歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第20回
―間諜に徹し無残な最期―

連載もようやく20回。まだ道半ばにも至っておりません。
今回は珍しく新選組関係のネタです。
薩摩出身の富山弥兵衛を取りあげてみました。
右下のリンク欄をクリックすればご覧になれます。

富山を「とやま」と読まないで、「とみやま」と読むのはいかにも薩摩らしいです。
富山の出自や経歴など不明な点が多いですね。一応、薩摩藩京都藩邸の留守居役、内田仲之助の家来ということになっていますが、事実なのでしょうか? また私は諱も知りません。越後柏崎の招魂場には、富山の墓があるはずですが未見です。諱を刻んであるのでしょうか。
そういえば、先日の地震で倒壊などしていないでしょうか。

富山の生涯を見ると、立場こそ違え、田中新兵衛や伊牟田尚平と同じ匂いを感じてしまいます。世に出られない下級武士(陪臣)のもがきのようなものが……。
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【2007/08/18 11:20】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。
他藩においても陪臣というのは似たような立場だったんでしょうか。薩摩藩だけ特別弱かったんでしょうか。

ところで「富山」と書いて「とみやま」と読むんですか。当方ATOKを使っていますが「とみやま」と打っても「富山」に一応変換するようです。
鹿児島風の言い方?といえば、「垂水」も「たるみず」と読みますね。関西では「たるみ」です。

陪臣
桐野
ばんないさん、こんばんは。

他藩の陪臣はすぐに思いつきませんが、新選組や海援隊にも陪臣や軽輩身分が多いですね。
たしか岡田以蔵も陪臣だったような。
伊藤博文は陪臣じゃなかったですかね?(うろおぼえ)

陪臣や郷士など軽輩の者が身を立てるには正規のルートではダメで、たとえば文久年間の尊攘運動に身を投じるとか、新選組や陸援隊・海援隊など、あまり身分を問わない有志組織に属するという変則的な方法をとるしかなかったと思います。

垂水の読みはよく間違えられますね。
伊地知も「いちじ」と読まれることが多いです。
頴娃とか今給黎とか祁答院とか難しい名字や地名が多い土地柄です(笑)。





ばんない
伊藤については他に詳しい方が多そうですから、詳細な説明はお任せするとして(汗)、ネットで検索した限りでは農民の出身から中間の身分に変わったという経歴があるようですね。

「とみやま」ですが、桐野さんはご存じかどうか分からないのですが『宇宙戦艦ヤマト』の主人公の役を当てた声優が「富山敬」(とみやま けい)という方でした。但し、この方鹿児島出身ではないようです。

鹿児島は難しい地名が多いですね。読み方もさることながら、余り使われない漢字が多いのも理由かと思います。「○原」も「○ばる」といいますよね。これは隣県の知事のおかげで急に読める人多くなってそうですが。

冨山敬
桐野
ばんないさん、こんにちは。

冨山 敬も「とみやま」でしたか。
私にとっては、「宇宙戦艦ヤマト」の古代よりも「タイガーマスク」の伊達直人ですね(笑)。
ご本人は鹿児島出身じゃないかもしれませんが、父か祖父の代には鹿児島だった可能性がありますね。
そういえば、冨山 敬さんはもう他界されているんですか。銀英伝のヤンと一緒に逝ってしまったんですね。

富山敬
かわい
本名の読みも「とみやま」だそうですから、関係があるかもしれませんね。本名の字は「冨山」だそうですが、このへんの微妙な字の違いはどうなんでしょうか。『姓氏家系大辞典』あたりだと同じ扱いですが。
東京出身ということですから、数代で遡ると地方出身者になる可能性は高いですね。私も3代以内で75%まで奥羽越になります。


松裕堂
ご無沙汰しております、松裕堂です。

>桐野さん
>たしか岡田以蔵も陪臣だったような。
岡田以蔵は"藩の足軽"なので、陪臣というわけではなかったハズです。
土佐藩で陪臣として有名なのは、田中光顕や那須信吾、岩村兄弟あたりが著名なんじゃないでしょうかね。

>陪臣や郷士など軽輩の者が身を立てるには
ながい江戸時代を全国的にみると、当事者に学問があるなどの一芸があれば、自藩や他藩や幕府がヘッドハンティング的に引き抜き・登用をおこなうケースも見受けられますけど、"基本的には"一握りの稀なケースなんでしょうね、これも。

ただ、"身分の上昇"は難いことみたいですが、一代限りの加増や仕事毎の報償・御褒美なんかは全国的にいつの年代でも、結構頻繁にやっているような印象はあります。>江戸時代

