歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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ある史料に書かれていた安土城天主のある事実について、明日15日の朝日新聞朝刊の文化面に記事が載る予定です。
信長や安土城に関心をもっている方には、衝撃的なニュースかもしれない。
よかったら、読んで下さい。

友人と一緒に取材を受けたのはもう1カ月以上前。ようやく今週の社会面に掲載予定と聞いていたところ、ご存じのとおり、政局の激震により遅れてしまったのではないかと思う。何より、政局のしわ寄せを喰って記事が吹っ飛ぶのではないかと内心恐れていた。それでも、文化面に何とか掲載に漕ぎつけたようで安堵。

なお、この件については、今月22日発売の歴史読本11月号にも、詳しい記事が掲載される予定です。小生も別件(明智光秀妹「ツマ木殿」や九鬼水軍の鉄張船など)について書いています。こちらもよろしく。
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【2007/09/14 20:13】 | 信長
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朝日新聞
Tm.
桐野先生どうも。

いよいよ明日の朝刊に掲載されるのですね。
とかく評判の芳しくない朝日新聞ですが、時折、興味の引かれる歴史関係の記事が掲載されるので、安くはない代金を払い取っていた甲斐も、これであろうかと思われます。
先ずは明朝、配達されてくるのを楽しみにお待ちしております。

それと、資料の整理が出来ていないので所在不明につき詳細をご紹介できませんが、以前、知人より、安土城の評判を伝え聞いた毛利方でもそれに対抗する築城の動きがあったことを伝えるの史料(吉川OR小早川文書)があることを教えられていたのですが、桐野先生はご存知でしょうか?
自分の知る限り、今だかって公(関連書誌)には紹介されていないようなのですが。

ついにですか
中村武生
桐野さま
中村武生です
 心待ちにしておりました。
 どれだけ「ここだけのはなしやけどな」といいかけたか。
 明日からやっと口にすることができます。
 うれしいです。

毛利両川
桐野
Tm. さん、こんばんは。

明日の記事で、安土城天主について曖昧だったり、矛盾しているようにみえた部分がだいぶ氷解するのではないかと思っています。そのうち、ご感想をお聞かせ下さい。

毛利側の史料、吉川家文書、小早川家文書ともあるのですが、全部見ておりません。少し調べてみます。

太閤堤
桐野
中村武生さん、こんばんは。

以前、ご相談に乗っていただき有難うございました。
ようやく形になりそうです。

そういえば、最近発掘された太閤堤?についてのご意見拝察。やはりと思いました。
じつは、私も以前、大坂の陣のとき、大坂方が徳川方を大坂城に近づけないために、太閤堤を切ったという史料をもとに、それが予想外に大規模な水没をもたらしたのではないかと書いたことがあります。
その史料にもたしか、淀川左岸を切ったと書いてありました。もともと、太閤堤は淀川などの河川から、大坂城下を守るために築かれたのではないか(だから、工事は左岸だけ)と思うのですが、どうなのでしょうか?


とりあえずの所感を
Tm.
おはようございます桐野先生。

朝日の記事、早速、拝見いたしました。
安土城天主が一度、倒壊していたとは。かなりショッキングな記事ですね。

ただ木戸雅寿さんは、文献と考古、双方の見地から否定されておられるようですね。多分、大方の研究者の方も同じではないかと思われます。
とはいえ、全くあり得なくもない節もあります。

と言うのも、従来より自分は『信長(公)記』の天正6年と同10年の正月の記事に類似性を感じており、なおかつ、4月に信長が右大臣、右大将を辞し、一端は信忠がそれを受け継ぐことが決まっていた(内々に祝いの茶会あり)のではないかと考えていたからです。

その上、早くから安土への行幸が噂されていたにも拘らず、結局は後年まで実現しなかった経緯も然りです。宗及が信長に見せられた「黄金一万枚ほと」には、後々の聚楽第行幸における秀吉の「金配り」を連想していました。

つまり自分は、本来、天正6年という年は、非常にエポックメイキングな年になるハズであったと考えていた訳で、先の信忠への地位の委譲および行幸の延期の一因に、「天主の倒壊」もあったのではないかとも思われます。

