歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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『信長公記』巻7に、天正2年(1574)正月の祝宴で、信長が朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の頭蓋骨を「薄濃」(はくだみ)にして酒宴に供したという、有名な逸話がある。薄濃とは髑髏に漆を塗って金粉で色づけしたものらしい。
この一件は信長の残虐さを表す証拠のひとつとされていた。

ただし、角川版信長公記の編者(奥野高広・岩澤愿彦両氏)は、馬廻だけの内宴だから意味が違うという注釈を付している。つまり、必ずしも残虐性を意味しないというのだ。

私もそれ以上深く追求したことはなかったが、最近読んだ以下の本に興味深いことが書かれていた。

武田鏡村『織田信長 石山本願寺合戦全史』(ベスト新書、2003)

それによれば、この薄濃は真言立川流の秘儀だというのである。
これは決して非礼の行為ではなく、薄濃にした髑髏を7年間安置して祀れば、8年目に髑髏に魂が甦ってきて、神通力を与えるというとか。
信長は、かれらの髑髏を祀り、その霊力を受けて活力にしたいという思いがあったという。

さて、どこまで信じていいのやら。
奥野・岩澤両氏が必ずしも残虐行為ではないと注釈したことを受けたのか、さらに積極的な解釈を示したことになるが……。
それにしても、信長が真言立川流を信仰していたとはにわかには信じがたい。武田氏は、淫教・邪教として真言宗から否定されたが、民間信仰として広がっていたとする。これも本当なのだろうか?

真言立川流といえば、後醍醐天皇の護持僧文観が思い出される。また網野善彦著「異形の王権」も思い出される。

もっとも、霊力が顕れるという8年目には、本能寺の変が起きてしまった。真言立川流の霊験もいかほどのものだったのか……
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【2007/08/20 10:51】 | 信長
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宿敵を祀る?
こんにちは、胡でございます

この逸話はあまりにも有名だが、その振る舞いはいったいどうやって説明するのか。

井沢元彦氏によれば、それは信長が朝倉義景と浅井長政に対する憎さを示すことであるが、その理由は単なる対戦相手でなく、特に義弟の長政が義景に従い、自分を裏切ったことには信長が耐えられないのである。つまり、単純的な暴虐でなく、期待している義弟の裏切り(義景では多分朝倉氏と織田氏の累代の遺恨を連想する)に応じる行動ではないかと思われる。(信長の長政に対する恨みは想像以上深いから)

したがって、信長はその二人に対して、深く怨んでいたが、「信長公記」の中でも、それから信長がその二つの頭骨をどう扱ったか記してないので、果してそれらを祀っていた証拠は残してないし、さらに、信長は本当に神通力を得るために、宿敵を祀ることは到底考えがたい。

武田説のカギは、当時に真言立川流がいったいどれほど流行されていたかとのことだと思う。

真言立川流
橋場
について言及したのは、明石散人氏の「第六天魔王信長」(だったかな?)が先ですね。

トンデモな方々ばかり(^_^;
かわい
 井沢氏といい明石氏といい、この手の話になるとそっち系の方が大活躍ですな(^_^;。
 ということは、武田氏も?

真言立川流
桐野
胡さん、こんにちは。

仰せのように、信長が果たして髑髏をどう扱ったか不明ですね。真言立川流の秘儀を行ったのなら、何らかの記述があってもおかしくありませんが、ないですね。

真言立川流がこの時代でも普及していたかどうか、私も懐疑的です。

第六天魔王信長?
桐野
はしば殿下、こんにちは。

国会データベースで調べたところ、ご紹介の書籍のタイトル、明石氏ではなく、羽山信樹氏と藤巻一保氏の同名著書ならありました。
明石氏のは『二人の天魔王』でしょうか?

いずれにしろ、網野善彦『異形の王権』の刊行年よりあとですから、網野史観に刺激されたものでしょうね。

真言立川流も髑髏を使用するのは同じですが、この場合、男女の和合水を垂らさないといけないはず。『信長公記』にはそこまで書かれていません(笑)。


第六天信仰
桐野
かわいさん、こんにちは。

明石・武田の諸氏の著作は、髑髏という外形的な類似性からの発想のような気がしますね。
真言立川流の秘儀だというなら、もっと証拠を提出しないと論証したことにはならないと思います。また、信長の寺社政策を見ると、自身が真言立川流にかぶれていたとはどうも考えにくいですね。

あと、信長の天魔のごとき比喩として「第六天魔王」が語られますが、第六天じたいは、御霊信仰に似ており、祟りをなす者を祀ることで、逆に守護神に転化させるものだという考え方もありますね。たとえば、阿修羅や鬼子母神と似たようなものです。