富山と冨山
桐野
かわいさん、こんにちは。

川崎大十『「さつま」の姓氏』には、「富山」で立項してあり、「冨山」はないですね。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』では「富山・冨山 とみやま・とやま」と両方を並列で立項してあり、字の違いはないということだと思います。

富山(とみやま)氏はもともと、島津忠久の入部のときから在地していた島津荘の有力な荘官(弁済使)だったようです。由緒のある家だったと思われます。

また同上書には、「富山」(とやま)氏から「外山」氏が分かれたとも書いてありますが、たしかに「外山」(とやま)という名字も鹿児島には比較的多いですね。



身分の流動化
桐野
松裕堂さん、お久しぶりです。

土佐藩の陪臣の事例、有難うございました。
田中光顕や那須兄弟や岩村兄弟がそうでしたか。
土佐勤王党やその流れを引く陸援隊に属している人ばかりですね。

やはり陪臣や郷士層が社会的発言力をもつには徒党・結社を組む必要があったのでしょうね。
学問や武芸など一芸に秀でた人もいたでしょうが、やはりレアケースだと思われます。

その意味では、幕末は陪臣・郷士にも活躍の場を与えてくれる可能性に満ちた時代だったといえるかもしれません。土佐国内だと、いつまでも上士にバカにされていても、いったん藩外に出ると、そんな差別からある程度解放されるという自由感があったのでしょうね。
武市瑞山がそうした人々から慕われた理由が何となくわかる気がします。

藩組織の枠を超えた有志組織がなぜ幕末に叢生したのか、それらの組織の政治的立場の違いを超えて共通項を見出すという意味で、幕末史研究の重要な一翼ではないかと思います。



外山
ばんない
身分の流動化を求めるとなると、新撰組なども同じ流れに位置づけられるのかも知れませんね。

ところで、外山という苗字が富山(冨山)と同じとは、字面からは全然分かりませんでした。
外山というと、今年の春頃、一部でかなり有名になった人がいましたよね。この人は鹿児島出身だそうです(苦笑)

"神"となった新選組隊士
板倉丈浩
おはようございます。
富山弥兵衛については、市居浩一氏の『新選組・高台寺党』(新人物往来社)が詳しいですね(といっても、そんなに詳しい履歴を伝える史料はないようなんですが・・・)。

富山の名乗りについては、『近世殉国一人一首伝』(城兼文編・明治2年刊)に「富山四郎太忠全、初名弥兵衛」とあります。
ちなみに、辞世は「から人は死してぞ止まめ我はまた なな世をかけて国につくさん」というもので、戦死したときに彼の懐中に書き置きがあったということです。
常に死を覚悟して捨て身で行動していた、ということでしょうか。
こういう「七生報国」の和歌は藤堂平助も残しており、いわゆる高台寺党の中では強かった考えなのかもしれません。

富山の勇死を憐れんだ地元村民は彼を神として祀り、この神社に祈念するとなぜか兵役に行かずに済むという御利益があったそうです。
富山は京都霊山神社や新潟護国神社、靖国神社にも合祀されており、市居氏は「よくよく神様に縁がある男」と評しています(^^;
「富山神社」は昭和36年9月に台風で倒壊して、その後、跡地(新潟県三島郡出雲崎町吉水、教念寺境内)には「薩摩藩士 富山四郎豊國之碑」と刻まれた石碑が建っているとのこと。

なお、柏崎招魂場にあった富山の墓は、昭和20年7月に軍用道路建設にあたって撤去され、その後どうなったかわからないとのことですが、招魂場の人名表には「薩州藩 富山弥兵衛豊國」とあるそうです。
京都東山戒光寺にも伊東甲子太郎・藤堂平助ら他の高台寺党の人々と並んで彼の墓があり、それには「富山四郎源豊國」と刻まれているようです。


富山正利
桐野
板倉さん、こんにちは。

富山弥兵衛についての情報有難うございます。
いろんな神様になったというのは面白いですね。

そういえば、市居浩一著『新選組 高台寺党』は、私も一応持っているのを思い出しました。
富山の最期の地や碑の写真などが載っておりますね。

富山の実名についても、忠全や豊国など諸説あるようですが、もうひとつ「正利」という説もありました。
『新選組史料集』(新人物往来社)に、三樹三郎の子孫らしい小野圭次郎氏の論考がありますが、そのなかに三樹三郎の日記らしきものが収録されています。
その慶応4年正月三日条(鳥羽伏見の戦いが勃発した日)に、公家の綾小路俊実邸に高台寺党の連中が集結していますが、そのなかに「富山正利」という人物がいます。これは同弥兵衛しか考えられないと思います。

