松平記」が二手分進策を紹介して若干迂回奇襲を匂わせているようにも感じますが、明確に打ち出しているとも思えません。「笠寺の東の道」からだと、迂回になりますかね?

俗書と言われるものも含めて、改めて総ざらいしたほうがいいように思います。

2007/07/14(Sat) 19:58 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
笠寺の東
 たぶん赤塚合戦のときに三の山までの移動で信長が使ったらしい守山から南下する道ではないでしょうか。鳴海の北方に至る道ですから、熱田からの道と合流してしまいますね。

 藤本説は奇襲の定義を誤っているので、実は奇襲説の否定になっていません。小和田先生の正面奇襲説もややこしく考えすぎで、シンプルに考えても正面奇襲は十分成立します。
 この点、今川勢の状態に着目した黒田説は正鵠を射ている部分もあると思いますが、原因が乱取というのがちょっとね。
2007/07/14(Sat) 21:03 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
備後守家の寄子らしき人々
 流れが速いので書き忘れました(^_^;。
 『公記』首巻の「あづき坂」の記事でいえば、清須衆の那古野弥五郎はおそらく寄子でしょう。問題はこいつが交名のど真ん中に書かれていることで、その後をすべて清須衆(寄子)とすると、下方、佐々、赤川、山口などとは直接の被官関係はなかったことになります。

 ただ、勘十郎が家中(勘十郎家被官)の主だった侍をみな津々木蔵人の寄子にしたために、怒った柴田が信長に寝返ったという記事がありますから、林や平手なども含めて、おとな衆は寄親であったと考えてよいのかもしれません。
2007/07/14(Sat) 21:51 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
迂回奇襲
>桐野 様

「迂回奇襲」という明快な表現の史料は、勿論ありません。
また、愚生自身信長本人が迂回奇襲軍の中にいたとも考えておりません。
しかし、別働隊の存在と義元本陣後方からの攻撃が有った事はほぼ確実だろうと思っておりまして、その辺りは史料的にもある程度論証できるだろうと、今回入稿した「今川義元の東海道経済圏二十年戦争」(学研歴史群像向け)の続きとして準備中です。
2007/07/14(Sat) 23:50 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
「皆津々木に付けられ候」
>かわいさん
これは蒙を啓かれました。
なるほど、勘十郎に関するこの記述はまさに寄親寄子ですね。戦国大名論集「織田政権の研究」の中で奥野高広氏は「信長の軍隊組織は与力の制」としてやはり前田与十郎を例に挙げていますが、それだけの話でそれ以上解析は無く、前段の部分では「信秀の権力構造も直属家臣団と直轄領にある」、としています。
これはやはり守護代の奉行レベルの信秀段階では寄親でしかなかったものが、子の代になって勘十郎家にも寄親寄子制が導入できるほど発展した、と見るべきなのでしょうか。
2007/07/15(Sun) 00:19 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
側面か背面か
 の違いはあるかもしれませんが、私も正面への攻撃とは別に、別働部隊が存在していたと思っています。
 これについてはすでに歴群の拙稿「今川義元一代記」でも触れましたが、そのときは考証の大半を割愛しましたし、なにより『公記』首巻の記事の一部を故意に無視しましたから、橋場さんの御説を楽しみにしています。

 ところで信秀時代の寄子ですが、『公記』首巻の山口父子の記事に「備後守殿御目を懸けられ候処」とあるのは、寄子の被官化を示唆しているとはいえないでしょうか。
 また、虵池の記事では後半が佐々の逆心に話が切り替わりますが、これも信長の介入に佐々家中が反発したように見えなくもないわけで、被官と考えるには独立性がいささか強いように見えます。
 このあたり、どうとでも取れる部分ではありますが、天文・弘治期の信長の残存発給文書がかなり狭い範囲に限定されていることと併せると、考えさせられる情報ではあると思います。
2007/07/15(Sun) 03:02 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
別働隊
橋場殿下、かわいさん

信長軍に別働隊がいたというのが確実ならば、桶狭間合戦はまったく違った様相になりますね。
殿下の玉稿を楽しみにしております。
2007/07/15(Sun) 17:11 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
織田氏の寄親寄子制
かわいさん、こんにちは。

織田勘十郎(信勝)のお気に入り、津々木蔵人が新たに寄親に引き立てられたのではないかというご指摘、面白いですね。

同じく首巻に、守山の織田孫十郎(信次)を勘十郎勢と信長勢が攻める場面がありますが、このとき、勘十郎勢は柴田と津々木が大将だとあります。ご指摘の以前から、津々木は寄親だった可能性はないでしょうか? 同じ寄親でも、柴田の寄子が多かったのに、津々木のほうを増やした、あるいは柴田の寄子を津々木に配属させたので、柴田が不満をもって信長に寝返ったということでしょうかね。

織田氏というより、勘十郎家も独立した家中で、寄親が少なくとも、林秀貞・柴田勝家・津々木蔵人と3人いることになりますね。もしかすると、秀貞弟の美作も寄親だった可能性もないでしょうかね。

また、上記の守山城攻めのとき、佐久間右衛門(信盛)が信長に、孫十郎の家来のうち、角田新五・坂井喜左衛門が「惣別守山の両長なり」云々と進言しています。
となると、角田・坂井も孫十郎の寄親ということでしょうか?

いずれにしろ、信長が尾張統一の過程で、諸一門家を再編統合し、そのなかの有力者を改めて寄親にしたのかもしれませんね。
2007/07/15(Sun) 17:22 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
若衆津々木蔵人の地位
 ご指摘の通り、首巻に登場する津々木蔵人は、つねに柴田権六と併記されており、その地位の高さは「おとな」の柴田に比肩するものであったことをうかがい知ることができると思います。勘十郎の若衆とありますから、おそらく信長にとっての池田勝三郎みたいなものだろうと思いますが、それを早くから大将に引き上げているわけで、依怙贔屓もかなりのものだったといえそうですね。
 で、ご下問の件ですが、私も津々木は守山攻め時点から寄親だったと考えています。
 それぞれが抱えていた寄親は、信長が林佐渡、青山某、内藤勝介あたり、勘十郎家が柴田、佐久間、津々木、孫十郎家が角田、坂井といったところでしょうか。
 青山家は与三右衛門→藤六→与三と世代交代するうちに漸次寄親から脱落したのではないかと思います。藤六は内藤勝介とともに赤塚合戦の足軽衆の交名に見えますから、寄親といっても徒衆を付けられていたのではないかと。で、両人の名はその後に見えないので、赤塚で討死した三十騎に含まれていると想像してみたのですが……。
 ちなみに、孫十郎家中を引き継いだ安房守の謀殺に際し、角田が岩崎丹羽家を引き入れていますから、これを寄親寄子の関係と見ることは可能かもしれません。
 こうして見ると、寄親に見える家臣はけっこう多いですね。どうも原稿を修正する必要が出てきたようです。
2007/07/16(Mon) 01:22 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
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歴史読本 2007年8月号 書き換えられた戦国合戦の謎 雑誌09617-8 審人
2007/07/22(Sun) 06:57:30 |  むとうすブログ
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