歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第18回
―島津本宗家が権限奪還―

拙コラムが更新されました。
右下のリンク欄からご覧下さい。

今回は、島津忠恒による伊集院幸侃(忠棟)の上意討ちを取りあげました。
いかにも唐突で荒っぽい事件に見えますが、秀吉が死去し、豊臣政権が分裂・混乱している機をとらえた事件で、島津本宗家としては確信的な行為だと思います。
忠恒の舅、義久も一枚噛んでいたかどうかは微妙なところです。義久が上方から帰国して数日経ってから起きていますので、「アリバイ」はありそうですが、かといって事前謀議の可能性を排除することはできない気もします。

豊臣政権によって太守権を実質的に換骨奪胎されたいちばんの被害者は義久ですから、動機なしとはいえません。
この事件は、豊臣政権に奪われた大名権力を取り戻す目的があったのではないかと結論してみました。

島津本宗家の最大の関心事がそこにあるかぎり、中央政局の権力闘争→関ヶ原合戦からは一歩引いており、あまり関心がなかったといえそうです。

幸侃にとっては、秀吉の死が大きかったと思います。
幸侃自身がそれほど恣意的な政策を行ったとは思えませんが、太閤検地と朝鮮出兵のために、家中の多くが苦労し、禄高を減らされるなかで、ひとり大禄を得て、秀吉-三成ラインと結びついたことに家中の反発が大きく、それほど同情が集まらなかったのかもしれません。

それでも、島津本宗家を相手に1年近く戦った嫡男忠真の健闘は特筆すべきかもしれません。ただ、豊臣公儀の代表である徳川家康が島津本宗家に味方した以上、政治的に勝ち目がなかったのもたしかですね。
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【2007/08/04 12:43】 | さつま人国誌
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その時歴史が動いた
市川
桐野先生、こんにちは。
伊集院幸侃の事件は、島津家の慶長年間における重大な出来事ですよね。彼が謀殺された時、中央では石田三成と徳川家康が暗闘していた。私は彼らの対立が、加害者の島津忠恒に幸侃殺害を決意させたと思います。
幸侃を殺害しても、家康が守ってくれる。そんな打算と、幸侃を殺すことで三成との縁を切ろうとしていたのでは……。
もし逆に幸侃が生きていたら、島津家は関ヶ原の役でどのような立場になっていたのか、気になります。

島津家の権限回復以外にも、幸侃殺害は忠恒の歴史に対する思惑があったのではないでしょうか。私は忠恒という人物が、かなり凄腕の君主に見えて仕方ありません。
もしかしたら、幸侃殺害は家康が忠恒をそそのかしてやらせたのかもしれません。

家康の教唆?
桐野
市川さん、こんばんは。

伊集院幸侃事件はご指摘のとおり、大きな事件だと思います。
島津家が豊臣政権に対して求心力より遠心力を高めた出来事といえるかもしれません。

ただ、家康が唆したというのはどうでしょうかね。私にはよくわかりません。
結果論からいえば、そういう見方もできるかもしれませんが、事件には忠恒の強い怨恨のようなものを感じさせます。
忠恒は事件後、神護寺にいったん蟄居していますから、事件の重大さを認識していたと思います。

忠恒の評価については難しいですが、近世薩摩藩の祖として、幕藩体制のなかに島津家を位置づけて安定させたという意味では、ご指摘のように凄腕だったといえそうです。

ただ、幸侃のほかにも、老中の平田増宗の暗殺も命じています。ちょっと血を流しすぎたようにも感じます。



ばんない
こんばんは。伊集院幸侃は戦国末期から関ヶ原直前まで、島津家に(良くも悪くも)大きな役割を果たした人物ですが、何しろ史料が余り残ってないので実体がよく分からない人でもありますね。

伊集院幸侃は島津家家臣団の中でも特別に秀吉にひいきされた人で、直江兼続らと似た扱いとも言えますが、秀吉政権崩壊後も直江が上杉景勝に重用されたのに対し、幸侃は文字通り切り捨てられましたね。
浮地の裁量権まで任されていた話は山本博文『島津義弘の賭け』で触れていたのかも知れませんが、失念していました。今回のコラムによると、大名の重要な権限の一つのようですが、それを秀吉の命で任されていたと言うことは、秀吉の頭の中ではいずれ島津氏を廃して伊集院氏を正式に大名として取り立てるという考えでもあったんでしょうか。

秀吉が死んでからもめたのは島津家だけじゃなくて、宇喜多家などもそうですね。
太閤検地を初めとする豊臣政権の諸大名への政治干渉はすべて朝鮮出兵に集約される物で、その出兵の失敗に対する末端の武士の反発は結構大きかったのではとも考えています。忠恒が「幸侃暗殺」という一見無茶な手段に出たのも家中のこういう不満をくみ取っていたからとも思われます。