さて、実名はどれなんでしょうね。あるいは何度か改名したのかもしれませんが。


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コメント
この記事へのコメント
こんばんは。
他藩においても陪臣というのは似たような立場だったんでしょうか。薩摩藩だけ特別弱かったんでしょうか。

ところで「富山」と書いて「とみやま」と読むんですか。当方ATOKを使っていますが「とみやま」と打っても「富山」に一応変換するようです。
鹿児島風の言い方?といえば、「垂水」も「たるみず」と読みますね。関西では「たるみ」です。
2007/08/18(Sat) 22:47 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
陪臣
ばんないさん、こんばんは。

他藩の陪臣はすぐに思いつきませんが、新選組や海援隊にも陪臣や軽輩身分が多いですね。
たしか岡田以蔵も陪臣だったような。
伊藤博文は陪臣じゃなかったですかね?(うろおぼえ)

陪臣や郷士など軽輩の者が身を立てるには正規のルートではダメで、たとえば文久年間の尊攘運動に身を投じるとか、新選組や陸援隊・海援隊など、あまり身分を問わない有志組織に属するという変則的な方法をとるしかなかったと思います。

垂水の読みはよく間違えられますね。
伊地知も「いちじ」と読まれることが多いです。
頴娃とか今給黎とか祁答院とか難しい名字や地名が多い土地柄です(笑)。


2007/08/19(Sun) 22:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
伊藤については他に詳しい方が多そうですから、詳細な説明はお任せするとして(汗)、ネットで検索した限りでは農民の出身から中間の身分に変わったという経歴があるようですね。

「とみやま」ですが、桐野さんはご存じかどうか分からないのですが『宇宙戦艦ヤマト』の主人公の役を当てた声優が「富山敬」(とみやま けい)という方でした。但し、この方鹿児島出身ではないようです。

鹿児島は難しい地名が多いですね。読み方もさることながら、余り使われない漢字が多いのも理由かと思います。「○原」も「○ばる」といいますよね。これは隣県の知事のおかげで急に読める人多くなってそうですが。
2007/08/19(Sun) 23:34 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
冨山敬
ばんないさん、こんにちは。

冨山 敬も「とみやま」でしたか。
私にとっては、「宇宙戦艦ヤマト」の古代よりも「タイガーマスク」の伊達直人ですね(笑)。
ご本人は鹿児島出身じゃないかもしれませんが、父か祖父の代には鹿児島だった可能性がありますね。
そういえば、冨山 敬さんはもう他界されているんですか。銀英伝のヤンと一緒に逝ってしまったんですね。
2007/08/20(Mon) 08:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
富山敬
本名の読みも「とみやま」だそうですから、関係があるかもしれませんね。本名の字は「冨山」だそうですが、このへんの微妙な字の違いはどうなんでしょうか。『姓氏家系大辞典』あたりだと同じ扱いですが。
東京出身ということですから、数代で遡ると地方出身者になる可能性は高いですね。私も3代以内で75%まで奥羽越になります。
2007/08/20(Mon) 09:45 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
ご無沙汰しております、松裕堂です。

>桐野さん
>たしか岡田以蔵も陪臣だったような。
岡田以蔵は"藩の足軽"なので、陪臣というわけではなかったハズです。
土佐藩で陪臣として有名なのは、田中光顕や那須信吾、岩村兄弟あたりが著名なんじゃないでしょうかね。

>陪臣や郷士など軽輩の者が身を立てるには
ながい江戸時代を全国的にみると、当事者に学問があるなどの一芸があれば、自藩や他藩や幕府がヘッドハンティング的に引き抜き・登用をおこなうケースも見受けられますけど、"基本的には"一握りの稀なケースなんでしょうね、これも。

ただ、"身分の上昇"は難いことみたいですが、一代限りの加増や仕事毎の報償・御褒美なんかは全国的にいつの年代でも、結構頻繁にやっているような印象はあります。>江戸時代
2007/08/20(Mon) 10:15 | URL  | 松裕堂 #6eUroIng[ 編集]
富山と冨山
かわいさん、こんにちは。

川崎大十『「さつま」の姓氏』には、「富山」で立項してあり、「冨山」はないですね。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』では「富山・冨山 とみやま・とやま」と両方を並列で立項してあり、字の違いはないということだと思います。

