歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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藤田達生氏より表題の新書をご恵贈いただいた。多謝。
詳しくはここです。

さて、後半の惣無事令まではまだ読んでいないが、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)と関係あるところだけ拾い読みした。

感想を一言でいうと、年次比定や史料解釈で納得できないところがある。とくに、四国(阿波)をめぐる秀吉と光秀の競合という視点はやはり受け容れがたい。
その論拠とされるのは、秀次の三好康長への養子入りだが、その時期をめぐって、藤田説と拙説・谷口克広説とで大きく異なっている。前者は本能寺の変以前、最近では天正7年(1579)まで遡らせている。後者は本能寺の変以降だとする。

藤田説に従えば、秀次ののち、信孝も養子になったわけで、身分の違いから康長の後継者になるのは明らかに信孝である。つまり、阿波に勢力を拡大したい秀吉の当てははずれてしまう。それどころか、将来、秀次VS信孝の競合さえ想定される。そうした文脈は藤田説の視点とは食い違うのではないかという素朴な疑問が拭いきれない。

藤田説の最大の典拠は、三好孫七郎(秀次)宛て羽柴秀吉書状(福尾猛市郎氏所蔵文書)である(87頁)。私は天正7年ではなく、11年の賤ヶ岳合戦後だと考えたほうがまだしも自然だと思っている。
天正7年に納得できないのは、秀次が当時わずか12歳で、元服さえしていない可能性があること。2城の接収と「政道已下堅く申し付くべく候」といった仕事がその年齢でできるとは思えないのである。

また、秀次の前名である宮部次兵衛尉吉継署名による天正9年の判物写しが存在し、谷口氏が指摘しているように、『惟任謀反記』に山崎合戦直後の近江平定で、やはり宮部次兵衛尉が出てくる。
つまり、秀次の康長への養子入りは本能寺の変後だと思われる。少なくとも、天正7年という年次比定はこれらの反証史料と整合しない。これを無視するのは強引すぎないか。

ほかにも、いろいろ論点はあると思うが、最後に1点だけ述べる。
果たして、天正9年に秀吉の阿波進出はあったのかどうか、もう一度全面的に再検討する必要を感じている。これは拙著の自省も込めてである。
『信長公記』巻14には、11月17日条に秀吉と池田元助が淡路平定に兵を出したことが書かれている。それもわずか3日間だけである。これ以外に秀吉が阿波に関与したことは書かれていない。秀吉が関与したのは淡路島までだったのではないのか。

この点をもっと重視すべきではないか。同年に秀吉が黒田孝高を大将に阿波に水軍を送ったという典拠は『黒田家文書』所収の秀吉文書の年次比定だけである。それを批判的に検討する要はないのか。要するに、天正13年の長宗我部攻めのものと混同している可能性はないのかを洗う必要があると思っている。

秀吉は当時、鳥取城攻めに全力を挙げており、黒田孝高に1万もの大軍を預けるだけの余力があったのかどうか、また孝高はその時期、播磨から淡路島にいることが確認できるのか、逆にいえば、鳥取にいる可能性はないのかという素朴な疑問から明らかにしたほうがいいと思っている。

まずはそれらの作業が大事だと思った。
そうした基礎作業なしに、グランドデザインは描けないだろうと思う。
そのようなことを考えさせてくれた本だった。
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【2007/09/26 16:30】 | 新刊
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Yamamoto
あなたは人の本を批判する程の本を書いていない。

耳が痛い
かわい
>Yamamoto様
 その理屈でいえば、私などは何も批判できませんね(^_^;。
 よろしければ、私のブログにでも「人の批判を批判する程の批判」というやつをぜひ書いていただきたいですな。ご一考ください。

感想
板倉丈浩
こんばんは。
藤田氏の新著ですが、早速購入、読了しました。
本能寺の変に関する部分は、最近発表された論文『織田政権と謀反』(ヒストリア206、2007.9)とほぼ同内容でした(この論文では清水宗治が義昭奉公衆であったという指摘が興味深かったです)。
ちょっと気になったのは、この論文の付記で新著で桐野さんに反批判すると書いていたのに、ほとんど言及がなかったことですね(私が見落としているだけなんでしょうか・・・?)。

あと、問題の三好孫七郎(秀次)あて羽柴秀吉書状については、『三田市史』では天正8年5月ではないかとしていました。うーん。。。
確かに三田城主・荒木重堅(木下平太夫)の秀吉軍の将としての初出が天正8年6月ですので(信長公記)、5月に三田城の接収があったというのは十分あり得る話かなあと。
秀次も13歳で、この年齢なら元服している武将は珍しくないですし、何より天正8年は三好家にとって再興に向けた転機となった年でした。
・・・というわけで、私は天正8年5月説を支持することにします(^^;

ただ、秀次の養子入りが本能寺以前だったとしても、長宗我部氏と秀吉の取次を斎藤利三(光秀重臣)が務めている事実もあり、四国政策で秀吉と光秀の派閥抗争があったとは思えないことは、桐野さんの仰るとおりだと思います。
この本の後半で論じている「惣無事令」への異論や「構造改革」の部分もそうですが、藤田氏は派閥抗争とか権力闘争の側面を重視しすぎな印象を受けますね。
だから、天正10年の時点でも信長は討幕戦争をしていた、ということになってしまうわけです。

本能寺の変については、藤田氏は自分は「足利義昭黒幕説」ではないとしており、義昭推戴の蓋然性を強調するために、嘉吉の乱で赤松氏が足利直冬の孫を擁立した件を持ち出すなど、もう(最初から?)義昭主導のクーデターとは考えておられないようです。

