歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今年発表された論文である。毛利輝元が関ヶ原合戦にどのような立場やビジョンで臨んだのかが述べられている。
従来、優柔不断の日和見主義者と描かれてきた輝元像に修正を迫ろうという意図で書かれたものである。

光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争」 『日本歴史』707号 2007年

興味深い点を列挙すると、

1,輝元・三成の連携による大坂城占拠計画
 武断派七将による石田三成襲撃によって、三成が一方的に蟄居・失脚に追い込まれたわけではなく、三成が輝元と結んで反撃をしようとしていたこと。
その計画は、伏見にいる家康に対して、大坂を掌握して対抗しようというもので、奉行衆の増田らが秀頼を奉じ、輝元が尼崎に布陣して西日本の諸大名を結集したうえで、伏見城下に残っている三成と連携して家康を挟撃しようとする計画だった。
 しかし、大坂城が家康派の小出秀政・片桐且元によって占拠され(背後に城中にいた藤堂高虎の工作あり)、失敗に終わったこと。

2,輝元の素早い上坂
 輝元の凡庸さを示すものとして、これまで不用意な上坂が取りあげられてきた。家康の会津出陣ののち、安国寺恵瓊に上坂しないと秀頼への逆心と見なされると脅されて、あわてて上坂したとされているが、どうもそうではなく、輝元はあらかじめ大坂城占拠に備えていたとする。
 その根拠は、毛利秀元が輝元の大坂到着の当日かその2日前に、家康の本拠だった西の丸を占拠して徳川方の留守居を追い出していること。これは当日、上坂した輝元の命によるものか、事前に秀元が輝元から命じられていたか、どちらかとしか考えられず、いずれにしても、輝元が大坂城占拠に積極的だったことを示していること。

3,大坂占拠後の輝元の行動
 これが一番重要だろう。大坂城を占拠して西軍の旗頭となりながら、なぜ輝元は家康との対決に消極的だったのか?
 この点について、光成論文は、輝元はあくまで自己の権益拡大を優先しており、三成ら奉行衆と一体化していたという、従来の二項対立的な理解に収斂させていけないと強調している。
 その代わりに提示するのが、伊予への侵攻、黒田如水の動きを警戒した門司城の占拠、大友吉統の豊後回復支援など、一連の西国での軍事行動。輝元がこのように毛利領国周辺の勢力拡大にこだわった理由を、関白秀次改易後の文禄4年の秀頼宛ての起請文「坂西之儀は輝元并隆景に申し付くべく候」という、秀吉が輝元に西国仕置権を与えたことに求めている。
 また、家康に対しては中立を守り、正面衝突するつもりはなかったが、吉川広家らが家康に与してしまったことは誤算で、計画が挫折してしまったとする。
 しかし、この論法で、輝元像を修正できたことになるかどうか、いささか疑問である。拙著でも、輝元の立場を家康VS三成、武断派VS吏僚派といった二項対立ではとらえられないと書いたことがある。
 家康が豊臣公儀の占拠、掌握を目的として、そのためにもてる力を集中しているのにくらべ、せっかく大坂を占拠し、秀頼を手中にしながら、豊臣公儀の掌握に積極的でない輝元という従来のイメージを変えられたとは思えない。家康との対決を回避して、豊臣公儀の掌握はないだろうに。

それはさておき、この論文には、ほかにも興味深い点が書かれていた。
家康と上杉景勝が縁組みをしようとしていたこと。吉川広家が親徳川だった理由が秀元の領知配分問題で、家康が広家に有利な裁定を下したことなど。

それにしても、大名たちは自分勝手で自己利益ばかり考えているように見える。たとえば、秀元は家康に親近感をもちながら、家康が留守の大坂城西の丸を占拠したり、石田三成の配下だった寺沢広高がいつの間にか東軍に属したり、加藤清正も一時期輝元に味方するかもしれなかったりと、秀吉死後、譜代・外様を問わず諸大名はみな自己の権益維持・拡大を動機に動いている。
むしろ、ほぼ一貫してぶれずに明確な目的意識をもっていたのは、家康と三成だけだったのかもしれないなと感じた。


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【2007/09/18 10:49】 | 戦国織豊
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武家
小池
軍事政権は一つ判断を誤る一族滅亡にとどまらず、仕えている関連者全てに影響があるのですから大変です。戦のない世の中を作るための論文誰か書いてください

武家の盛衰
桐野
小池さん、こんばんは。

出張して不在だったため、コメントが遅くなりました。

武家が栄えるか亡びるかは、たしかにそのときの判断ひとつということがありますね。
戦闘員だけならともかく、戦場になった庶民も大変ですし、非戦闘員まで巻き込まれて殺されたり、自害したりします。

