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南日本新聞連載「さつま人国誌」第25回
― 独立図り、忠辰で断絶―

連載が更新になりました。
左下のリンク欄からご覧になれます。

今回は、薩州島津家関係の最終回で、薩州家断絶の当主だった忠辰(ただとき)を取りあげました。
忠辰の生涯については以前から関心があって、今から15年前、忠辰の400年忌が郷里出水で開催されたときも参加したことがあります。

忠辰について気になっていることが2つあります。
ひとつは、コラムにも書きましたが、その生年と生母のこと。生年が永禄9年(1566)なら、於平(義久長女)が生母だった可能性がだいぶ高くなります。「薩州氏系図」には、生年は間違っていますが、生母は於平だと書かれています。その後、忠辰が本宗家に反逆する形になったため、その関係が史料から消されていった可能性があります。

もうひとつは、薩州島津家の地位について。
これは豊臣秀吉に帰順したときのいきさつにからんでいて、どうやら、所領安堵を受けたとき、本宗家の義弘宛ての領知朱印状および目録とは別立てになって、秀吉朱印状が出された可能性があるのではないかと思っております。
その傍証のひとつをコラムにも書きましたが、この解釈はこれまで先行研究でなされていないのではないかと思います。ほかの解釈の余地がないわけではないと思いますが、忠辰に秀吉朱印状が本宗家宛てとは別に出されたのではないかと推定してみました。

もうひとつ、その傍証としてコラムには紙数の関係で書けませんでしたが、朝鮮出兵で、秀吉が忠辰を改易した理由を義弘に知らせた朱印状があります。そのなかに「泉又太郎(忠辰)事、其方与力として仰せ付けられ候条」云々という一節があるのが気になっています。

つまり、忠辰は義弘の与力(家来ではなく)という形で出陣したことになります。これは、義弘自身が太守ではなく、あくまで太守義久の名代なので直接の主従関係にはないという意味なのか、あるいは薩州島津家が本宗家から独立しており、秀吉の直臣同様の処遇を受けていたため、陣立上は与力になるのか、どちらか解釈に迷うところではありますが、忠辰が強気なのを見ると、秀吉との直接的なつながりをあてにしていたのではないかという節があります。
そのあたりを盛り込んでみました。

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【2007/09/22 14:51】 | さつま人国誌
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島津忠辰の謎
ばんない
こんにちは。昨日は貴ブログを拝見できませんでした。何故でしょう…?(゜_。)?(。_゜)?

さて、「後出しじゃんけん」の件です(^^;)…といっても、前回分で桐野さんが既に指摘されていたように、ポイントは忠辰の生年が2つ(それも大きくかけ離れている!)伝わっている点だと考えています。

御平の生没年は多数の史料に記載があり、父・義久の当時の年齢(御平誕生時18歳)とも矛盾はないと思えますので、天文20年(1551年)生で間違いない物と考えています。
忠辰については
・「諸氏系譜」薩州用久 天文22年
・「本藩人物志」永禄9年 或 天文22年
というデータを今のところ当方では確認しています。今回桐野さんが南日本新聞で挙げられた「薩州氏系図」は「諸氏系譜」所収の薩州用久系図とは違う物なのでしょうか?
「本藩人物志」所収の薩州氏関係のデータは、なかなか興味深い物です。問題の「天文22年生」というデータは「知譜秘略」なる本に「四十一歳ニテ死去」と書いてあるところから持ってきたようですね。この「知譜秘略」という本がどういう本か「本藩人物志」にも説明が無く、現時点では全く分からないのですが…。
また、「諸氏系譜」薩州用久には忠辰らの上に義虎の長女(名前不明)が出ているのですが「他腹」とあります。義虎は御平より七歳上で、御平と結婚する前に別の女性がいたとしても全く不思議ではありません。また「本藩人物志」島津忠清(忠辰の弟)条に
「和泉又太郎忠永 義虎嫡子国賊伝ニ載之又太郎母ハ入来院氏ナルヘシト云々」
という奇妙な書き込みがあります。薩州家は北薩で有力な国人であった渋谷氏一族とはつながりが深く、入来院氏の女性を妻に娶っていても不思議ではないと思われます。

ただ、忠辰を天文二十二年生、母親は御平ではない、とするとそれはそれで大きな疑問が生じます。
(1)忠辰天文二十二年生まれとすると、義虎十歳の時の子供になってしまう
(2)忠辰の母親が御平ではなかったとすると、薩州家の継承に義久初め島津本宗家(相州家)一門が難色を示したのではないかと容易に推測される
という二点です。

話は変わりますが、義虎と於平の間の子供はどちらかというと出来の悪い子供が多かったように見受けられます。忠辰…は実態以上に悪く書かれている可能性がありますので別にして(汗)、次男・忠隣は根白坂の戦いで暴走して結果戦死してますし、島津家久(忠恒)の側室を出した三男・忠清は慶長十四年に島津義久と常久が手引きをするまで何も行動を起こさず加藤清正の元で食客のような生活をしていたようですし、四男・忠栄は世話になっていた島津豊久が戦死した後、豊久の姉と共謀して佐土原領を乗っ取ろうとしています。六男は人質に出された先で早世していますが、薩州家の末路を考えると人質先で酷い目にあってそうなった可能性も考えられる所です。唯一まともだったのが御平の臨終の席に立ち会った五男の忠富(入来院重高)でしょうか。