伊豆や相模には、民間に第六天信仰がかなり普及しているそうで、とても天魔だとは思えません。

信長を第六天魔王になぞらえるのも、守護神的な意味合いが本義で、誤読している可能性はないでしょうかね。

参考文献
木村博「伊豆・相模における第六天信仰」 『関東戦国史の研究』所収、後北条氏研究会編、名著出版、1976年


Re:第六天信仰
Tm.
お久しぶりです、Tm.です。

そもそも信長が「第六天魔王」を表明したのは「天台座主」の信玄に対抗してのものであり、私信の上でのことであって、公言してはいなかったと存じます。
そのうえで信長の所業に対して当時の人々が「天魔のごとき」と批難したことを、一部の現代人が曲解したものに過ぎないと言えます。
信長が特段に第六天信仰を持っていたという訳ではないでしょうね。

むしろ太子信仰に興味を抱いていたことが近衛前久の証言などからも知られますね。

信長の宗教観
お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

通説では、信長は無神論者、またはフロイスが言ったように自我神格化をする人物です。でも、最近の学界では(三鬼清一郎氏かな~)、信長は伊勢神宮などの寺社を修復したり、越前の織田剣神社を保護したりしていたため、果して無神論者だったのか疑いですね。

この点について、桐野先生は如何でしょうか?

天台座主と第六天魔王の意味
桐野
Tm.さん、こんにちは。

お久しぶりです。
フロイス記録にある信長と信玄の応酬についてですが、従来の理解でいいのかという疑問もあります。

信玄は信長に焼き打ちされた延暦寺の外護者、あるいは延暦寺の国家鎮護の役割を担うことを称しているわけですが、その趣旨からすれば、「第六天魔王」も、信長が京都(朝廷を含む)の守護者たる意味を込めているという解釈もできるのではないかと思っております。

京都を実際に支配している自分と、遠い甲斐にいる信玄とでは、果たしてどちらが京都を守護できるのか、もはや明らかではないかという優越感が込められていると考えられないでしょうか。

信長の宗教観
桐野
胡さん、こんばんは。

信長は無神論者ではないと、私も思います。信長も中世の人ですから。
伊勢神宮遷宮の寄進その他、信長の宗教活動はいくつかありますね。
とくに熱心に神仏を信仰していたとは思えませんが、それなりに敬意を表していた面はあったかもしれません。『細川家記』だったか、信長は法華経(法華宗だったか?)を信じていると書いてありますが、どうなんでしょうね。安土城天主の何階かの仏間は法華経の世界が描かれているという説もありますね。

一方、信長の自己神格化はどこまで本当なのかということもありますね。
毛利元就、島津日新斎など、戦国大名の始祖も神格化されているとも指摘されていますから、信長もそうだったとしても、必ずしも特別ではないかもしれませんが。

Re:天台座主と第六天魔王の意味
Tm.
桐野先生、どうも。

うろ覚えですが、『太平記』か何かの説明として「第六天魔王」は、仏法の排除と引き換えに天皇家の繁栄を約束する者とされていたかと存じます。
それはすなわち、信玄が標榜した「天台座主」への強烈な否定であり、また将軍の策動に加担していることへの揶揄も込められていたのではないでしょうかね。


京都の守護者
桐野
Tm.さん、こんばんは。

「太平記」にそのような記述がありましたか。今度探してみます。ご教示有難うございました。

もしそのような意味があるとすると、信長は天皇を含む京都の守護者だと宣言したようなものですね。本来なら、延暦寺の役目ですが、まさか信長が延暦寺を称するわけにはいかないので、その代替物として「第六天魔王」を持ち出してきたのでしょうかね?

でも、なぜ第六天魔王なのか、よくわかりません。
毘沙門天でも大日如来でもいいような気がしますが。
一応、仏法の守護者である天部から選んでいるのは、それなりに意味があるのかもしれませんが。



ばんない
横やり失礼します。

素人の愚問なのですが、
信長の宗教活動?はなかなか複雑なようなのですが、信長の宗教ブレーンっていたんでしょうか。コメントのご指摘などを含めて読んでいくと、信長個人の思いつきで動いていたとは思えないんですが。

信長のブレーン
Tm.
ばんないサンこんちにわ。

>信長の宗教ブレーンっていたんでしょうか。

家康にとっての天海や崇伝のような存在の人物はいませんでしたが、岐阜の地名あるいは「天下布武」の選定者として知られる沢彦宗恩(たくげんそうおん)や、戦国きっての名僧・策彦周良(さくげんしゅうりょう)とも交流があり、その推薦により「安土山ノ記」を記した南化玄興(なんかげんこう)などのほか、吉田神社神主の吉田兼見(よしだかねみ)とは所司代の村井貞勝を通じても付き合いは深く、ルイス・フロイスの証言にある信長の分身としての御神体「盆山」は、その兼見が信長の誕生日に贈ったものであったとみられます。

