桐野先生、こんばんは。
島津実久、島津義虎、川上忠克、川上久朗など、出水は優秀な薩摩武士を輩出している印象があります。特に久朗は18歳で家老や守護代に任命されたというから、すごいです。
もし実久が伊作・相州家に勝っていたら、日新斎や貴久が「国賊」になっていたかもしれない。そう思うと、歴史の面白さを改めて感じます。ただ、どう転んでても島津勝久の評価は低かったでしょう。
国賊と酷評されている実久と同じで、中興の祖と謳われている日新斎忠良も薩摩藩の藩史では正統な家督(当主)と認められないようですね。(儒教の名分論による)
一方、正統な宗家当主と認められている貴久にかかわる評価や著書は少ない、伊作島津氏が宗家を継いで薩摩守家を撃退するのは忠良の功績と認識されていて、貴久が「三州統一」キャンペーンでの功績はその父と四人の子供より少ないと感じる。
以上はいかがですか。
今回のさつま人国誌も大変興味深く拝見しました。
勝久の評価が上がってこないのは結果論として致し方ない気もしますが、勝久の父親の忠昌は、分家、国人をまとめきれずに自殺したくらいに、当時の島津本宗家の力は衰えていましたので、勝久もパワーバランスでなんとか守護職としての権威を保つように画策するしかなかったのではないかと思います。送っていただいた山口氏の論文の中に、南薩の領地を実久が放棄する代わりに守護職を容認するという提案を忠良がしたという記述がありました。実久が蹴って実現しなかったようですが、そのくらい薩州家の力は強大だったのですね。薩州家と相州家の力の違いに着目してみれば、この時代の情勢はわかりやすくなりますね。
市川さん、こんにちは。
川上久朗、川上忠克も出水出身でしょうか?
これは知りませんでした。『本藩人物誌』では、出水と縁があるようには書かれていないのですが……。史料をご存じでしたら教えて下さいませ。
川上久朗については、義久と特殊な関係にあったのではないかと言われていますね。もっとも、菱刈氏との戦いで戦傷死したのは、義久ではなく義弘を庇ってのものですが。13カ所もの深手を負っていたというから、よほどの奮戦だったのでしょうね。
胡さん、こんにちは。
日新斎は相州島津家の当主ではありましたが、仰せのように、本宗家の当主にはなっていませんね。日新斎が勝久よりも年上だったことが大きいのでしょう。儒教的名分論の影響ともいえるでしょうし、日新斎が本宗家を継げば、いかにも野望ありありに見えて、他の分家や国人の反発を受けたかもしれません。貴久への家督というのは賢明なやり方だったと思います。
貴久については、一応伝記もあります。
伊地知茂七『島津貴久公』、松原神社三百五十年祭典事務所、1920年
日新斎については、いろは歌関係の本が多くて、本格的な伝記はそれほどありませんね。
いずれにしろ、日新斎や貴久の頃の史料が少ないせいだと思います。
かじやちょうさん、こんにちは。
島津氏の旧・本宗家の衰退に伴う家督争いにすぎず、本来、どちらが正統か否かという問題ではなかったはずですが、江戸時代になると、現・本宗家の歴史と統治を正統化する動きが強くなりますね。とくに重豪の代からそうではないかと思います。鎌倉にわざわざ源頼朝や始祖忠久の墓を建立したりしておりますし。家中の家格秩序が整備されるのも重豪の前後だったと思います。
考えてみれば、実久は一応、勝久から守護職を相続し、10年ほどの統治という既成事実があるわけですから、本来なら、島津氏15代当主と正史に記されてもおかしくないはずです。もっとも、現・本宗家としてはそれを認めるわけにはいかないでしょうね。
もし実久を当主に加えると、代数が一代ずつ後ろにずれることになりますが、義弘と相殺すれば、それ以降は食い違いません(笑)。
横やり失礼します。
島津日新斎忠良の伝記といえば
「日新菩薩記」(『島津史料集』所収)
がありますね。もっともこれ自体が江戸時代に書かれた物なので、なかなかさらさらと読めない代物ですが。あと、タイトルで何となく分かりますが、かなり美化されているのは考慮の上読まなければならないですけど。
…で、これ以後、島津日新斎忠良のまとまった伝記というのは書かれてなかったんでしたっけ(汗)
お詳しく返答いただき、有難うございます。
将来、チャンスがあったら、貴久や日新斎の書籍をもっと読みたい。
胡さん、ばんないさん
日新斎については、ご紹介の「日新菩薩記」が有名ですが、明治以降の著作としては、
渡辺盛衛『島津日新公』 東京啓発会、1910年
というのがあります。念のため。
ほかにも、まだあるかもしれません。
9月8日のコメントについて。
川上忠克、川上久朗の両名が出水出身であることを示す資料を私は知りません。早とちりで二人を「出水出身」と言ったことを恥ずかしながら訂正させていただきます。
市川さん、こんにちは。
お詫びというほどではありませんから、あまり気にされませぬように。
川上忠克は出水出身ではありませんが、薩州家と姻戚関係にありますね。
忠克はもともと本宗家の老中でしたが、実久が守護職となったとき、実久の老中になったと思われます。そして実久との関係を強化するために、娘を実久に嫁がせています。正室なのか側室なのかはわかりません。
実久とその娘の間に生まれたのが、二男の忠継です。
実久が敗北して、現・本宗家の貴久が守護職となったとき、忠克は貴久に許されず、一時期、甑島に配流になっています。のち復活しますが、島流しはやはり、忠克と薩州家の縁の深さゆえでしょうね。