まずは取り急ぎ。



安土城天主と信長辞官
桐野
Tmさん、こんにちは。

記事をさっそくご覧になったようで。

木戸さんは案の定、否定的でしたね。私たちもカウンターコメントの内容は記事になるまで知りませんでしたが、おそらくすぐに賛同を得ることはないだろうと予想しておりました。

文献上はともかく、考古学的にありえないといわれると、こちらは素人なので何ともいえませんが、ひとつありうるとすれば、「初代」と「二代目」の天主が同じ場所に建っていたとは限らないという点も顧慮すべきだと思います。

文献上に関していえば、『宗及他会記』天正6年(1578)正月十二日条に「てんしゆをはじめ方々拝見」とあるように、天正5年末には天主が完成していたので、正月にお披露目があったのではないかという気がします。

あと、安土行幸が中止された一件との関連も重要ですね。橋本政宣氏が「言経卿記紙背文書」の解読から、天正5年に安土行幸が予定されていたことを明らかにしました。むろん、実現しておりません。
行幸日程は大まかに決められただけで、安土城とくに天主の工事の進捗状況に規定されていたのではないかと思われます。
その意味では1年遅れの同6年に行幸があってもよかったのですが、倒壊により実現しなかったという推定もできます。

またTmさんが安土城天主と信長辞官を関連づけられているのも興味深いです。私も三職推任の一件から類推して、あり得ることだと思っていました。
信長が右大臣・右大将を辞官したのは天正6年4月9日です。天主倒壊の1カ月ほど前ですね。
信長が1次天主が完成したと思われる時期と相前後して、両官を辞官しているのは単なる偶然では片づけられないような気がします。

いずれにせよ、1次天主の完成、安土行幸、信長辞官はセットにして考えたほうがいいのかもしれません。



今朝の新聞拝読いたしました。
森 俊弘
こちらのブログでははじめまして。
しばらく失礼いたしております。

今朝の新聞を拝読いたしましたが、そうすると「安土日記」の天正7年に配置されている拝見記事は、どのように考えるべきでしょうか。ここで拝見の記録対象になっているのは当然「再建」天主ということになると思いますが、そこに天正5年後半の柱立・上棟とわざわざその経過を記載しているにもかかわらず、実はその間に「倒壊」「再建」を挟んでいた、というのは少々理解に苦しむような気がいたします。

新史料の性格や全文が完全には不明ですのでもとより断言はできませんが、紙面から読み取れる範囲では、指摘のような地震・水害を背景にした「何らかの安土城内での事故」が、風聞として伝えられこのようなかたちで文字として残された可能性を十分に考慮する必要があるように感じております。

当時の政治的動向との関連付けについては、天主の倒壊でなくてもそうした「事故」によるとして説明しても大きく変わりはないと思いますがいかがでしょうか。

一方的で申し訳ありませんが、それでは。

天主
橋場
天正六年五月に倒壊したとすれば、八月に「御山」に千五百人も集めて相撲興行したという『公記』の記述が物理的に不可能になりそうですね。崩落した石垣や天主木材の片づけ、あるいは再普請の人夫でごった返している筈の城内に部外者が大挙して押し寄せる、というおよそ信じられない情景が見られた事になります。
また、この時期安土普請奉行の丹羽長秀をはじめ、織田家の重臣連がことごとく戦場にいて総責任者たりうる者がいない、というのも天主再建論を展開するには厳しいものがありそうに思いました。

お久しぶりです
桐野
森 俊弘さん、こんばんは。

お久しぶりですね。
いつぞやはお世話になりました。

貴重なご意見有難うございます。
ご指摘のように、太田牛一の『信長公記』『安土日記』が「倒壊」「再建」を記していないのは奇異ではありますが、信長にとって不名誉なことなので、一貫して記載しない方針にしたとは考えられないでしょうか。

天正5年後半以降の安土城天主作事の日程ですが、『安土日記』『宗及他会記』によれば、

天正5年
08/24 柱立
11/03 屋上葺合(上棟か)

天正6年
01/12 津田宗及、「てんしゆなど方々拝見」

天正7年
01/11 宗及「御殿守拝見」「御殿守七重」云々
01/25 村井貞勝・林秀貞「忝御殿主をミさせられ候、御殿主ハ七重」云々
05/11 「御殿主へ被移」