また信長が義昭を推戴していた時期には、朝廷や幕府そして信長の間を奔走した朝日山日乗(あさひやま?にちじょう)なる人物もいました。


吉田兼見
桐野
ばんないさん、Tm. さん、こんにちは。

すでにTm.さんから詳しいご回答がありましたね。
吉田兼見について、若干補足しますと、元亀4年(1573)、京都・上京の町衆が将軍義昭に味方したので、信長が上京の町を焼き払いますが、そのとき、信長は兼見に「そなたの亡父(兼右)が南都(興福寺)が絶えるとき、北嶺(延暦寺)も破滅し、王城の災いとだと言ったというが、それは本当か」と諮問したところ、兼見は「南都北嶺が絶えると、王城の祟りがあるとよく申しておりましたが、書載文書があるわけではありません」と答えたので、信長も「奇特なり」と喜んで、上京を焼くことにしたという話が、『兼見卿記』に出てきます。

信長も祟りや災いを気にしていたことがうかがえます。

朝山日乗(あさやま・にちじょう)に関しては、信長の政治顧問のような役割をはたしましたが、そのキリスト教排撃論を信長は退けていますね。

盆山の件は、兼見が贈ったというより、信長が強制的に集めたといったほうがいいかもしれません。また信長の誕生日と関連があるかどうかは不明だと思います。信長の誕生日がいつかにも関わっていますが。

誕生日
Tm.
桐野先生どうも。

>信長も祟りや災いを気にしていたことがうかがえます。

まぁ信長自身が気にしていたというより、躊躇を感ずる家臣たちの不安を鎮めるために、一刀両断に斬り捨てるのではなく、神仏や迷信にも向き合ったということではないでしょうか。


>信長の誕生日がいつかにも関わっていますが。

盆山(石)は、実際には建設中の安土城天主一階の書院飾りとして徴収したのでしょうが、『フロイス・日本史』に総見寺での誕生日の祭礼に関連付けて述べられていることから、誕生祝いに託けて献上を命じたということではないでしょうか。
兼見の自慢げな様子から、強制というより、むしろ競って献上されたのではないでしょうかね。


盆山
桐野
Tm. さん、こんばんは。

盆山については、『フロイス日本史』、『信長記』諸本、『兼見卿記』で、それぞれ記述が異なっていますね。

『フロイス日本史』第55章
形態:「一個の石」
安置場所:見寺と思われる寺院の一番高所

陽明本『信長公記』
年次:天正4年(1576)
形態:記述ないが、「石と砂礫で盆の上に山岳の姿をしたもの」という注釈あり。
安置場所:安土城天主1階書院

尊経閣所蔵『安土日記』
年次:天正7年(1579)
安置場所:安土城天主1階書院

『兼見卿記』
年次:天正6年(1578)5月5日に披露
個数:「方々令持参」

時期も、安置場所も、個数も、それぞれ異なりますね。

安土城天主に安置されていたとすると、不特定多数の一般大衆に見学させるのは無理ですし、信長の居住空間ですから、許されないでしょう。
ただ、重臣や公家、堺衆など一部の人間は見学可能だったかもしれません。
津田宗及の『宗及他会記』天正6年正月12日条に「てんしゆ(天主)をはじめ方々拝見」とありますから、陽明本『信長公記』に基づけば、堺衆は盆山を見た可能性がありますね。
そうだとすれば、吉田兼見が進上した盆山ではないことになります。
でも、天正4年に安土城天主が完成していたとは思えませんから、盆山の安置はもっとあと、『兼見卿記』の記事あたりかもしれません。

私が盆山と信長誕生日と関連があるか不明としたのは、盆山が安土城天主に安置されていた場合でして、事実、見寺よりも信憑性が高そうです。太田牛一の記事を信じてのことですが。

見寺に安置されていたとしたら、たしかに一般大衆も見学できたでしょうし、信長誕生日と関わっていたといえるかもしれません。

さて、盆山は天主1階だけでなく、見寺にも安置してあったのでしょうかね?



