歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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明日22日発売の歴史読本11月号。

先日紹介した朝日新聞の安土城天主倒壊についての史料紹介と解説記事が掲載されます。執筆者は和田裕弘氏。
興味のある方は読んでみて下さい。地域によっては、店頭に並ぶのが若干遅れるかもしれません。

なお、小生も関連記事として「一乗院門跡尊勢得度と織田権力」を書いております。併せてご覧いただければ幸いです。
記事は、前関白近衛前久の長男尊勢(尊政とも)が興福寺の門跡寺院・一乗院に入室・得度・受戒したいきさつと、織田権力の関わり。とくに明智光秀とその妹「ツマ木殿」の役割についてが中心です。ほかにも九鬼水軍の大船や天正十年閏月問題にも少し触れています。

先日の朝日新聞記事で書かれていない史料の概要をもう一度ご紹介しておきます。

「松雲公採集遺編類纂 記録部」
 金沢市立玉川図書館近世史料館「加越能文庫」所蔵。
 同史料「記録部」第86冊が「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」という長いタイトルで、このなかに安土城天主倒壊の記事があります。
東大寺云々とあるので、東大寺の記録かといえばそうではなく、興福寺の僧侶が書いた私日記の写しです。松永久秀に東大寺が焼き打ちされたため、当時でも、その再建工事が続けられていました。東大寺が古代からの国家鎮護の寺院なので、興福寺もその再建に協力したときの記録だと思います。

先日、みなさんからいろいろご意見をいただきましたが、私が疑問に思っているのは、考古学的な検証は果たして可能なのかという点です。
 朝日新聞の記事では、木戸雅寿氏が文献と考古学の双方の見地から(倒壊は)ありえないというコメントを寄せています。
 しかし、安土城発掘の現状から見て、考古学的にありえないと断言できるでしょうか。
 現・安土城天主では、天守台の中央、礎石のない部分がわずかに発掘されただけで、天守台内部の全面的な発掘が行われたわけではありません。そんな状況で、考古学的にありえないと断言できるのかどうか。また天主の上部構造物の部材である木材や瓦なども、再建のために片づけられるか再利用されるはずで、痕跡が残るとは思えません。
 また、今後発掘が進展したとしても、倒壊したか否かの痕跡を見出すのはとても難しいのではないかという気がします。

とりあえず、文献上の検討が重要ではないかと思っている次第です。

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【2007/09/21 18:22】 | 信長
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考古学的成果と既知の文献情報の優越性への疑問
中村武生
桐野さま
中村武生です
 コメントがおくれて申し訳ありません。

 考古学的成果に関するご意見、まったく賛成です。
 全面発掘ができていないという点ももちろんですが、安土の天守が倒壊していたという視点がまったくなかったうえでの調査ですので、木戸雅寿さんには失礼かと存じまずが(お許しください)「何か」があったとしても見落とされている可能性があると思います。

 文献に関しても、これまで知られていたものに記載されていないというのが反論の大筋かと理解しましたが、何らかの事情で記録されなかった可能性はやはり否定できないと思います。

 まずは新出データの発見をすなおに喜び、是非の判断は今後の課題のひとつにして、既知の史料の再検討やあらたな史料発見をめざすというのが建設的かと存じます。

 見当はずれの節はお見逃しください。

有難うございます
桐野
中村武生さん、こんばんは。

ご意見有難うございます。
新出史料の発見を喜び、既存史料の再検討や新たな史料発見をめざすべきとのご意見、納得することしきりです。
またご教示いただければ幸いです。


天正6年の古記録
桐野
今回の安土天主倒壊の記事が他の史料で裏付けがとれないという点について、少し具体的に述べておきます。

天正前半のこの時期は、文書はともかく、日記類の古記録は決して多くありません。とくに上方事情が系統的にわかるものはほとんどが公家の日記で、それに多聞院日記など僧侶の日記があるくらいです。

たとえば、天正10年(1582)、本能寺の変ののちの安土城炎上についても、『兼見卿記』に「安土放火云々」とあるだけです。これだけでは天主が炎上・倒壊したかはわからないのが実情です。

なお、安土城「上部」が炎上したことがわかるのは外国人が書いた『フロイス日本史』だけです。ほかに編纂史料ですが、『華頂要略』門跡伝第24、青蓮院門跡の項に「安土町為兵火一円滅亡」とありますが、これも天主が燃えたかどうかはわかりません。