天正9年
09/08 狩野永徳・木村次郎左衛門、諸職人頭へ褒美(全作業完了か)

史料不足ではありますが、気づいた点として、

①柱立から葺合まで2カ月余
  →天主作事は意外と短期間でできるのでは?
②宗及が1年をおいて2回天主を見学していることがやや不自然。
  →天正5年末までに天主は一応完成した可能性はないか
  →1度目は外観だけで、2度目は内装が完成したという理解なのか
③天正6年5月の「倒壊」から宗及の2回目の天主見学まで半年ほど。
  →天主「再建」がひととおり完了するのに時間的には何とか間に合うのでは

など、いろいろ考えられそうではありますが、もう少し検討してみたいと思います。






天主普請・作事
桐野
橋場殿下、こんばんは。

ご意見有難うございます。
天正6年8月8月の相撲興行、「御山」といっても、必ずしも頂上の本丸・天主付近とは限らないのではないでしょうか。
余談ですが、興行の目的も工事促進の景気づけのような意味合いはないのかどうか。

丹羽長秀については、ご指摘のように安土城普請の惣奉行ではありますが、あくまで基礎工事にあたる普請までで、天主作事とは無関係ではないかと思います。谷口克広氏も『~辞典』で、丹羽の役割は天正4年内で終わっていたのではないかという見解のようです。

天主の普請・作事については、普請が木村次郎左衛門、作事が大工棟梁の岡部又右衛門の役割が大きいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

改めまして
Tm.
桐野先生どうも。

天主倒壊の件、結論から言えば、文献的には疑わしく、考古学的には立証不可能、建築としては物理的にも無理があると言わざるを得ません。

まず文献的には、本当に完成した天主が倒壊したとすれば大事件であり、他にその記録が見られないのは甚だ疑問であり、信長にとって不名誉なこととはいっても、牛一は天正10年の見寺参道の石垣崩壊事件は記録しており、なによりもフロイスが黙ってはいないと思われます。
ただ、牛一は蛇石にまつわる圧死事件を記していないのですが、フロイスは逆に天正10年の件を記していない訳で、疑問の余地は残りますが。

次に考古学の面でですが、場所を移して再建されとという説は差し置き同じ位置に建てられていたとして、天主台上部が崩壊してしまっている現状では、天主倒壊に伴う石垣の崩壊と積み直しといった証拠を挙げることは不可能です。
その場合、残る礎石に異なる二本の柱の痕跡でも見出されれば別なのですが。

そして再建でのプロセス的な問題ですが、ご指摘の如く、初代天主が極めて短期間で建てられていたとすれば、天正6年の5月に倒壊し、翌正月に内部を公開出来るまでに再建することは出来たかも知れません。ただ、伝えられている天主の建築的仕様からは、とても半年やそこらで再建されたものだとは考えられません。
そしてなによりも、そもそもが天主の作事期間がお考えの様な短期間でなかったと言わねばなりません。

というのも、柱立から葺合まで2カ月余というのはあくまで着工してからの期間であり、実際にはそれ以前の準備期間として、用材の調達、部材としての加工、等々をも考えなければなりません。
安土城天主の場合それがどれ位であったかは定かではありませんが、他にも壁の塗り上げ等々にもかなりの期間を要するものと言わざるを得ません。

ましてや、位置を変えての再建となれば、新たな天主台の造営の期間も考えなければなりませんし、橋場さんもご指摘のように、それ以前の整地作業にも相当の期間を要したと考えられます。
その場合、石垣は崩壊を免れ、その上に倒壊した天主の部材を再利用し再建されたとすれば工期の短縮も図れたかもしれませんが。

おそらく、今回の安土城天主の「倒壊・再建」については、建築学の面でも専門家の方からより高度な反論が寄せられることと存じますが、一つの可能性として、作業用の足場が崩壊するような事故があったのではないでしょうか。
他の史料にその記録がないのも、外聞を憚り緘口令が布かれていたとすれば一応の説明になるかと思いますし、問題の記録は、工事に携わっていた奈良大工の間から漏れ伝わったのではないかとも考えられますが如何でしょう。