信長の墓
Tm.
切野先生どうも。

そもそも『フロイス日本史』の記述を鵜呑みに出来ないことは言うまでもありませんね。

『安土日記』によれば天正7年(1579年)の1月25日に村井貞勝が天主を拝見しており、内藤昌氏の考察によれば、他の『信長(公)記』(巻9)において同4年7月ころの記事として掲載されている「安土(山)御天主の次第」は、このときの記録が基になったものであろうとされており、そのことから、天主が一応の完成をみたのもこのころだと考えられています。

したがって、同6年1月12日の時点で津田宗及が天主の内部まで見学した可能性は低いと思われます。当然、天主一階書院の盆山(石)も。

盆石が集められたのはまさに両記録の中間に当たり、実際に信長が天主へ移徙した5月11日(※同7年)という日次にも近く、後者の吉日が信長の誕生日ではないかと考えられていることからも、やはり誕生日の祝いを口実に献上を求められたのではないでしょうか。
そしてその中から、最も見事とされた兼見の盆石が天主の書院に飾られたのではないかと自分は考えます。

はたしてフロイスのいう総見寺の件が事実かどうか定かではありませんが、盆山がある人物から贈られたものだとされていることに引っ掛りを感じています。
何かと信長と関わりのあった兼見のことが、何故か『日本史』には記されていないことにも疑念を感じています。

ちなみに、秀吉が安土城跡の伝二の丸に造営した信長の墓には烏帽子型の一個の石が載せられており、総見寺の件が連想させられますが、あるいはそのことから逆にフロイスがそれを創作したのではないかとも考ています。

安土城天主
桐野
Tm. さん、こんにちは。

『宗久他会記』ですが、仰せの通り、天正6年と同7年に「てんしゆ」「御殿守」を拝見した記事が出てきますね。

どちらも似たような記述なのに、なぜ宗及は天正6年正月に天主を見ていないとされているのか。
『宗久他会記』の記述だけだと、そのようには解釈できないはずですが、ご指摘のように『安土日記』などの記事により、同7年正月に天主が完成しているから、前年に拝見できるはずがないということになっていますね。Tm. さんもその通説に従われたのだろうと思います。

しかし、考えてみればおかしいことで、では、宗及が同6年正月に「てんしゆをはじめ方々拝見」と書いたのは、果たして錯覚なのでしょうか。天主がまだ完成していないはずだから、宗及は未完成の外観を眺めたか、本丸御殿内部を拝見したのではないかという風に、研究者が勝手に解釈して辻褄を合わせているのが現状ではないでしょうか。

宗及はこのとき、黄金の間や「絵之御座敷」を見学しています。これは明らかに天主内部だと思われますが、どうも先行研究はそれを認めたくないようです。私に言わせると、あまり史料解釈が素直だとは思えません。

なぜ、素直な史料解釈が斥けられて、不自然な史料解釈が看過されているのかといえば、安土城天主に関して、史料不足による空白部分があるからではないかと思っております。
だから、宗及の実際の見聞を信じずに、無理な解釈をしているのだと思います。

じつは、この史料不足を解消するある史料について、来月の新聞、雑誌に掲載される予定です。これによって、これまでの安土城の見方が劇的に変わってくると思います。

そのような事情で、現段階ではその史料を提示できませんが、宗及は天正6年正月に天主内部を拝見したと考えています。


とりあえず
ばんない
Tm様、御教示ありがとうございました。
朝山日乗は名前だけ覚えていました。キリスト教がらみで酷い目にあったということしか知られてないような…。吉田兼見は「兼見卿記」の著者ですね。後の二人は初耳でした。

安土山ノ記
Tm.
桐野先生どうも。

新史料なるものにおいて本当に天主の完成時期が明確になるというのであれば別ですが、現状の史料において天正7年正月の完成とみることが決して不自然な解釈だとは思われません。

このときのことを宗及は、「御殿主拝見仕候、上様直ニ被成御案内者候也、御殿主七重、其外ヤウタイ中々難暢筆也、」と記しており、信長自らに案内されての感激のほどが窺い知れますが、同6年正月のそれは「てんしゅをはしめ方々拝見申候、」と素っ気無く、作事中の城内を見学したと解釈しても無理はないと思われます。

続いて「其後、黄金見させられんと候ハん由被成、」との下に、「たつたつ(韃靼?)さんの絵之御座敷」で待機した後に「かうさく(耕作)の絵之御座敷」にて「黄金一万枚ほと」を見たとあるのは、明らかに天主以外の建物における出来事でしょう。
しかもそれに先立つ元日の重臣たちは、茶室でもてなされたのちに御殿を見学したとありますが天主を見たとはありません(『信長(公)記』)。

宗及にだけは特別に見せたということもあるかも知れませんが、その場合、未完成の状態でとは考えられませんから、やはり一応完成していたということになるでしょうね。
ただそれだと、信長の移渡が一年半ほど後であることに疑問がもたれます。

したがって、やはり天正7年正月の完成とみるのが妥当なのではないでしょうか。

それと自分は、「安土(山)御天主の次第」の基になったとされる貞勝の記録が、従来(内藤氏が)言われているような二条御新造の仕様打ち合わせの為のものではなく、正に天主の完成を記念して、策彦、実際は南化玄興に「安土山ノ記」を記させる為の資料であったとみており、そのことからも天主の完成を天正7年正月だと考えています。

