歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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一昨日、古文書講座「てらこや」に出講。
今期のテーマ「大河ドラマ『篤姫』の見方」の3回目。

今回から篤姫の登場である。
登場といっても、いまだ客体というか、実質的な主体は島津斉彬である。
篤姫入輿がどのようなプロセスによって実現したかを、『斉彬公史料』所収の史料を手がかりに見ていった。

嘉永3年(1850)当時、将軍世子だった家祥(のち家定)が二度にわたって、摂関家出身の御簾中に先立たれたために、「京都はお好み遊ばされず」という意向を表明。家系繁盛だった11代将軍家斉の御台所、広大院(島津重豪一女)の家系から、再々縁を結びたいということになった。
【確認点1】
 ・家定御台所問題はあくまで徳川家から始まったこと
 ・嘉永3年が端緒で、斉彬はまだ世子で藩主にはなっていなかったこと

それで、島津家にも斉興か斉彬に適齢期の娘がいないか、大奥の上臈を通じて打診があったが、二人とも適当な娘がいなかった。
そのため、広大院の弟妹筋である南部・戸沢・戸田・奥平の諸家の娘も御簾中の対象になった。
【確認点2】
 ・広大院の血筋ということで、必ずしも島津家ではなかったこと

広大院の血筋で、御簾中候補者は5人ないし6人(奥平氏を含む)いた。
このうち、広大院に近い南部・戸沢・戸田の3家の姫が脱落。
残りが篤姫と於哲(久光長女)となったが、斉彬は篤姫に決定。
【確認点3】
 ・篤姫は決して第一候補ではなかったこと
 ・於哲をはずすにあたって、斉彬は父斉興の意向に気を遣っていること

次に、篤姫を実子とするかどうかということで、斉彬の試行錯誤がある。篤姫を養女として届け出ると、将軍家の御台所・御簾中は摂関家に限るという不文律があるため、近衛家の養女として送れば、「又々の養女」となってしまう。届出は実子か養女か、斉彬は迷う。
一方、幕閣か大奥筋では、御簾中ではなく「御部屋様」すなわち側室でもいいのではないかという声があり、広大院の先例を考えると、側室では島津家の面目が潰れるという判断から、斉彬は実子届けを決断。そのために伊達宗城との口裏合わせまで行う。
【確認点4】
 ・篤姫は側室になる可能性もあった

その他、斉彬が篤姫を実子だとする理由づけや背景に、対幕関係上、ユニークで込み入った事情があることを見ていく。
とくに将軍家から家慶の庶子「初之丞」(のち一橋慶昌)の養子先として島津家が候補になっていた事情が大きいことがわかった。
【確認点5】
 ・その発端から、いわゆる将軍継嗣問題と篤姫入輿は無関係であること

ほとんど芳即正氏の説をなぞる形になったが、実際に史料と突き合わせながら検討することが大事だと感じた。
とくに「御一条初発より之大意」(「竪山利武公用控」)という斉彬書状と思われる長文の史料が面白かった。時間の関係で全文読めなかったのが残念である。

受講者から久光の一女於哲がもし御簾中候補となったら、久光の勢力が増大したのかという鋭い質問があった。
斉彬と久光の関係は良好であり、ただ斉興に気を遣う必要があったので、斉彬が丁重な形で於哲の可能性を消去していったのではないかと回答。それでいいのかどうかはわからない。
ただ、この時代の特質として血統重視観念があり、於哲より篤姫のほうが広大院に血統的には近いことが斉彬の大義名分になっただろうと思う。

前日にNHKから大河の第1次キャストの発表があった。タイミングがよく、斉彬は誰、篤姫の母は誰とイメージが湧きやすかった。

余談
講座の翌日、NHKの大河ドラマ制作担当者から、今回のキャスティング発表のリリース資料を送っていただいた。以前、担当者とお会いして少し協力したからだろう。多謝。
それによれば、発表されたキャスト以外で、薩摩関係では、有村俊斎、伊地知正治、有村雄助、奈良原喜左衛門、有村次左衛門もキャスティングされている由。もっとも、それほど知名度のある役者ではないかもしれないが。


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【2007/08/09 17:23】 | てらこや
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