歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第17回
―壮絶な武士道と愛の形―

連載コラムが更新されています。
右下リンク欄からご覧になれます。

今回はおそらく当連載でいちばん変わったテーマかもしれません。なかなか正面から取り扱われる話題ではないからです。

分量の関係でコラムだけでは書ききれなかった点を補足しておきます。

私はこの問題は近世薩摩の郷中教育の成立との関係で、もう少し掘り下げられてもよいのではと思っております。

この方面の名著といわれる、氏家幹人『武士道とエロス』(講談社現代新書)では、武士道と衆道が密接な関係にあったことが明らかにされています。
とくに薩摩関係の話題が多く、平田三五郎の話や、拙コラムでも取りあげた明治中期の「稚児道」が薩摩の衆道の典型例として語られています。

ただ、こうした逸話を「衆道」のみを媒介項にして語るだけで十分なのかという点については、最近、少し疑問をもっております。
とくに「稚児道」や「稚児様」という美少年を二才たちが祭り上げる慣習は、薩摩の外城制との関係も考慮に入れるべきだろうと思い始めています。
美しい「稚児」が「主君」になぞらえられていたことの意味を掘り下げてもいいと思うのです。
またこの風習の成立に、おそらく山田昌厳が関わっているのではないかという感触もあります。

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【2007/07/28 17:52】 | さつま人国誌
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しずのおだまき
ばんない
また、特定の女性がよってたかって喜びそうなネタをテーマにされましたね(苦笑)

平田三五郎は桐野さんも挙げられた『本藩人物志』には「(平田)増宗の子というは誤れり(以下略)」とあり、系統不詳のようですね。しかし、あの新納忠元も挽歌を寄せたという人物ですから家老クラスの人物の息子の可能性も棄てきれないと思います。一方の吉田清盛は同じ『本藩人物志』をたどると曾祖母が島津善久の娘です。
さて、その二人に対して挽歌を寄せた新納忠元にも、そういう話が伝わってますね(もちろん庄内の乱の時ではなくて、もっと若いときです)。…忠元のイメージが崩れるので、関係者には余り知れ渡って欲しくない話かも知れませんが(苦笑)

庄内の乱の様相を伝える数少ない史料『庄内軍記』は『島津史料集』に所収されているので読んだことがあるのですが、やたらこの手の話を多く載せています。『庄内軍記』の成立は江戸時代中期とのことですが、衆道関係の話を大量に採用したのは何らかの関係があるのでしょうか。

閑話休題、本富安二郎が旧長岡藩士だったことを今まで知りませんでした。恥ずかしい。仇敵だった場所に仕事とはいえ赴任する心境はどんな物だったんでしょうか。今回のテーマから完全に逸脱しますが、ちょっと気になりました。

本富安四郎
桐野
ばんないさん、こんばんは。

平田三五郎といえば、一部同人誌系業界では、BLの象徴的人物かも知れませんね(笑)。

おそらくご存じでしょうが、「薩摩見聞記」は『日本庶民生活資料集成』第12巻(三一書房刊)に収録されています。
冒頭の解題を原口虎雄氏が書いています。それによれば、本富安四郎は、長岡藩士といっても、生年が慶応元年(1865)ですから、明治維新のときは3歳か4歳。長岡藩と政府軍の熾烈な戦いはほとんど記憶にないでしょうね。
東京英語学校を卒業して、宮之城の盈進高等尋常小学校に赴任したのは25歳のときです。翌年にはもう校長を拝命していますから、優秀だったのでしょう。高等尋常小学校でも、英語を教えていたのでしょうか?

「米百俵」の国から来た本富には、仇敵薩摩がどのように映ったのか興味がありますね。


山田昌厳
かじやちょう
かじやちょうです。

今週のさつま人国史はおもしろいテーマですね(笑)
山田昌厳との関連ですと、島原の乱後に彼が始めたといわれる「稚児請」でしょうね。稚児請は外城の郷中教育のために作られ、各外城にものですので、直接衆道には結びつかない気がします。もちろん時代が下って初期の目的がなくなるとわかりませんが(笑)

稚児請
桐野
かじやちょうさん、お久しぶりです。

ご指摘のとおり、稚児に日傘を差したり、他郷からの襲撃を阻止するための寝ずの番などは「稚児請」の現象だと思います。
これは稚児を主君に見立てるものですから、この稚児を衆道の対象にするのは畏れ多い行為になりますね。

ただ、薩摩藩の郷中教育は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくないですね。

稚児請
ばんない
みなさんこんばんは。
「稚児請」(ちごもうし)とは初めて聞く言葉で、取りあえず何がなにやら分からないので、安直にネット検索してみました(汗)。あまり情報がなかったのですが、比較的よく説明されているのが
http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/ihm3.htm
上のサイト(おそらく出水市のパンフレットか何かをコピーした物でしょうか)かと思われます。
この説明では留守を守っていた山田昌厳の跡継ぎがたまたま13歳と若かったことが「稚児請」の発祥と受け取れます。…留守を守っていた跡継ぎがもし昌厳の長男で壮年の男性だったら、その後の薩摩の郷中教育の様相は一変してたのかも知れませんね。

