歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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日経ベンチャー

経済誌『日経ベンチャー』8月号(日経BP社)に、表題の拙稿が掲載されました。ただ、この雑誌は定期購読が主で、書店売りはしていないようですね。

以下のような3部構成になっています。

1,豊臣家を裏切った忠臣たち
2,裏切りにあったとき、家康は……
3,大勝負を決した“凡人”の裏切り


今回は小説仕立てになっております。
関ヶ原の裏切りといえば、福島正則ら豊家恩顧の家康への帰順や小早川秀秋の日和見と裏切りが話題になりますが、2章で家康も裏切られたという視点を採用しました。家康の会津出陣は秀頼も承認した豊臣公儀の正式の軍役でしたが、政権の中枢にいる2大老と3奉行(三成を入れると4奉行)がこれに公然と背きました。家康も豊臣政権から裏切られたというわけです。

小説仕立ては久しぶりだったので、戸惑いが多く、何度も推敲しました。近年では珍しいです(苦笑)。

もしご覧になれる環境でしたら、読んでいただけると幸いです。

なお、近刊の雑誌やムックにも執筆しております。興味のある方はご一読下さい。

新・歴史群像⑨『本能寺の変』(学習研究社)
『歴史街道』9月号(PHP研究所)
別冊歴史読本『稀代の軍師 黒田如水と一族』(新人物往来社)

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【2007/07/31 00:40】 | 新刊
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新・歴史群像⑨『本能寺の変』
板倉丈浩
こんにちは。
表記の本、早速購入いたしました。「足利義昭推戴説」藤田達生氏の論考が興味深かったです。
気になったのが2点ありまして、ちょっとまとめますと、

(1)新史料「5月28日付け光秀書状写」の年次について

 この光秀書状は伯耆羽衣石城あてに送られたものであり、「委曲山田喜兵衛より演説あるべく候」は山田喜兵衛が使者として口上を述べることを意味している(副状の発給ではない)。
 一方、本能寺の変直後に出された西尾光教あて光秀書状には「委細山田喜兵衛尉申すべく候」とある。
 ゆえに、この文書の年次は天正10年とは考えにくい(3日間で約400kmの走破は不可能)。

(2)秀次の三好家養子入りの時期について

 1,(天正7年)11月25日付け「三好孫七郎殿」あて秀吉書状(福尾猛一郎氏所蔵文書)の存在
 2,良質な軍記物である『長元物語』や『南海通記』の記述
 3,三好家における秀次の実名「信吉」は信長からの偏諱と考えられる
 4,天正9年5月21日付け「宮部次兵衛尉吉継」書状(上坂文書)にある花押は、
   生涯変わらなかった秀次の花押と全く相違している(つまり宮部吉継と秀次は別人)

 以上のことから秀次の養子入りは本能寺の変以後であるとする見解は成立しない。

桐野さんや谷口さんの説を真っ向から否定しているようですが、どうでしょう?
特に、天正7年の秀吉書状は新出史料だと思いますが、年次がカッコ付きなのが気になるところです。


藤田説
桐野
板倉丈浩さん、こんにちは。

さっそくご購読されたようで(笑)。

(1)についてですが、「演説」だろうと「可申」だろうと、そんなに違わないと思いますよ。
たとえば、信長文書571号(天正3年10月25日付)の伊達輝宗宛て信長書状は、末尾が「猶使者可申候」となっています。
これは「使者」が副状を書くわけではなく、輝宗に直接伝えるわけですから、「可申」と「演説」の用法がはっきりと区別されているわけではありません。

また『小早川家文書之一』に足利義昭の御内書がいくつか収録されていますが、そのなかで「演説」文言が出てくるのを、とりあえず2点見つけました。

224号:永禄12年(1569)3月23日付
「委細聖護院門跡、国清寺可有演説候」

227号:元亀元年(1570)12月27日付
「委細聖護院門跡可有演説候也」

聖護院道澄が義昭の奏者をつとめているわけですが、門跡みずから備後まで出かけてじかに伝達したとは考えにくいのではないでしょうか。

ほかにも「演説」の用例はあると思いますが、「演説」も「可申」も奏者からの伝達という意味では、さして用法的に違いはないと思います。

付言すれば、この光秀書状の年次がいつであれ(個人的には天正10年だと思っていますが)、拙説にはまったく影響がありません。
私はたとえこれが天正10年でなかったとしても何ら困りませんが、藤田説は天正10年だと非常に困ることになりますね。

(2)について。
福尾猛一郎氏所蔵文書は未見です。できれば出典を書いてほしかったですね。
未見なので、何ともいえませんが、年次は大丈夫でしょうかね。天正7年とする根拠を知りたいものです。

あと、「三好孫七郎信吉」なる名乗りですが、素朴な疑問として、これは秀次と同一人物なのでしょうか?
次に「信吉」を信長の一字拝領としていますが、どうでしょうかね。
信長家臣団のなかで、「信」の一字を拝領した者はいないのでは。「長」は丹羽長秀などいますけど。
「信」は近衛信基、鷹司信房などの摂関家や、徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていないと思います。
それらの事例からいけば、秀吉の甥にすぎない秀次に「信」の一字を与えるというのは不自然ですね。

秀次の花押については、一貫して変化がなかったといえるのかどうか、個人的には要検討です。

秀次のこと
こんばんは、胡です。
新・歴史群像⑨『本能寺の変』を購入しました。
藤田氏の反論を読んだが、詳しくないので、納得できるかどうか、まだわからないんです。

さて、秀次が三好康長の養子になった時点については、諏訪勝則氏と小和田哲男氏は正反対の意見を著書で述べましたが、諏訪氏は史料検証によって、秀次が三好家に入る時間を本能寺の変の少し後だと考えられる。

一方、小和田氏は天正九年九月頃のことと考えられる。理由は「事変の後は、秀吉が康長を懐柔する必要がない」とか、「長元物語」の記事(秀吉が康長に加勢して渡海する)が天正九年のことだと考えるからです。

もし、桐野先生のおっしゃるとおりに、当時は信孝がすでに康長の養子になったら、なぜ信長が秀次を三好家に送ったか?

また、藤田氏の反論に、一つの重点は秀次が「信吉」を名乗ることです。「信」は信長からいただいたとすれば、秀次が康長の養子になったのは、本能寺の変前のことに間違いなかろう。



福尾猛一郎
ぴえーる
ではなく、福尾猛市郎の間違いだと思うのですが、そうであれば、山口県文書館が「福尾猛市郎収集文書」および「福尾猛市郎文書」、広島大学図書館が「福尾文庫」として古文書を所蔵しているようです。

秀次の養子入り
桐野
胡さん、こんばんは。

えっと、私は、信長が秀次を三好家に送ったとは申しておりません。
私の意見としては、秀次が三好家の養子になったのは本能寺の変のあとです。したがって、信長が送れるはずがありません。秀吉が三好康長との関係を強化するために養子縁組したと思います。

一方、藤田説のとおり、信長存命中に秀次が三好康長の養子になったとした場合、藤田説も信長が送り込んだとはとらえておらず、あくまで秀吉が主体だと思います。
どちらが送り込んだにしても、信孝が養子になったのに、秀次も養子になるのはちょっと変で、それは胡さんのご指摘のとおりだと思います。

また、信吉が信長からの一字拝領だとはなかなか考えづらいというのは、前回書いたとおりです。



福尾猛市郎
桐野
ぴえーるさん、こんばんは。

ご教示有難うございます。

どこかで聞いたことがある名前だと思って、東大史料編纂所のデータベースで検索してみましたが、ヒットしませんでした。
ご教示後、「~市~」で検索したら、いくつかヒットしました。吉川の人物叢書『大内義隆』を書かれた人でしたね。


秀次の名乗り
桐野先生のご返答を読ませていただきました。だが、秀次の名前に、質問がありますが...