ことほどさように、公家や僧侶は武家の城郭の天主に、今日の私たちが抱くほどの関心や思い入れを必ずしももっているわけではないのです。

今回の天主倒壊記事のあった天正6年5月の記事がある現存の古記録は、

多聞院日記
天王寺屋会記
兼見卿記
家忠日記

の4点しかありません。このうち、天王寺屋会記と家忠日記は京都や安土のことを系統的に記述していません。
ですから、兼見卿記と多聞院日記だけが、天主倒壊を記す可能性が高かった史料ですが、「希代」(兼見)の大雨のため、自分たちの身の回りのことが精一杯で、日記も途切れがちです。
同年5月で記載されている日を見ると、

兼見:1,5,6,7,12,16,22
多聞院:1,2,3,13,14,15,16

天主倒壊があったと思われる5月12日前後の記事が手薄です。
本来なら、太田牛一「信長記」諸本に書かれる可能性が一番高いというべきかもしれませんが、ご存じのとおり現在発見されているものには書かれていません。もっとも、本能寺の変後の安土炎上についても、牛一は書いていませんから、似たり寄ったりといえましょう。

これらから、他の史料で裏付けがとれないというのは、有効な反論にはなりえないのではないかと思います。

私はむしろ、前田綱紀が蒐集したこの興福寺関係の記録は、同寺の多聞院日記に匹敵し、その抄録的な史料に位置づけるべきではないかと思っております。




史料の解釈
磯部
桐野先生、こんばんは。
このたび発見された史料は、興福寺の僧が書いたものということですから、たぶん、記録主も天主の倒壊を実見したわけではないでしょう。天正6年当時、安土の天主が倒壊したといううわさがあったことを伝える史料とは言えるでしょう。しかし、情報の出所は不明です。当時、地震などの天災があったことは指摘されていますが、史料的にはこの1点のみをもって、天主倒壊を事実であると考えるのは難しいのではないかと思いました。また、この記述の前の部分が気になります。
ただし、後世の天守では、松本城のように傾いた実例がありますし、秀吉時代の大坂城天守は一度建て直された(改築)という説もありますから、天守倒壊自体はありえないことではないと思います。
『歴史読本』所収の記事では、詳細な分析がなされているものと思いますので、桐野先生の担当記事とともに楽しみにしております。

興福寺などの様子
桐野
磯部さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。
気になっていらっしゃる部分というのは、天主倒壊の記事の前に何が書かれているかということですね?

同年4月26日から安土天主倒壊までが一つ書きになっていて、とくに5月12日から大雨が降って、興福寺内の子院はむろん、各所で被害が出ていると書かれています。
朝日新聞記事で引用されていた「堂塔坊舎破却」は三井寺の被害のことです。写真版が2行しか掲載されなかったので、その部分が載っておりません。

なお、本日発売の歴史読本には、その前半部分も含めて史料写真を掲載し、釈文も添えてありますので、ご覧になって下さい。

天主倒壊の可能性
Tm.
桐野先生、どうも。
歴読11月号の記事、拝読しました。

まずは『松雲公採集遺編類纂 記録』についてですが、今回、新たに光秀の妹「ツマキ」の役割の一端が明らかになったことだけでも十分注目に値するばかりか、加えて「暦問題」の背景にも新たな一面が見えてきたことで、ある意味、同史料は戦国史を塗り替えるのではないかと思われ、今後、更なるご研究を期待申しあげます。

で本筋?とも言うべき「安土城天主の倒壊問題」についてですが、問題記事の前文を拝見したことで一つの疑問が浮かんだのですが、「同アツチ之天主タヲレ畢」に続く「人民死畢」は、単に安土城の件を指しているのではなく、一連の災害に伴ない多くの死者が出たということを述べているのではないでしょうか。もしそうだとすると、「同アツチ之天主タヲレ畢」のもつ重要性もかなり違ってくるのではないかと思われます。

と言うのも、もし本当に天主が倒壊し多くの死者が出たとなれば、たとえ牛一が隠蔽を図ったとしても人々の噂に上ったであろうことは疑いようもなく、繰り返しになりますが、フロイスまでもそれに口を噤んだとは考えられません。ましてや和田さんが「安土宗論」をそれに関連付けていることには大いに疑問がもたれます。

しかも「私之日記」に記されているくらいですから、後代の編纂史料、例えば『当代記』などに記されていたとしても良さそうなものであり、他にそれが見られないということは、実際にはそれほどの大惨事ではなかったと言えるのではないでしょうか。

それに現実問題として、巨大な天主が倒壊したとすれば周囲への被害も小さくなく、ましてや大雨により地盤が緩んでいた処へ地震が襲ったとすれば城内他所にも甚大な被害を及ばしたハズで、それらを含め、僅か半年ばかりで自慢げに公開するまでに復興するのは、如何に信長の強権を以ってしても不可能でしょう。