むしろ藤田氏としては、本能寺の変を中・近世政治史における織田政権論として位置づけ問題提起したのに、その肝心な部分の議論が深まらないことに対する不満があるようで、特に些末な指摘ばかりして「嗤う」などと書いたあの本に対しては憤懣やるかたないという感じですね。
このへん、歴史的意義を重視する研究者と、犯人(黒幕)探しに関心が集中する現状にギャップがあるのかなあと、そんな感想を持ちました。


次兵衛&二兵衛
桐野
板倉さん、こんばんは。

藤田達生氏の論文「織田政権と謀反」は、ご本人から頂戴しましたが、投稿時期が拙著発刊より前だったと思います。だから、谷口克広氏の歴史評論論文批判に重きが置かれたのではないかと推測しておりますが。

あと、返事が遅くなったのは、『宇野主水日記』と『兼見卿記』に、秀次の前名である「次兵衛」「二兵衛」の記事があったのを探していて、今のところ探せていません(汗)。
以前、拙著執筆の際には見つけられたのに、メモが出てきません。しかたなく、史料にあたっていて時間がかかってしまいました。
記憶しているのは、たしか天正11年かそれ以降の段階でも「次兵衛」と呼ばれていたもので、兼見か宇野主水が三好名字に変わっていたのを知らずに、前名のまま記したという文脈じゃなかったかと思います。
うろ覚えなので、探してからまた正式に返事します。
もう少しお待ち下さい。

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コメント
この記事へのコメント
あなたは人の本を批判する程の本を書いていない。
2007/09/29(Sat) 18:21 | URL  | Yamamoto #-[ 編集]
耳が痛い
>Yamamoto様
 その理屈でいえば、私などは何も批判できませんね(^_^;。
 よろしければ、私のブログにでも「人の批判を批判する程の批判」というやつをぜひ書いていただきたいですな。ご一考ください。
2007/09/29(Sat) 23:36 | URL  | かわい #b7R9Co7w[ 編集]
感想
こんばんは。
藤田氏の新著ですが、早速購入、読了しました。
本能寺の変に関する部分は、最近発表された論文『織田政権と謀反』(ヒストリア206、2007.9)とほぼ同内容でした(この論文では清水宗治が義昭奉公衆であったという指摘が興味深かったです)。
ちょっと気になったのは、この論文の付記で新著で桐野さんに反批判すると書いていたのに、ほとんど言及がなかったことですね(私が見落としているだけなんでしょうか・・・?)。

あと、問題の三好孫七郎(秀次)あて羽柴秀吉書状については、『三田市史』では天正8年5月ではないかとしていました。うーん。。。
確かに三田城主・荒木重堅(木下平太夫)の秀吉軍の将としての初出が天正8年6月ですので(信長公記)、5月に三田城の接収があったというのは十分あり得る話かなあと。
秀次も13歳で、この年齢なら元服している武将は珍しくないですし、何より天正8年は三好家にとって再興に向けた転機となった年でした。
・・・というわけで、私は天正8年5月説を支持することにします(^^;

ただ、秀次の養子入りが本能寺以前だったとしても、長宗我部氏と秀吉の取次を斎藤利三(光秀重臣)が務めている事実もあり、四国政策で秀吉と光秀の派閥抗争があったとは思えないことは、桐野さんの仰るとおりだと思います。
この本の後半で論じている「惣無事令」への異論や「構造改革」の部分もそうですが、藤田氏は派閥抗争とか権力闘争の側面を重視しすぎな印象を受けますね。
だから、天正10年の時点でも信長は討幕戦争をしていた、ということになってしまうわけです。

本能寺の変については、藤田氏は自分は「足利義昭黒幕説」ではないとしており、義昭推戴の蓋然性を強調するために、嘉吉の乱で赤松氏が足利直冬の孫を擁立した件を持ち出すなど、もう(最初から?)義昭主導のクーデターとは考えておられないようです。

むしろ藤田氏としては、本能寺の変を中・近世政治史における織田政権論として位置づけ問題提起したのに、その肝心な部分の議論が深まらないことに対する不満があるようで、特に些末な指摘ばかりして「嗤う」などと書いたあの本に対しては憤懣やるかたないという感じですね。
このへん、歴史的意義を重視する研究者と、犯人(黒幕)探しに関心が集中する現状にギャップがあるのかなあと、そんな感想を持ちました。
2007/10/01(Mon) 00:28 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
次兵衛&二兵衛
板倉さん、こんばんは。

藤田達生氏の論文「織田政権と謀反」は、ご本人から頂戴しましたが、投稿時期が拙著発刊より前だったと思います。だから、谷口克広氏の歴史評論論文批判に重きが置かれたのではないかと推測しておりますが。

あと、返事が遅くなったのは、『宇野主水日記』と『兼見卿記』に、秀次の前名である「次兵衛」「二兵衛」の記事があったのを探していて、今のところ探せていません(汗)。
以前、拙著執筆の際には見つけられたのに、メモが出てきません。しかたなく、史料にあたっていて時間がかかってしまいました。
記憶しているのは、たしか天正11年かそれ以降の段階でも「次兵衛」と呼ばれていたもので、兼見か宇野主水が三好名字に変わっていたのを知らずに、前名のまま記したという文脈じゃなかったかと思います。
うろ覚えなので、探してからまた正式に返事します。
もう少しお待ち下さい。
2007/10/02(Tue) 22:39 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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