先生の仰ったとおりに、「孫七郎信吉」と秀次は同一人物とは限らないんです。ならば、その孫七郎信吉は宮部次兵衛吉継(秀次)とは別人という可能性がある。

しかし、小和田氏によれば、その「孫七郎信吉」は天正十一年に香西又一郎という者に知行状を与えた(PHP新書「豊臣秀次」)。もしこの信吉は秀次ではなく、やっはり三好一族の誰かだったら(三好式部少輔?)、天正十一年という時点には三好家に二人の「孫七郎」がいるのではないか。

その時、信孝はすでに織田三七郎を名乗って、三好康長の養子ではなかった。孫七郎信吉は孫七郎(ずっと「吉継」を名乗ってるか?)とともに三好康長の養子で、義兄弟の間柄であろう。



間違えました
先の返事は「信長が秀次を三好家に送り込みました」というわけではなく、「なぜ信長は秀次が三好の養子になることを黙認したのか」という意味です。どうもすみませんでした。<(_ _)>

三好孫七郎信吉
桐野
胡さん、こんばんは。

天正11年(1583)7月26日、三好孫七郎信吉が香西又一郎に知行宛行状(100石)を出している件について。
藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年)によれば、翌12年8月28日、秀次の署名で香西にさらに加増の知行宛行状(200石)を出しています。
ですから、信吉=秀次と見てよいでしょうね。

ただ、藤田氏は信長時代の秀次についてほとんど触れておらず、信吉から秀次への改名時期についても言及がありません。ただ、三好名字から羽柴名字へと変わったのは、天正12年夏頃だとしています。

信吉名での香西への知行宛行は、諏訪勝則氏の説の範囲内ですね。格別不思議ではありません。
問題はやはり、秀次がいつ三好信吉と名乗ったのかという点に絞られるでしょうね。

藤田説では天正7年とのことですが、果たしてどうなのか。
これが成立するためには、天正9年の宮部次兵衛尉吉継が秀次ではないことを立証する必要がありますが、藤田説では、上記三好信吉の文書の存在を根拠にしており、それで立証したことになるのか、個人的には疑問です。

谷口克広氏の指摘によれば、『惟任謀反記』に宮部次兵衛尉の名前が山崎合戦後の明智方残党の掃討戦に出てきます。これは明らかに羽柴軍の一員であり、秀次以外には考えにくいですけどね。

それからしばらくして(天正10年10月までに)、宮部次兵衛尉吉継が三好孫七郎信吉と名乗りを変えたという理解も成立するのではないかと思います。

その場合、「信」は信孝からの一字拝領の可能性もないとはいえません。もともと信孝が三好康長の養子になったわけですから、縁組み解消と秀次の養子入りにあたって、信孝の承認のあかしとしての一字授与だったとも考えられます。
それは同時に、秀吉と信孝の一時的な協調関係を意味したのではないでしょうか。




織田信孝
桐野先生、お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

信孝と言えば、谷口氏の言うとおりに、彼は四国政策で積極的に参与し、一国一城の主になりたいようですね。そうすれば、明智光秀と斎藤利三にとって、信孝は尤も危険な存在といえる。ですから、彼ら(または利三)は信孝を止めなきゃならないんです。(本能寺の変)これは偶然ではなく、おそらく明智らの一つの狙いだろうか。

Re:藤田説
板倉丈浩
こんばんは。相変わらずの丁寧な御回答ありがとうございます。

>信長文書571号(天正3年10月25日付)の伊達輝宗宛て信長書状は、末尾が「猶使者可申候」となっています。

なるほど。「可申候」は使者が口上を述べる場合にも使われるようですね。

>聖護院道澄が義昭の奏者をつとめているわけですが、門跡みずから備後まで出かけてじかに伝達したとは考えにくいのではないでしょうか。

聖護院門跡については、道澄の前代の道増は外交僧として活躍していますね。
永禄3年の毛利・尼子の和平調停では実際に安芸に下向しており、そのときの御内書では「聖護院門跡可有演説候」の用例が確認できます。道増は毛利元就に直接会って幕府の内意を伝達する役割を担っていたようです。
(参考文献:宮本義己『足利将軍義輝の芸・雲和平調停』(國學院大学院紀要6,1974)など)

>福尾猛一郎氏所蔵文書

あれ?私が間違えたかなと見直したのですが、やはり「猛一郎」ですね。
学研さんのミスでしょうか(笑)
あれから三鬼清一郎氏『豊臣秀吉文書目録』をめくってみましたが、年代未詳の文書にそれらしきものがありました。

5.25 筑前守秀吉(花押)→三好孫七郎 兵庫城三田城両城・・・[福尾猛市郎氏所蔵文書]

内容的にはこれ↓みたいですね。
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/honmatisi/hon_09.html
三木城攻め関連文書なので天正7年だということなんでしょうか。

>「信」は(中略)徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていない
>秀吉の甥にすぎない秀次に「信」の一字を与えるというのは不自然

まあ、三好家はかつては幕府相伴衆もつとめた家柄であり、落ちぶれたりとはいえ南河内を領有していますし、秀次がその後継者だとすれば、「信」の字を拝領してもおかしくはないと思います。

まあ、この(1)(2)の指摘が妥当だとしても、私も藤田説には基本的に賛成できないのですが・・・(^^;


三木城攻め?
桐野
板倉さん、こんにちは。

例の文書の紹介有難うございます。
さて、これだけで天正7年と判断していいんでしょうかね。
たとえば、「塩儀」を摂津の国衆、塩河長満に比定しています(それ自体も要検討かもしれません)。仮にそうであれば、天正7年段階の秀吉に摂津国衆への軍事指揮権があるとは思えません。指揮系統が違いますからね。

むしろ、本能寺の変後というか賤ヶ岳の戦い後、秀吉の覇権が固まりつつあり、摂津の統轄者だった池田恒興が秀吉に服属した時期のものだと想定することも可能ではないでしょうか。

賤ヶ岳の合戦ののち、池田恒興父子は摂津から美濃大垣に転封になっています。
三田城はよくわかりませんが、兵庫城は明らかに恒興の持ち城で、恒興転封後、秀吉の直轄領になっています。秀吉の代理として秀次が城の受け取りに行ったとしてもおかしくありません。
天正11年も有力だと思います。


三木城孤立作戦
板倉丈浩
桐野さん、こんばんは。

>これだけで天正7年と判断していいんでしょうかね。

天正7年5月といえば、ちょうどその頃、秀吉は毛利氏による三木城支援を遮断するため、秀長に淡河城を攻撃させているんですよね。
ですから、三木城を孤立させるため、秀長と並ぶ有力な一族武将である秀次を起用して、兵庫と三田を押さえさせるという作戦は、十分あり得るのかなあと、そう思いました。
年次については私も自信はありませんので、藤田氏の見解が気になるところです。ただ、

>天正7年段階の秀吉に摂津国衆への軍事指揮権があるとは思えません。

天正7年頃に摂津三田城を開城して、その後は秀吉に従った荒木重堅の例もありますし、摂津国衆の一部が秀吉付きになることはあると思います。
ただ「塩儀」については、摂津の塩川氏ではない可能性もあります。
例えば、秀次家臣「若江七人衆」の中に、塩川喜左衛門という人がいますし、淡路の三好氏家臣・塩田氏の誰かかもしれません。

>秀吉の代理として秀次が城の受け取りに行ったとしてもおかしくありません。
>天正11年も有力だと思います。

天正11年もありうると思うのですが、三田は池田領ではなく、天正10年冬以降ずっと山崎氏の領地なので、これが受け取りの対象となっているのが解せないんですよね・・・。


5月25日
桐野
板倉さん、こんばんは。

話を前に戻すようで恐縮ですが、例の三好孫七郎宛て羽柴秀吉書状ですが、宛所には諱はありませんし、信吉かどうかわかりませんね。諱を信吉とする根拠は何なのでしょうか?

