歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

すでにネットニュースでもリリースされている。
これとかこれ

表題の記事、京都の友人が京都新聞などの記事を送ってくれた。有難い。多謝。

丸瓦の表面に「能」(異体字)の字を刻んだものが大きく写真に載っている。まことに印象深い。

現在の本能寺が「ヒ」=「火」を避ける意味で、この字(右側が「ヒ」2つではなく「去」のような字)を使っている。たしかその理由づけが本能寺の変で伽藍が焼失したので、その縁起かつぎというものだったような記憶があるが、この丸瓦の出土で、焼ける前からこの字を使っていたことになるのか。
あるいは、天文法華の乱で焼けたときの縁起かつぎだったのか?
あるいは、本能寺の変後から寺町移転までの間に再建されたものではないのか?

それはともかく、「無防備イメージ一新」という新聞見出しは大げさすぎないか。
今谷明氏がコメントで触れているように、二条御新造を誠仁親王に譲った信長は本能寺を新たな居館にするにあたって、所司代の村井貞勝に本能寺の普請を命じている。御殿その他の付帯施設が作られたわけで、堀や石垣もそれに含まれるだろう。
また、もともと洛中の法華宗寺院、それも本能寺のような門流寺院はある程度の防御施設をもっている。堀や石垣があってもおかしくない。中世の寺院は武装しており、現代のような開放的な寺院をイメージすることじたいがおかしい。

「無防備イメージ」はそうした物理的な施設がなかったことに由来するのではなくて、信長の御供衆が少なかったことに起因する。どんなに堅固な城郭でも、わずか数十人では守りきれるはずがないだろう。
仮に信長が数千人の軍勢を引き連れて本能寺に宿泊していたら、決して「無防備イメージ」にはならなかったはずである。

その意味で、この新聞見出しには違和感を覚えた。
スポンサーサイト

【2007/08/08 00:19】 | 信長
トラックバック(0) |

まったく賛成
中村武生
中村武生です。
 いつもお世話になっております。
 今朝、この朝刊で大きく目覚めました。

 瓦の漢字、無防備記事、本当にまったく同じことを思いました。
 本能寺の変に造詣のふかい桐野さんと同じ感想だったこと、光栄に存じます

石垣・堀の年代
桐野
中村武生さん

先日はお世話になりました。

今度の発掘、「無防備」云々よりも、石垣や堀がいつのものなのか、そちらのほうが重要ではないかと思います。
情報が少ないのでよくわかりませんが、焼け瓦は果たして本能寺の変のときのものなのか、それとも天文法華の乱のときの可能性はないのか、いろいろ推測が浮かびます。
また、石垣・堀の築造年代についても、①天文法華の乱以後、②信長時代、③本能寺の変以後から寺町移転までなど、いろんな可能性が考えられそうですね。

また丸瓦の「能」の異体字。一種のまじないか判じ物のようにも思えますが、当時はよくあったことなんでしょうかね。ほかにも事例があれば知りたいものです。



市野澤
ご無沙汰してます。
今回、出土した瓦が本能寺の変の時の物だったら、火の手がどの程度だったかも判明しますよね?

いつ焼けたか
桐野
市野澤さん、こんばんは。

ご無沙汰しておりました。お元気だったでしょうか。

今回の焼け瓦ですが、本能寺の変のときだった可能性が高いのではないかと思います。

うっかりしておりましたが、天文法華の乱で本能寺が焼けたときは、四条坊門西洞院にはなく、たしか六角大宮にあったはずです。

天文法華の乱ののち、本能寺が四条坊門西洞院に再建されるのは天文14年(1545)です。それ以降、本能寺の変までおそらく焼けていないと思われます。
したがって、本能寺が焼けたとすれば、天正10年しかないのではないでしょうか。

どの程度焼けたのか。遺骨はないのか。清玉上人が全部回収したんでしょうかね?



毎日暑いですね(;^_^A
市野澤
現代の技術でも骨まで焼くの時間がかかりますよね。信長の遺骸は一体、どうなったのか?興味は尽きません。 『新・歴史群像シリーズ⑨本能寺の変』で藤田達生氏が論考で桐野さんが発見された新史料「福屋金吾旧記文書」の年次について、異議を唱えていらしてましたが反論、おまとめ中でしょうか?

福屋金吾旧記文書
桐野
市野澤さん、おはようございます。

藤田説への反論、疑問はさしあたって拙ブログの次のエントリーのコメント欄にあります。表題が異なるので、見つけにくかったかもしれません。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-190.html

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
まったく賛成
中村武生です。
 いつもお世話になっております。
 今朝、この朝刊で大きく目覚めました。

 瓦の漢字、無防備記事、本当にまったく同じことを思いました。
 本能寺の変に造詣のふかい桐野さんと同じ感想だったこと、光栄に存じます
2007/08/08(Wed) 00:46 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
石垣・堀の年代
中村武生さん

先日はお世話になりました。

今度の発掘、「無防備」云々よりも、石垣や堀がいつのものなのか、そちらのほうが重要ではないかと思います。
情報が少ないのでよくわかりませんが、焼け瓦は果たして本能寺の変のときのものなのか、それとも天文法華の乱のときの可能性はないのか、いろいろ推測が浮かびます。
また、石垣・堀の築造年代についても、①天文法華の乱以後、②信長時代、③本能寺の変以後から寺町移転までなど、いろんな可能性が考えられそうですね。

また丸瓦の「能」の異体字。一種のまじないか判じ物のようにも思えますが、当時はよくあったことなんでしょうかね。ほかにも事例があれば知りたいものです。
2007/08/08(Wed) 10:57 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ご無沙汰してます。
今回、出土した瓦が本能寺の変の時の物だったら、火の手がどの程度だったかも判明しますよね?
2007/08/10(Fri) 05:33 | URL  | 市野澤 #-[ 編集]
いつ焼けたか
市野澤さん、こんばんは。

ご無沙汰しておりました。お元気だったでしょうか。

今回の焼け瓦ですが、本能寺の変のときだった可能性が高いのではないかと思います。

うっかりしておりましたが、天文法華の乱で本能寺が焼けたときは、四条坊門西洞院にはなく、たしか六角大宮にあったはずです。

天文法華の乱ののち、本能寺が四条坊門西洞院に再建されるのは天文14年(1545)です。それ以降、本能寺の変までおそらく焼けていないと思われます。
したがって、本能寺が焼けたとすれば、天正10年しかないのではないでしょうか。

どの程度焼けたのか。遺骨はないのか。清玉上人が全部回収したんでしょうかね?

2007/08/10(Fri) 22:14 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
毎日暑いですね(;^_^A
現代の技術でも骨まで焼くの時間がかかりますよね。信長の遺骸は一体、どうなったのか?興味は尽きません。 『新・歴史群像シリーズ⑨本能寺の変』で藤田達生氏が論考で桐野さんが発見された新史料「福屋金吾旧記文書」の年次について、異議を唱えていらしてましたが反論、おまとめ中でしょうか?
2007/08/14(Tue) 05:18 | URL  | 市野澤 #-[ 編集]
福屋金吾旧記文書
市野澤さん、おはようございます。

藤田説への反論、疑問はさしあたって拙ブログの次のエントリーのコメント欄にあります。表題が異なるので、見つけにくかったかもしれません。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-190.html
2007/08/14(Tue) 09:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。