うーん、何かまとまりが無くなって申し訳ありませんf(^_^;)

忠辰の軍勢
市川
こんにちは。
かなり素朴な疑問ですが、朝鮮に出陣した忠辰の軍勢は大将の死後、薩摩に帰ったんでしょうかね。それともどこかへ合流したんでしょうかね。

入来院氏
桐野
ばんないさん、こんばんは。

昨夜は私も自分のブログが見られませんでした。おそらくブログ運営者のサーバか何かに事故があったのではないかと思います。

「薩州氏系図」はご指摘のように「諸氏系譜三」所収の「薩州用久一流」のことで、そのなかの本家にあたる「薩州氏系図」のつもりで書きましたが、紛らわしかったかもしれません。

本藩人物誌の忠清の項は迂闊にも見てませんでしたね。
忠辰の生母が「入来院氏ナルヘシト云々」とありますが、「入来院文書」末尾にある入来院氏系図を見ても、それらしい女性はいませんね。
あえていえば、12代重朝に女子が一人いて、何もデータが書かれていません。世代的には義虎の夫人もしくは側室になってもおかしくはありませんが、これだけでは何ともいえませんね。

私はコラムでも書いた「島津弥市郎系図」が面白いと思っています。これにより、忠辰の生年は永禄9年でほぼ間違いないのではと思っています。
ただ、同系図は「旧記雑録後編二」に忠辰の部分だけ所載されていて、全容が明らかではありません。「諸氏系譜三」にも収録されていないと思いますが、ばんないさんはご存じですか?

同系図は、於平が忠辰の生母か否かは書いていませんね。どうも、藩政期に作成された系図なので、デリケートな部分はあえて触れなかった可能性がありますね。
「島津弥市郎」は忠栄の子、久基ではないかと推定しましたが、久基は入来院氏16代当主重高(重国)の二男で、忠栄の養子になっていますね。ここには、薩州家と入来院家との縁がありますが、義虎の代はどうだったのか?

さて、あくまで私の妄想ですが、忠辰が於平の子だったとして、島津本宗家の家督問題とまったく無関係だったのかどうかということも気になっております。
最初から、義弘流だけが候補だったのかどうか。血統的には近いかもしれませんが、於平は長女ですから、その長男という血筋は男子のなかった義久にとって無視してよい存在だったのかどうか。あるいは実久の孫という烙印が刻まれていて最初から問題外だったかもしれませんが……。

三百塚
桐野
市川さん、こんばんは。

忠辰の死後、その家臣団がどうなったのか、当然の疑問ですね。果たして朝鮮から帰れたのかどうか。

コラムでは分量の関係でそこまで触れられませんでしたが、家臣団は忠辰の遺骸と共に船で郷里に帰国したようです。はっきりと記録が残っているわけではありませんが、伝承があります。
また「三百塚」という史跡がありまして、忠辰の家来たちが主君に殉じて自害したのを供養したものだといわれています。それだと、300人も殉死したことになるわけですが、さすがに誇大かなと思います。でも、少なくない人数が忠辰のあとを追ったと思われます。

「島津弥市郎系図」
ばんない
こんばんは。

「島津弥市郎系図」は全く初めて聞く名前なので、実はお伺いしようと思っていたところでした。「薩藩旧記雑録 後編」2に載っていると言うことなので、手元にあるコピーをざっと見てみましたが、見落としたのかそこは取ってなかったようです。何頁でしょうか?

歴史研究に「if」は言ってはいけない約束ですが、忠辰が義久の後継者として候補に入っていたかどうかは気になる点です。桃園恵真氏が論文「一向宗禁制と島津家の継承問題」で薩州家系にも義久後継者の資格があったのではないか?というニュアンスの内容を書いてられますが…。

薩州家系は、結局義虎三男の忠清、四男の忠栄、五男の忠富が生きて薩摩に生還しますが、後に入来院氏に婿養子に迎えられた忠富以外は厳しい扱いを受けている印象があります。忠清は娘が家久(忠恒)の側室となり、光久を儲けたにもかかわらず、忠清の息子は跡を嗣がずに新納氏に養子に出されています。忠栄は先述したように佐土原領を横領しようしたと言う前科がありますから、厳しい扱いも致し方ないことかも知れません。ただ、忠栄の後を嗣いだ島津弥市郎(久基?)は実は忠栄の実子ではなくて養子(弟・忠富の子)なんですよね。「諸氏系譜」所収の系図を見る限りでは忠栄には子供もおらず正室・側室もいなかったようです。何故なんでしょう…。
「本藩人物志」国賊伝忠辰には「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」とあり、秀吉に取りつぶされたのが薩州家が未来永劫に再興されなかった理由としていますが…。

あと、市川さんの質問に便乗しますが(汗)、『出水市史』か何かで読んだのですが、忠辰には妻子がいて、秀吉の配下に虐殺された云々という話が伝わっているらしいのですが…。