また日付の5月25日について。
『多聞院日記』天正11年5月25日条には、

「大坂ヲハ池田紀伊守(恒興)ヨリ筑州ヘ渡了、池田ハ濃州ヘ入了」

とあり、まさに日付が一致しますね。
大坂のことしか書かれていませんが、摂津国(の所領の一定部分)も国替の対象だったと考えてよいでしょうね。

この国替は、秀吉が大坂城を築く伏線でしょうね。

もっとも、谷口克広氏によれば、大坂は秀吉に渡したけども、摂津二郡は安堵されたとのこと。この二郡のなかに兵庫・三田両城が含まれているのか否か。

一方、『天正記』(柴田合戦記)には、賤ヶ岳合戦後の戦後処理として諸将の知行割が書かれていますが、そのなかに、

「摂州には三好孫七郎秀次」

とあり、秀次に摂津のどこかを与えていますね。例の秀吉書状と符合する面もあります。

また、同書は「惟任謀反記」段階では「宮部次兵衛尉」とし、「柴田合戦記」では「三好孫七郎秀次」と記しています。
同一人物だということを前提にしての話ですが、天正10年10月から三好孫七郎秀次の文書が出てくるという諏訪勝則氏の説とも符合する名乗り替えともいえます。

山崎秀家と三田城については、論評する材料を持ち合わせていません。



三好信吉と宮部次兵衛尉
板倉丈浩
こんばんは。たびたびのレス恐縮です。

>諱を信吉とする根拠は何なのでしょうか?

秀次発給文書で「信吉」とあるのは2点しかありません(天11.7.26、天12.6.21)。
ですから、それ以前の実名は不明としか言いようがないのですが、前に述べたような理由で、本能寺以前から「信吉」と名乗った可能性はあると考えています。
織田家を正式に継承したわけでもない信孝あたりが、織田家の通字「信」を与えるというのも不自然ですし・・・。

>また、同書は「惟任謀反記」段階では「宮部次兵衛尉」とし、「柴田合戦記」では「三好孫七郎秀次」と記しています。

『天正記』シリーズを読んだ印象なんですが、当時の通称と晩年の実名が組合わさった人名表記が多いのではないでしょうか。
例えば羽柴秀長は『惟任』では「羽柴小一郎秀長」、『柴田』では「羽柴美濃守秀長」と表記しています(当時の諱は「長秀」が正しい)。『柴田』には「浅野弥兵衛尉長政」(当時は「長吉」)という表記もありました。
ですから、早くから「秀次」であったかどうかは疑問です。

秀次が「次兵衛(二兵衛)」と呼ばれていたのは確実なのですが(『宇野』天13.9.3、『兼見』天13.10.6、『多聞院』天16.5.4など)、『惟任』の「宮部次兵衛尉」は果たして秀次なのかどうか。
別人だとすれば、田中吉政・山内一豊・堀尾吉晴らと共に秀次宿老となった「宮部肥前守」という武将がいますので、この人かもしれません。

>天正10年10月から三好孫七郎秀次の文書が出てくるという諏訪勝則氏の説

この説は未見なのですが、出典を御教示いただければ幸いです。

>山崎秀家と三田城については、論評する材料を持ち合わせていません。

私にとっては、実はここが一番引っかかっている点でして、この書状にあるのが兵庫・三田ではなく、兵庫・尼崎なら天正11年で決まりだと思うのですが・・・。



秀次の名乗り
板倉丈浩
すみません。自己レスです。
>この説は未見なのですが、

今、見つけました。
『関白秀次の文芸政策』(栃木史学9,1995)ですね。
天正10年6月24日、里村一門の連歌会で「秀次」という名が見られるようです。
ただ、これについては藤田恒春氏は「同名異人ではないだろうか」と指摘しています(『豊臣秀次の研究』P295)。
まあ、他の参加者がみんな道号なのに、一人だけ実名というのも不自然ですよねえ・・・。



諏訪勝則氏論文
桐野
板倉さん、こんばんは。

とりあえず即答出来ることを。

諏訪氏の論文はそれではなく、次のものです。

「織豊政権と三好康長―信孝・秀次の養子入りをめぐって―」 『戦国織豊期の政治と文化』米原正義先生古稀記念 続群書類従完成会 1993年

そのなかで、三好孫七郎の初出文書として紹介してあるのは、『浅野家文書』8号で、本願寺坊官の下間頼廉宛て羽柴秀吉書状で、日付は10月22日、年次は天正10年に比定してあります。
内容的には、清洲会議の結果を本願寺方に知らせるものですし、信長葬儀が行われたと書いてありますから、その年次でいいと思います。
そのなかに、根来衆の泉州知行問題について次のような一節があります。

「廿五日為先勢中村孫平次・伊藤掃部・筒井順慶・浅野弥兵衛・若江三人衆・三好孫七郎・同山城守、其外人数差遣候」

諏訪氏はこれを三好孫七郎の初出だとしています。

また翌11年になっての『宗及自会記』10月6日条の記事も気になります。

「筑州御おヰさま
  孫七郎殿  休夢  宮辺藤左衛門尉」

このなかの「孫七郎殿」はむろん秀次ですが、注目すべきは「宮辺藤左衛門尉」です。「宮辺」は「宮部」であり、宮部藤左衛門なら、『戦国人名事典』にも立項されております。
「(刑部少輔)土肥刑部少輔の子。母は宮部継潤の妹。土肥氏を称す」云々とあります。
藤左衛門は宮部継潤の甥にあたります。彼が秀次の側近として近侍していることは、秀次がかつて継潤の養子だったことを補強する事実です。秀次が三好家の養子に変わっても、側近として秀次に付いていったということでしょう。




藤田達生氏論文
板倉丈浩
こんにちは。
>諏訪氏の論文はそれではなく、次のものです。

大変失礼いたしました。御教示感謝いたしますm(_ _)m

>秀次がかつて継潤の養子だったことを補強する事実です。

私が言及した宮部肥前守もそうですが、田中吉政もかつて継潤の臣であるなど、秀次と宮部氏は親密な関係があったことは間違いなく、時期は確定できませんが、養子入りの話も信憑性が高そうです。

で、今頃になって何なんですが、例の「福尾猛市郎氏所蔵文書」について藤田達生氏が考察している論文が判明しました。

「織田信長の東瀬戸支配」(小山靖憲編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院,2006)