甫庵が自らの『信長記』において「安土(山)御天主の次第」を掲載せず「安土山ノ記」を収録したのも、正にそうした意義を把握していたからではないでしょうか。

来月
桐野
Tm.さん、こんにちは。

う~ん。
来月の歴読や新聞を見て下さいませ。

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コメント
この記事へのコメント
宿敵を祀る?
こんにちは、胡でございます

この逸話はあまりにも有名だが、その振る舞いはいったいどうやって説明するのか。

井沢元彦氏によれば、それは信長が朝倉義景と浅井長政に対する憎さを示すことであるが、その理由は単なる対戦相手でなく、特に義弟の長政が義景に従い、自分を裏切ったことには信長が耐えられないのである。つまり、単純的な暴虐でなく、期待している義弟の裏切り(義景では多分朝倉氏と織田氏の累代の遺恨を連想する)に応じる行動ではないかと思われる。(信長の長政に対する恨みは想像以上深いから)

したがって、信長はその二人に対して、深く怨んでいたが、「信長公記」の中でも、それから信長がその二つの頭骨をどう扱ったか記してないので、果してそれらを祀っていた証拠は残してないし、さらに、信長は本当に神通力を得るために、宿敵を祀ることは到底考えがたい。

武田説のカギは、当時に真言立川流がいったいどれほど流行されていたかとのことだと思う。
2007/08/20(Mon) 17:48 | URL  | 胡 #-[ 編集]
真言立川流
について言及したのは、明石散人氏の「第六天魔王信長」(だったかな?)が先ですね。
2007/08/20(Mon) 19:53 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
トンデモな方々ばかり(^_^;
 井沢氏といい明石氏といい、この手の話になるとそっち系の方が大活躍ですな(^_^;。
 ということは、武田氏も?
2007/08/21(Tue) 05:04 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
真言立川流
胡さん、こんにちは。

仰せのように、信長が果たして髑髏をどう扱ったか不明ですね。真言立川流の秘儀を行ったのなら、何らかの記述があってもおかしくありませんが、ないですね。

真言立川流がこの時代でも普及していたかどうか、私も懐疑的です。
2007/08/21(Tue) 15:40 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
第六天魔王信長?
はしば殿下、こんにちは。

国会データベースで調べたところ、ご紹介の書籍のタイトル、明石氏ではなく、羽山信樹氏と藤巻一保氏の同名著書ならありました。
明石氏のは『二人の天魔王』でしょうか?

いずれにしろ、網野善彦『異形の王権』の刊行年よりあとですから、網野史観に刺激されたものでしょうね。

真言立川流も髑髏を使用するのは同じですが、この場合、男女の和合水を垂らさないといけないはず。『信長公記』にはそこまで書かれていません(笑)。
2007/08/21(Tue) 15:49 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
第六天信仰
かわいさん、こんにちは。

明石・武田の諸氏の著作は、髑髏という外形的な類似性からの発想のような気がしますね。
真言立川流の秘儀だというなら、もっと証拠を提出しないと論証したことにはならないと思います。また、信長の寺社政策を見ると、自身が真言立川流にかぶれていたとはどうも考えにくいですね。

あと、信長の天魔のごとき比喩として「第六天魔王」が語られますが、第六天じたいは、御霊信仰に似ており、祟りをなす者を祀ることで、逆に守護神に転化させるものだという考え方もありますね。たとえば、阿修羅や鬼子母神と似たようなものです。

伊豆や相模には、民間に第六天信仰がかなり普及しているそうで、とても天魔だとは思えません。

信長を第六天魔王になぞらえるのも、守護神的な意味合いが本義で、誤読している可能性はないでしょうかね。

参考文献
木村博「伊豆・相模における第六天信仰」 『関東戦国史の研究』所収、後北条氏研究会編、名著出版、1976年
2007/08/21(Tue) 16:12 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
Re:第六天信仰
お久しぶりです、Tm.です。

そもそも信長が「第六天魔王」を表明したのは「天台座主」の信玄に対抗してのものであり、私信の上でのことであって、公言してはいなかったと存じます。
そのうえで信長の所業に対して当時の人々が「天魔のごとき」と批難したことを、一部の現代人が曲解したものに過ぎないと言えます。
信長が特段に第六天信仰を持っていたという訳ではないでしょうね。

むしろ太子信仰に興味を抱いていたことが近衛前久の証言などからも知られますね。
2007/08/21(Tue) 17:40 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
信長の宗教観
お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