旧記雑録前編でした
桐野
ばんないさん、こんばんは。

「島津弥市郎系図」の所載先、私が勘違いしてました。後編ではなく前編でした。

『旧記雑録前編二』2704号(906頁)

弥市郎ではなく弥一郎なら、忠辰の五弟、忠富がそう名乗っていました。ただ、忠富はのちに入来院家に養子に入っていますね。関ヶ原で討死した入来院重時の一女の婿になっています。前のコメントで述べた入来院重高(重国)でしたね。うっかりしてました。
この忠富改め重高の子「弥市郎」久基が伯父忠栄の養子になったという関係みたいですね。

あと、忠辰の妻子が処刑されたというのは、『出水市史』はあくまで伝承で記録はないとし、『出水の歴史と物語』は「忠辰の子供は殺され、奥方虎御前は追放され」云々とあります。殺されたのは子供だけで、夫人はそうではないようです。ただ、あくまで伝承です。

秀吉が義弘に宛てた朱印状には、忠辰の処分が次のように書かれています。

「則ち御成敗を加えらるべく候えども、命の儀助け置かれ、知行召し上げられ、其の身は小西摂津守に預け置きなされ候」

忠辰さえ助命されたわけですから、その妻子が殺される理由はないと思います。もっとも、この朱印状ののち、加罰された可能性もありますが。
子供が処刑されたとすれば、豊臣公儀というより、むしろ島津本宗家の命じゃないですかね。義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたいですから、その可能性のある子供を抹殺した。夫人は関係ないので追放に止めたと考えられないこともありません。もっとも、忠辰が義久の孫なら、その子は曾孫になるわけですが……。




ばんない
こんにちは。
「旧記雑録 前編」2ということですね。そこもしっかりコピーを取ってなかった(汗)ので、また機会があるときに取ってきます…。
島津忠栄→久基の系列はその後「島津仲」家として中堅の家老家として残っていったようですから、仲家の所領があった場所の郷土誌に系図が載っているかも知れないです。…所領どこにあったのか分かりませんが_| ̄|○

忠辰の妻子についても御教示ありがとうございました。忠辰の年齢から考えても妻子がいた方が自然ですが、妻の名前はかろうじて伝わっている物のその出身家なども全く未詳だったと記憶しています。
ところで
>義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたい
具体的な史料名が分かれば教えて下さいますか。江戸時代以後もしばらく薩州家の扱いが余り良くなかったようなのは私もコメントで何回も書いていますが、それが義久の遺言による物なのかどうか気になります。


島津仲家
桐野
ばんないさん、こんばんは。

薩州家の系統には、久基が二人いるのではないかと思います。

○忠清流(忠辰三弟)
忠清の死後、新納家からの養子が久基。事実上のお家再興だと思います。これがご指摘の島津仲家だと思います。
家格は寄合だと思います。寄合といっても、『薩陽武鑑』だと、わずか108石ですね。果たして知行地があったのかどうか、疑問ではあります。
ただ、幕末にも島津仲の名前は出てきますので、忠義公史料あたりに何か手がかりがあるかもしれません。今度調べてみます。

○忠栄流(忠辰四弟)
忠栄の養子で、入来院家から来た久基。
こちらは薩州准二男家で、一所持格ですね。

>義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたい

この件については、前回のばんないさんのコメントを読み落としてしまったのですが、ほぼ同趣旨のことを書かれていましたね。私も『諸氏系譜三』の「薩州用久一流」にある忠辰譜から書いただけのものです。


久基違い
ばんない
こんにちは。
まず、「義久の怒り?」の根拠について、回答ありがとうございました。
「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」
が、根拠と言うことですね。

そして、島津仲家の久基は別人でしたか。うーん、実に恥ずかしい。ご指摘ありがとうございました。

島津忠栄の領地ですが、何かきっかけにならないかと思ってもう一度調べてみました。
「諸氏系譜」「本藩人物志」ともに母・御平の領地(の一部)を継いだとあります。「本藩人物志」ではこれが当初は中津川村(おそらく、今のさつま町?)に1200石だったのですが、その後時期不明ながら飯野末永村(今のえびの市?)に替えられたとしています。「諸氏系譜」では微妙に書き方が異なり、中津川村→末永村→牛根(今の垂水市)地頭を務めたとなっています。
死んだ場所は両書とも「牛根」で一致していますが、牛根には忠栄の墓などの関連史跡は残ってないようです、先日『垂水市史』をざっと読んだ限りの情報ですが。何か情報があるとしたら『えびの市史』とか『薩摩町郷土誌』あたりでしょうか。

薩州家は謎が多いですが、この忠栄という人物も島津家久・豊久の系統に微妙な絡み方をしてなかなか怪しげな人物です。しかし他の薩州家出身者同様、情報が乏しいですね。

島津越前守忠栄の墓
佐多
島津越前守忠栄の墓は牛根麓にあります。

http://www2.jomon-no-mori.jp/gis/map_result.asp?Cpage=3&str=SELECT+%2A+FROM+vHdhp+WHERE+%5B%3C%8Es%92%AC%91%BA%5D%3D11+ORDER+BY+%94%D4%8D%86%82P%2C+%94%D4%8D%86%82Q

