歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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W大学のK先生のゼミ、先日、前期が終了だった。
せっかく受講させてもらっているのに、このところとみに多忙で、隔週しか行けなかった。

まだ日記の最初、天正2年(1574)をやっている。
牛歩のような進行だが、その分、中身が濃い。担当の院生のみなさん、とても充実したレジュメを作ってこられる。

川辺、麑(鹿籠)、藺牟田、牛根など、鹿児島特有の地名が頻出。
人名も、伊地知重秀、川上久隅、平田宮内少輔、伊集院久治などが多彩な人物が登場。

とくに平田宮内少輔の人名比定について、『旧記雑録拾遺 諸家系図』、『君家累世御城代御家老記』などをもとに、平姓平田氏の系図復元にまでチャレンジされていて、感嘆した。
平田氏は代々、老中を出す名門だったが、義久から忠恒への代替わりで、嫡流の平田増宗が粛清されてしまい、系図の復元はなかなか難しい面があるだけに、意欲的な研究だった。

個人的には、川上久隅が義久から藺牟田地頭を勤めるよう命じられたのに対して、「御名字」を理由に詫言をいって辞退している一節が面白かった。
地頭は、島津本宗家の根本被官が任ぜられる役で、島津氏の異字分家である川上氏が勤めるのは家柄無視だと、久隅が抵抗しているわけである。
これは分家や外様国人の独立性を削り取ろうという義久の政策の一環ではないかと思えた。

川上久隅はこの後、大した働きをしていないし、地位も禄高もさほど上昇したとは思えない。
一方、同族の川上久朗流が引き立てられて、その後、勢力が増大しているように見える。

ゼミ終了後、他大学の院生による報告もあった。
後北条氏と豊臣政権の交渉における北条氏規の役割についてである。氏規が酒井忠次に宛てた書状の年次が議論の焦点だったように思う。他大学からの他流試合である。後北条氏を専門とするK先生だからだろう。M1とのことで、少し緊張されていたが、積極的な姿勢は好感がもてた。

その後、受講生のみなさんと前期終了の打ち上げ。
私より年配の院生の方と研究テーマについて雑談。最寄り駅から大学まで毎日徒歩で通っておられるとかで、大変元気で熱心な方である。少しは見習わないと。

また、韓国からの留学生も受講されていた。島津義弘に関心がおありのようで、とても驚く。「敵をよく知らないと……」と冗談めいて話されたのには爆笑。何と言っても「鬼石曼子」だから。何か手伝えたらよいが。
研究以外に、向こうの徴兵制や軍隊生活の話、韓流の話で盛り上がる。

みなさん、二次会に行かれたようだが、私は休肝のため、一次会で失礼した。とても、刺激的で楽しい一時だった。


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【2007/07/24 01:01】 | 戦国島津
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