>天主普請・作事
橋場
桐野先生
ご指摘、痛み入ります。
天正四年内に丹羽長秀は役目を終えているとの谷口先生のご意見ではありますが、その年内に石垣の積み上げ作業を終えている、というのがミソだと思います。仮に天正六年に倒壊があったとしても、それは天主という「建築物」のみが倒れたわけではなく、必ず土台の石垣が崩落(大雨による緩みが原因?)を伴うものであり、であれば崩落石材の撤去・再積み上げという、ある意味新造時より厄介な作業が必要となります。それを木村氏が単独で差配できたでしょうか。
またその作業には多数の人夫と資材用・作業用のスペースを要するわけで、とても(本丸・天主以外でも)1,500人からの相撲取りを招いて興行する場所の確保と交通整理が可能だったとは思えないのですが。
景気づけのために相撲興行を強行するくらいなら、信長得意の「石引き」を安土でもやった方がいいような(^ー^;)。

「安土日記」における牛一の認識と構成
森 俊弘
丁重なご返事ありがとうございます。

私は「安土日記」そのものが該当する年次箇所に「倒壊」「再建」を記していないことは、仮に「倒壊」「再建」があったものとしても、編纂史料である当記のこと、載ってなくても別に奇異でもないのです。そう思っています。

が、先にも書きましたように、「信長公記」のなかでも比較的早期に書かれたとみられる同記において、原史料をおおむねそのまま引用したと内藤・宮上氏らによって指摘されている安土城の作事記録に付随して、木立・葺合(それもこの一文しか当該記録がない訳で)が記されていること、これが牛一によって天正7年の箇所に置かれていることはやはり看過できないと考えます。「信長にとって不名誉なこと」というのでしたら、先行する「倒壊」天主の工程をわざわざ竣工記録に書かなくてもよさそうなものです。

天主の作事についても、木組みまでは突貫で仕上がったとしても、内外の壁塗りや、内部の木部を覆っていたという漆塗り(下地・布張り作業、漆工、乾燥、研ぎの繰り返し…)の作業はそんな翌天正6年正月に完成状態を拝見できるほどになっているとはちょっと考えにくいです。宗及の二回の拝見も、「作業中の現場見学・あらかた完成後の見学」という2回を想定した方が、「建築拝見・倒壊・再建後拝見」よりも合理的かと考えます。

最後に質問ですが、「先行天主は別の場所に立てられていたのでは」という反論を先のコメントで拝見しましたが、説得力のある具体的場所は想定されておられるのでしょうか。あまり反論として有効でないような印象を受けたもので。

乱文お許しください。それでは。

ご意見ありがとうございました。
桐野
みなさま

いろいろなご意見有難うございました。
散々に書かれてしまいましたね(笑)。

まずは個別の議論など枝葉を脇に置いておき、幹にあたる部分、

○『松雲公採集遺編類纂』の信用性・史料批判
 私が一読した限りでは、天正前半の信長期の主要事件がいくつか書かれています。たとえば、蘭奢待切り取り、天正4年天王寺合戦、九鬼水軍の大船、安土宗論、馬揃え、伊賀攻め、武田攻めなど。これらは他の史料でも裏付けのとれるものばかりで、年次も月日も正確です。また他の史料にはうかがえない事柄も書かれていて、従来の史実を補強するものになっています。

○当該部分と他の史料との整合性
 上記の史料批判から、当該部分もまったくウソを書いているとは思えないのですが、みなさんからご意見・ご批判をいただいて、時間的・物理的に無理もあるのではないかとのご指摘なので、「安土日記」などとの整合性を再度検討したいと思います。

ご意見・ご批判賜り有難うございました。


松雲公
Tm.
桐野先生、どうも。

言われてみれば、前田綱紀こそ「信長研究の泰斗」というべき人物ですね。
おそらくは件の史料のように、現在、他所に伝わっていないものも、例えば『安土日記』がそうですが、蒐集していた可能性はありますね。「天守指図」も然り。

そういった意味では、『松雲公採集遺編類纂』には大変興味がもたれます。いずれ刊行されることがあれば是非購入したいと思いますが、まずは歴読11月号を楽しみにお待ちしております。