そういう世の中はもう御免ですけど、21世紀になっても、戦争はなくなりませんね。人類は全然進歩がないのかもしれません。


大坂占拠後の輝元の行動
板倉丈浩
こんばんは。
別ブログ↓でもコメントしましたが、個人的にちょっと関心を持って調べていたテーマでもあり、非常に興味深い論文でした。
http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/20070601

この論文で言及されていない、輝元と増田長盛ら奉行衆との志向の相違については、『毛利史料集』(人物往来社)P272に記載された、9月3日付け長盛書状が気になっています(閥閲録・佐竹三郎右衛門義眞書出)。
毛利家臣あてのこの書状で、長盛は「本丸・二の丸は"御女房衆"がお断りしているので軍勢は入れないこと。本城に無理に入ろうとするなら討ち果たす」と言明しています。
同書に引用された『佐々部一斎留書』では輝元と長盛が互いに息子を人質として交換していたとする記述もあり(P290)、大坂城本丸の長盛と西の丸の輝元が睨み合っていたかのような印象も受けます。

まだまだリサーチ不足ですが(汗)、西軍「公儀」の中心人物は輝元と長盛であり、輝元が大坂城を一歩も動けなかったのは、公儀内部の主導権争いが原因じゃないかなあと考えています。



桐野
板倉さん、こんにちは。

輝元VS長盛による豊臣公儀の主導権争いですか。もしかして、その延長線上に、長盛による輝元暗殺の噂が出てきたのでしょうか。
面白い見方を有難うございました。

おっとっと
夫婦円満計画 夫
寺沢は奉行仲間だが石田の部下じゃないよ
奉行衆だけど列記とした尾張出身者
加藤・福島とは幼馴染だったりします
東軍に組した理由もそこらへん

関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い
市野澤
こんばんは。
先月に光成準治氏の新しい著書が出版されましたね。先週、注文してきました。

光成氏は論文の内容もさることながら、珍しい名字なので印象が強かったです。

『中・近世移行期大名領国の権力』(校倉書房)
『日本歴史』2007年707号所収「関ヶ原前夜における権力闘争」
を元に『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』は一般向けへ読み易い内容となってそうですね。
目次を見たら、新ネタも入っているようで楽しみです。

光成氏を始め、本郷和人氏・白峰旬氏と近年、関ヶ原合戦を従来の見方と違う視点で延べられる研究者が増えたことを嬉しく思います。
その中でも桐野さんが『乾坤 関ヶ原』で輝元にスポット当てたのを懐かしくも、目のつけ所が速いなぁと改めて思います。

新刊紹介感謝
桐野
市野澤さん、こんにちは。

光成氏の新刊紹介、有難うございます。
新聞広告では見ましたが、未見です。
そのうち入手したいと思います。

光成氏の論考、私もすっかり忘れていましたが、関ヶ原合戦よりかなり早い時期に、毛利-上杉-三成ら奉行衆の連携があったという説でしたね。重要な論点だろうと思います。


主導権争い
御座候
>輝元VS長盛による豊臣公儀の主導権争いですか。もしかして、その延長線上に、長盛による輝元暗殺の噂が出てきたのでしょうか。

今回の光成氏の御著書では明記されていませんでしたが、本書の元となったと思われる2004年の史学会大会報告では、秀頼の後見役のような立場で豊臣公儀を主導できると思って大坂城入りした輝元が、案に相違して長盛らの反発を受けたため(長盛らは奉行衆が豊臣公儀を主導するという構想を持っていた)、自らの戦力を温存しつつ奉行衆と家康をぶつけて漁夫の利を占める方針(西国での勢力圏拡大もその一環)に転換した、といった推論を提示されておられた記憶があります。

史料的根拠が弱いと判断して、御著書に載せるのは見送ったんですかね?

増田長盛
桐野
御座候さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
光成さんの報告は史学会であったのですか。

毛利輝元と増田長盛との路線の違いという観点は大変興味深いのですが、果たして増田に毛利と張り合うだけの実力があるのかという気がします。仮にそうだったら。むしろ、家康の別動的立場だったのでしょうかね?