藤田氏は「五月」ではなく「十一月」と判読し、また「三田城」とあることから、天正11年ではなく天正7年ではないかと述べています。
かなり前に読んだはずなのに、すっかり忘れていました。。。


信長の偏諱の授与と牛一
磯部
桐野先生、こんにちは。
上記のコメント欄を拝見しまして、気になったことがございます。
先生は信長の偏諱の授与について、次のように、ご発言になっております。
「信長家臣団のなかで、「信」の一字を拝領した者はいないのでは。「長」は丹羽長秀などいますけど。
「信」は近衛信基、鷹司信房などの摂関家や、徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていないと思います。」(8月1日付け、「藤田説」)
そこで、お尋ねしたいのは、太田牛一が信長在世時代に「信」の字を実名の一字目に使っている理由です。
研究者の中には、信長から拝領したのではないか、とする意見が出されております。先生のご友人の和田様は『「信長記」の大研究』において、牛一の身分から上記の拝領説には疑問を抱き、太田家の通字であったのではないか、とする新説を発表されております。
ですが、太田家の通字であったとしても、主君に憚って、「信」の字を避けるのではないか、と思われます。
ご多忙中のところ、誠に恐縮に存じますが、牛一の件に関して、先生のお考えを、お教えいただきますれば、幸甚に存じます。


太田牛一
桐野
磯部さん、こんばんは。

太田牛一の諱「信定」についてですが、信長からの授与というのは考えにくいと思います。
やはり「信」の一字を授与されるには、牛一の身分が低いような気がします。

織田権力期、信長の諱と同じだからといって避けなければならないというほど敬避慣行が浸透していたとは思えません。
信長家臣でも「信」字を諱にもつ者は重臣クラスでもいます。佐久間信盛や水野信元などが思いつきますが、これは信長からの授与ではなく、それらの家の通字だろうと思います。また信長の諱と同じだからといって、敬避しているようにも見えません。

ただ、三好康長が途中から康慶と改名しているのは信長の一字「長」が下に附いているのを憚った可能性はありますね。これは下の字だったからで、上の字だったら改名したかどうか。

お答えになっていないかもしれませんが。


年次変更
桐野
板倉さん、こんばんは。

>「織田信長の東瀬戸支配」(小山靖憲編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院,2006)

この本は私ももっていました。
新出の羽柴秀吉宛て長宗我部元親書状の紹介があったことはよく覚えていたのですが、「福尾猛市郎氏所蔵文書」のほうは私もうっかりしていて忘れておりました。

でも、ご紹介の三好孫七郎宛て秀吉書状の写真を見るかぎり、日付の「五」をあえて「十一」と読む必要があるんですかね。「五」でもいいような気がします。
仮に「十一」だったとしても、天正11年ではなく、同7年の根拠になるでしょうか。

たとえば、三田城についてですが、『日本城郭大系』によれば、荒木平太夫重堅が築いて、車瀬城とも呼ばれたようです。
三田城に関しては、『信長公記』巻十一、十二月十一日条(角川版の263頁)に次のようにあります。

「有馬郡の御敵さんだの城へ差向ひ、道場河原・三本松二ヶ所足懸り拵へ、羽柴筑前守秀吉人数入置き」

「有馬郡の御敵」とは荒木村重一族だった荒木平太夫のことではないでしょうか。
つまり、12月11日段階ではまだ荒木方に属しており、秀吉は2カ所の付城を築いています。したがって、秀次が接収できる状況にはありません。


信長公記
板倉丈浩
桐野さん、こんばんは。
なかなか面白い文書ですよね。何で忘れちゃったんだろう・・・。
それはともかく、

>『信長公記』巻十一、十二月十一日条(角川版の263頁)

これは天正6年の記事ではないでしょうか?


勘違い
桐野
板倉さん、こんばんは。

信長公記の巻数を勘違いしておりました(爆)。
前言撤回です。

それはともかく、天正11年でもいいような気がしますけどね。板倉さんは三田城の一件がネックだとお考えのようですが。

三田の新旧の城主である山崎秀家と荒木重堅は、ともに天正10年終わりに転封を命じられています。

秀家は近江山崎→摂津三田
重堅は摂津三田→因幡若桜?

命令と実際の現地赴任にはタイムラグがあったと考えればいいような気もします。
それに現実性を与えていると思われるのは、天正11年初めの柴田勝家との緊張関係から賤ヶ岳合戦であり、近江山崎を領する秀家は地勢的に所替えできる情勢ではなく、しばらく転封は凍結されたため、賤ヶ岳合戦後にその手続きに入ったと考えることもできそうですけど。



タイムラグ
板倉丈浩
こんばんは。早速御訂正いただき恐縮です。

>しばらく転封は凍結されたため、賤ヶ岳合戦後にその手続きに入ったと考えることもできそうですけど。

ありえないことはないと思います。
ただ、転封凍結について傍証でもあればいいんですけどね・・・。
とりあえず私は現段階では、前述した見解に基づき、天正7年5月説をとります(笑)


お礼
磯部
桐野先生、こんばんは。
このたびは、ご多忙中のところ、ご返事を賜り、厚く御礼申し上げます。
牛一は秀吉の家臣になっていた天正17年には改名しています。「信定」の名(この解読には異論が出されていますが)が信長と関係ないのであれば、改名する必要があるのだろうかと疑問に思っていました。
しかも、牛一は「六人衆」として側近に仕えていた時期があります。
しかし、織田家臣団の名を見れば、先生がおっしゃるとおり、偏諱の授与とする解釈は成り立ちにくいというのが理解できました。
牛一の子、牛次の場合は秀次と関係があるとは思えませんし…。

秀次の年齢
桐野
板倉さん、こんにちは。

板倉さんは例の三好孫七郎宛て秀吉書状の年次を天正7年が妥当だとのこと。

ただ、秀次の生まれは永禄11年(1568)でして、天正7年には、まだ数え12歳です。
果たして元服していたのかどうかも怪しく、荒木村重方の城の接収という任務や「政道」云々を遂行できるだけの年齢に達していたかどうか、素朴な疑問があります。

私は、三田城の帰属がやや不明とはいえ、賤ヶ岳合戦前後の緊張状態を考えると、天正11年でもいい、少なくとも他の史料や秀次の年齢などとそれほど矛盾しないのではないかと思っています。
天正7年説は、天正9年の宮部次兵衛尉文書や『惟任謀反記』などとの食い違いなど、全体的な整合性に欠けているのではないかと思っています。

これ以上は議論が平行線だと思いますので、打ち止めにします。

打ち止め
板倉丈浩
とのこと。了解いたしました。
論点はほぼ出尽くした観がありますので、今後の研究に期待したいと思います。
(特に「宮部次兵衛尉」の花押がどの秀次文書とも全く異なるという藤田氏の指摘が気になっています・・・)

ここまで難しい質問に御回答いただき、ありがとうございました。


「黒田官兵衛の魅力-天下をねらった播磨の智将-」展
市野澤 永
こんばんわ。
黒田如水の企画展が開催中です。

姫路市立文学館
2011年度特別企画展
「黒田官兵衛の魅力-天下をねらった播磨の智将-」展
平成23年4月22日(金)~6月12日(日)
※図録は500円。送料は210円(切手でお願いしますとのこと)。

姫路市立文学館では秋には下記の企画も予定されています。
〈江〉の娘 千姫 展
平成23年10月7日(金)~11月27日(日)