画像もどこかにあったような気がします。

加世田市史には島津国久は用久の弟とか忠国の子供だとかの伝承があり、謎の多い家ですね。又、立久公より国久へ守護職を譲るのを固辞したとかの伝承もあるようです。いずれも確実な史料は無いもようですが。

貫明寺改め浄珊寺
桐野
佐多さん、お久しぶりです。

垂水牛根の島津忠栄の墓情報有難うございます。
鹿児島の埋文のデータベースは前から知っておりましたが、これは画像がほとんどないので、何とも使えないなと思っておりました。

さて、忠栄の墓も興味深いのですが、データベースにある忠栄の墓の少し上に、浄珊寺跡という史跡があります。簡単なデータが載っておりますが、新城島津家の菩提寺で、最初、貫明寺といったのを寛永2年に浄珊寺に寺名を改めたとのこと。

これは明らかに家久の圧力でしょうね。
貫明といえば、島津義久の法号(貫明存忠庵主)です。新城島津家は義久二女の血統ですから、その法号を冠した寺名をつけた。あるいは義久の遺骨か遺品を埋葬したのかもしれません。明らかに義久への思慕の念によるものでしょうね。
改名された時期は家久の全盛期です。義久を思い出すような寺名は家久には不愉快だったのではないでしょうか。

「越前守」、元貫明寺後浄珊寺
ばんない
こんにちは。

佐多様、島津越前守墓=忠栄墓という情報、ご指摘ありがとうございました。官名はすっかり忘れていたので完全に見落としていました。なので、コピーなど全然取ってなかった…と思ったのですが、偶然コピーした別の頁にスケッチが載っていたので形状を確認できました。この当時の島津家の墓は五輪塔、宝匡印塔、家型などいろいろありますが、忠栄の墓は単なる石灯籠みたいな形状ですね。さすがに灯籠型はこの時代の島津家でも類例がないのではと思いますが…。

元・貫明寺→浄珊寺(現在廃絶)についてですが、これについてはしっかり『垂水市史料集』の該当ページをコピーしていたので、概略が分かります。
慶長16年頃、新城が父・義久の菩提寺として建立した寺とあります(『垂水市史』では説明が異なりますが)。但し、奉じていたのは遺骨ではなく位牌であったようです。寛永17年、島津久章の出奔事件により新城家が廃絶し、その煽りでこの寺は一時廃絶します。その後、久章の遺児・忠清が新城島津家を再興した寛文9年(再建年は『垂水市史』では元禄4年としています)にこの寺も再建されますが、その時に新城の戒名を取り「浄珊寺」と改名したとのことです。『垂水市史』の説明のページもコピーを取っていたのですが、そちらの方は「寛永2年に貫明寺から浄珊寺に改名」とあり、説明が異なります。でも、寛永2年時点ではまだ新城存命ですよね…なんか書いている内容が微妙に違うので、どこまで信用していいのか怪しくなってきました(汗)『三国名勝図絵』の方がちゃんとした説明が載っているかも…。
また、同書に依れば新城の墓は元々貫明寺にあったとのことですが、今は離れた別の場所にあります。おそらく先述の貫明寺廃絶の煽りを食らった物でしょうか。しかしそこまでは『垂水市史料集』にも説明がありませんでした。

義久の遺骨は数カ所に分骨されたようですが、霧島市(旧国分市)の御平の墓そばの分骨墓からは実際に歯が出てきたようですね。時代が時代だったので科学的調査されずに再埋葬されたようなのが残念。
http://www.city-kirishima.jp/modules/page045/index.php?id=3#13

>鹿児島の埋文のデータベース
取りあえず便利そうなのでブックマークしました。
ただ、検索までにかかる時間が長くて重いですね。

御朱印
ばんない
なんか余り薩州家と関係ないところが盛り上がってきたので(私が悪いんですが 爆)ちょっと話を戻して、秀吉政権下に於ける薩州家の扱いについて。

文禄の役の頃、島津家関係者で御朱印をもらっていたというのは
・島津義久(薩摩領主)
・島津義弘(大隅領主)
・島津久保(日向国諸県郡領主)
・島津征久(鹿屋領主?)
・伊集院忠棟(肝付領主?)
あと上記とは別個に
・島津忠豊(佐土原領主)
に発給されたという認識ですが…たぶん間違っているような(汗)
で、薩州家当主・島津忠辰は征久(以久)とか忠棟と同じように本家と一緒に一括発給されたのか、それとも忠豊(豊久)のように別に発給されたか、と言う所が問題なんでしょうか。

御朱印衆
桐野
ばんないさん、こんばんは。

御朱印衆は主に、天正15年、秀吉に降伏したときの所領安堵・所領宛行と、文禄検地のときの領知朱印状や知行方目録に名前のある人ですね。

あと、北郷時久・忠虎父子も該当すると思います。
とくに、伊集院幸侃・島津以久・北郷父子の場合が御朱印衆と呼ばれているようですね。
ただ、単独で朱印状をもらったというより、本家宛ての領知朱印状に、ひとつ書きとして名前がある場合が多いように思います。