ところで、山田昌厳(有栄)は父・有信と共に勲功著しく、特に昌厳は当時薩摩藩の中でも異様な長命を保っていた長老だったこともあってか、家老になっていますが、その子孫では家老になった人物はいないらしい、ということを何かの本で見たことがあります。戦国の世が遠くなると共に功績が忘れ去られて、次第に冷遇されたのでしょうか。

ところで、「薩摩見聞記」の件、ありがとうございます。『日本庶民生活史料集成』に所収されていたとは存じませんでした。本富安次郎、お書きになられていた経歴を見ると、夏目漱石と似たところがありますね。最も漱石は更に抜擢されて国費留学でイギリスに行ったのがまずかった?最もその時の神経症のおかげで、大小説家・漱石が誕生したともいえますが。

三五郎塚
KK
平田三五郎の墓(三五郎塚)
平田三五郎は実在の人物で、墓は今でも子孫が墓参りしているそうです。財部町の史跡に指定されている。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う。
財部町の観光課によると、財部駅からタクシーで10分だそうです。(古井・こい)

JR日豊本線財部駅から、財部南郵便局がある馬立を目指す。馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った左前方、先の古井十字路まで行かない坂を手前で左にはいる。(東九州自動車道では 末吉財部IC)

http://www.mapion.co.jp/phonebook/M16006/46217/L0804350/
拡大とドラッグして動かせる。


御礼
桐野作人
KKさん

三五郎塚の紹介有難うございます。
行く機会があるかどうかわかりませんが、取り急ぎ御礼まで。

二才・郷中制度
KK
桐野さま
この男色の社会的制度ともなっている二才制度と・郷中制度は、出水が一番強固だったそうですね。また、一部に、明治以降、昭和まで残っていたと聞きましたが、どういう形か知りませんが何かご存知でしたら教えてください。

「賎のおだまき」
KK

「賎のおだまき」は国会図書館に蔵書されていますが、国会図書館デジタルライブラリー制度ができて、蔵書されている以下の3つの版がNetで見られるようになりました。
参考にアドレスをかいておきます。

国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
 http://www.ndl.go.jp/jp/data/endl.html

1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂,   明20.8


「賎のおだまき」
桐野作人
KKさん、こんにちは。

同書が国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できるというのは、小生も存じており、この本だけでなく、よく利用しております。
ご教示有難うございました。


kk
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。

明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3~4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。

今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。

昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。

全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。

寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。

そして、可愛い「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の全寮制旧制中学(男子・五年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。

(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002



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この記事へのコメント
しずのおだまき
また、特定の女性がよってたかって喜びそうなネタをテーマにされましたね(苦笑)

平田三五郎は桐野さんも挙げられた『本藩人物志』には「(平田)増宗の子というは誤れり(以下略)」とあり、系統不詳のようですね。しかし、あの新納忠元も挽歌を寄せたという人物ですから家老クラスの人物の息子の可能性も棄てきれないと思います。一方の吉田清盛は同じ『本藩人物志』をたどると曾祖母が島津善久の娘です。
さて、その二人に対して挽歌を寄せた新納忠元にも、そういう話が伝わってますね(もちろん庄内の乱の時ではなくて、もっと若いときです)。…忠元のイメージが崩れるので、関係者には余り知れ渡って欲しくない話かも知れませんが(苦笑)

庄内の乱の様相を伝える数少ない史料『庄内軍記』は『島津史料集』に所収されているので読んだことがあるのですが、やたらこの手の話を多く載せています。『庄内軍記』の成立は江戸時代中期とのことですが、衆道関係の話を大量に採用したのは何らかの関係があるのでしょうか。

閑話休題、本富安二郎が旧長岡藩士だったことを今まで知りませんでした。恥ずかしい。仇敵だった場所に仕事とはいえ赴任する心境はどんな物だったんでしょうか。今回のテーマから完全に逸脱しますが、ちょっと気になりました。
2007/07/29(Sun) 00:07 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
本富安四郎
ばんないさん、こんばんは。

平田三五郎といえば、一部同人誌系業界では、BLの象徴的人物かも知れませんね(笑)。

おそらくご存じでしょうが、「薩摩見聞記」は『日本庶民生活資料集成』第12巻(三一書房刊)に収録されています。
冒頭の解題を原口虎雄氏が書いています。それによれば、本富安四郎は、長岡藩士といっても、生年が慶応元年(1865)ですから、明治維新のときは3歳か4歳。長岡藩と政府軍の熾烈な戦いはほとんど記憶にないでしょうね。
東京英語学校を卒業して、宮之城の盈進高等尋常小学校に赴任したのは25歳のときです。翌年にはもう校長を拝命していますから、優秀だったのでしょう。高等尋常小学校でも、英語を教えていたのでしょうか?