ただ、忠恒が凄腕だったかというとどうかな、と私も思います(汗)他の大名ならあそこまで家中に血の粛清をしていたら、それを口実に徳川家康が改易することも考えられますし。畿内周辺など要地の大名ではなかったことが有利に働いたようにも思われます。

豊臣政権の期待
桐野
ばんないさん、こんにちは。

秀吉が島津氏に代えて伊集院氏を取り立てようとしたかという点については、ありえないのではないでしょうか。
豊臣政権は大名を潰そうというのではなく、あくまで自分に都合のよい大名であってほしいということだと思います。とくに、島津氏への太閤検地は朝鮮出兵の軍事動員に堪えられるだけの体制を構築させるためのものでした。
島津家側で豊臣政権に協力的だったのは、伊集院幸侃と島津義弘でしょうね。このあたりは山本博文氏の研究があります。
当時の大名権力のあり方として、必ずしも権力が大名一人に集中しなければならないとは考えられていないように思います。
毛利家における小早川隆景、龍造寺家における鍋島直茂などが当主の輔佐もしくは後見だったことはよく知られております。島津家では、義弘がまさにそれと同じ立場だったように思います。
これを伊集院幸侃がつとめるとなると、本宗家の一族ではないですから、家中の反感を招きますね。豊臣政権にとって、幸侃を取り立てることで、島津家中が分裂することは望まなかったのではないでしょうか。

豊臣政権としては、義久に代わって義弘が当主になることを望んでいたかもしれませんが、義弘が固辞したのでそれを諦め、義弘の子である忠恒の家督相続を次善の策として了承するしかなかったのでしょうね。



ばんない
こんばんは。

今回は伊集院幸侃の類似例として小早川隆景、鍋島直茂を出してこられましたが、小早川家は隆景の死を持って毛利家から分裂?しているように見えますし、鍋島直茂は豊臣政権から徳川幕府に変わる間に龍造寺氏から家督を横領したような形になってますね。
>豊臣政権にとって、幸侃を取り立てることで、島津家中
>が分裂することは望まなかったのではないでしょうか。
むしろ、幸侃を破格の扱いで取り立てれば島津家中が分裂することは目に見えているのであって、豊臣政権はそんな見え見えのミスをあえて犯したのかなあ、という感想を持ちます。そこから豊臣政権は島津氏の崩壊をどこかで期待してたのではないかという考えが消えないわけです。

そういえば、いわゆる「九州征伐」後の仕置きでは薩摩国領主:島津義久、大隅領主:島津義弘、日向諸県郡領主:島津久保…と分割されていませんでしたっけ。こういう処分をされた大名というのは余り多くないように思われますが。

島津と毛利
桐野
ばんないさん、こんばんは。

コメント遅くなりすみません。

豊臣政権が伊集院幸侃を重用したのは、やはり島津義久の太守権を制限・牽制する意図があったろうと思います。豊臣政権と距離を置く義久に大名権力のすべてを預けておくのは、豊臣政権にとっても具合が悪いし、畢竟、島津家にとっても不幸だという半ばお節介的な押しつけがあったと思われます。
もし義久の権力を制限しないままだと、島津家は朝鮮出兵の軍役を果たせなかったでしょう。そうなったら、改易しかありません。
でも、豊臣政権は島津家の生殺与奪の権を握ったとしても、改易してしまえば、1万人前後の兵力を失うわけで、それは避けたかった。島津家を生かすためには、多少の反発は覚悟のうえで幸侃を重用するしかなかったのではないでしょうか。

あと、島津家領国の分割統治ですが、毛利家も実情は同じようなものだと思います。
毛利家は112万石でしたが、30万石は養子の秀元、10数万石は両川の一人、吉川広家に分配しています。秀元は防長二カ国、広家は出雲だったか、ほぼ国ごとの分割だったように思います。
分割の比率は違うかもしれませんが、毛利家も島津家と似ているように思います。

なお、小早川家は秀吉の親族の秀秋を迎えたために、家格上、輝元の下に置くことができず、武家清華家の一員として、秀秋は輝元と同格となりました。
それに伴い、隆景も清華成して輝元と同格になりましたが、あくまで隆景は秀秋を輔佐して、豊臣政権の西国支配担当という形は変わっておりません。
ただ、隆景死後は秀秋の独立志向が強まったのは事実だと思います。秀吉の親族だからしかたありませんね。