他家の例だと、上杉家における直江兼続とか、徳川家の井伊直政、毛利家の宍戸隆家も同様だと思います。もっとも、これらの家はのちの五大老となる武家清華の家で島津家より家格が上ですから、御朱印衆は諸大夫成して官位をもちますね。島津家の御朱印衆は官位をもらっていないはずです。

で、問題は薩州家の忠辰ですが、果たして朱印状をもらったのかどうか。本家宛ての秀吉朱印状には名前がありません。だから、御朱印衆ではないという見方もできます。
ただ、秀吉への降伏のしかたが特殊で、しかも秀吉じきじきに降伏しているので、その際に領知安堵されたのは間違いなく、それが秀吉朱印状だった可能性は高いと思います。
また忠辰改易のとき、薩摩は義弘のものといいながら、島津本家に返さず、収公して自分の蔵入地にしているのも、薩州家領が本家とは別立てだった可能性をうかがわせます。

秀吉朱印状がないので、苦しい推定ですが。

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島津忠辰の謎
こんにちは。昨日は貴ブログを拝見できませんでした。何故でしょう…?(゜_。)?(。_゜)?

さて、「後出しじゃんけん」の件です(^^;)…といっても、前回分で桐野さんが既に指摘されていたように、ポイントは忠辰の生年が2つ(それも大きくかけ離れている!)伝わっている点だと考えています。

御平の生没年は多数の史料に記載があり、父・義久の当時の年齢(御平誕生時18歳)とも矛盾はないと思えますので、天文20年(1551年)生で間違いない物と考えています。
忠辰については
・「諸氏系譜」薩州用久 天文22年
・「本藩人物志」永禄9年 或 天文22年
というデータを今のところ当方では確認しています。今回桐野さんが南日本新聞で挙げられた「薩州氏系図」は「諸氏系譜」所収の薩州用久系図とは違う物なのでしょうか?
「本藩人物志」所収の薩州氏関係のデータは、なかなか興味深い物です。問題の「天文22年生」というデータは「知譜秘略」なる本に「四十一歳ニテ死去」と書いてあるところから持ってきたようですね。この「知譜秘略」という本がどういう本か「本藩人物志」にも説明が無く、現時点では全く分からないのですが…。
また、「諸氏系譜」薩州用久には忠辰らの上に義虎の長女(名前不明)が出ているのですが「他腹」とあります。義虎は御平より七歳上で、御平と結婚する前に別の女性がいたとしても全く不思議ではありません。また「本藩人物志」島津忠清(忠辰の弟)条に
「和泉又太郎忠永 義虎嫡子国賊伝ニ載之又太郎母ハ入来院氏ナルヘシト云々」
という奇妙な書き込みがあります。薩州家は北薩で有力な国人であった渋谷氏一族とはつながりが深く、入来院氏の女性を妻に娶っていても不思議ではないと思われます。

ただ、忠辰を天文二十二年生、母親は御平ではない、とするとそれはそれで大きな疑問が生じます。
(1)忠辰天文二十二年生まれとすると、義虎十歳の時の子供になってしまう
(2)忠辰の母親が御平ではなかったとすると、薩州家の継承に義久初め島津本宗家(相州家)一門が難色を示したのではないかと容易に推測される
という二点です。

話は変わりますが、義虎と於平の間の子供はどちらかというと出来の悪い子供が多かったように見受けられます。忠辰…は実態以上に悪く書かれている可能性がありますので別にして(汗)、次男・忠隣は根白坂の戦いで暴走して結果戦死してますし、島津家久(忠恒)の側室を出した三男・忠清は慶長十四年に島津義久と常久が手引きをするまで何も行動を起こさず加藤清正の元で食客のような生活をしていたようですし、四男・忠栄は世話になっていた島津豊久が戦死した後、豊久の姉と共謀して佐土原領を乗っ取ろうとしています。六男は人質に出された先で早世していますが、薩州家の末路を考えると人質先で酷い目にあってそうなった可能性も考えられる所です。唯一まともだったのが御平の臨終の席に立ち会った五男の忠富(入来院重高)でしょうか。

うーん、何かまとまりが無くなって申し訳ありませんf(^_^;)
2007/09/23(Sun) 13:56 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
忠辰の軍勢
こんにちは。
かなり素朴な疑問ですが、朝鮮に出陣した忠辰の軍勢は大将の死後、薩摩に帰ったんでしょうかね。それともどこかへ合流したんでしょうかね。
2007/09/23(Sun) 18:37 | URL  | 市川 #-[ 編集]
入来院氏
ばんないさん、こんばんは。

昨夜は私も自分のブログが見られませんでした。おそらくブログ運営者のサーバか何かに事故があったのではないかと思います。

「薩州氏系図」はご指摘のように「諸氏系譜三」所収の「薩州用久一流」のことで、そのなかの本家にあたる「薩州氏系図」のつもりで書きましたが、紛らわしかったかもしれません。

本藩人物誌の忠清の項は迂闊にも見てませんでしたね。
忠辰の生母が「入来院氏ナルヘシト云々」とありますが、「入来院文書」末尾にある入来院氏系図を見ても、それらしい女性はいませんね。
あえていえば、12代重朝に女子が一人いて、何もデータが書かれていません。世代的には義虎の夫人もしくは側室になってもおかしくはありませんが、これだけでは何ともいえませんね。

私はコラムでも書いた「島津弥市郎系図」が面白いと思っています。これにより、忠辰の生年は永禄9年でほぼ間違いないのではと思っています。
ただ、同系図は「旧記雑録後編二」に忠辰の部分だけ所載されていて、全容が明らかではありません。「諸氏系譜三」にも収録されていないと思いますが、ばんないさんはご存じですか?