「米百俵」の国から来た本富には、仇敵薩摩がどのように映ったのか興味がありますね。
2007/07/30(Mon) 21:49 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
山田昌厳
かじやちょうです。

今週のさつま人国史はおもしろいテーマですね(笑)
山田昌厳との関連ですと、島原の乱後に彼が始めたといわれる「稚児請」でしょうね。稚児請は外城の郷中教育のために作られ、各外城にものですので、直接衆道には結びつかない気がします。もちろん時代が下って初期の目的がなくなるとわかりませんが(笑)
2007/07/31(Tue) 22:17 | URL  | かじやちょう #-[ 編集]
稚児請
かじやちょうさん、お久しぶりです。

ご指摘のとおり、稚児に日傘を差したり、他郷からの襲撃を阻止するための寝ずの番などは「稚児請」の現象だと思います。
これは稚児を主君に見立てるものですから、この稚児を衆道の対象にするのは畏れ多い行為になりますね。

ただ、薩摩藩の郷中教育は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくないですね。
2007/08/01(Wed) 18:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
稚児請
みなさんこんばんは。
「稚児請」(ちごもうし)とは初めて聞く言葉で、取りあえず何がなにやら分からないので、安直にネット検索してみました(汗)。あまり情報がなかったのですが、比較的よく説明されているのが
http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/ihm3.htm
上のサイト(おそらく出水市のパンフレットか何かをコピーした物でしょうか)かと思われます。
この説明では留守を守っていた山田昌厳の跡継ぎがたまたま13歳と若かったことが「稚児請」の発祥と受け取れます。…留守を守っていた跡継ぎがもし昌厳の長男で壮年の男性だったら、その後の薩摩の郷中教育の様相は一変してたのかも知れませんね。

ところで、山田昌厳(有栄)は父・有信と共に勲功著しく、特に昌厳は当時薩摩藩の中でも異様な長命を保っていた長老だったこともあってか、家老になっていますが、その子孫では家老になった人物はいないらしい、ということを何かの本で見たことがあります。戦国の世が遠くなると共に功績が忘れ去られて、次第に冷遇されたのでしょうか。

ところで、「薩摩見聞記」の件、ありがとうございます。『日本庶民生活史料集成』に所収されていたとは存じませんでした。本富安次郎、お書きになられていた経歴を見ると、夏目漱石と似たところがありますね。最も漱石は更に抜擢されて国費留学でイギリスに行ったのがまずかった?最もその時の神経症のおかげで、大小説家・漱石が誕生したともいえますが。
2007/08/01(Wed) 23:07 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
三五郎塚
平田三五郎の墓(三五郎塚)
平田三五郎は実在の人物で、墓は今でも子孫が墓参りしているそうです。財部町の史跡に指定されている。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う。
財部町の観光課によると、財部駅からタクシーで10分だそうです。(古井・こい)

JR日豊本線財部駅から、財部南郵便局がある馬立を目指す。馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った左前方、先の古井十字路まで行かない坂を手前で左にはいる。(東九州自動車道では 末吉財部IC)

http://www.mapion.co.jp/phonebook/M16006/46217/L0804350/
拡大とドラッグして動かせる。
2008/07/16(Wed) 23:43 | URL  | KK #-[ 編集]
御礼
KKさん

三五郎塚の紹介有難うございます。
行く機会があるかどうかわかりませんが、取り急ぎ御礼まで。
2008/07/18(Fri) 13:57 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
二才・郷中制度
桐野さま
この男色の社会的制度ともなっている二才制度と・郷中制度は、出水が一番強固だったそうですね。また、一部に、明治以降、昭和まで残っていたと聞きましたが、どういう形か知りませんが何かご存知でしたら教えてください。
2008/09/04(Thu) 22:43 | URL  | KK #-[ 編集]
「賎のおだまき」

「賎のおだまき」は国会図書館に蔵書されていますが、国会図書館デジタルライブラリー制度ができて、蔵書されている以下の3つの版がNetで見られるようになりました。
参考にアドレスをかいておきます。

国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
 http://www.ndl.go.jp/jp/data/endl.html

1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂,   明20.8
2008/09/23(Tue) 22:29 | URL  | KK #-[ 編集]
「賎のおだまき」
KKさん、こんにちは。

同書が国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できるというのは、小生も存じており、この本だけでなく、よく利用しております。
ご教示有難うございました。
2008/09/24(Wed) 09:18 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。

明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3~4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。

今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。

昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。

全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。

寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。

そして、可愛い「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の全寮制旧制中学(男子・五年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。

(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002

2009/10/28(Wed) 19:58 | URL  | kk #-[ 編集]
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親の呼び方に違和感あり夏休み真っ最中のせいか、子供達の声が耳につきます。が、最近...
2007/08/30(Thu) 14:27:58 |  オモロにゅーす
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