御礼
森 俊弘
丁寧なご対応ありがとうございました。
歴読の新刊到来が楽しみです。

今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
それでは。

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コメント
この記事へのコメント
朝日新聞
桐野先生どうも。

いよいよ明日の朝刊に掲載されるのですね。
とかく評判の芳しくない朝日新聞ですが、時折、興味の引かれる歴史関係の記事が掲載されるので、安くはない代金を払い取っていた甲斐も、これであろうかと思われます。
先ずは明朝、配達されてくるのを楽しみにお待ちしております。

それと、資料の整理が出来ていないので所在不明につき詳細をご紹介できませんが、以前、知人より、安土城の評判を伝え聞いた毛利方でもそれに対抗する築城の動きがあったことを伝えるの史料(吉川OR小早川文書)があることを教えられていたのですが、桐野先生はご存知でしょうか?
自分の知る限り、今だかって公(関連書誌)には紹介されていないようなのですが。
2007/09/14(Fri) 23:13 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
ついにですか
桐野さま
中村武生です
 心待ちにしておりました。
 どれだけ「ここだけのはなしやけどな」といいかけたか。
 明日からやっと口にすることができます。
 うれしいです。
2007/09/14(Fri) 23:22 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
毛利両川
Tm. さん、こんばんは。

明日の記事で、安土城天主について曖昧だったり、矛盾しているようにみえた部分がだいぶ氷解するのではないかと思っています。そのうち、ご感想をお聞かせ下さい。

毛利側の史料、吉川家文書、小早川家文書ともあるのですが、全部見ておりません。少し調べてみます。
2007/09/14(Fri) 23:50 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
太閤堤
中村武生さん、こんばんは。

以前、ご相談に乗っていただき有難うございました。
ようやく形になりそうです。

そういえば、最近発掘された太閤堤?についてのご意見拝察。やはりと思いました。
じつは、私も以前、大坂の陣のとき、大坂方が徳川方を大坂城に近づけないために、太閤堤を切ったという史料をもとに、それが予想外に大規模な水没をもたらしたのではないかと書いたことがあります。
その史料にもたしか、淀川左岸を切ったと書いてありました。もともと、太閤堤は淀川などの河川から、大坂城下を守るために築かれたのではないか(だから、工事は左岸だけ)と思うのですが、どうなのでしょうか?
2007/09/14(Fri) 23:55 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
とりあえずの所感を
おはようございます桐野先生。

朝日の記事、早速、拝見いたしました。
安土城天主が一度、倒壊していたとは。かなりショッキングな記事ですね。

ただ木戸雅寿さんは、文献と考古、双方の見地から否定されておられるようですね。多分、大方の研究者の方も同じではないかと思われます。
とはいえ、全くあり得なくもない節もあります。

と言うのも、従来より自分は『信長(公)記』の天正6年と同10年の正月の記事に類似性を感じており、なおかつ、4月に信長が右大臣、右大将を辞し、一端は信忠がそれを受け継ぐことが決まっていた(内々に祝いの茶会あり)のではないかと考えていたからです。

その上、早くから安土への行幸が噂されていたにも拘らず、結局は後年まで実現しなかった経緯も然りです。宗及が信長に見せられた「黄金一万枚ほと」には、後々の聚楽第行幸における秀吉の「金配り」を連想していました。

つまり自分は、本来、天正6年という年は、非常にエポックメイキングな年になるハズであったと考えていた訳で、先の信忠への地位の委譲および行幸の延期の一因に、「天主の倒壊」もあったのではないかとも思われます。

まずは取り急ぎ。

2007/09/15(Sat) 06:59 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
安土城天主と信長辞官
Tmさん、こんにちは。

記事をさっそくご覧になったようで。

木戸さんは案の定、否定的でしたね。私たちもカウンターコメントの内容は記事になるまで知りませんでしたが、おそらくすぐに賛同を得ることはないだろうと予想しておりました。

文献上はともかく、考古学的にありえないといわれると、こちらは素人なので何ともいえませんが、ひとつありうるとすれば、「初代」と「二代目」の天主が同じ場所に建っていたとは限らないという点も顧慮すべきだと思います。

文献上に関していえば、『宗及他会記』天正6年(1578)正月十二日条に「てんしゆをはじめ方々拝見」とあるように、天正5年末には天主が完成していたので、正月にお披露目があったのではないかという気がします。