同系図は、於平が忠辰の生母か否かは書いていませんね。どうも、藩政期に作成された系図なので、デリケートな部分はあえて触れなかった可能性がありますね。
「島津弥市郎」は忠栄の子、久基ではないかと推定しましたが、久基は入来院氏16代当主重高(重国)の二男で、忠栄の養子になっていますね。ここには、薩州家と入来院家との縁がありますが、義虎の代はどうだったのか?

さて、あくまで私の妄想ですが、忠辰が於平の子だったとして、島津本宗家の家督問題とまったく無関係だったのかどうかということも気になっております。
最初から、義弘流だけが候補だったのかどうか。血統的には近いかもしれませんが、於平は長女ですから、その長男という血筋は男子のなかった義久にとって無視してよい存在だったのかどうか。あるいは実久の孫という烙印が刻まれていて最初から問題外だったかもしれませんが……。
2007/09/23(Sun) 20:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
三百塚
市川さん、こんばんは。

忠辰の死後、その家臣団がどうなったのか、当然の疑問ですね。果たして朝鮮から帰れたのかどうか。

コラムでは分量の関係でそこまで触れられませんでしたが、家臣団は忠辰の遺骸と共に船で郷里に帰国したようです。はっきりと記録が残っているわけではありませんが、伝承があります。
また「三百塚」という史跡がありまして、忠辰の家来たちが主君に殉じて自害したのを供養したものだといわれています。それだと、300人も殉死したことになるわけですが、さすがに誇大かなと思います。でも、少なくない人数が忠辰のあとを追ったと思われます。
2007/09/23(Sun) 20:26 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
「島津弥市郎系図」
こんばんは。

「島津弥市郎系図」は全く初めて聞く名前なので、実はお伺いしようと思っていたところでした。「薩藩旧記雑録 後編」2に載っていると言うことなので、手元にあるコピーをざっと見てみましたが、見落としたのかそこは取ってなかったようです。何頁でしょうか?

歴史研究に「if」は言ってはいけない約束ですが、忠辰が義久の後継者として候補に入っていたかどうかは気になる点です。桃園恵真氏が論文「一向宗禁制と島津家の継承問題」で薩州家系にも義久後継者の資格があったのではないか?というニュアンスの内容を書いてられますが…。

薩州家系は、結局義虎三男の忠清、四男の忠栄、五男の忠富が生きて薩摩に生還しますが、後に入来院氏に婿養子に迎えられた忠富以外は厳しい扱いを受けている印象があります。忠清は娘が家久(忠恒)の側室となり、光久を儲けたにもかかわらず、忠清の息子は跡を嗣がずに新納氏に養子に出されています。忠栄は先述したように佐土原領を横領しようしたと言う前科がありますから、厳しい扱いも致し方ないことかも知れません。ただ、忠栄の後を嗣いだ島津弥市郎(久基?)は実は忠栄の実子ではなくて養子(弟・忠富の子)なんですよね。「諸氏系譜」所収の系図を見る限りでは忠栄には子供もおらず正室・側室もいなかったようです。何故なんでしょう…。
「本藩人物志」国賊伝忠辰には「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」とあり、秀吉に取りつぶされたのが薩州家が未来永劫に再興されなかった理由としていますが…。

あと、市川さんの質問に便乗しますが(汗)、『出水市史』か何かで読んだのですが、忠辰には妻子がいて、秀吉の配下に虐殺された云々という話が伝わっているらしいのですが…。
2007/09/23(Sun) 22:28 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
旧記雑録前編でした
ばんないさん、こんばんは。

「島津弥市郎系図」の所載先、私が勘違いしてました。後編ではなく前編でした。

『旧記雑録前編二』2704号(906頁)

弥市郎ではなく弥一郎なら、忠辰の五弟、忠富がそう名乗っていました。ただ、忠富はのちに入来院家に養子に入っていますね。関ヶ原で討死した入来院重時の一女の婿になっています。前のコメントで述べた入来院重高(重国)でしたね。うっかりしてました。
この忠富改め重高の子「弥市郎」久基が伯父忠栄の養子になったという関係みたいですね。

あと、忠辰の妻子が処刑されたというのは、『出水市史』はあくまで伝承で記録はないとし、『出水の歴史と物語』は「忠辰の子供は殺され、奥方虎御前は追放され」云々とあります。殺されたのは子供だけで、夫人はそうではないようです。ただ、あくまで伝承です。