豊臣政権の「お節介」
ばんない
ご多忙の中、長文のコメントありがとうございました。

今回の回答では
>半ばお節介的な押しつけ
と言う所がつぼにはまりました。その他、この後島津久保が死んだ後、その妻の亀寿を久保の弟・忠恒に再嫁させたのは石田三成の画策ですが、どうも三成のやることは「小さな親切大きなお世話」ということが多いように見受けられます。本人は好意のつもりなんでしょうが。三成ファンの方には例えがまずくて申し訳ないですが、今のイラクとアメリカの関係に似たようなところがありますね。

その観点でみると伊集院幸侃に与えられた「当主に匹敵する八万石の領地」というのも納得いきます。豊臣政権側から見ると、島津家家中統制のために幸侃に島津家当主並の権力を与えたつもりだったのでしょう。…結果、島津家中の恨みを買い、思いっきり逆効果でしたが。

後、歴史に「もしも」というのは禁句ですが、
徳川幕府が同じような状況なら、そのころ一揆扇動でうっとうしかった伊達とやる気のない島津を領地トレード転封したんじゃ無かろうかなどと考えてみました。それを出来なかったところに当時の豊臣政権の弱さというか、朝鮮出兵がらみでこれ以上国内に面倒を抱えられない、といったジレンマみたいな物もかいま見えます。

ところで、先のコメントを書いた後に思い出したのですが、西国大名では毛利氏の他に大友氏、長宗我部氏も島津氏同様分封(という用語が正しいのかどうか…)されかけてますね。最も同時代の史料で確認してませんが、大友氏に関してはフロイス『日本史』にその話題が出てますのでたぶん間違いない情報だと思われます。最も、分封の対象だった大友宗麟が「九州征伐」直後に死んでしまいましたので、その話は白紙になったようですが。そういえば、大友氏は朝鮮出兵がらみで改易されましたね…。これも島津氏初めやる気のない西国大名に対する脅しだったような気もします。

伊集院幸侃の斬殺事件
板倉丈浩
こんばんは。
さて、この事件については、山本博文氏以外にも様々な研究がありますね。

小宮木代良氏は慶長4年正月、前年末の義久・家康の接触に義弘・忠恒が抗議して義久が両者に誓書を提出したという事件を重視し、秀吉の死によって公儀権力への対応をめぐる内部対立が顕在化したと指摘しています。
また、幸侃斬殺は義久の帰国を待ち、事前承諾なしに義弘・忠恒の独断によってなされたものであり、豊臣政権から打ち込まれた楔である幸侃を秀吉の死に乗じて排除したというよりは、「むしろ島津氏内部の権力争いに起因する面が強いように思われる」と小宮氏は述べています。
(「慶長期島津氏の動向」(『幕藩体制下の政治と社会』文献出版,1983))

一方、重永卓爾氏は忠恒の性格的な問題を重視し、特に義久の後継者問題絡みで幸侃に怨恨を抱いていたのではないかと推測しています。
「いずれにせよ、忠恒(家久)の蛇のごとき陰湿・執拗な性格は天性のものであれ、後天的であれ異常としかいいようがない。忠恒に一度憎まれたが最後、重臣等がいくら諫言しても必殺の憂き目にあうのである。彼によって抹殺された有能な人士は枚挙にいとまがない。(中略)猜疑心の強い(女中よりも血判をとっている)、色欲旺盛な人物でしかなかったのではないかと疑いたくなる。現存する彼の自筆の書状・和歌の類を見ても義久・義弘の足元にも及ばない。凡庸としか表現できないのである。(中略)義久の肖像(画像・彫塑)が一点も存在しないのは奇怪というほかはない」
(「伊集院忠真受発給文書に見る庄内事変の一齣(下)」南九州文化20,1984))
かなり辛口・・・というより糞味噌な評価ですね(^^;

なお、島津家内部における権力関係については、米澤英昭氏の考察があり、幸侃斬殺の結果、帰国した義久は実権を取り返し、忠恒への家督継承は白紙に戻され、義弘は政治的・軍事的・経済的に全く権限を有しない状況に至ったとしています。
そして、関ヶ原合戦後の慶長7年に忠恒か信久(垂水家、義久の孫)かで籤引きが行われ、忠恒の相続が再び決定したが、内部対立は慶長16年の義久の死まで終息しなかったと指摘しています。
(「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」都城地域史研究7,2001)
くじ引きで相続問題の解決を図るとは・・・いかにも島津家らしいです(笑)



有難うございます
桐野
板倉さん、こんにちは。

伊集院幸侃事件について、諸説のご紹介、有難うございます。
拙著『島津義久』(PHP文庫)では、小宮説を採用し、義久はこの事件に関わっていないという立場をとりました。
起請文の一件は承知しておりますが、義弘も関与したというのはどうでしょうかね。
伊集院忠真は義弘の女婿ですし、義弘と幸侃の政治的立場は似ております。ともに豊臣政権(石田三成)との関係が深い点では共通しています。
むしろ、忠恒の暴走だったのではないかという気がしますが……。