あと、安土行幸が中止された一件との関連も重要ですね。橋本政宣氏が「言経卿記紙背文書」の解読から、天正5年に安土行幸が予定されていたことを明らかにしました。むろん、実現しておりません。
行幸日程は大まかに決められただけで、安土城とくに天主の工事の進捗状況に規定されていたのではないかと思われます。
その意味では1年遅れの同6年に行幸があってもよかったのですが、倒壊により実現しなかったという推定もできます。

またTmさんが安土城天主と信長辞官を関連づけられているのも興味深いです。私も三職推任の一件から類推して、あり得ることだと思っていました。
信長が右大臣・右大将を辞官したのは天正6年4月9日です。天主倒壊の1カ月ほど前ですね。
信長が1次天主が完成したと思われる時期と相前後して、両官を辞官しているのは単なる偶然では片づけられないような気がします。

いずれにせよ、1次天主の完成、安土行幸、信長辞官はセットにして考えたほうがいいのかもしれません。

2007/09/15(Sat) 10:01 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
今朝の新聞拝読いたしました。
こちらのブログでははじめまして。
しばらく失礼いたしております。

今朝の新聞を拝読いたしましたが、そうすると「安土日記」の天正7年に配置されている拝見記事は、どのように考えるべきでしょうか。ここで拝見の記録対象になっているのは当然「再建」天主ということになると思いますが、そこに天正5年後半の柱立・上棟とわざわざその経過を記載しているにもかかわらず、実はその間に「倒壊」「再建」を挟んでいた、というのは少々理解に苦しむような気がいたします。

新史料の性格や全文が完全には不明ですのでもとより断言はできませんが、紙面から読み取れる範囲では、指摘のような地震・水害を背景にした「何らかの安土城内での事故」が、風聞として伝えられこのようなかたちで文字として残された可能性を十分に考慮する必要があるように感じております。

当時の政治的動向との関連付けについては、天主の倒壊でなくてもそうした「事故」によるとして説明しても大きく変わりはないと思いますがいかがでしょうか。

一方的で申し訳ありませんが、それでは。
2007/09/15(Sat) 10:56 | URL  | 森 俊弘 #mQop/nM.[ 編集]
天主
天正六年五月に倒壊したとすれば、八月に「御山」に千五百人も集めて相撲興行したという『公記』の記述が物理的に不可能になりそうですね。崩落した石垣や天主木材の片づけ、あるいは再普請の人夫でごった返している筈の城内に部外者が大挙して押し寄せる、というおよそ信じられない情景が見られた事になります。
また、この時期安土普請奉行の丹羽長秀をはじめ、織田家の重臣連がことごとく戦場にいて総責任者たりうる者がいない、というのも天主再建論を展開するには厳しいものがありそうに思いました。
2007/09/15(Sat) 12:52 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
お久しぶりです
森 俊弘さん、こんばんは。

お久しぶりですね。
いつぞやはお世話になりました。

貴重なご意見有難うございます。
ご指摘のように、太田牛一の『信長公記』『安土日記』が「倒壊」「再建」を記していないのは奇異ではありますが、信長にとって不名誉なことなので、一貫して記載しない方針にしたとは考えられないでしょうか。

天正5年後半以降の安土城天主作事の日程ですが、『安土日記』『宗及他会記』によれば、

天正5年
08/24 柱立
11/03 屋上葺合(上棟か)

天正6年
01/12 津田宗及、「てんしゆなど方々拝見」

天正7年
01/11 宗及「御殿守拝見」「御殿守七重」云々
01/25 村井貞勝・林秀貞「忝御殿主をミさせられ候、御殿主ハ七重」云々
05/11 「御殿主へ被移」

天正9年
09/08 狩野永徳・木村次郎左衛門、諸職人頭へ褒美(全作業完了か)

史料不足ではありますが、気づいた点として、

①柱立から葺合まで2カ月余
  →天主作事は意外と短期間でできるのでは?
②宗及が1年をおいて2回天主を見学していることがやや不自然。
  →天正5年末までに天主は一応完成した可能性はないか
  →1度目は外観だけで、2度目は内装が完成したという理解なのか
③天正6年5月の「倒壊」から宗及の2回目の天主見学まで半年ほど。
  →天主「再建」がひととおり完了するのに時間的には何とか間に合うのでは