千姫の企画展は珍しいですね。

姫路市立文学館
http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/

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この記事へのコメント
新・歴史群像⑨『本能寺の変』
こんにちは。
表記の本、早速購入いたしました。「足利義昭推戴説」藤田達生氏の論考が興味深かったです。
気になったのが2点ありまして、ちょっとまとめますと、

(1)新史料「5月28日付け光秀書状写」の年次について

 この光秀書状は伯耆羽衣石城あてに送られたものであり、「委曲山田喜兵衛より演説あるべく候」は山田喜兵衛が使者として口上を述べることを意味している(副状の発給ではない)。
 一方、本能寺の変直後に出された西尾光教あて光秀書状には「委細山田喜兵衛尉申すべく候」とある。
 ゆえに、この文書の年次は天正10年とは考えにくい(3日間で約400kmの走破は不可能)。

(2)秀次の三好家養子入りの時期について

 1,(天正7年)11月25日付け「三好孫七郎殿」あて秀吉書状(福尾猛一郎氏所蔵文書)の存在
 2,良質な軍記物である『長元物語』や『南海通記』の記述
 3,三好家における秀次の実名「信吉」は信長からの偏諱と考えられる
 4,天正9年5月21日付け「宮部次兵衛尉吉継」書状(上坂文書)にある花押は、
   生涯変わらなかった秀次の花押と全く相違している(つまり宮部吉継と秀次は別人)

 以上のことから秀次の養子入りは本能寺の変以後であるとする見解は成立しない。

桐野さんや谷口さんの説を真っ向から否定しているようですが、どうでしょう?
特に、天正7年の秀吉書状は新出史料だと思いますが、年次がカッコ付きなのが気になるところです。
2007/08/01(Wed) 08:06 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
藤田説
板倉丈浩さん、こんにちは。

さっそくご購読されたようで(笑)。

(1)についてですが、「演説」だろうと「可申」だろうと、そんなに違わないと思いますよ。
たとえば、信長文書571号(天正3年10月25日付)の伊達輝宗宛て信長書状は、末尾が「猶使者可申候」となっています。
これは「使者」が副状を書くわけではなく、輝宗に直接伝えるわけですから、「可申」と「演説」の用法がはっきりと区別されているわけではありません。

また『小早川家文書之一』に足利義昭の御内書がいくつか収録されていますが、そのなかで「演説」文言が出てくるのを、とりあえず2点見つけました。

224号:永禄12年(1569)3月23日付
「委細聖護院門跡、国清寺可有演説候」

227号:元亀元年(1570)12月27日付
「委細聖護院門跡可有演説候也」

聖護院道澄が義昭の奏者をつとめているわけですが、門跡みずから備後まで出かけてじかに伝達したとは考えにくいのではないでしょうか。

ほかにも「演説」の用例はあると思いますが、「演説」も「可申」も奏者からの伝達という意味では、さして用法的に違いはないと思います。

付言すれば、この光秀書状の年次がいつであれ(個人的には天正10年だと思っていますが)、拙説にはまったく影響がありません。
私はたとえこれが天正10年でなかったとしても何ら困りませんが、藤田説は天正10年だと非常に困ることになりますね。

(2)について。
福尾猛一郎氏所蔵文書は未見です。できれば出典を書いてほしかったですね。
未見なので、何ともいえませんが、年次は大丈夫でしょうかね。天正7年とする根拠を知りたいものです。

あと、「三好孫七郎信吉」なる名乗りですが、素朴な疑問として、これは秀次と同一人物なのでしょうか?
次に「信吉」を信長の一字拝領としていますが、どうでしょうかね。
信長家臣団のなかで、「信」の一字を拝領した者はいないのでは。「長」は丹羽長秀などいますけど。
「信」は近衛信基、鷹司信房などの摂関家や、徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていないと思います。
それらの事例からいけば、秀吉の甥にすぎない秀次に「信」の一字を与えるというのは不自然ですね。

秀次の花押については、一貫して変化がなかったといえるのかどうか、個人的には要検討です。
2007/08/01(Wed) 21:19 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
秀次のこと
こんばんは、胡です。
新・歴史群像⑨『本能寺の変』を購入しました。
藤田氏の反論を読んだが、詳しくないので、納得できるかどうか、まだわからないんです。

さて、秀次が三好康長の養子になった時点については、諏訪勝則氏と小和田哲男氏は正反対の意見を著書で述べましたが、諏訪氏は史料検証によって、秀次が三好家に入る時間を本能寺の変の少し後だと考えられる。

一方、小和田氏は天正九年九月頃のことと考えられる。理由は「事変の後は、秀吉が康長を懐柔する必要がない」とか、「長元物語」の記事(秀吉が康長に加勢して渡海する)が天正九年のことだと考えるからです。

もし、桐野先生のおっしゃるとおりに、当時は信孝がすでに康長の養子になったら、なぜ信長が秀次を三好家に送ったか?

また、藤田氏の反論に、一つの重点は秀次が「信吉」を名乗ることです。「信」は信長からいただいたとすれば、秀次が康長の養子になったのは、本能寺の変前のことに間違いなかろう。

2007/08/01(Wed) 22:07 | URL  | 胡 #-[ 編集]
福尾猛一郎
ではなく、福尾猛市郎の間違いだと思うのですが、そうであれば、山口県文書館が「福尾猛市郎収集文書」および「福尾猛市郎文書」、広島大学図書館が「福尾文庫」として古文書を所蔵しているようです。
2007/08/01(Wed) 22:44 | URL  | ぴえーる #cxOfCZlk[ 編集]
秀次の養子入り
胡さん、こんばんは。

えっと、私は、信長が秀次を三好家に送ったとは申しておりません。
私の意見としては、秀次が三好家の養子になったのは本能寺の変のあとです。したがって、信長が送れるはずがありません。秀吉が三好康長との関係を強化するために養子縁組したと思います。

一方、藤田説のとおり、信長存命中に秀次が三好康長の養子になったとした場合、藤田説も信長が送り込んだとはとらえておらず、あくまで秀吉が主体だと思います。
どちらが送り込んだにしても、信孝が養子になったのに、秀次も養子になるのはちょっと変で、それは胡さんのご指摘のとおりだと思います。

また、信吉が信長からの一字拝領だとはなかなか考えづらいというのは、前回書いたとおりです。

2007/08/02(Thu) 00:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
福尾猛市郎
ぴえーるさん、こんばんは。

ご教示有難うございます。

どこかで聞いたことがある名前だと思って、東大史料編纂所のデータベースで検索してみましたが、ヒットしませんでした。
ご教示後、「~市~」で検索したら、いくつかヒットしました。吉川の人物叢書『大内義隆』を書かれた人でしたね。
2007/08/02(Thu) 00:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
秀次の名乗り
桐野先生のご返答を読ませていただきました。だが、秀次の名前に、質問がありますが...