米澤説にあるように、義久が忠恒に不信感を持ち、垂水家の久信を後継にしようとしたのも、伊集院幸侃の一件があった(独断で勝手にやった)ことが尾を引いているようにも感じられますね。

島津忠恒はバカ殿か
ばんない
残暑お見舞い申し上げます
忠恒は幸侃に殺意を燃やして、あっさり行動に移してしまいましたが、こっちは太陽に殺意が沸いています

さて
板倉様ご紹介の
「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」都城地域史研究7,2001
に、庄内の乱において忠恒が貴重な火薬の処理を誤り、義久に罵倒されている、という一件が紹介されています。

あと、史料名を失念してしまったのですが、朝鮮側(明側だったかも)の史料で日本側の脱走兵の多くが「殿」の暴虐に絶えかねて逃げた、という下りがあるのですが、この「殿」というのがどうも島津忠恒のことを指しているらしいのです。
最も、こちらの方は敵側に当たる者をけなしている可能性が大ですので、史料の信用度は薄いかも知れません。

忠恒の和歌がうまいかどうかは、当方文学の素養がさっぱりなのでノーコメントですが、『薩藩旧記雑録』などに父の義弘より多くの和歌が載っているのは、単に薩摩藩の初代藩主なので和歌が保存されていたと言うだけじゃなくて、実際にたくさん作歌したのではないかと思われます。その背景には頻繁に連歌会とかことある機会に作歌した舅・義久への対抗意識があったんではないかと当方は考えていますが、如何でしょう。

確実にバカ殿と思われるのは女性関係で、晩年になるとだらしないですね。つまらないことで起請文書いています。まあ、武田信玄も男の愛人に起請文書いてますから同じレベルと思えばわずかに救いがありますかねぇ(苦笑)

閑話休題、
伊集院幸侃も、政治的な立場は義弘に近かったのかも知れませんが、島津家の後継者についてはなかなか微妙な動きをしています(URL欄、ご参照下さい)。後の記録でも「忠真(幸侃の息子)は忠恒を廃して久信を擁立しようとしたので排斥された」と明言している(『薩藩旧記雑録』後編3-1689)ものもありますし。ただ、それすらも伊集院幸侃一族を落とすために捏造された記録の可能性もあるのでは?…と考え出すと、何が真実なのか分からなくなってきます…。


伊集院幸侃の野望?
桐野
ばんないさん、こんばんは。

伊集院幸侃の野望といえば、嫡男忠真が義弘の女婿であることから、島津家の家督にしようとしていたという説もあったような(出典失念)。
しかし、これはいかにも考えにくいですね。主従の一線を越えることは不可能だと思います。
それより、豊臣政権に従って、独立する道はありえたかもしれませんが。

ばんないさんのサイトは充実していますね。これからいろいろ参考にさせていただきます。
もしかして共通の友人がいませんかね?

伊集院の島津家乗っ取り?
ばんない
…という説は、私も何かの本で読んだことがあります。しかし、初出が何だったのかが思い出せません。『島津国史』あたりでしょうか?
伊集院家は肝付家などに養子を出したりして「家を乗っ取り」していた実績がありますので、そういう噂を立てられても仕方のない一面もあったとは思われます。

独立要望は、「庄内の乱」のあとに息子の忠真は出してますね。「他の大名に仕官したい」だったかな?ともかく、あんな目にあったら島津家の中にいてもその後無事でいられるはずもなく、当然の要望かも知れません。

HPお褒めいただきありがとうございます。最近ろくに内容更新できていませんが、もうちょっと精進しないと駄目ですね(苦笑)

おたずねの共通の友人ですが、たぶんいないと思います(汗)

可哀想な正義の伊集院家
伊集院町民
伊集院忠棟は薩摩の住民を愛していた優し過ぎた戦国武将でした。
逸話では、薩摩のエタヒニンや、病人、足軽等、弱者を愛していた戦国武将とあります。

豊臣秀吉から直接、知行配分を任され、知行配分責任者となった伊集院忠棟は、薩摩の平民(庶民)をまず考えた。
「武将、家臣から配分しろ!」と怒る島津義弘や島津義久でしたが、伊集院忠棟は正義を貫く!

島津義弘も島津義久も、伊集院忠棟に許しを得ないと配分してもら得ない憎悪が爆発した!

台明寺岩人の著作
【島津家の謀略 伊集院忠棟 忠真の非業の死】は、
一番「<span style="background-color:#FFFF00;">庄内の乱</span>」等、島津家の謀略の暴露本で、スゴイ本です!!