など、いろいろ考えられそうではありますが、もう少し検討してみたいと思います。




2007/09/15(Sat) 23:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天主普請・作事
橋場殿下、こんばんは。

ご意見有難うございます。
天正6年8月8月の相撲興行、「御山」といっても、必ずしも頂上の本丸・天主付近とは限らないのではないでしょうか。
余談ですが、興行の目的も工事促進の景気づけのような意味合いはないのかどうか。

丹羽長秀については、ご指摘のように安土城普請の惣奉行ではありますが、あくまで基礎工事にあたる普請までで、天主作事とは無関係ではないかと思います。谷口克広氏も『~辞典』で、丹羽の役割は天正4年内で終わっていたのではないかという見解のようです。

天主の普請・作事については、普請が木村次郎左衛門、作事が大工棟梁の岡部又右衛門の役割が大きいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
2007/09/15(Sat) 23:58 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
改めまして
桐野先生どうも。

天主倒壊の件、結論から言えば、文献的には疑わしく、考古学的には立証不可能、建築としては物理的にも無理があると言わざるを得ません。

まず文献的には、本当に完成した天主が倒壊したとすれば大事件であり、他にその記録が見られないのは甚だ疑問であり、信長にとって不名誉なこととはいっても、牛一は天正10年の見寺参道の石垣崩壊事件は記録しており、なによりもフロイスが黙ってはいないと思われます。
ただ、牛一は蛇石にまつわる圧死事件を記していないのですが、フロイスは逆に天正10年の件を記していない訳で、疑問の余地は残りますが。

次に考古学の面でですが、場所を移して再建されとという説は差し置き同じ位置に建てられていたとして、天主台上部が崩壊してしまっている現状では、天主倒壊に伴う石垣の崩壊と積み直しといった証拠を挙げることは不可能です。
その場合、残る礎石に異なる二本の柱の痕跡でも見出されれば別なのですが。

そして再建でのプロセス的な問題ですが、ご指摘の如く、初代天主が極めて短期間で建てられていたとすれば、天正6年の5月に倒壊し、翌正月に内部を公開出来るまでに再建することは出来たかも知れません。ただ、伝えられている天主の建築的仕様からは、とても半年やそこらで再建されたものだとは考えられません。
そしてなによりも、そもそもが天主の作事期間がお考えの様な短期間でなかったと言わねばなりません。

というのも、柱立から葺合まで2カ月余というのはあくまで着工してからの期間であり、実際にはそれ以前の準備期間として、用材の調達、部材としての加工、等々をも考えなければなりません。
安土城天主の場合それがどれ位であったかは定かではありませんが、他にも壁の塗り上げ等々にもかなりの期間を要するものと言わざるを得ません。

ましてや、位置を変えての再建となれば、新たな天主台の造営の期間も考えなければなりませんし、橋場さんもご指摘のように、それ以前の整地作業にも相当の期間を要したと考えられます。
その場合、石垣は崩壊を免れ、その上に倒壊した天主の部材を再利用し再建されたとすれば工期の短縮も図れたかもしれませんが。

おそらく、今回の安土城天主の「倒壊・再建」については、建築学の面でも専門家の方からより高度な反論が寄せられることと存じますが、一つの可能性として、作業用の足場が崩壊するような事故があったのではないでしょうか。
他の史料にその記録がないのも、外聞を憚り緘口令が布かれていたとすれば一応の説明になるかと思いますし、問題の記録は、工事に携わっていた奈良大工の間から漏れ伝わったのではないかとも考えられますが如何でしょう。
2007/09/16(Sun) 02:55 | URL  | Tm. #-[ 編集]
>天主普請・作事
桐野先生
ご指摘、痛み入ります。
天正四年内に丹羽長秀は役目を終えているとの谷口先生のご意見ではありますが、その年内に石垣の積み上げ作業を終えている、というのがミソだと思います。仮に天正六年に倒壊があったとしても、それは天主という「建築物」のみが倒れたわけではなく、必ず土台の石垣が崩落(大雨による緩みが原因?)を伴うものであり、であれば崩落石材の撤去・再積み上げという、ある意味新造時より厄介な作業が必要となります。それを木村氏が単独で差配できたでしょうか。
またその作業には多数の人夫と資材用・作業用のスペースを要するわけで、とても(本丸・天主以外でも)1,500人からの相撲取りを招いて興行する場所の確保と交通整理が可能だったとは思えないのですが。
景気づけのために相撲興行を強行するくらいなら、信長得意の「石引き」を安土でもやった方がいいような(^ー^;)。
2007/09/16(Sun) 04:57 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
「安土日記」における牛一の認識と構成
丁重なご返事ありがとうございます。

