歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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紙屋敦之氏の研究ノートである。
前から探していたが、なかなか入手しにくかった。発行者である福岡大学七隈史学会のサイトにメールを送ったところ、在庫はすでになかったが、親切にも複写していただき、無料で郵送していただいた。まことに有難い。ご厚意に感謝します。

掲載誌:七隈史学会会報5号
発行年:1992年
発行者:福岡大学七隈史学会


梅北一揆は文禄の役が始まったとき、島津家の地頭だった梅北国兼らが出征の途中、肥後の佐敷城を奪って反乱を起こしたが、わずか数日にして鎮圧された事件である。朝鮮出兵中、唯一の反乱だといわれている。

梅北一揆の評価については、同じく紙屋氏の論文「梅北一揆の歴史的意義―朝鮮出兵時における一反乱―」(戦国大名論集16『島津氏の研究』所収、吉川弘文館)がほぼ定説化している。

紙屋氏は、従来、朝鮮出兵の軍役を拒否した反乱とされてきたのに対して、在地に対する支配権を否定されるのに不満をもった在地領主層の統一政権に対する反乱だと位置づけた。

表題の研究ノートは、上記論文を補強するために書かれたと思われる。
この論文で知ったことは、

1,梅北国兼がもと宮原刑部左衛門といい、薩摩国川辺郡加世田の宮原を本貫とする国人だったこと。のち、梅北宮内左衛門が戦死したのち、その養子となっている。

2,梅北一揆の起こる1年前の天正19年(1591)4月、川辺郡川辺の山の寺(宝福寺)で大野忠宗という川辺郡山田を知行する国人が斬られている。これは小規模な合戦だったかもしれない。誅したのはおそらく島津本宗家。とくに義久の意向だと思われる。

3,梅北一揆では梅北国兼に田尻但馬や東郷甚右衛門らが一味した。一揆後、討死した田尻但馬の叔父の荒尾嘉兵衛が妻子を引き連れ、知行地の市来から川辺の山の寺まで来たところを門前の一之瀬村でことごとく討たれたという。

4,梅北一揆を挟んで、その1年前に大野忠宗が義久の命で斬られ、一揆後、一揆の首謀者の一人、田尻但馬の一族縁者が斬られた。どちらも同じ川辺の山の寺だった。紙屋氏はこれを偶然ではないとし、山の寺が薩隅の国人たちから尊崇され、精神的紐帯になっていた寺であり、荒尾嘉兵衛らは大野忠宗の死に殉じたのではないかと指摘している。

5,紙屋氏によれば、梅北一揆の原因は朝鮮出兵というより、大野忠宗斬殺のほうにありそうだ。朝鮮出兵で軍役が強化されるのに伴い、国人の在地支配を否定する政策が遂行されたため、梅北らはそうした統一政権に従う島津氏の大名権力に反乱を起こさざるをえないほど追いつめられていたということであろうか。

薩隅の国人たちが信仰の聖地とした山の寺が果たしてどんな寺だったのか、とても興味を惹かれる。
短い研究ノートながら、いろいろ教わった。

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【2007/07/22 01:01】 | 戦国島津
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読んでみたいです。
くみ
自分の地元が梅北一揆に絡んでいるとは…
初めて知りました。

山寺は川辺の北部、大野氏の居城跡は実家の近くです。

地元の歴史、もう一度ちゃんと勉強しなくては。


桐野
くみさん、こんにちは。

そうなんです。くみさんの地元のほうと関係がありました。
宝福寺はいまも残っているのでしょうか。またいまでも「山の寺」と呼びますか?

大野忠宗という人物は興味深いですね。もともと薩州家の流れらしいですけど、義久の側近でした。
また養嗣子はのちに島津家久の家老となった樺山久高です。
加世田地頭をつとめるなど、かなり名門のはずですが、なぜ誅せられることになったのか、よくわかりませんね。





くみ
宝福寺は現在は残っていません。
でも、今でも山寺(やまんてら)と呼ばれています。

大野氏は一族悲惨な最期だったという話は
小さい頃から聞かされていましたが、
なぜそのようになったのかということに関しては
そういえば何も知らないな…と反省。
何か分かればご連絡します。

山の寺宝福寺、大野忠宗
ばんない
皆様お仕事中のこんな時間からこんにちは(^^;)

なかなか興味深い論文のご紹介ありがとうございます。是非私もタダでコピーを…怒られますね(汗)
紙屋氏は「梅北一揆=島津家への反乱」と考えておられるようですが、その説では籠城した場所が加藤清正領内の佐敷城なのが矛盾しているようには思われます。今回桐野さんがご紹介された小論では、その辺りの謎は解決されているのでしょうか。

大野忠宗の殺害について、「薩藩旧記雑録」所収の「諸氏系譜」や「本藩人物志」では理由不明としていますね。大野忠宗については拙HPでその娘について触れたことがあります(URL参照)