日本で最初に鉄砲を実戦にて使用した伊集院忠朗。
鉄砲を改良した人物で、
実は、伊集院忠朗が島津の戦略、戦法、戦術(釣りの伏せ)を発案しております。
フランシスコ・ザビエルを島津四兄弟の父の島津貴久に謁見させ、日本最初のキリスト教が島津四兄弟の居城の伊集院城で行われたのも、伊集院忠朗によるもの。

伊集院忠棟は伊集院忠朗の孫。伊集院忠棟は大変頭が良かったが、戦国時代では優し過ぎた面が仇となる。

伊集院忠棟は、後世に、
戦国時代では、島津の様にズル賢くなければ生き残れない「証」、
をおしえてくれたのかも知れない…

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その時歴史が動いた
桐野先生、こんにちは。
伊集院幸侃の事件は、島津家の慶長年間における重大な出来事ですよね。彼が謀殺された時、中央では石田三成と徳川家康が暗闘していた。私は彼らの対立が、加害者の島津忠恒に幸侃殺害を決意させたと思います。
幸侃を殺害しても、家康が守ってくれる。そんな打算と、幸侃を殺すことで三成との縁を切ろうとしていたのでは……。
もし逆に幸侃が生きていたら、島津家は関ヶ原の役でどのような立場になっていたのか、気になります。

島津家の権限回復以外にも、幸侃殺害は忠恒の歴史に対する思惑があったのではないでしょうか。私は忠恒という人物が、かなり凄腕の君主に見えて仕方ありません。
もしかしたら、幸侃殺害は家康が忠恒をそそのかしてやらせたのかもしれません。
2007/08/04(Sat) 19:01 | URL  | 市川 #-[ 編集]
家康の教唆?
市川さん、こんばんは。

伊集院幸侃事件はご指摘のとおり、大きな事件だと思います。
島津家が豊臣政権に対して求心力より遠心力を高めた出来事といえるかもしれません。

ただ、家康が唆したというのはどうでしょうかね。私にはよくわかりません。
結果論からいえば、そういう見方もできるかもしれませんが、事件には忠恒の強い怨恨のようなものを感じさせます。
忠恒は事件後、神護寺にいったん蟄居していますから、事件の重大さを認識していたと思います。

忠恒の評価については難しいですが、近世薩摩藩の祖として、幕藩体制のなかに島津家を位置づけて安定させたという意味では、ご指摘のように凄腕だったといえそうです。

ただ、幸侃のほかにも、老中の平田増宗の暗殺も命じています。ちょっと血を流しすぎたようにも感じます。
2007/08/05(Sun) 00:07 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。伊集院幸侃は戦国末期から関ヶ原直前まで、島津家に(良くも悪くも)大きな役割を果たした人物ですが、何しろ史料が余り残ってないので実体がよく分からない人でもありますね。

伊集院幸侃は島津家家臣団の中でも特別に秀吉にひいきされた人で、直江兼続らと似た扱いとも言えますが、秀吉政権崩壊後も直江が上杉景勝に重用されたのに対し、幸侃は文字通り切り捨てられましたね。
浮地の裁量権まで任されていた話は山本博文『島津義弘の賭け』で触れていたのかも知れませんが、失念していました。今回のコラムによると、大名の重要な権限の一つのようですが、それを秀吉の命で任されていたと言うことは、秀吉の頭の中ではいずれ島津氏を廃して伊集院氏を正式に大名として取り立てるという考えでもあったんでしょうか。

秀吉が死んでからもめたのは島津家だけじゃなくて、宇喜多家などもそうですね。
太閤検地を初めとする豊臣政権の諸大名への政治干渉はすべて朝鮮出兵に集約される物で、その出兵の失敗に対する末端の武士の反発は結構大きかったのではとも考えています。忠恒が「幸侃暗殺」という一見無茶な手段に出たのも家中のこういう不満をくみ取っていたからとも思われます。

ただ、忠恒が凄腕だったかというとどうかな、と私も思います(汗)他の大名ならあそこまで家中に血の粛清をしていたら、それを口実に徳川家康が改易することも考えられますし。畿内周辺など要地の大名ではなかったことが有利に働いたようにも思われます。
2007/08/05(Sun) 02:02 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
豊臣政権の期待
ばんないさん、こんにちは。

秀吉が島津氏に代えて伊集院氏を取り立てようとしたかという点については、ありえないのではないでしょうか。
豊臣政権は大名を潰そうというのではなく、あくまで自分に都合のよい大名であってほしいということだと思います。とくに、島津氏への太閤検地は朝鮮出兵の軍事動員に堪えられるだけの体制を構築させるためのものでした。
島津家側で豊臣政権に協力的だったのは、伊集院幸侃と島津義弘でしょうね。このあたりは山本博文氏の研究があります。
当時の大名権力のあり方として、必ずしも権力が大名一人に集中しなければならないとは考えられていないように思います。
毛利家における小早川隆景、龍造寺家における鍋島直茂などが当主の輔佐もしくは後見だったことはよく知られております。島津家では、義弘がまさにそれと同じ立場だったように思います。
これを伊集院幸侃がつとめるとなると、本宗家の一族ではないですから、家中の反感を招きますね。豊臣政権にとって、幸侃を取り立てることで、島津家中が分裂することは望まなかったのではないでしょうか。