先生の仰ったとおりに、「孫七郎信吉」と秀次は同一人物とは限らないんです。ならば、その孫七郎信吉は宮部次兵衛吉継(秀次)とは別人という可能性がある。

しかし、小和田氏によれば、その「孫七郎信吉」は天正十一年に香西又一郎という者に知行状を与えた(PHP新書「豊臣秀次」)。もしこの信吉は秀次ではなく、やっはり三好一族の誰かだったら(三好式部少輔?)、天正十一年という時点には三好家に二人の「孫七郎」がいるのではないか。

その時、信孝はすでに織田三七郎を名乗って、三好康長の養子ではなかった。孫七郎信吉は孫七郎(ずっと「吉継」を名乗ってるか?)とともに三好康長の養子で、義兄弟の間柄であろう。

2007/08/02(Thu) 00:26 | URL  | 胡 #-[ 編集]
間違えました
先の返事は「信長が秀次を三好家に送り込みました」というわけではなく、「なぜ信長は秀次が三好の養子になることを黙認したのか」という意味です。どうもすみませんでした。<(_ _)>
2007/08/02(Thu) 00:51 | URL  | 胡 #-[ 編集]
三好孫七郎信吉
胡さん、こんばんは。

天正11年(1583)7月26日、三好孫七郎信吉が香西又一郎に知行宛行状(100石)を出している件について。
藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年)によれば、翌12年8月28日、秀次の署名で香西にさらに加増の知行宛行状(200石)を出しています。
ですから、信吉=秀次と見てよいでしょうね。

ただ、藤田氏は信長時代の秀次についてほとんど触れておらず、信吉から秀次への改名時期についても言及がありません。ただ、三好名字から羽柴名字へと変わったのは、天正12年夏頃だとしています。

信吉名での香西への知行宛行は、諏訪勝則氏の説の範囲内ですね。格別不思議ではありません。
問題はやはり、秀次がいつ三好信吉と名乗ったのかという点に絞られるでしょうね。

藤田説では天正7年とのことですが、果たしてどうなのか。
これが成立するためには、天正9年の宮部次兵衛尉吉継が秀次ではないことを立証する必要がありますが、藤田説では、上記三好信吉の文書の存在を根拠にしており、それで立証したことになるのか、個人的には疑問です。

谷口克広氏の指摘によれば、『惟任謀反記』に宮部次兵衛尉の名前が山崎合戦後の明智方残党の掃討戦に出てきます。これは明らかに羽柴軍の一員であり、秀次以外には考えにくいですけどね。

それからしばらくして(天正10年10月までに)、宮部次兵衛尉吉継が三好孫七郎信吉と名乗りを変えたという理解も成立するのではないかと思います。

その場合、「信」は信孝からの一字拝領の可能性もないとはいえません。もともと信孝が三好康長の養子になったわけですから、縁組み解消と秀次の養子入りにあたって、信孝の承認のあかしとしての一字授与だったとも考えられます。
それは同時に、秀吉と信孝の一時的な協調関係を意味したのではないでしょうか。


2007/08/02(Thu) 22:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
織田信孝
桐野先生、お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

信孝と言えば、谷口氏の言うとおりに、彼は四国政策で積極的に参与し、一国一城の主になりたいようですね。そうすれば、明智光秀と斎藤利三にとって、信孝は尤も危険な存在といえる。ですから、彼ら(または利三)は信孝を止めなきゃならないんです。(本能寺の変)これは偶然ではなく、おそらく明智らの一つの狙いだろうか。
2007/08/03(Fri) 01:51 | URL  | 胡 #-[ 編集]
Re:藤田説
こんばんは。相変わらずの丁寧な御回答ありがとうございます。

>信長文書571号(天正3年10月25日付)の伊達輝宗宛て信長書状は、末尾が「猶使者可申候」となっています。

なるほど。「可申候」は使者が口上を述べる場合にも使われるようですね。

>聖護院道澄が義昭の奏者をつとめているわけですが、門跡みずから備後まで出かけてじかに伝達したとは考えにくいのではないでしょうか。

聖護院門跡については、道澄の前代の道増は外交僧として活躍していますね。
永禄3年の毛利・尼子の和平調停では実際に安芸に下向しており、そのときの御内書では「聖護院門跡可有演説候」の用例が確認できます。道増は毛利元就に直接会って幕府の内意を伝達する役割を担っていたようです。
(参考文献:宮本義己『足利将軍義輝の芸・雲和平調停』(國學院大学院紀要6,1974)など)

>福尾猛一郎氏所蔵文書

あれ?私が間違えたかなと見直したのですが、やはり「猛一郎」ですね。
学研さんのミスでしょうか(笑)
あれから三鬼清一郎氏『豊臣秀吉文書目録』をめくってみましたが、年代未詳の文書にそれらしきものがありました。

5.25 筑前守秀吉(花押)→三好孫七郎 兵庫城三田城両城・・・[福尾猛市郎氏所蔵文書]

内容的にはこれ↓みたいですね。
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/honmatisi/hon_09.html
三木城攻め関連文書なので天正7年だということなんでしょうか。

>「信」は(中略)徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていない
>秀吉の甥にすぎない秀次に「信」の一字を与えるというのは不自然

まあ、三好家はかつては幕府相伴衆もつとめた家柄であり、落ちぶれたりとはいえ南河内を領有していますし、秀次がその後継者だとすれば、「信」の字を拝領してもおかしくはないと思います。

まあ、この(1)(2)の指摘が妥当だとしても、私も藤田説には基本的に賛成できないのですが・・・(^^;
2007/08/03(Fri) 02:04 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
三木城攻め?
板倉さん、こんにちは。

例の文書の紹介有難うございます。
さて、これだけで天正7年と判断していいんでしょうかね。
たとえば、「塩儀」を摂津の国衆、塩河長満に比定しています(それ自体も要検討かもしれません)。仮にそうであれば、天正7年段階の秀吉に摂津国衆への軍事指揮権があるとは思えません。指揮系統が違いますからね。

むしろ、本能寺の変後というか賤ヶ岳の戦い後、秀吉の覇権が固まりつつあり、摂津の統轄者だった池田恒興が秀吉に服属した時期のものだと想定することも可能ではないでしょうか。

賤ヶ岳の合戦ののち、池田恒興父子は摂津から美濃大垣に転封になっています。
三田城はよくわかりませんが、兵庫城は明らかに恒興の持ち城で、恒興転封後、秀吉の直轄領になっています。秀吉の代理として秀次が城の受け取りに行ったとしてもおかしくありません。
天正11年も有力だと思います。
2007/08/03(Fri) 18:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
三木城孤立作戦
桐野さん、こんばんは。

>これだけで天正7年と判断していいんでしょうかね。

天正7年5月といえば、ちょうどその頃、秀吉は毛利氏による三木城支援を遮断するため、秀長に淡河城を攻撃させているんですよね。
ですから、三木城を孤立させるため、秀長と並ぶ有力な一族武将である秀次を起用して、兵庫と三田を押さえさせるという作戦は、十分あり得るのかなあと、そう思いました。
年次については私も自信はありませんので、藤田氏の見解が気になるところです。ただ、

>天正7年段階の秀吉に摂津国衆への軍事指揮権があるとは思えません。

天正7年頃に摂津三田城を開城して、その後は秀吉に従った荒木重堅の例もありますし、摂津国衆の一部が秀吉付きになることはあると思います。
ただ「塩儀」については、摂津の塩川氏ではない可能性もあります。
例えば、秀次家臣「若江七人衆」の中に、塩川喜左衛門という人がいますし、淡路の三好氏家臣・塩田氏の誰かかもしれません。

>秀吉の代理として秀次が城の受け取りに行ったとしてもおかしくありません。
>天正11年も有力だと思います。

天正11年もありうると思うのですが、三田は池田領ではなく、天正10年冬以降ずっと山崎氏の領地なので、これが受け取りの対象となっているのが解せないんですよね・・・。
2007/08/03(Fri) 23:35 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
5月25日
板倉さん、こんばんは。

話を前に戻すようで恐縮ですが、例の三好孫七郎宛て羽柴秀吉書状ですが、宛所には諱はありませんし、信吉かどうかわかりませんね。諱を信吉とする根拠は何なのでしょうか?