通説では、信長は無神論者、またはフロイスが言ったように自我神格化をする人物です。でも、最近の学界では(三鬼清一郎氏かな~)、信長は伊勢神宮などの寺社を修復したり、越前の織田剣神社を保護したりしていたため、果して無神論者だったのか疑いですね。

この点について、桐野先生は如何でしょうか?
2007/08/21(Tue) 17:48 | URL  | 胡 #-[ 編集]
天台座主と第六天魔王の意味
Tm.さん、こんにちは。

お久しぶりです。
フロイス記録にある信長と信玄の応酬についてですが、従来の理解でいいのかという疑問もあります。

信玄は信長に焼き打ちされた延暦寺の外護者、あるいは延暦寺の国家鎮護の役割を担うことを称しているわけですが、その趣旨からすれば、「第六天魔王」も、信長が京都(朝廷を含む)の守護者たる意味を込めているという解釈もできるのではないかと思っております。

京都を実際に支配している自分と、遠い甲斐にいる信玄とでは、果たしてどちらが京都を守護できるのか、もはや明らかではないかという優越感が込められていると考えられないでしょうか。
2007/08/21(Tue) 20:06 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長の宗教観
胡さん、こんばんは。

信長は無神論者ではないと、私も思います。信長も中世の人ですから。
伊勢神宮遷宮の寄進その他、信長の宗教活動はいくつかありますね。
とくに熱心に神仏を信仰していたとは思えませんが、それなりに敬意を表していた面はあったかもしれません。『細川家記』だったか、信長は法華経(法華宗だったか?)を信じていると書いてありますが、どうなんでしょうね。安土城天主の何階かの仏間は法華経の世界が描かれているという説もありますね。

一方、信長の自己神格化はどこまで本当なのかということもありますね。
毛利元就、島津日新斎など、戦国大名の始祖も神格化されているとも指摘されていますから、信長もそうだったとしても、必ずしも特別ではないかもしれませんが。
2007/08/21(Tue) 20:12 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
Re:天台座主と第六天魔王の意味
桐野先生、どうも。

うろ覚えですが、『太平記』か何かの説明として「第六天魔王」は、仏法の排除と引き換えに天皇家の繁栄を約束する者とされていたかと存じます。
それはすなわち、信玄が標榜した「天台座主」への強烈な否定であり、また将軍の策動に加担していることへの揶揄も込められていたのではないでしょうかね。
2007/08/22(Wed) 10:30 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
京都の守護者
Tm.さん、こんばんは。

「太平記」にそのような記述がありましたか。今度探してみます。ご教示有難うございました。

もしそのような意味があるとすると、信長は天皇を含む京都の守護者だと宣言したようなものですね。本来なら、延暦寺の役目ですが、まさか信長が延暦寺を称するわけにはいかないので、その代替物として「第六天魔王」を持ち出してきたのでしょうかね?

でも、なぜ第六天魔王なのか、よくわかりません。
毘沙門天でも大日如来でもいいような気がしますが。
一応、仏法の守護者である天部から選んでいるのは、それなりに意味があるのかもしれませんが。
2007/08/22(Wed) 21:13 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
横やり失礼します。

素人の愚問なのですが、
信長の宗教活動?はなかなか複雑なようなのですが、信長の宗教ブレーンっていたんでしょうか。コメントのご指摘などを含めて読んでいくと、信長個人の思いつきで動いていたとは思えないんですが。
2007/08/22(Wed) 23:34 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
信長のブレーン
ばんないサンこんちにわ。

>信長の宗教ブレーンっていたんでしょうか。

家康にとっての天海や崇伝のような存在の人物はいませんでしたが、岐阜の地名あるいは「天下布武」の選定者として知られる沢彦宗恩(たくげんそうおん)や、戦国きっての名僧・策彦周良(さくげんしゅうりょう)とも交流があり、その推薦により「安土山ノ記」を記した南化玄興(なんかげんこう)などのほか、吉田神社神主の吉田兼見(よしだかねみ)とは所司代の村井貞勝を通じても付き合いは深く、ルイス・フロイスの証言にある信長の分身としての御神体「盆山」は、その兼見が信長の誕生日に贈ったものであったとみられます。

また信長が義昭を推戴していた時期には、朝廷や幕府そして信長の間を奔走した朝日山日乗(あさひやま?にちじょう)なる人物もいました。
2007/08/23(Thu) 10:45 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
吉田兼見
ばんないさん、Tm. さん、こんにちは。