豊臣政権としては、義久に代わって義弘が当主になることを望んでいたかもしれませんが、義弘が固辞したのでそれを諦め、義弘の子である忠恒の家督相続を次善の策として了承するしかなかったのでしょうね。
2007/08/05(Sun) 14:12 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。

今回は伊集院幸侃の類似例として小早川隆景、鍋島直茂を出してこられましたが、小早川家は隆景の死を持って毛利家から分裂?しているように見えますし、鍋島直茂は豊臣政権から徳川幕府に変わる間に龍造寺氏から家督を横領したような形になってますね。
>豊臣政権にとって、幸侃を取り立てることで、島津家中
>が分裂することは望まなかったのではないでしょうか。
むしろ、幸侃を破格の扱いで取り立てれば島津家中が分裂することは目に見えているのであって、豊臣政権はそんな見え見えのミスをあえて犯したのかなあ、という感想を持ちます。そこから豊臣政権は島津氏の崩壊をどこかで期待してたのではないかという考えが消えないわけです。

そういえば、いわゆる「九州征伐」後の仕置きでは薩摩国領主:島津義久、大隅領主:島津義弘、日向諸県郡領主:島津久保…と分割されていませんでしたっけ。こういう処分をされた大名というのは余り多くないように思われますが。
2007/08/06(Mon) 00:03 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津と毛利
ばんないさん、こんばんは。

コメント遅くなりすみません。

豊臣政権が伊集院幸侃を重用したのは、やはり島津義久の太守権を制限・牽制する意図があったろうと思います。豊臣政権と距離を置く義久に大名権力のすべてを預けておくのは、豊臣政権にとっても具合が悪いし、畢竟、島津家にとっても不幸だという半ばお節介的な押しつけがあったと思われます。
もし義久の権力を制限しないままだと、島津家は朝鮮出兵の軍役を果たせなかったでしょう。そうなったら、改易しかありません。
でも、豊臣政権は島津家の生殺与奪の権を握ったとしても、改易してしまえば、1万人前後の兵力を失うわけで、それは避けたかった。島津家を生かすためには、多少の反発は覚悟のうえで幸侃を重用するしかなかったのではないでしょうか。

あと、島津家領国の分割統治ですが、毛利家も実情は同じようなものだと思います。
毛利家は112万石でしたが、30万石は養子の秀元、10数万石は両川の一人、吉川広家に分配しています。秀元は防長二カ国、広家は出雲だったか、ほぼ国ごとの分割だったように思います。
分割の比率は違うかもしれませんが、毛利家も島津家と似ているように思います。

なお、小早川家は秀吉の親族の秀秋を迎えたために、家格上、輝元の下に置くことができず、武家清華家の一員として、秀秋は輝元と同格となりました。
それに伴い、隆景も清華成して輝元と同格になりましたが、あくまで隆景は秀秋を輔佐して、豊臣政権の西国支配担当という形は変わっておりません。
ただ、隆景死後は秀秋の独立志向が強まったのは事実だと思います。秀吉の親族だからしかたありませんね。
2007/08/06(Mon) 23:31 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
豊臣政権の「お節介」
ご多忙の中、長文のコメントありがとうございました。

今回の回答では
>半ばお節介的な押しつけ
と言う所がつぼにはまりました。その他、この後島津久保が死んだ後、その妻の亀寿を久保の弟・忠恒に再嫁させたのは石田三成の画策ですが、どうも三成のやることは「小さな親切大きなお世話」ということが多いように見受けられます。本人は好意のつもりなんでしょうが。三成ファンの方には例えがまずくて申し訳ないですが、今のイラクとアメリカの関係に似たようなところがありますね。

その観点でみると伊集院幸侃に与えられた「当主に匹敵する八万石の領地」というのも納得いきます。豊臣政権側から見ると、島津家家中統制のために幸侃に島津家当主並の権力を与えたつもりだったのでしょう。…結果、島津家中の恨みを買い、思いっきり逆効果でしたが。

後、歴史に「もしも」というのは禁句ですが、
徳川幕府が同じような状況なら、そのころ一揆扇動でうっとうしかった伊達とやる気のない島津を領地トレード転封したんじゃ無かろうかなどと考えてみました。それを出来なかったところに当時の豊臣政権の弱さというか、朝鮮出兵がらみでこれ以上国内に面倒を抱えられない、といったジレンマみたいな物もかいま見えます。