光成さんの日の目を見なかったという漁夫の利説、じつは小生の拙著(小説ですが)と偶然ながら、同じ発想ですね。

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コメント
この記事へのコメント
武家
軍事政権は一つ判断を誤る一族滅亡にとどまらず、仕えている関連者全てに影響があるのですから大変です。戦のない世の中を作るための論文誰か書いてください
2007/09/18(Tue) 12:40 | URL  | 小池 #PoWRB6fw[ 編集]
武家の盛衰
小池さん、こんばんは。

出張して不在だったため、コメントが遅くなりました。

武家が栄えるか亡びるかは、たしかにそのときの判断ひとつということがありますね。
戦闘員だけならともかく、戦場になった庶民も大変ですし、非戦闘員まで巻き込まれて殺されたり、自害したりします。

そういう世の中はもう御免ですけど、21世紀になっても、戦争はなくなりませんね。人類は全然進歩がないのかもしれません。
2007/09/20(Thu) 23:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
大坂占拠後の輝元の行動
こんばんは。
別ブログ↓でもコメントしましたが、個人的にちょっと関心を持って調べていたテーマでもあり、非常に興味深い論文でした。
http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/20070601

この論文で言及されていない、輝元と増田長盛ら奉行衆との志向の相違については、『毛利史料集』(人物往来社)P272に記載された、9月3日付け長盛書状が気になっています(閥閲録・佐竹三郎右衛門義眞書出)。
毛利家臣あてのこの書状で、長盛は「本丸・二の丸は"御女房衆"がお断りしているので軍勢は入れないこと。本城に無理に入ろうとするなら討ち果たす」と言明しています。
同書に引用された『佐々部一斎留書』では輝元と長盛が互いに息子を人質として交換していたとする記述もあり(P290)、大坂城本丸の長盛と西の丸の輝元が睨み合っていたかのような印象も受けます。

まだまだリサーチ不足ですが(汗)、西軍「公儀」の中心人物は輝元と長盛であり、輝元が大坂城を一歩も動けなかったのは、公儀内部の主導権争いが原因じゃないかなあと考えています。
2007/09/25(Tue) 21:47 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
板倉さん、こんにちは。

輝元VS長盛による豊臣公儀の主導権争いですか。もしかして、その延長線上に、長盛による輝元暗殺の噂が出てきたのでしょうか。
面白い見方を有難うございました。
2007/09/26(Wed) 15:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
おっとっと
寺沢は奉行仲間だが石田の部下じゃないよ
奉行衆だけど列記とした尾張出身者
加藤・福島とは幼馴染だったりします
東軍に組した理由もそこらへん
2009/04/15(Wed) 15:26 | URL  | 夫婦円満計画 夫 #SFo5/nok[ 編集]
関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い
こんばんは。
先月に光成準治氏の新しい著書が出版されましたね。先週、注文してきました。

光成氏は論文の内容もさることながら、珍しい名字なので印象が強かったです。

『中・近世移行期大名領国の権力』(校倉書房)
『日本歴史』2007年707号所収「関ヶ原前夜における権力闘争」
を元に『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』は一般向けへ読み易い内容となってそうですね。
目次を見たら、新ネタも入っているようで楽しみです。

光成氏を始め、本郷和人氏・白峰旬氏と近年、関ヶ原合戦を従来の見方と違う視点で延べられる研究者が増えたことを嬉しく思います。
その中でも桐野さんが『乾坤 関ヶ原』で輝元にスポット当てたのを懐かしくも、目のつけ所が速いなぁと改めて思います。
2009/08/19(Wed) 02:46 | URL  | 市野澤 #-[ 編集]
新刊紹介感謝
市野澤さん、こんにちは。

光成氏の新刊紹介、有難うございます。
新聞広告では見ましたが、未見です。
そのうち入手したいと思います。

光成氏の論考、私もすっかり忘れていましたが、関ヶ原合戦よりかなり早い時期に、毛利-上杉-三成ら奉行衆の連携があったという説でしたね。重要な論点だろうと思います。
2009/08/20(Thu) 16:26 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
主導権争い
>輝元VS長盛による豊臣公儀の主導権争いですか。もしかして、その延長線上に、長盛による輝元暗殺の噂が出てきたのでしょうか。

今回の光成氏の御著書では明記されていませんでしたが、本書の元となったと思われる2004年の史学会大会報告では、秀頼の後見役のような立場で豊臣公儀を主導できると思って大坂城入りした輝元が、案に相違して長盛らの反発を受けたため(長盛らは奉行衆が豊臣公儀を主導するという構想を持っていた)、自らの戦力を温存しつつ奉行衆と家康をぶつけて漁夫の利を占める方針(西国での勢力圏拡大もその一環)に転換した、といった推論を提示されておられた記憶があります。

史料的根拠が弱いと判断して、御著書に載せるのは見送ったんですかね?
2009/08/22(Sat) 14:26 | URL  | 御座候 #vWEeux/c[ 編集]
増田長盛
御座候さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
光成さんの報告は史学会であったのですか。

毛利輝元と増田長盛との路線の違いという観点は大変興味深いのですが、果たして増田に毛利と張り合うだけの実力があるのかという気がします。仮にそうだったら。むしろ、家康の別動的立場だったのでしょうかね?

光成さんの日の目を見なかったという漁夫の利説、じつは小生の拙著(小説ですが)と偶然ながら、同じ発想ですね。
2009/08/22(Sat) 23:30 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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