そこで改めて「同アツチ之天主タヲレ畢」について考えるに、そのこと自体は日記主にとって然程、身近かつ世間を揺るがすような事件ではなかったが故に、何らかの破損や小規模な事故の誤聞であったものの、結果として訂正に至らなかったのではないでしょうか。

今回のこの問題については、今後寄せられるであろう反論に対して、如何に説得力のある反証を提示できるかが重要なポイントなのですが、考古学的には天正10年の焼失や廃城後の石材転用などによって破壊された部分もあり、やはり立証は不可能だと思われます。

ちなみに天主台については、「蛇石」の所在探索もあって地質レーダーによる調査が行なわれていたハズで、地下に別の天主台が埋まっているような報告はありません。


いささか長文になりましたが。


平行線だと思いますが
桐野
Tm. さん、こんばんは。

歴読誌、読んでいただき有難うございます。

個別の議論をしても、おそらく平行線だと思うので、とりあえず史料に即した点だけに絞って申し上げます。

安土宗論との関連については、和田さんの見解なので、私としては答えようがありません。
ただ、天主倒壊とされたときからちょうど一周忌にあたっていたのは事実で、集まった僧侶が法華宗と浄土宗だけかというと、そうでもない気がします。少なくとも五山の禅宗系の僧侶もいるようですから、和田さんもその辺で、何か関連があったのではないかと考えられたかもしれませんね。

「人民死畢」は、安土城天主倒壊に伴う被害だと見るほうが常識的ではないでしょうか。興福寺のことから始まり、奈良のこと、三井寺のこと、安土のことと、各地の被害を述べていますが、いずれも「同(じく)」という接頭辞が付けられておりますので、そのくくりで考えたほうがよいのではないでしょうか。
そこからの連想、推測になりますが、安土城天主付近で死人が出たのは確実だと思われ、それがどの程度の犠牲だったのかはわかりませんが、日記に記したのですから、それほど小さくはなかったのではないかとも考えられます。

考古学的な知見に関しては、こちらは門外漢で関知できないので、あくまで素人なりに考えたところを。
Tm. さんは第一次の天守倒壊があったか否かの考古学的な立証責任が提起したほうに課せられるとお考えでしょうか? そのように読めてしまったもので、誤読だったらお許し下さい。
そうだと仮定してですが、部外者に発掘させてくれるとは思えませんから、技術的に無理ではないでしょうか。むしろ、それなりに信頼できる文献に書かれているわけですから、それを否定する側が考古学的に反証されればよろしいかと思います。

あと天守台の調査に関しては、もし倒壊していたら、天守台丸ごとか、石垣だけは撤去もしくは再利用された可能性もあるわけで、倒壊した残骸が必ずしも天守台下に残っているとは限らないと思います。ただ、地層面に何らかの痕跡が残る可能性は否定しませんが、そのような調査は現段階では行われていないと思います。

あと、性懲りもなく申しますと、仮に第一次倒壊があったとして、同じ場所に再建されたとも限らないと思っています。少なくとも、同じ場所に立てるはずという固定観念からは自由になったほうがよいかと。
リンクさせていただいているブログ「泰巌宗安記」でも、たとえば、伝三の丸はじめ、ほかにも天主候補地があったのではないかという議論もあります。ご参考までに。

それと、これは私の数少なくて狭い城郭見学での知見ですが、かつて浅井氏の小谷城に行ったことがあります。
同城は石垣が少ないのですが、織田方と対陣した面(南側)にたくさん石垣が残っていました。あたかも織田方に誇示するがごとくです。おそらく織田方への視覚的な示威もしくは強がりを意図していたのではないかと思いました。まったくの素人考えかも知れませんが。

一方、安土城ですが、現天主跡は大手門側といいますか、陸地側からは石垣部分などはよく視認できない立地にありませんかね。逆に湖上側からはよく見えるかも知れませんが。
これって、小谷城の事例から見ても、少し不自然ではないでしょうか? 信長ほどの人ですから、自慢の天主の全容を人民に誇示する意図があってもおかしくないと思いますが、現天主がその役割を十全に果たしていたかどうか……。
その意味では、伝三の丸とか、馬場平とか呼ばれる陸地側の尾根部分のほうが、天主のそのような意味での立地条件には適しているといえないこともありません。
あくまで、素朴な疑問としてですが。