ところで、先のコメントを書いた後に思い出したのですが、西国大名では毛利氏の他に大友氏、長宗我部氏も島津氏同様分封(という用語が正しいのかどうか…)されかけてますね。最も同時代の史料で確認してませんが、大友氏に関してはフロイス『日本史』にその話題が出てますのでたぶん間違いない情報だと思われます。最も、分封の対象だった大友宗麟が「九州征伐」直後に死んでしまいましたので、その話は白紙になったようですが。そういえば、大友氏は朝鮮出兵がらみで改易されましたね…。これも島津氏初めやる気のない西国大名に対する脅しだったような気もします。
2007/08/07(Tue) 17:42 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
伊集院幸侃の斬殺事件
こんばんは。
さて、この事件については、山本博文氏以外にも様々な研究がありますね。

小宮木代良氏は慶長4年正月、前年末の義久・家康の接触に義弘・忠恒が抗議して義久が両者に誓書を提出したという事件を重視し、秀吉の死によって公儀権力への対応をめぐる内部対立が顕在化したと指摘しています。
また、幸侃斬殺は義久の帰国を待ち、事前承諾なしに義弘・忠恒の独断によってなされたものであり、豊臣政権から打ち込まれた楔である幸侃を秀吉の死に乗じて排除したというよりは、「むしろ島津氏内部の権力争いに起因する面が強いように思われる」と小宮氏は述べています。
(「慶長期島津氏の動向」(『幕藩体制下の政治と社会』文献出版,1983))

一方、重永卓爾氏は忠恒の性格的な問題を重視し、特に義久の後継者問題絡みで幸侃に怨恨を抱いていたのではないかと推測しています。
「いずれにせよ、忠恒(家久)の蛇のごとき陰湿・執拗な性格は天性のものであれ、後天的であれ異常としかいいようがない。忠恒に一度憎まれたが最後、重臣等がいくら諫言しても必殺の憂き目にあうのである。彼によって抹殺された有能な人士は枚挙にいとまがない。(中略)猜疑心の強い(女中よりも血判をとっている)、色欲旺盛な人物でしかなかったのではないかと疑いたくなる。現存する彼の自筆の書状・和歌の類を見ても義久・義弘の足元にも及ばない。凡庸としか表現できないのである。(中略)義久の肖像(画像・彫塑)が一点も存在しないのは奇怪というほかはない」
(「伊集院忠真受発給文書に見る庄内事変の一齣(下)」南九州文化20,1984))
かなり辛口・・・というより糞味噌な評価ですね(^^;

なお、島津家内部における権力関係については、米澤英昭氏の考察があり、幸侃斬殺の結果、帰国した義久は実権を取り返し、忠恒への家督継承は白紙に戻され、義弘は政治的・軍事的・経済的に全く権限を有しない状況に至ったとしています。
そして、関ヶ原合戦後の慶長7年に忠恒か信久(垂水家、義久の孫)かで籤引きが行われ、忠恒の相続が再び決定したが、内部対立は慶長16年の義久の死まで終息しなかったと指摘しています。
(「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」都城地域史研究7,2001)
くじ引きで相続問題の解決を図るとは・・・いかにも島津家らしいです(笑)

2007/08/16(Thu) 00:39 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
有難うございます
板倉さん、こんにちは。

伊集院幸侃事件について、諸説のご紹介、有難うございます。
拙著『島津義久』(PHP文庫)では、小宮説を採用し、義久はこの事件に関わっていないという立場をとりました。
起請文の一件は承知しておりますが、義弘も関与したというのはどうでしょうかね。
伊集院忠真は義弘の女婿ですし、義弘と幸侃の政治的立場は似ております。ともに豊臣政権(石田三成)との関係が深い点では共通しています。
むしろ、忠恒の暴走だったのではないかという気がしますが……。

米澤説にあるように、義久が忠恒に不信感を持ち、垂水家の久信を後継にしようとしたのも、伊集院幸侃の一件があった(独断で勝手にやった)ことが尾を引いているようにも感じられますね。
2007/08/17(Fri) 13:51 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
島津忠恒はバカ殿か
残暑お見舞い申し上げます
忠恒は幸侃に殺意を燃やして、あっさり行動に移してしまいましたが、こっちは太陽に殺意が沸いています

さて
板倉様ご紹介の
「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」都城地域史研究7,2001
に、庄内の乱において忠恒が貴重な火薬の処理を誤り、義久に罵倒されている、という一件が紹介されています。