すでにTm.さんから詳しいご回答がありましたね。
吉田兼見について、若干補足しますと、元亀4年(1573)、京都・上京の町衆が将軍義昭に味方したので、信長が上京の町を焼き払いますが、そのとき、信長は兼見に「そなたの亡父(兼右)が南都(興福寺)が絶えるとき、北嶺(延暦寺)も破滅し、王城の災いとだと言ったというが、それは本当か」と諮問したところ、兼見は「南都北嶺が絶えると、王城の祟りがあるとよく申しておりましたが、書載文書があるわけではありません」と答えたので、信長も「奇特なり」と喜んで、上京を焼くことにしたという話が、『兼見卿記』に出てきます。

信長も祟りや災いを気にしていたことがうかがえます。

朝山日乗(あさやま・にちじょう)に関しては、信長の政治顧問のような役割をはたしましたが、そのキリスト教排撃論を信長は退けていますね。

盆山の件は、兼見が贈ったというより、信長が強制的に集めたといったほうがいいかもしれません。また信長の誕生日と関連があるかどうかは不明だと思います。信長の誕生日がいつかにも関わっていますが。
2007/08/23(Thu) 13:01 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
誕生日
桐野先生どうも。

>信長も祟りや災いを気にしていたことがうかがえます。

まぁ信長自身が気にしていたというより、躊躇を感ずる家臣たちの不安を鎮めるために、一刀両断に斬り捨てるのではなく、神仏や迷信にも向き合ったということではないでしょうか。


>信長の誕生日がいつかにも関わっていますが。

盆山(石)は、実際には建設中の安土城天主一階の書院飾りとして徴収したのでしょうが、『フロイス・日本史』に総見寺での誕生日の祭礼に関連付けて述べられていることから、誕生祝いに託けて献上を命じたということではないでしょうか。
兼見の自慢げな様子から、強制というより、むしろ競って献上されたのではないでしょうかね。
2007/08/23(Thu) 18:26 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
盆山
Tm. さん、こんばんは。

盆山については、『フロイス日本史』、『信長記』諸本、『兼見卿記』で、それぞれ記述が異なっていますね。

『フロイス日本史』第55章
形態:「一個の石」
安置場所:見寺と思われる寺院の一番高所

陽明本『信長公記』
年次:天正4年(1576)
形態:記述ないが、「石と砂礫で盆の上に山岳の姿をしたもの」という注釈あり。
安置場所:安土城天主1階書院

尊経閣所蔵『安土日記』
年次:天正7年(1579)
安置場所:安土城天主1階書院

『兼見卿記』
年次:天正6年(1578)5月5日に披露
個数:「方々令持参」

時期も、安置場所も、個数も、それぞれ異なりますね。

安土城天主に安置されていたとすると、不特定多数の一般大衆に見学させるのは無理ですし、信長の居住空間ですから、許されないでしょう。
ただ、重臣や公家、堺衆など一部の人間は見学可能だったかもしれません。
津田宗及の『宗及他会記』天正6年正月12日条に「てんしゆ(天主)をはじめ方々拝見」とありますから、陽明本『信長公記』に基づけば、堺衆は盆山を見た可能性がありますね。
そうだとすれば、吉田兼見が進上した盆山ではないことになります。
でも、天正4年に安土城天主が完成していたとは思えませんから、盆山の安置はもっとあと、『兼見卿記』の記事あたりかもしれません。

私が盆山と信長誕生日と関連があるか不明としたのは、盆山が安土城天主に安置されていた場合でして、事実、見寺よりも信憑性が高そうです。太田牛一の記事を信じてのことですが。

見寺に安置されていたとしたら、たしかに一般大衆も見学できたでしょうし、信長誕生日と関わっていたといえるかもしれません。

さて、盆山は天主1階だけでなく、見寺にも安置してあったのでしょうかね?

2007/08/23(Thu) 23:47 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
信長の墓
切野先生どうも。

そもそも『フロイス日本史』の記述を鵜呑みに出来ないことは言うまでもありませんね。

『安土日記』によれば天正7年(1579年)の1月25日に村井貞勝が天主を拝見しており、内藤昌氏の考察によれば、他の『信長(公)記』(巻9)において同4年7月ころの記事として掲載されている「安土(山)御天主の次第」は、このときの記録が基になったものであろうとされており、そのことから、天主が一応の完成をみたのもこのころだと考えられています。

したがって、同6年1月12日の時点で津田宗及が天主の内部まで見学した可能性は低いと思われます。当然、天主一階書院の盆山(石)も。

盆石が集められたのはまさに両記録の中間に当たり、実際に信長が天主へ移徙した5月11日(※同7年)という日次にも近く、後者の吉日が信長の誕生日ではないかと考えられていることからも、やはり誕生日の祝いを口実に献上を求められたのではないでしょうか。
そしてその中から、最も見事とされた兼見の盆石が天主の書院に飾られたのではないかと自分は考えます。