人民ではなく、人夫か
横やり失礼します。

もし天主は倒れたら、どうして人民にも波及されたのかと私は考えています。

天主はそのときには、まだ竣工してないし、城下町との距離も遠いのではないでしょうか。そうだとすると、工事中の天主が倒れたとしても、普通に天主ばかりか、武家屋敷にも行けない町民はそれによって死亡したはずはない。

ならば、死んだのは人民ではなく、天主の工場で働いていた人夫とみなしたほうが自然でしょう。つまり、「『人民』死畢」は興福寺僧侶の誤記(人民→人夫)、あるいは誤伝とも言えるでしょう。

安土に移された天主
Tm.
桐野先生どうも。

胡さんからの指摘もありましたが、自分が「人民死畢」を災害全般に係るものと考えたのも、まさに「人民」という表現に違和感を覚えたからで、それこそ「人余多死畢」というのであればまだ納得もいくのですが、他の被害に対しては物的なことしか記されていないこともその理由になりますが如何でしょう。

さて実は今回の問題を考えるなかで、再建云々と別に、果たして天主は一つだけだったのかという疑問を新たに抱いています。おそらく、後々の天守の嚆矢となったのは『信長(公)記』(『安土日記』)に詳細な記録の残されている五層七重のそれであったに違いと思われますが、「泰巌宗安記」でも紹介されているように、築城開始間もない天正4年の3月4日に安土を訪問した吉田兼見は、信長が普請場より戻るのを天主付近で待っていたとその日記に記しています。

いくらなんでもその時点で天主本体が完成していたとは考えられませんから、兼見は天主台付近で待っていたということでしょうか。
そこで改めて「天主」について文献的を当たるに、特に城主の住まう櫓を「天主」と呼んでいたことが窺えます。

その成立背景に疑問がありますが、『信長(公)記・首巻』には信長が清洲城の「北矢蔵天主次の間」にて弟の勘十郎信勝を謀殺したことが記されており、後に信長が将軍義昭の為に築いた「御城」では、「南之楯(櫓)」に続いて西南角に立てられた三重の櫓(『言継卿記』)が「天主」と呼ばれていたことが『兼見卿記』によって知られます。
それらのことからすれば、山頂の主郭部が完成する以前に信長が居所としていた場所に建てられていた櫓もまた「天主」と呼ばれていたのではないでしょうか。

しかも「御城」の天主は安土に移されたらしく(『言継』天正4年9月13日の条)、もしかしたら倒れた「天主」とはその方のことであり、侍女や近習に死者が出たとも考えられないでしょうか。


人夫?
桐野
胡さん、こんにちは。

「人民」という言葉に違和感をお持ちかもしれませんが、この時代、それなりに使われる言葉です。庶民とか、地下人(じげにん)、あるいは支配者に対する被支配者全般を指す言葉だと思います。

この場合の「人民」はご指摘のように、安土城の工事に狩り出されていた人々(人夫)が大多数を占めていたかもしれませんね。
中世や織豊期の武家関係の史料用語で、「人夫」という言葉はけっこう使われていますが、この記録は僧侶が書いていますので、ややもったいぶった表現になっているのではないかと思います。
その意味では、言葉のアヤで、あえてその厳密な違いを追求するほどではないと思っておりますが。


天主、天守、殿守
桐野
Tm. さん、こんにちは。

安土城に天主は一つだけだったのかという疑問をお持ちとか。
かなり本質的な疑問ではないかと思います。

私が想起するのは、安土移転前の信長の居城、岐阜城のことです。信長は山頂に天主を造ってそこに住んでいましたが、山麓にも御殿というか殿守がありましたね。
フロイスの見聞によれば、四層の「宮殿」だったとあります。いわゆる常御殿でしょうね。
言継卿記の記事も併せると、岐阜城について信長は、山頂を私的な生活空間、山麓の御殿を公的な政庁空間という使い分けをしていたと思われます。

一方、安土城はどうなのか。岐阜城のそうしたあり方とは無関係なのかどうかという点になります。
それと関連するかどうかわかりませんが、吉田兼見が日記に書いた「天主近辺」というのがどこなのか気になりますね。
もっと素朴な疑問は、信長は天正4年正月中旬、安土山普請を丹羽長秀に命じると、早くも翌2月23日には岐阜から安土に移っています。わずか1カ月ほどです。
天主の完成が同7年1月だとすると、信長はその間どこに住んでいたのかという疑問が生じます。兼見が書いた「天主」がのちの山頂の天主ではないようにも見えますから、もしかして、天正4年段階の信長の居館を意味しているのか。

あと、用語の問題ですが、天主、天守、殿守といった言葉は同一と見てよいか、たとえば、天主は安土城のそれだけを指す限定的な言葉なのかという点ですが。当時は当て字をよく使っていて、たとえば、吉田兼見は坂本城も「天主」だと書いていますから、厳密な使い分けなどありません。