あと、史料名を失念してしまったのですが、朝鮮側(明側だったかも)の史料で日本側の脱走兵の多くが「殿」の暴虐に絶えかねて逃げた、という下りがあるのですが、この「殿」というのがどうも島津忠恒のことを指しているらしいのです。
最も、こちらの方は敵側に当たる者をけなしている可能性が大ですので、史料の信用度は薄いかも知れません。

忠恒の和歌がうまいかどうかは、当方文学の素養がさっぱりなのでノーコメントですが、『薩藩旧記雑録』などに父の義弘より多くの和歌が載っているのは、単に薩摩藩の初代藩主なので和歌が保存されていたと言うだけじゃなくて、実際にたくさん作歌したのではないかと思われます。その背景には頻繁に連歌会とかことある機会に作歌した舅・義久への対抗意識があったんではないかと当方は考えていますが、如何でしょう。

確実にバカ殿と思われるのは女性関係で、晩年になるとだらしないですね。つまらないことで起請文書いています。まあ、武田信玄も男の愛人に起請文書いてますから同じレベルと思えばわずかに救いがありますかねぇ(苦笑)

閑話休題、
伊集院幸侃も、政治的な立場は義弘に近かったのかも知れませんが、島津家の後継者についてはなかなか微妙な動きをしています(URL欄、ご参照下さい)。後の記録でも「忠真(幸侃の息子)は忠恒を廃して久信を擁立しようとしたので排斥された」と明言している(『薩藩旧記雑録』後編3-1689)ものもありますし。ただ、それすらも伊集院幸侃一族を落とすために捏造された記録の可能性もあるのでは?…と考え出すと、何が真実なのか分からなくなってきます…。
2007/08/18(Sat) 22:41 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
伊集院幸侃の野望?
ばんないさん、こんばんは。

伊集院幸侃の野望といえば、嫡男忠真が義弘の女婿であることから、島津家の家督にしようとしていたという説もあったような(出典失念)。
しかし、これはいかにも考えにくいですね。主従の一線を越えることは不可能だと思います。
それより、豊臣政権に従って、独立する道はありえたかもしれませんが。

ばんないさんのサイトは充実していますね。これからいろいろ参考にさせていただきます。
もしかして共通の友人がいませんかね?
2007/08/19(Sun) 22:31 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
伊集院の島津家乗っ取り?
…という説は、私も何かの本で読んだことがあります。しかし、初出が何だったのかが思い出せません。『島津国史』あたりでしょうか?
伊集院家は肝付家などに養子を出したりして「家を乗っ取り」していた実績がありますので、そういう噂を立てられても仕方のない一面もあったとは思われます。

独立要望は、「庄内の乱」のあとに息子の忠真は出してますね。「他の大名に仕官したい」だったかな?ともかく、あんな目にあったら島津家の中にいてもその後無事でいられるはずもなく、当然の要望かも知れません。

HPお褒めいただきありがとうございます。最近ろくに内容更新できていませんが、もうちょっと精進しないと駄目ですね(苦笑)

おたずねの共通の友人ですが、たぶんいないと思います(汗)
2007/08/19(Sun) 23:46 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
可哀想な正義の伊集院家
伊集院忠棟は薩摩の住民を愛していた優し過ぎた戦国武将でした。
逸話では、薩摩のエタヒニンや、病人、足軽等、弱者を愛していた戦国武将とあります。

豊臣秀吉から直接、知行配分を任され、知行配分責任者となった伊集院忠棟は、薩摩の平民(庶民)をまず考えた。
「武将、家臣から配分しろ!」と怒る島津義弘や島津義久でしたが、伊集院忠棟は正義を貫く!

島津義弘も島津義久も、伊集院忠棟に許しを得ないと配分してもら得ない憎悪が爆発した!

台明寺岩人の著作
【島津家の謀略 伊集院忠棟 忠真の非業の死】は、
一番「<span style="background-color:#FFFF00;">庄内の乱</span>」等、島津家の謀略の暴露本で、スゴイ本です!!

日本で最初に鉄砲を実戦にて使用した伊集院忠朗。
鉄砲を改良した人物で、
実は、伊集院忠朗が島津の戦略、戦法、戦術(釣りの伏せ)を発案しております。
フランシスコ・ザビエルを島津四兄弟の父の島津貴久に謁見させ、日本最初のキリスト教が島津四兄弟の居城の伊集院城で行われたのも、伊集院忠朗によるもの。

伊集院忠棟は伊集院忠朗の孫。伊集院忠棟は大変頭が良かったが、戦国時代では優し過ぎた面が仇となる。

伊集院忠棟は、後世に、
戦国時代では、島津の様にズル賢くなければ生き残れない「証」、
をおしえてくれたのかも知れない…
2013/12/05(Thu) 22:04 | URL  | 伊集院町民 #-[ 編集]
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