はたしてフロイスのいう総見寺の件が事実かどうか定かではありませんが、盆山がある人物から贈られたものだとされていることに引っ掛りを感じています。
何かと信長と関わりのあった兼見のことが、何故か『日本史』には記されていないことにも疑念を感じています。

ちなみに、秀吉が安土城跡の伝二の丸に造営した信長の墓には烏帽子型の一個の石が載せられており、総見寺の件が連想させられますが、あるいはそのことから逆にフロイスがそれを創作したのではないかとも考ています。
2007/08/24(Fri) 03:50 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
安土城天主
Tm. さん、こんにちは。

『宗久他会記』ですが、仰せの通り、天正6年と同7年に「てんしゆ」「御殿守」を拝見した記事が出てきますね。

どちらも似たような記述なのに、なぜ宗及は天正6年正月に天主を見ていないとされているのか。
『宗久他会記』の記述だけだと、そのようには解釈できないはずですが、ご指摘のように『安土日記』などの記事により、同7年正月に天主が完成しているから、前年に拝見できるはずがないということになっていますね。Tm. さんもその通説に従われたのだろうと思います。

しかし、考えてみればおかしいことで、では、宗及が同6年正月に「てんしゆをはじめ方々拝見」と書いたのは、果たして錯覚なのでしょうか。天主がまだ完成していないはずだから、宗及は未完成の外観を眺めたか、本丸御殿内部を拝見したのではないかという風に、研究者が勝手に解釈して辻褄を合わせているのが現状ではないでしょうか。

宗及はこのとき、黄金の間や「絵之御座敷」を見学しています。これは明らかに天主内部だと思われますが、どうも先行研究はそれを認めたくないようです。私に言わせると、あまり史料解釈が素直だとは思えません。

なぜ、素直な史料解釈が斥けられて、不自然な史料解釈が看過されているのかといえば、安土城天主に関して、史料不足による空白部分があるからではないかと思っております。
だから、宗及の実際の見聞を信じずに、無理な解釈をしているのだと思います。

じつは、この史料不足を解消するある史料について、来月の新聞、雑誌に掲載される予定です。これによって、これまでの安土城の見方が劇的に変わってくると思います。

そのような事情で、現段階ではその史料を提示できませんが、宗及は天正6年正月に天主内部を拝見したと考えています。
2007/08/24(Fri) 10:27 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
とりあえず
Tm様、御教示ありがとうございました。
朝山日乗は名前だけ覚えていました。キリスト教がらみで酷い目にあったということしか知られてないような…。吉田兼見は「兼見卿記」の著者ですね。後の二人は初耳でした。
2007/08/24(Fri) 16:59 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
安土山ノ記
桐野先生どうも。

新史料なるものにおいて本当に天主の完成時期が明確になるというのであれば別ですが、現状の史料において天正7年正月の完成とみることが決して不自然な解釈だとは思われません。

このときのことを宗及は、「御殿主拝見仕候、上様直ニ被成御案内者候也、御殿主七重、其外ヤウタイ中々難暢筆也、」と記しており、信長自らに案内されての感激のほどが窺い知れますが、同6年正月のそれは「てんしゅをはしめ方々拝見申候、」と素っ気無く、作事中の城内を見学したと解釈しても無理はないと思われます。

続いて「其後、黄金見させられんと候ハん由被成、」との下に、「たつたつ(韃靼?)さんの絵之御座敷」で待機した後に「かうさく(耕作)の絵之御座敷」にて「黄金一万枚ほと」を見たとあるのは、明らかに天主以外の建物における出来事でしょう。
しかもそれに先立つ元日の重臣たちは、茶室でもてなされたのちに御殿を見学したとありますが天主を見たとはありません(『信長(公)記』)。

宗及にだけは特別に見せたということもあるかも知れませんが、その場合、未完成の状態でとは考えられませんから、やはり一応完成していたということになるでしょうね。
ただそれだと、信長の移渡が一年半ほど後であることに疑問がもたれます。

したがって、やはり天正7年正月の完成とみるのが妥当なのではないでしょうか。

それと自分は、「安土(山)御天主の次第」の基になったとされる貞勝の記録が、従来(内藤氏が)言われているような二条御新造の仕様打ち合わせの為のものではなく、正に天主の完成を記念して、策彦、実際は南化玄興に「安土山ノ記」を記させる為の資料であったとみており、そのことからも天主の完成を天正7年正月だと考えています。

甫庵が自らの『信長記』において「安土(山)御天主の次第」を掲載せず「安土山ノ記」を収録したのも、正にそうした意義を把握していたからではないでしょうか。
2007/08/24(Fri) 23:20 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
来月
Tm.さん、こんにちは。

う~ん。
来月の歴読や新聞を見て下さいませ。
2007/08/25(Sat) 12:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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