それでは、天主・天守・殿守の定義は何かということになります。いわゆる日国(日本国語大辞典)には次のようにあります。

【天守・殿守・天主】
城の本丸に築かれた最も高い物見やぐら。天守閣。天守やぐら。

何となく信長以降というか、近世的なにおいのする定義ですね。それも本丸限定の高櫓を意味します。

これに対して、「日葡辞書」には次のようにあります。

【テンシュ(天守)】
日本の城の内につくる、多くの階層から成る木造の塔。

日葡辞書のほうが日国よりも意味が広いです。
たとえば、岐阜城山麓の御殿も「天守」に該当することになりますね。

安土城に天主・天守・殿守様の建物が一つではなく、複数あったのかどうか。また同時期に建っていたのか、あるいは一度倒壊して再建されたのか。
まあ、疑問は山積しておりますね(笑)。


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この記事へのコメント
考古学的成果と既知の文献情報の優越性への疑問
桐野さま
中村武生です
 コメントがおくれて申し訳ありません。

 考古学的成果に関するご意見、まったく賛成です。
 全面発掘ができていないという点ももちろんですが、安土の天守が倒壊していたという視点がまったくなかったうえでの調査ですので、木戸雅寿さんには失礼かと存じまずが(お許しください)「何か」があったとしても見落とされている可能性があると思います。

 文献に関しても、これまで知られていたものに記載されていないというのが反論の大筋かと理解しましたが、何らかの事情で記録されなかった可能性はやはり否定できないと思います。

 まずは新出データの発見をすなおに喜び、是非の判断は今後の課題のひとつにして、既知の史料の再検討やあらたな史料発見をめざすというのが建設的かと存じます。

 見当はずれの節はお見逃しください。
2007/09/21(Fri) 22:16 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
有難うございます
中村武生さん、こんばんは。

ご意見有難うございます。
新出史料の発見を喜び、既存史料の再検討や新たな史料発見をめざすべきとのご意見、納得することしきりです。
またご教示いただければ幸いです。
2007/09/21(Fri) 23:33 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天正6年の古記録
今回の安土天主倒壊の記事が他の史料で裏付けがとれないという点について、少し具体的に述べておきます。

天正前半のこの時期は、文書はともかく、日記類の古記録は決して多くありません。とくに上方事情が系統的にわかるものはほとんどが公家の日記で、それに多聞院日記など僧侶の日記があるくらいです。

たとえば、天正10年(1582)、本能寺の変ののちの安土城炎上についても、『兼見卿記』に「安土放火云々」とあるだけです。これだけでは天主が炎上・倒壊したかはわからないのが実情です。

なお、安土城「上部」が炎上したことがわかるのは外国人が書いた『フロイス日本史』だけです。ほかに編纂史料ですが、『華頂要略』門跡伝第24、青蓮院門跡の項に「安土町為兵火一円滅亡」とありますが、これも天主が燃えたかどうかはわかりません。

ことほどさように、公家や僧侶は武家の城郭の天主に、今日の私たちが抱くほどの関心や思い入れを必ずしももっているわけではないのです。

今回の天主倒壊記事のあった天正6年5月の記事がある現存の古記録は、

多聞院日記
天王寺屋会記
兼見卿記
家忠日記

の4点しかありません。このうち、天王寺屋会記と家忠日記は京都や安土のことを系統的に記述していません。
ですから、兼見卿記と多聞院日記だけが、天主倒壊を記す可能性が高かった史料ですが、「希代」(兼見)の大雨のため、自分たちの身の回りのことが精一杯で、日記も途切れがちです。
同年5月で記載されている日を見ると、

兼見:1,5,6,7,12,16,22
多聞院:1,2,3,13,14,15,16

天主倒壊があったと思われる5月12日前後の記事が手薄です。
本来なら、太田牛一「信長記」諸本に書かれる可能性が一番高いというべきかもしれませんが、ご存じのとおり現在発見されているものには書かれていません。もっとも、本能寺の変後の安土炎上についても、牛一は書いていませんから、似たり寄ったりといえましょう。