秀吉が義弘に宛てた朱印状には、忠辰の処分が次のように書かれています。

「則ち御成敗を加えらるべく候えども、命の儀助け置かれ、知行召し上げられ、其の身は小西摂津守に預け置きなされ候」

忠辰さえ助命されたわけですから、その妻子が殺される理由はないと思います。もっとも、この朱印状ののち、加罰された可能性もありますが。
子供が処刑されたとすれば、豊臣公儀というより、むしろ島津本宗家の命じゃないですかね。義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたいですから、その可能性のある子供を抹殺した。夫人は関係ないので追放に止めたと考えられないこともありません。もっとも、忠辰が義久の孫なら、その子は曾孫になるわけですが……。

2007/09/24(Mon) 00:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんにちは。
「旧記雑録 前編」2ということですね。そこもしっかりコピーを取ってなかった(汗)ので、また機会があるときに取ってきます…。
島津忠栄→久基の系列はその後「島津仲」家として中堅の家老家として残っていったようですから、仲家の所領があった場所の郷土誌に系図が載っているかも知れないです。…所領どこにあったのか分かりませんが_| ̄|○

忠辰の妻子についても御教示ありがとうございました。忠辰の年齢から考えても妻子がいた方が自然ですが、妻の名前はかろうじて伝わっている物のその出身家なども全く未詳だったと記憶しています。
ところで
>義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたい
具体的な史料名が分かれば教えて下さいますか。江戸時代以後もしばらく薩州家の扱いが余り良くなかったようなのは私もコメントで何回も書いていますが、それが義久の遺言による物なのかどうか気になります。
2007/09/24(Mon) 12:04 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津仲家
ばんないさん、こんばんは。

薩州家の系統には、久基が二人いるのではないかと思います。

○忠清流(忠辰三弟)
忠清の死後、新納家からの養子が久基。事実上のお家再興だと思います。これがご指摘の島津仲家だと思います。
家格は寄合だと思います。寄合といっても、『薩陽武鑑』だと、わずか108石ですね。果たして知行地があったのかどうか、疑問ではあります。
ただ、幕末にも島津仲の名前は出てきますので、忠義公史料あたりに何か手がかりがあるかもしれません。今度調べてみます。

○忠栄流(忠辰四弟)
忠栄の養子で、入来院家から来た久基。
こちらは薩州准二男家で、一所持格ですね。

>義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたい

この件については、前回のばんないさんのコメントを読み落としてしまったのですが、ほぼ同趣旨のことを書かれていましたね。私も『諸氏系譜三』の「薩州用久一流」にある忠辰譜から書いただけのものです。
2007/09/24(Mon) 23:06 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
久基違い
こんにちは。
まず、「義久の怒り?」の根拠について、回答ありがとうございました。
「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」
が、根拠と言うことですね。

そして、島津仲家の久基は別人でしたか。うーん、実に恥ずかしい。ご指摘ありがとうございました。

島津忠栄の領地ですが、何かきっかけにならないかと思ってもう一度調べてみました。
「諸氏系譜」「本藩人物志」ともに母・御平の領地(の一部)を継いだとあります。「本藩人物志」ではこれが当初は中津川村(おそらく、今のさつま町?)に1200石だったのですが、その後時期不明ながら飯野末永村(今のえびの市?)に替えられたとしています。「諸氏系譜」では微妙に書き方が異なり、中津川村→末永村→牛根(今の垂水市)地頭を務めたとなっています。
死んだ場所は両書とも「牛根」で一致していますが、牛根には忠栄の墓などの関連史跡は残ってないようです、先日『垂水市史』をざっと読んだ限りの情報ですが。何か情報があるとしたら『えびの市史』とか『薩摩町郷土誌』あたりでしょうか。

薩州家は謎が多いですが、この忠栄という人物も島津家久・豊久の系統に微妙な絡み方をしてなかなか怪しげな人物です。しかし他の薩州家出身者同様、情報が乏しいですね。
2007/09/25(Tue) 17:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津越前守忠栄の墓
島津越前守忠栄の墓は牛根麓にあります。

http://www2.jomon-no-mori.jp/gis/map_result.asp?Cpage=3&str=SELECT+%2A+FROM+vHdhp+WHERE+%5B%3C%8Es%92%AC%91%BA%5D%3D11+ORDER+BY+%94%D4%8D%86%82P%2C+%94%D4%8D%86%82Q

画像もどこかにあったような気がします。

加世田市史には島津国久は用久の弟とか忠国の子供だとかの伝承があり、謎の多い家ですね。又、立久公より国久へ守護職を譲るのを固辞したとかの伝承もあるようです。いずれも確実な史料は無いもようですが。
2007/09/25(Tue) 23:43 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
貫明寺改め浄珊寺
佐多さん、お久しぶりです。

垂水牛根の島津忠栄の墓情報有難うございます。
鹿児島の埋文のデータベースは前から知っておりましたが、これは画像がほとんどないので、何とも使えないなと思っておりました。

さて、忠栄の墓も興味深いのですが、データベースにある忠栄の墓の少し上に、浄珊寺跡という史跡があります。簡単なデータが載っておりますが、新城島津家の菩提寺で、最初、貫明寺といったのを寛永2年に浄珊寺に寺名を改めたとのこと。