富山(とみやま)氏はもともと、島津忠久の入部のときから在地していた島津荘の有力な荘官(弁済使)だったようです。由緒のある家だったと思われます。

また同上書には、「富山」(とやま)氏から「外山」氏が分かれたとも書いてありますが、たしかに「外山」(とやま)という名字も鹿児島には比較的多いですね。

2007/08/20(Mon) 11:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
身分の流動化
松裕堂さん、お久しぶりです。

土佐藩の陪臣の事例、有難うございました。
田中光顕や那須兄弟や岩村兄弟がそうでしたか。
土佐勤王党やその流れを引く陸援隊に属している人ばかりですね。

やはり陪臣や郷士層が社会的発言力をもつには徒党・結社を組む必要があったのでしょうね。
学問や武芸など一芸に秀でた人もいたでしょうが、やはりレアケースだと思われます。

その意味では、幕末は陪臣・郷士にも活躍の場を与えてくれる可能性に満ちた時代だったといえるかもしれません。土佐国内だと、いつまでも上士にバカにされていても、いったん藩外に出ると、そんな差別からある程度解放されるという自由感があったのでしょうね。
武市瑞山がそうした人々から慕われた理由が何となくわかる気がします。

藩組織の枠を超えた有志組織がなぜ幕末に叢生したのか、それらの組織の政治的立場の違いを超えて共通項を見出すという意味で、幕末史研究の重要な一翼ではないかと思います。

2007/08/20(Mon) 11:30 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
外山
身分の流動化を求めるとなると、新撰組なども同じ流れに位置づけられるのかも知れませんね。

ところで、外山という苗字が富山(冨山)と同じとは、字面からは全然分かりませんでした。
外山というと、今年の春頃、一部でかなり有名になった人がいましたよね。この人は鹿児島出身だそうです(苦笑)
2007/08/22(Wed) 23:54 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
"神"となった新選組隊士
おはようございます。
富山弥兵衛については、市居浩一氏の『新選組・高台寺党』(新人物往来社)が詳しいですね(といっても、そんなに詳しい履歴を伝える史料はないようなんですが・・・)。

富山の名乗りについては、『近世殉国一人一首伝』(城兼文編・明治2年刊)に「富山四郎太忠全、初名弥兵衛」とあります。
ちなみに、辞世は「から人は死してぞ止まめ我はまた なな世をかけて国につくさん」というもので、戦死したときに彼の懐中に書き置きがあったということです。
常に死を覚悟して捨て身で行動していた、ということでしょうか。
こういう「七生報国」の和歌は藤堂平助も残しており、いわゆる高台寺党の中では強かった考えなのかもしれません。

富山の勇死を憐れんだ地元村民は彼を神として祀り、この神社に祈念するとなぜか兵役に行かずに済むという御利益があったそうです。
富山は京都霊山神社や新潟護国神社、靖国神社にも合祀されており、市居氏は「よくよく神様に縁がある男」と評しています(^^;
「富山神社」は昭和36年9月に台風で倒壊して、その後、跡地(新潟県三島郡出雲崎町吉水、教念寺境内)には「薩摩藩士 富山四郎豊國之碑」と刻まれた石碑が建っているとのこと。

なお、柏崎招魂場にあった富山の墓は、昭和20年7月に軍用道路建設にあたって撤去され、その後どうなったかわからないとのことですが、招魂場の人名表には「薩州藩 富山弥兵衛豊國」とあるそうです。
京都東山戒光寺にも伊東甲子太郎・藤堂平助ら他の高台寺党の人々と並んで彼の墓があり、それには「富山四郎源豊國」と刻まれているようです。
2007/08/23(Thu) 07:10 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
富山正利
板倉さん、こんにちは。

富山弥兵衛についての情報有難うございます。
いろんな神様になったというのは面白いですね。

そういえば、市居浩一著『新選組 高台寺党』は、私も一応持っているのを思い出しました。
富山の最期の地や碑の写真などが載っておりますね。

富山の実名についても、忠全や豊国など諸説あるようですが、もうひとつ「正利」という説もありました。
『新選組史料集』(新人物往来社)に、三樹三郎の子孫らしい小野圭次郎氏の論考がありますが、そのなかに三樹三郎の日記らしきものが収録されています。
その慶応4年正月三日条(鳥羽伏見の戦いが勃発した日)に、公家の綾小路俊実邸に高台寺党の連中が集結していますが、そのなかに「富山正利」という人物がいます。これは同弥兵衛しか考えられないと思います。

さて、実名はどれなんでしょうね。あるいは何度か改名したのかもしれませんが。
2007/08/24(Fri) 18:39 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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