これらから、他の史料で裏付けがとれないというのは、有効な反論にはなりえないのではないかと思います。

私はむしろ、前田綱紀が蒐集したこの興福寺関係の記録は、同寺の多聞院日記に匹敵し、その抄録的な史料に位置づけるべきではないかと思っております。


2007/09/21(Fri) 23:35 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
史料の解釈
桐野先生、こんばんは。
このたび発見された史料は、興福寺の僧が書いたものということですから、たぶん、記録主も天主の倒壊を実見したわけではないでしょう。天正6年当時、安土の天主が倒壊したといううわさがあったことを伝える史料とは言えるでしょう。しかし、情報の出所は不明です。当時、地震などの天災があったことは指摘されていますが、史料的にはこの1点のみをもって、天主倒壊を事実であると考えるのは難しいのではないかと思いました。また、この記述の前の部分が気になります。
ただし、後世の天守では、松本城のように傾いた実例がありますし、秀吉時代の大坂城天守は一度建て直された(改築)という説もありますから、天守倒壊自体はありえないことではないと思います。
『歴史読本』所収の記事では、詳細な分析がなされているものと思いますので、桐野先生の担当記事とともに楽しみにしております。
2007/09/22(Sat) 00:54 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
興福寺などの様子
磯部さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。
気になっていらっしゃる部分というのは、天主倒壊の記事の前に何が書かれているかということですね?

同年4月26日から安土天主倒壊までが一つ書きになっていて、とくに5月12日から大雨が降って、興福寺内の子院はむろん、各所で被害が出ていると書かれています。
朝日新聞記事で引用されていた「堂塔坊舎破却」は三井寺の被害のことです。写真版が2行しか掲載されなかったので、その部分が載っておりません。

なお、本日発売の歴史読本には、その前半部分も含めて史料写真を掲載し、釈文も添えてありますので、ご覧になって下さい。
2007/09/22(Sat) 09:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天主倒壊の可能性
桐野先生、どうも。
歴読11月号の記事、拝読しました。

まずは『松雲公採集遺編類纂 記録』についてですが、今回、新たに光秀の妹「ツマキ」の役割の一端が明らかになったことだけでも十分注目に値するばかりか、加えて「暦問題」の背景にも新たな一面が見えてきたことで、ある意味、同史料は戦国史を塗り替えるのではないかと思われ、今後、更なるご研究を期待申しあげます。

で本筋?とも言うべき「安土城天主の倒壊問題」についてですが、問題記事の前文を拝見したことで一つの疑問が浮かんだのですが、「同アツチ之天主タヲレ畢」に続く「人民死畢」は、単に安土城の件を指しているのではなく、一連の災害に伴ない多くの死者が出たということを述べているのではないでしょうか。もしそうだとすると、「同アツチ之天主タヲレ畢」のもつ重要性もかなり違ってくるのではないかと思われます。

と言うのも、もし本当に天主が倒壊し多くの死者が出たとなれば、たとえ牛一が隠蔽を図ったとしても人々の噂に上ったであろうことは疑いようもなく、繰り返しになりますが、フロイスまでもそれに口を噤んだとは考えられません。ましてや和田さんが「安土宗論」をそれに関連付けていることには大いに疑問がもたれます。

しかも「私之日記」に記されているくらいですから、後代の編纂史料、例えば『当代記』などに記されていたとしても良さそうなものであり、他にそれが見られないということは、実際にはそれほどの大惨事ではなかったと言えるのではないでしょうか。

それに現実問題として、巨大な天主が倒壊したとすれば周囲への被害も小さくなく、ましてや大雨により地盤が緩んでいた処へ地震が襲ったとすれば城内他所にも甚大な被害を及ばしたハズで、それらを含め、僅か半年ばかりで自慢げに公開するまでに復興するのは、如何に信長の強権を以ってしても不可能でしょう。

そこで改めて「同アツチ之天主タヲレ畢」について考えるに、そのこと自体は日記主にとって然程、身近かつ世間を揺るがすような事件ではなかったが故に、何らかの破損や小規模な事故の誤聞であったものの、結果として訂正に至らなかったのではないでしょうか。

今回のこの問題については、今後寄せられるであろう反論に対して、如何に説得力のある反証を提示できるかが重要なポイントなのですが、考古学的には天正10年の焼失や廃城後の石材転用などによって破壊された部分もあり、やはり立証は不可能だと思われます。

ちなみに天主台については、「蛇石」の所在探索もあって地質レーダーによる調査が行なわれていたハズで、地下に別の天主台が埋まっているような報告はありません。


いささか長文になりましたが。
2007/09/23(Sun) 03:48 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
平行線だと思いますが
Tm. さん、こんばんは。

歴読誌、読んでいただき有難うございます。

個別の議論をしても、おそらく平行線だと思うので、とりあえず史料に即した点だけに絞って申し上げます。

安土宗論との関連については、和田さんの見解なので、私としては答えようがありません。
ただ、天主倒壊とされたときからちょうど一周忌にあたっていたのは事実で、集まった僧侶が法華宗と浄土宗だけかというと、そうでもない気がします。少なくとも五山の禅宗系の僧侶もいるようですから、和田さんもその辺で、何か関連があったのではないかと考えられたかもしれませんね。