”山の寺”宝福寺がこんなところで絡んでいるのも興味深かったです。この寺はなかなかに曰く付きのお寺といいますか、この後、島津光久に誅殺される島津久章が一時期蟄居させられていた寺ですし、久章が殺害された清泉寺はこの山の寺の末寺だったといわれています。
また、島津家久(元「忠恒」の方)の家老であった三原重庸が同じ家老の島津久慶と対立し、幽閉されたのも確かここだったと記憶しています。



山の寺
桐野
ばんないさん、こんばんは。

山の寺は、島津久章も関係ありましたか。
三原重庸までとなると、一種の高野山的な役割でしょうかね。
大変興味が湧きましたので、また調べてみたいと思います。

梅北一揆の評価についても再検討する必要があるかも知れませんね。

期待しております
ばんない
>大変興味が湧きましたので、また調べてみたいと思います。
期待して待っております。

三原重庸が山の寺?に幽閉されたという話は確か「町田氏正統系図」に出てきます。三原重庸の娘が町田忠尚(島津家久の六男)の妻であり、三原が佐土原藩主に町田忠尚を据えようとした云々…という話であったと記憶しています。興味深かったのでコピーとってたはずなんですが、紛失したらしく見つかりません(涙)

ちなみにその町田忠尚を産んだ側室、梅北国兼の実家と同族と思われる宮原氏出身です(彼女も変死しているようです、URLご参照下さい。)

三原重庸
桐野
ばんないさん、こんにちは。

いつもディープな話題有難うございます。
「町田氏正統系譜」を見てみました。その巻三十あたり(412~423号)に、ご紹介の事件の顛末について史料がたくさん並んでいますね。
「謀書」とか「毒殺」とか物騒な言葉が並んでいます。佐土原家の二代目忠興がなくなって、その子万寿が幼少だったために、三原が野望を膨らませたようですね。自分の孫が大名になるかもしれないと、逸ったのでしょうか。

ただ、三原が幽閉された場所は山の寺だという記事は見つけられませんでした。ざっと見ただけなので、見落としている可能性があります。
その代わり、「罷重庸家老職囚諸霧島山華山寺」という一節がありました(538頁上段)。
霧島の華山寺といえば、霧島六所権現の別当寺ですね。
あるいは、幽閉先はこちらだったでしょうか?


三原重庸、陰謀す?
ばんない
>いつもディープな話題有難うございます。
今後はライトな話題を心がけようと思います。

…で、ディープな話題の続きになるのですが(汗)
その「町田氏正統系譜」に載っている「佐土原藩乗っ取り」事件ですが、うろ覚えの記憶に頼って考えると、次期佐土原藩主がいくら幼いとはいっても、(確かに本宗家の男子とはいえ)町田家に養子に出た忠尚が乗っ取りすることは、系譜関係から見てかなり無理があるのではないかと思われます。
とすると、
・この三原重庸の陰謀そのものがデマ
或いは
・娘が(他家に養子に出ていたとはいえ)藩主の息子の妻となったことで、三原重庸の頭が常識が吹っ飛ぶくらい浮かれてしまい、本当に陰謀を企てた
のどちらかと考えられますが…。
この後、三原追放の当事者である島津久慶が藩主・光久に左遷されることも考え会わせると、なんだか実際に佐土原藩乗っ取りの陰謀があったというより、薩摩藩内部の権力闘争が背景にあったような気がしてなりません。

さて、最初の話に戻りますが三原重庸の幽閉された寺ですが、何しろうろ覚えで書いているので、もしかしたら「山の寺」ではなく、ご指摘の霧島の寺だったかも知れません。混乱させてしまい、申し訳ございませんでした。

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コメント
この記事へのコメント
読んでみたいです。
自分の地元が梅北一揆に絡んでいるとは…
初めて知りました。

山寺は川辺の北部、大野氏の居城跡は実家の近くです。

地元の歴史、もう一度ちゃんと勉強しなくては。
2007/07/23(Mon) 12:33 | URL  | くみ #-[ 編集]
くみさん、こんにちは。

そうなんです。くみさんの地元のほうと関係がありました。
宝福寺はいまも残っているのでしょうか。またいまでも「山の寺」と呼びますか?