また日付の5月25日について。
『多聞院日記』天正11年5月25日条には、

「大坂ヲハ池田紀伊守(恒興)ヨリ筑州ヘ渡了、池田ハ濃州ヘ入了」

とあり、まさに日付が一致しますね。
大坂のことしか書かれていませんが、摂津国(の所領の一定部分)も国替の対象だったと考えてよいでしょうね。

この国替は、秀吉が大坂城を築く伏線でしょうね。

もっとも、谷口克広氏によれば、大坂は秀吉に渡したけども、摂津二郡は安堵されたとのこと。この二郡のなかに兵庫・三田両城が含まれているのか否か。

一方、『天正記』(柴田合戦記)には、賤ヶ岳合戦後の戦後処理として諸将の知行割が書かれていますが、そのなかに、

「摂州には三好孫七郎秀次」

とあり、秀次に摂津のどこかを与えていますね。例の秀吉書状と符合する面もあります。

また、同書は「惟任謀反記」段階では「宮部次兵衛尉」とし、「柴田合戦記」では「三好孫七郎秀次」と記しています。
同一人物だということを前提にしての話ですが、天正10年10月から三好孫七郎秀次の文書が出てくるという諏訪勝則氏の説とも符合する名乗り替えともいえます。

山崎秀家と三田城については、論評する材料を持ち合わせていません。

2007/08/04(Sat) 00:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
三好信吉と宮部次兵衛尉
こんばんは。たびたびのレス恐縮です。

>諱を信吉とする根拠は何なのでしょうか?

秀次発給文書で「信吉」とあるのは2点しかありません(天11.7.26、天12.6.21)。
ですから、それ以前の実名は不明としか言いようがないのですが、前に述べたような理由で、本能寺以前から「信吉」と名乗った可能性はあると考えています。
織田家を正式に継承したわけでもない信孝あたりが、織田家の通字「信」を与えるというのも不自然ですし・・・。

>また、同書は「惟任謀反記」段階では「宮部次兵衛尉」とし、「柴田合戦記」では「三好孫七郎秀次」と記しています。

『天正記』シリーズを読んだ印象なんですが、当時の通称と晩年の実名が組合わさった人名表記が多いのではないでしょうか。
例えば羽柴秀長は『惟任』では「羽柴小一郎秀長」、『柴田』では「羽柴美濃守秀長」と表記しています(当時の諱は「長秀」が正しい)。『柴田』には「浅野弥兵衛尉長政」(当時は「長吉」)という表記もありました。
ですから、早くから「秀次」であったかどうかは疑問です。

秀次が「次兵衛(二兵衛)」と呼ばれていたのは確実なのですが(『宇野』天13.9.3、『兼見』天13.10.6、『多聞院』天16.5.4など)、『惟任』の「宮部次兵衛尉」は果たして秀次なのかどうか。
別人だとすれば、田中吉政・山内一豊・堀尾吉晴らと共に秀次宿老となった「宮部肥前守」という武将がいますので、この人かもしれません。

>天正10年10月から三好孫七郎秀次の文書が出てくるという諏訪勝則氏の説

この説は未見なのですが、出典を御教示いただければ幸いです。

>山崎秀家と三田城については、論評する材料を持ち合わせていません。

私にとっては、実はここが一番引っかかっている点でして、この書状にあるのが兵庫・三田ではなく、兵庫・尼崎なら天正11年で決まりだと思うのですが・・・。

2007/08/04(Sat) 20:39 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
秀次の名乗り
すみません。自己レスです。
>この説は未見なのですが、

今、見つけました。
『関白秀次の文芸政策』(栃木史学9,1995)ですね。
天正10年6月24日、里村一門の連歌会で「秀次」という名が見られるようです。
ただ、これについては藤田恒春氏は「同名異人ではないだろうか」と指摘しています(『豊臣秀次の研究』P295)。
まあ、他の参加者がみんな道号なのに、一人だけ実名というのも不自然ですよねえ・・・。

2007/08/04(Sat) 21:17 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
諏訪勝則氏論文
板倉さん、こんばんは。

とりあえず即答出来ることを。

諏訪氏の論文はそれではなく、次のものです。

「織豊政権と三好康長―信孝・秀次の養子入りをめぐって―」 『戦国織豊期の政治と文化』米原正義先生古稀記念 続群書類従完成会 1993年

そのなかで、三好孫七郎の初出文書として紹介してあるのは、『浅野家文書』8号で、本願寺坊官の下間頼廉宛て羽柴秀吉書状で、日付は10月22日、年次は天正10年に比定してあります。
内容的には、清洲会議の結果を本願寺方に知らせるものですし、信長葬儀が行われたと書いてありますから、その年次でいいと思います。
そのなかに、根来衆の泉州知行問題について次のような一節があります。

「廿五日為先勢中村孫平次・伊藤掃部・筒井順慶・浅野弥兵衛・若江三人衆・三好孫七郎・同山城守、其外人数差遣候」

諏訪氏はこれを三好孫七郎の初出だとしています。

また翌11年になっての『宗及自会記』10月6日条の記事も気になります。

「筑州御おヰさま
  孫七郎殿  休夢  宮辺藤左衛門尉」

このなかの「孫七郎殿」はむろん秀次ですが、注目すべきは「宮辺藤左衛門尉」です。「宮辺」は「宮部」であり、宮部藤左衛門なら、『戦国人名事典』にも立項されております。
「(刑部少輔)土肥刑部少輔の子。母は宮部継潤の妹。土肥氏を称す」云々とあります。
藤左衛門は宮部継潤の甥にあたります。彼が秀次の側近として近侍していることは、秀次がかつて継潤の養子だったことを補強する事実です。秀次が三好家の養子に変わっても、側近として秀次に付いていったということでしょう。


2007/08/04(Sat) 23:42 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
藤田達生氏論文
こんにちは。
>諏訪氏の論文はそれではなく、次のものです。

大変失礼いたしました。御教示感謝いたしますm(_ _)m

>秀次がかつて継潤の養子だったことを補強する事実です。

私が言及した宮部肥前守もそうですが、田中吉政もかつて継潤の臣であるなど、秀次と宮部氏は親密な関係があったことは間違いなく、時期は確定できませんが、養子入りの話も信憑性が高そうです。

で、今頃になって何なんですが、例の「福尾猛市郎氏所蔵文書」について藤田達生氏が考察している論文が判明しました。

「織田信長の東瀬戸支配」(小山靖憲編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院,2006)