私は「安土日記」そのものが該当する年次箇所に「倒壊」「再建」を記していないことは、仮に「倒壊」「再建」があったものとしても、編纂史料である当記のこと、載ってなくても別に奇異でもないのです。そう思っています。

が、先にも書きましたように、「信長公記」のなかでも比較的早期に書かれたとみられる同記において、原史料をおおむねそのまま引用したと内藤・宮上氏らによって指摘されている安土城の作事記録に付随して、木立・葺合(それもこの一文しか当該記録がない訳で)が記されていること、これが牛一によって天正7年の箇所に置かれていることはやはり看過できないと考えます。「信長にとって不名誉なこと」というのでしたら、先行する「倒壊」天主の工程をわざわざ竣工記録に書かなくてもよさそうなものです。

天主の作事についても、木組みまでは突貫で仕上がったとしても、内外の壁塗りや、内部の木部を覆っていたという漆塗り(下地・布張り作業、漆工、乾燥、研ぎの繰り返し…)の作業はそんな翌天正6年正月に完成状態を拝見できるほどになっているとはちょっと考えにくいです。宗及の二回の拝見も、「作業中の現場見学・あらかた完成後の見学」という2回を想定した方が、「建築拝見・倒壊・再建後拝見」よりも合理的かと考えます。

最後に質問ですが、「先行天主は別の場所に立てられていたのでは」という反論を先のコメントで拝見しましたが、説得力のある具体的場所は想定されておられるのでしょうか。あまり反論として有効でないような印象を受けたもので。

乱文お許しください。それでは。
2007/09/16(Sun) 06:54 | URL  | 森 俊弘 #mQop/nM.[ 編集]
ご意見ありがとうございました。
みなさま

いろいろなご意見有難うございました。
散々に書かれてしまいましたね(笑)。

まずは個別の議論など枝葉を脇に置いておき、幹にあたる部分、

○『松雲公採集遺編類纂』の信用性・史料批判
 私が一読した限りでは、天正前半の信長期の主要事件がいくつか書かれています。たとえば、蘭奢待切り取り、天正4年天王寺合戦、九鬼水軍の大船、安土宗論、馬揃え、伊賀攻め、武田攻めなど。これらは他の史料でも裏付けのとれるものばかりで、年次も月日も正確です。また他の史料にはうかがえない事柄も書かれていて、従来の史実を補強するものになっています。

○当該部分と他の史料との整合性
 上記の史料批判から、当該部分もまったくウソを書いているとは思えないのですが、みなさんからご意見・ご批判をいただいて、時間的・物理的に無理もあるのではないかとのご指摘なので、「安土日記」などとの整合性を再度検討したいと思います。

ご意見・ご批判賜り有難うございました。
2007/09/16(Sun) 10:33 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
松雲公
桐野先生、どうも。

言われてみれば、前田綱紀こそ「信長研究の泰斗」というべき人物ですね。
おそらくは件の史料のように、現在、他所に伝わっていないものも、例えば『安土日記』がそうですが、蒐集していた可能性はありますね。「天守指図」も然り。

そういった意味では、『松雲公採集遺編類纂』には大変興味がもたれます。いずれ刊行されることがあれば是非購入したいと思いますが、まずは歴読11月号を楽しみにお待ちしております。


2007/09/16(Sun) 11:03 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
御礼
丁寧なご対応ありがとうございました。
歴読の新刊到来が楽しみです。

今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
それでは。
2007/09/17(Mon) 18:58 | URL  | 森 俊弘 #-[ 編集]
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