大野忠宗という人物は興味深いですね。もともと薩州家の流れらしいですけど、義久の側近でした。
また養嗣子はのちに島津家久の家老となった樺山久高です。
加世田地頭をつとめるなど、かなり名門のはずですが、なぜ誅せられることになったのか、よくわかりませんね。


2007/07/23(Mon) 15:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
宝福寺は現在は残っていません。
でも、今でも山寺(やまんてら)と呼ばれています。

大野氏は一族悲惨な最期だったという話は
小さい頃から聞かされていましたが、
なぜそのようになったのかということに関しては
そういえば何も知らないな…と反省。
何か分かればご連絡します。
2007/07/23(Mon) 18:18 | URL  | くみ #-[ 編集]
山の寺宝福寺、大野忠宗
皆様お仕事中のこんな時間からこんにちは(^^;)

なかなか興味深い論文のご紹介ありがとうございます。是非私もタダでコピーを…怒られますね(汗)
紙屋氏は「梅北一揆=島津家への反乱」と考えておられるようですが、その説では籠城した場所が加藤清正領内の佐敷城なのが矛盾しているようには思われます。今回桐野さんがご紹介された小論では、その辺りの謎は解決されているのでしょうか。

大野忠宗の殺害について、「薩藩旧記雑録」所収の「諸氏系譜」や「本藩人物志」では理由不明としていますね。大野忠宗については拙HPでその娘について触れたことがあります(URL参照)

”山の寺”宝福寺がこんなところで絡んでいるのも興味深かったです。この寺はなかなかに曰く付きのお寺といいますか、この後、島津光久に誅殺される島津久章が一時期蟄居させられていた寺ですし、久章が殺害された清泉寺はこの山の寺の末寺だったといわれています。
また、島津家久(元「忠恒」の方)の家老であった三原重庸が同じ家老の島津久慶と対立し、幽閉されたのも確かここだったと記憶しています。

2007/07/24(Tue) 13:29 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
山の寺
ばんないさん、こんばんは。

山の寺は、島津久章も関係ありましたか。
三原重庸までとなると、一種の高野山的な役割でしょうかね。
大変興味が湧きましたので、また調べてみたいと思います。

梅北一揆の評価についても再検討する必要があるかも知れませんね。
2007/07/24(Tue) 23:09 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
期待しております
>大変興味が湧きましたので、また調べてみたいと思います。
期待して待っております。

三原重庸が山の寺?に幽閉されたという話は確か「町田氏正統系図」に出てきます。三原重庸の娘が町田忠尚(島津家久の六男)の妻であり、三原が佐土原藩主に町田忠尚を据えようとした云々…という話であったと記憶しています。興味深かったのでコピーとってたはずなんですが、紛失したらしく見つかりません(涙)

ちなみにその町田忠尚を産んだ側室、梅北国兼の実家と同族と思われる宮原氏出身です(彼女も変死しているようです、URLご参照下さい。)
2007/07/29(Sun) 00:29 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
三原重庸
ばんないさん、こんにちは。

いつもディープな話題有難うございます。
「町田氏正統系譜」を見てみました。その巻三十あたり(412~423号)に、ご紹介の事件の顛末について史料がたくさん並んでいますね。
「謀書」とか「毒殺」とか物騒な言葉が並んでいます。佐土原家の二代目忠興がなくなって、その子万寿が幼少だったために、三原が野望を膨らませたようですね。自分の孫が大名になるかもしれないと、逸ったのでしょうか。

ただ、三原が幽閉された場所は山の寺だという記事は見つけられませんでした。ざっと見ただけなので、見落としている可能性があります。
その代わり、「罷重庸家老職囚諸霧島山華山寺」という一節がありました(538頁上段)。
霧島の華山寺といえば、霧島六所権現の別当寺ですね。
あるいは、幽閉先はこちらだったでしょうか?
2007/07/30(Mon) 19:02 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
三原重庸、陰謀す?
>いつもディープな話題有難うございます。
今後はライトな話題を心がけようと思います。

…で、ディープな話題の続きになるのですが(汗)
その「町田氏正統系譜」に載っている「佐土原藩乗っ取り」事件ですが、うろ覚えの記憶に頼って考えると、次期佐土原藩主がいくら幼いとはいっても、(確かに本宗家の男子とはいえ)町田家に養子に出た忠尚が乗っ取りすることは、系譜関係から見てかなり無理があるのではないかと思われます。
とすると、
・この三原重庸の陰謀そのものがデマ
或いは
・娘が(他家に養子に出ていたとはいえ)藩主の息子の妻となったことで、三原重庸の頭が常識が吹っ飛ぶくらい浮かれてしまい、本当に陰謀を企てた
のどちらかと考えられますが…。
この後、三原追放の当事者である島津久慶が藩主・光久に左遷されることも考え会わせると、なんだか実際に佐土原藩乗っ取りの陰謀があったというより、薩摩藩内部の権力闘争が背景にあったような気がしてなりません。

さて、最初の話に戻りますが三原重庸の幽閉された寺ですが、何しろうろ覚えで書いているので、もしかしたら「山の寺」ではなく、ご指摘の霧島の寺だったかも知れません。混乱させてしまい、申し訳ございませんでした。
2007/08/01(Wed) 23:24 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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