藤田氏は「五月」ではなく「十一月」と判読し、また「三田城」とあることから、天正11年ではなく天正7年ではないかと述べています。
かなり前に読んだはずなのに、すっかり忘れていました。。。
2007/08/05(Sun) 17:11 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
信長の偏諱の授与と牛一
桐野先生、こんにちは。
上記のコメント欄を拝見しまして、気になったことがございます。
先生は信長の偏諱の授与について、次のように、ご発言になっております。
「信長家臣団のなかで、「信」の一字を拝領した者はいないのでは。「長」は丹羽長秀などいますけど。
「信」は近衛信基、鷹司信房などの摂関家や、徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていないと思います。」(8月1日付け、「藤田説」)
そこで、お尋ねしたいのは、太田牛一が信長在世時代に「信」の字を実名の一字目に使っている理由です。
研究者の中には、信長から拝領したのではないか、とする意見が出されております。先生のご友人の和田様は『「信長記」の大研究』において、牛一の身分から上記の拝領説には疑問を抱き、太田家の通字であったのではないか、とする新説を発表されております。
ですが、太田家の通字であったとしても、主君に憚って、「信」の字を避けるのではないか、と思われます。
ご多忙中のところ、誠に恐縮に存じますが、牛一の件に関して、先生のお考えを、お教えいただきますれば、幸甚に存じます。
2007/08/05(Sun) 17:15 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
太田牛一
磯部さん、こんばんは。

太田牛一の諱「信定」についてですが、信長からの授与というのは考えにくいと思います。
やはり「信」の一字を授与されるには、牛一の身分が低いような気がします。

織田権力期、信長の諱と同じだからといって避けなければならないというほど敬避慣行が浸透していたとは思えません。
信長家臣でも「信」字を諱にもつ者は重臣クラスでもいます。佐久間信盛や水野信元などが思いつきますが、これは信長からの授与ではなく、それらの家の通字だろうと思います。また信長の諱と同じだからといって、敬避しているようにも見えません。

ただ、三好康長が途中から康慶と改名しているのは信長の一字「長」が下に附いているのを憚った可能性はありますね。これは下の字だったからで、上の字だったら改名したかどうか。

お答えになっていないかもしれませんが。
2007/08/05(Sun) 19:13 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
年次変更
板倉さん、こんばんは。

>「織田信長の東瀬戸支配」(小山靖憲編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院,2006)

この本は私ももっていました。
新出の羽柴秀吉宛て長宗我部元親書状の紹介があったことはよく覚えていたのですが、「福尾猛市郎氏所蔵文書」のほうは私もうっかりしていて忘れておりました。

でも、ご紹介の三好孫七郎宛て秀吉書状の写真を見るかぎり、日付の「五」をあえて「十一」と読む必要があるんですかね。「五」でもいいような気がします。
仮に「十一」だったとしても、天正11年ではなく、同7年の根拠になるでしょうか。

たとえば、三田城についてですが、『日本城郭大系』によれば、荒木平太夫重堅が築いて、車瀬城とも呼ばれたようです。
三田城に関しては、『信長公記』巻十一、十二月十一日条(角川版の263頁)に次のようにあります。

「有馬郡の御敵さんだの城へ差向ひ、道場河原・三本松二ヶ所足懸り拵へ、羽柴筑前守秀吉人数入置き」

「有馬郡の御敵」とは荒木村重一族だった荒木平太夫のことではないでしょうか。
つまり、12月11日段階ではまだ荒木方に属しており、秀吉は2カ所の付城を築いています。したがって、秀次が接収できる状況にはありません。
2007/08/06(Mon) 00:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長公記
桐野さん、こんばんは。
なかなか面白い文書ですよね。何で忘れちゃったんだろう・・・。
それはともかく、

>『信長公記』巻十一、十二月十一日条(角川版の263頁)

これは天正6年の記事ではないでしょうか?
2007/08/06(Mon) 01:17 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
勘違い
板倉さん、こんばんは。

信長公記の巻数を勘違いしておりました(爆)。
前言撤回です。

それはともかく、天正11年でもいいような気がしますけどね。板倉さんは三田城の一件がネックだとお考えのようですが。

三田の新旧の城主である山崎秀家と荒木重堅は、ともに天正10年終わりに転封を命じられています。

秀家は近江山崎→摂津三田
重堅は摂津三田→因幡若桜?

命令と実際の現地赴任にはタイムラグがあったと考えればいいような気もします。
それに現実性を与えていると思われるのは、天正11年初めの柴田勝家との緊張関係から賤ヶ岳合戦であり、近江山崎を領する秀家は地勢的に所替えできる情勢ではなく、しばらく転封は凍結されたため、賤ヶ岳合戦後にその手続きに入ったと考えることもできそうですけど。

2007/08/06(Mon) 01:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
タイムラグ
こんばんは。早速御訂正いただき恐縮です。

>しばらく転封は凍結されたため、賤ヶ岳合戦後にその手続きに入ったと考えることもできそうですけど。

ありえないことはないと思います。
ただ、転封凍結について傍証でもあればいいんですけどね・・・。
とりあえず私は現段階では、前述した見解に基づき、天正7年5月説をとります(笑)
2007/08/06(Mon) 23:42 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
お礼
桐野先生、こんばんは。
このたびは、ご多忙中のところ、ご返事を賜り、厚く御礼申し上げます。
牛一は秀吉の家臣になっていた天正17年には改名しています。「信定」の名(この解読には異論が出されていますが)が信長と関係ないのであれば、改名する必要があるのだろうかと疑問に思っていました。
しかも、牛一は「六人衆」として側近に仕えていた時期があります。
しかし、織田家臣団の名を見れば、先生がおっしゃるとおり、偏諱の授与とする解釈は成り立ちにくいというのが理解できました。
牛一の子、牛次の場合は秀次と関係があるとは思えませんし…。
2007/08/07(Tue) 00:03 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
秀次の年齢
板倉さん、こんにちは。

板倉さんは例の三好孫七郎宛て秀吉書状の年次を天正7年が妥当だとのこと。

ただ、秀次の生まれは永禄11年(1568)でして、天正7年には、まだ数え12歳です。
果たして元服していたのかどうかも怪しく、荒木村重方の城の接収という任務や「政道」云々を遂行できるだけの年齢に達していたかどうか、素朴な疑問があります。

私は、三田城の帰属がやや不明とはいえ、賤ヶ岳合戦前後の緊張状態を考えると、天正11年でもいい、少なくとも他の史料や秀次の年齢などとそれほど矛盾しないのではないかと思っています。
天正7年説は、天正9年の宮部次兵衛尉文書や『惟任謀反記』などとの食い違いなど、全体的な整合性に欠けているのではないかと思っています。

これ以上は議論が平行線だと思いますので、打ち止めにします。
2007/08/07(Tue) 11:54 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
打ち止め
とのこと。了解いたしました。
論点はほぼ出尽くした観がありますので、今後の研究に期待したいと思います。
(特に「宮部次兵衛尉」の花押がどの秀次文書とも全く異なるという藤田氏の指摘が気になっています・・・)

ここまで難しい質問に御回答いただき、ありがとうございました。
2007/08/07(Tue) 23:06 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
「黒田官兵衛の魅力-天下をねらった播磨の智将-」展
こんばんわ。
黒田如水の企画展が開催中です。

姫路市立文学館
2011年度特別企画展
「黒田官兵衛の魅力-天下をねらった播磨の智将-」展
平成23年4月22日(金)~6月12日(日)
※図録は500円。送料は210円(切手でお願いしますとのこと)。

姫路市立文学館では秋には下記の企画も予定されています。
〈江〉の娘 千姫 展
平成23年10月7日(金)~11月27日(日)

千姫の企画展は珍しいですね。

姫路市立文学館
http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/
2011/04/23(Sat) 18:22 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
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