「人民死畢」は、安土城天主倒壊に伴う被害だと見るほうが常識的ではないでしょうか。興福寺のことから始まり、奈良のこと、三井寺のこと、安土のことと、各地の被害を述べていますが、いずれも「同(じく)」という接頭辞が付けられておりますので、そのくくりで考えたほうがよいのではないでしょうか。
そこからの連想、推測になりますが、安土城天主付近で死人が出たのは確実だと思われ、それがどの程度の犠牲だったのかはわかりませんが、日記に記したのですから、それほど小さくはなかったのではないかとも考えられます。

考古学的な知見に関しては、こちらは門外漢で関知できないので、あくまで素人なりに考えたところを。
Tm. さんは第一次の天守倒壊があったか否かの考古学的な立証責任が提起したほうに課せられるとお考えでしょうか? そのように読めてしまったもので、誤読だったらお許し下さい。
そうだと仮定してですが、部外者に発掘させてくれるとは思えませんから、技術的に無理ではないでしょうか。むしろ、それなりに信頼できる文献に書かれているわけですから、それを否定する側が考古学的に反証されればよろしいかと思います。

あと天守台の調査に関しては、もし倒壊していたら、天守台丸ごとか、石垣だけは撤去もしくは再利用された可能性もあるわけで、倒壊した残骸が必ずしも天守台下に残っているとは限らないと思います。ただ、地層面に何らかの痕跡が残る可能性は否定しませんが、そのような調査は現段階では行われていないと思います。

あと、性懲りもなく申しますと、仮に第一次倒壊があったとして、同じ場所に再建されたとも限らないと思っています。少なくとも、同じ場所に立てるはずという固定観念からは自由になったほうがよいかと。
リンクさせていただいているブログ「泰巌宗安記」でも、たとえば、伝三の丸はじめ、ほかにも天主候補地があったのではないかという議論もあります。ご参考までに。

それと、これは私の数少なくて狭い城郭見学での知見ですが、かつて浅井氏の小谷城に行ったことがあります。
同城は石垣が少ないのですが、織田方と対陣した面(南側)にたくさん石垣が残っていました。あたかも織田方に誇示するがごとくです。おそらく織田方への視覚的な示威もしくは強がりを意図していたのではないかと思いました。まったくの素人考えかも知れませんが。

一方、安土城ですが、現天主跡は大手門側といいますか、陸地側からは石垣部分などはよく視認できない立地にありませんかね。逆に湖上側からはよく見えるかも知れませんが。
これって、小谷城の事例から見ても、少し不自然ではないでしょうか? 信長ほどの人ですから、自慢の天主の全容を人民に誇示する意図があってもおかしくないと思いますが、現天主がその役割を十全に果たしていたかどうか……。
その意味では、伝三の丸とか、馬場平とか呼ばれる陸地側の尾根部分のほうが、天主のそのような意味での立地条件には適しているといえないこともありません。
あくまで、素朴な疑問としてですが。

2007/09/23(Sun) 19:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
人民ではなく、人夫か
横やり失礼します。

もし天主は倒れたら、どうして人民にも波及されたのかと私は考えています。

天主はそのときには、まだ竣工してないし、城下町との距離も遠いのではないでしょうか。そうだとすると、工事中の天主が倒れたとしても、普通に天主ばかりか、武家屋敷にも行けない町民はそれによって死亡したはずはない。

ならば、死んだのは人民ではなく、天主の工場で働いていた人夫とみなしたほうが自然でしょう。つまり、「『人民』死畢」は興福寺僧侶の誤記(人民→人夫)、あるいは誤伝とも言えるでしょう。
2007/09/23(Sun) 21:31 | URL  | 胡 #-[ 編集]
安土に移された天主
桐野先生どうも。

胡さんからの指摘もありましたが、自分が「人民死畢」を災害全般に係るものと考えたのも、まさに「人民」という表現に違和感を覚えたからで、それこそ「人余多死畢」というのであればまだ納得もいくのですが、他の被害に対しては物的なことしか記されていないこともその理由になりますが如何でしょう。

さて実は今回の問題を考えるなかで、再建云々と別に、果たして天主は一つだけだったのかという疑問を新たに抱いています。おそらく、後々の天守の嚆矢となったのは『信長(公)記』(『安土日記』)に詳細な記録の残されている五層七重のそれであったに違いと思われますが、「泰巌宗安記」でも紹介されているように、築城開始間もない天正4年の3月4日に安土を訪問した吉田兼見は、信長が普請場より戻るのを天主付近で待っていたとその日記に記しています。