これは明らかに家久の圧力でしょうね。
貫明といえば、島津義久の法号(貫明存忠庵主)です。新城島津家は義久二女の血統ですから、その法号を冠した寺名をつけた。あるいは義久の遺骨か遺品を埋葬したのかもしれません。明らかに義久への思慕の念によるものでしょうね。
改名された時期は家久の全盛期です。義久を思い出すような寺名は家久には不愉快だったのではないでしょうか。
2007/09/26(Wed) 15:59 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
「越前守」、元貫明寺後浄珊寺
こんにちは。

佐多様、島津越前守墓=忠栄墓という情報、ご指摘ありがとうございました。官名はすっかり忘れていたので完全に見落としていました。なので、コピーなど全然取ってなかった…と思ったのですが、偶然コピーした別の頁にスケッチが載っていたので形状を確認できました。この当時の島津家の墓は五輪塔、宝匡印塔、家型などいろいろありますが、忠栄の墓は単なる石灯籠みたいな形状ですね。さすがに灯籠型はこの時代の島津家でも類例がないのではと思いますが…。

元・貫明寺→浄珊寺(現在廃絶)についてですが、これについてはしっかり『垂水市史料集』の該当ページをコピーしていたので、概略が分かります。
慶長16年頃、新城が父・義久の菩提寺として建立した寺とあります(『垂水市史』では説明が異なりますが)。但し、奉じていたのは遺骨ではなく位牌であったようです。寛永17年、島津久章の出奔事件により新城家が廃絶し、その煽りでこの寺は一時廃絶します。その後、久章の遺児・忠清が新城島津家を再興した寛文9年(再建年は『垂水市史』では元禄4年としています)にこの寺も再建されますが、その時に新城の戒名を取り「浄珊寺」と改名したとのことです。『垂水市史』の説明のページもコピーを取っていたのですが、そちらの方は「寛永2年に貫明寺から浄珊寺に改名」とあり、説明が異なります。でも、寛永2年時点ではまだ新城存命ですよね…なんか書いている内容が微妙に違うので、どこまで信用していいのか怪しくなってきました(汗)『三国名勝図絵』の方がちゃんとした説明が載っているかも…。
また、同書に依れば新城の墓は元々貫明寺にあったとのことですが、今は離れた別の場所にあります。おそらく先述の貫明寺廃絶の煽りを食らった物でしょうか。しかしそこまでは『垂水市史料集』にも説明がありませんでした。

義久の遺骨は数カ所に分骨されたようですが、霧島市(旧国分市)の御平の墓そばの分骨墓からは実際に歯が出てきたようですね。時代が時代だったので科学的調査されずに再埋葬されたようなのが残念。
http://www.city-kirishima.jp/modules/page045/index.php?id=3#13

>鹿児島の埋文のデータベース
取りあえず便利そうなのでブックマークしました。
ただ、検索までにかかる時間が長くて重いですね。
2007/09/26(Wed) 18:06 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
御朱印
なんか余り薩州家と関係ないところが盛り上がってきたので(私が悪いんですが 爆)ちょっと話を戻して、秀吉政権下に於ける薩州家の扱いについて。

文禄の役の頃、島津家関係者で御朱印をもらっていたというのは
・島津義久(薩摩領主)
・島津義弘(大隅領主)
・島津久保(日向国諸県郡領主)
・島津征久(鹿屋領主?)
・伊集院忠棟(肝付領主?)
あと上記とは別個に
・島津忠豊(佐土原領主)
に発給されたという認識ですが…たぶん間違っているような(汗)
で、薩州家当主・島津忠辰は征久(以久)とか忠棟と同じように本家と一緒に一括発給されたのか、それとも忠豊(豊久)のように別に発給されたか、と言う所が問題なんでしょうか。
2007/09/26(Wed) 18:16 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
御朱印衆
ばんないさん、こんばんは。

御朱印衆は主に、天正15年、秀吉に降伏したときの所領安堵・所領宛行と、文禄検地のときの領知朱印状や知行方目録に名前のある人ですね。

あと、北郷時久・忠虎父子も該当すると思います。
とくに、伊集院幸侃・島津以久・北郷父子の場合が御朱印衆と呼ばれているようですね。
ただ、単独で朱印状をもらったというより、本家宛ての領知朱印状に、ひとつ書きとして名前がある場合が多いように思います。

他家の例だと、上杉家における直江兼続とか、徳川家の井伊直政、毛利家の宍戸隆家も同様だと思います。もっとも、これらの家はのちの五大老となる武家清華の家で島津家より家格が上ですから、御朱印衆は諸大夫成して官位をもちますね。島津家の御朱印衆は官位をもらっていないはずです。

で、問題は薩州家の忠辰ですが、果たして朱印状をもらったのかどうか。本家宛ての秀吉朱印状には名前がありません。だから、御朱印衆ではないという見方もできます。
ただ、秀吉への降伏のしかたが特殊で、しかも秀吉じきじきに降伏しているので、その際に領知安堵されたのは間違いなく、それが秀吉朱印状だった可能性は高いと思います。
また忠辰改易のとき、薩摩は義弘のものといいながら、島津本家に返さず、収公して自分の蔵入地にしているのも、薩州家領が本家とは別立てだった可能性をうかがわせます。

秀吉朱印状がないので、苦しい推定ですが。
2007/09/27(Thu) 20:43 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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