いくらなんでもその時点で天主本体が完成していたとは考えられませんから、兼見は天主台付近で待っていたということでしょうか。
そこで改めて「天主」について文献的を当たるに、特に城主の住まう櫓を「天主」と呼んでいたことが窺えます。

その成立背景に疑問がありますが、『信長(公)記・首巻』には信長が清洲城の「北矢蔵天主次の間」にて弟の勘十郎信勝を謀殺したことが記されており、後に信長が将軍義昭の為に築いた「御城」では、「南之楯(櫓)」に続いて西南角に立てられた三重の櫓(『言継卿記』)が「天主」と呼ばれていたことが『兼見卿記』によって知られます。
それらのことからすれば、山頂の主郭部が完成する以前に信長が居所としていた場所に建てられていた櫓もまた「天主」と呼ばれていたのではないでしょうか。

しかも「御城」の天主は安土に移されたらしく(『言継』天正4年9月13日の条)、もしかしたら倒れた「天主」とはその方のことであり、侍女や近習に死者が出たとも考えられないでしょうか。
2007/09/23(Sun) 22:47 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
人夫?
胡さん、こんにちは。

「人民」という言葉に違和感をお持ちかもしれませんが、この時代、それなりに使われる言葉です。庶民とか、地下人(じげにん)、あるいは支配者に対する被支配者全般を指す言葉だと思います。

この場合の「人民」はご指摘のように、安土城の工事に狩り出されていた人々(人夫)が大多数を占めていたかもしれませんね。
中世や織豊期の武家関係の史料用語で、「人夫」という言葉はけっこう使われていますが、この記録は僧侶が書いていますので、ややもったいぶった表現になっているのではないかと思います。
その意味では、言葉のアヤで、あえてその厳密な違いを追求するほどではないと思っておりますが。
2007/09/24(Mon) 16:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天主、天守、殿守
Tm. さん、こんにちは。

安土城に天主は一つだけだったのかという疑問をお持ちとか。
かなり本質的な疑問ではないかと思います。

私が想起するのは、安土移転前の信長の居城、岐阜城のことです。信長は山頂に天主を造ってそこに住んでいましたが、山麓にも御殿というか殿守がありましたね。
フロイスの見聞によれば、四層の「宮殿」だったとあります。いわゆる常御殿でしょうね。
言継卿記の記事も併せると、岐阜城について信長は、山頂を私的な生活空間、山麓の御殿を公的な政庁空間という使い分けをしていたと思われます。

一方、安土城はどうなのか。岐阜城のそうしたあり方とは無関係なのかどうかという点になります。
それと関連するかどうかわかりませんが、吉田兼見が日記に書いた「天主近辺」というのがどこなのか気になりますね。
もっと素朴な疑問は、信長は天正4年正月中旬、安土山普請を丹羽長秀に命じると、早くも翌2月23日には岐阜から安土に移っています。わずか1カ月ほどです。
天主の完成が同7年1月だとすると、信長はその間どこに住んでいたのかという疑問が生じます。兼見が書いた「天主」がのちの山頂の天主ではないようにも見えますから、もしかして、天正4年段階の信長の居館を意味しているのか。

あと、用語の問題ですが、天主、天守、殿守といった言葉は同一と見てよいか、たとえば、天主は安土城のそれだけを指す限定的な言葉なのかという点ですが。当時は当て字をよく使っていて、たとえば、吉田兼見は坂本城も「天主」だと書いていますから、厳密な使い分けなどありません。

それでは、天主・天守・殿守の定義は何かということになります。いわゆる日国(日本国語大辞典)には次のようにあります。

【天守・殿守・天主】
城の本丸に築かれた最も高い物見やぐら。天守閣。天守やぐら。

何となく信長以降というか、近世的なにおいのする定義ですね。それも本丸限定の高櫓を意味します。

これに対して、「日葡辞書」には次のようにあります。

【テンシュ(天守)】
日本の城の内につくる、多くの階層から成る木造の塔。

日葡辞書のほうが日国よりも意味が広いです。
たとえば、岐阜城山麓の御殿も「天守」に該当することになりますね。

安土城に天主・天守・殿守様の建物が一つではなく、複数あったのかどうか。また同時期に建っていたのか、あるいは一度倒壊して再建されたのか。
まあ、疑問は山積しておりますね(笑)。
2007/09/24(Mon) 16:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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