歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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ジメサア1

南日本新聞連載「さつま人国誌」第27回
―歴史の敗者の心情投影―

連載コラムが更新されました。
左下のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

拙コラムも何とか折り返し点まで到達しました。これから来年3月まで後半戦です。

今回は、昨日がジメサアこと、亀寿(島津義久三女、同家久夫人)の命日だったので、この話題を書きました。
ジメサアの伝承の裏側にあるものを史実から拾い上げてみました。伝承がおそらく史実からデフォルメされた形で形成されたのではないかと思っております。

なお、写真はジメサアの写真を使うつもりだったのですが、他の紙面で恒例のお色直し写真が掲載されるらしく、記事ではそちらに譲りました。
ご覧になれない方のために、2年前の写真ですが、掲載しておきます。

次回から京都の即宗院のことを3回連載くらいで書こうと思っているのですが、今月下旬の妙円寺詣り関連も書こうと思っていて、バッティングしているため、スケジュールが調整できていません。
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【2007/10/06 11:49】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。
ジメサァ像白塗りの儀式(苦笑)は鹿児島市役所の職員の担当と言うことですが、去年はものすごいブルーのアイシャドウが入っていたような。今年はどういう形で遊ばれちゃうんでしょうか。

それと、桐野さんは既にご存じとは思いますが、「ジメサァ」像は最初から亀寿像と見なされていたわけではなくて、どうも当初は「白地蔵」と呼ばれていたようですね。その後廃仏毀釈で一時行方不明となり、大正時代に今の場所で見つかってから「ジメサァ」と呼ばれるようになったらしいですが…。
そういえば、島津家縁の鶴嶺神社の縁起物に「亀寿様にあやかる紅」なる物があるそうですが、これもいつから取り扱い始まったんでしょう。

>「薩藩旧伝集」補遺
読みようによっては、泰平寺で秀吉と会った島津義久はそんなにブ男だったのか、とも読めるような逸話ですね(苦笑)。義久は肖像画や木像が残ってないですのでなんともいえませんが。

家久(忠恒)は今回、桐野さんが書いた話の通り、あれこれ画策してようやく自分の血統が後継者に確定したのですが、それでも亀寿には含むところがあったのか、亀寿が亡くなったときに詠ったという挽歌は酷い物ですね。あれに家久(忠恒)の性格がすべて出てしまってるように思います。

ジメサアと大乗院
桐野
ばんないさん、こんばんは。

さっそくのコメント有難うございます。

ご指摘のとおり、ジメサアの石像は由来不明のところがありますね。
現在地の前は大乗院(鹿児島市清水町だったか?)にあったとも言われています。大乗院は島津家の祈願所で、とくに貴久、義久と縁が深い密教寺院ですね。

『三国名勝図会』の大乗院の項によれば、持明夫人こと亀寿が、大乗院に本尊千手観音・旁侍勝軍地蔵・毘沙門天と一切経蔵を寄進したとあります。
亀寿が寄進した千手観音が同寺の本尊ですから、亀寿ゆかりのもの、たとえば石像があったとしてもおかしくはありません。ただ、ジメサアは現世利益が強すぎそうで、ちょっと俗っぽい気がしないでもありません。
大乗院に安置されていたから、亀寿と結びつけられたのかどうか、よくわかりませんね。

家久が幕府に国松を養子にほしいと願い出た年次については、義久他界前後の慶長16、17年と、元和2年の両説があって、後者が有力なようです。
そうだとすれば、義久が死んでもなお、家久は幕府に頼らざるをえなかったわけで、亀寿を戴く義久派の勢力がなお侮れなかったものと思われます。
どうも、単に亀寿の聟となるだけでなく、二人の間に男子ができないかぎり、家久には家督継承者としての資格がなく、そのままつなぎで終わった可能性もあるようですね。
幕府に訴え出たのは、側室の子でも後継者にできるよう、幕府のお墨付きを得て、その権威で家中の義久的論理を打ち破ろうとしたのではないかと思われます。

家久もそれなりに大変だったと思われますね(笑)。

家久の亀寿への追悼歌は、よく意味がとれないところがありますね。そのまま読めば、たしかに陰険な歌です(笑)。そんな見え見えのことをするのかなとも思いますが。別の解釈の余地はないですかね?


慶長16年?元和2年?
ばんない
こんばんは。

島津家久(忠恒)の国松養子事件(?)は慶長末年と思っていたのですが、違うのですか?ちなみに慶長説は「持明夫人」(『鹿児島大学法文学部論集』1)の桃園恵真氏による物です。

大乗院には、亀寿はそういう物を寄付していたのですね。御教示ありがとうございます。つくづく明治の廃仏毀釈が惜しまれます。あと西南戦争も。これで島津氏縁の大量の物品が消滅してしまいました。

挽歌は「死人に口無し」だからついホンネが出ちゃったんじゃないでしょうか(爆)。でも、それを送った相手がどうも亀寿につかえていた奥女中らしいというのが引っかかります。

家久養子一件と家久の和歌
桐野
ばんないさん、どうも。

国松養子の件は、私も桃園恵真氏論文を参考にして書きました。
同氏によれば、慶長17、18年説は『大日本史料』が採用しており、桃園氏もこちらを支持していますね。

一方、元和元、2年説は『島津家文書』や『島津国史』などが採用しています。ただ、典拠のひとつとなった家久宛て本多正信書状を元和2年とするのは、正信が同年6月に他界しているので明らかに成立しませんね。

やっぱり桃園説が有力でしょうかね。私は元和元年説が正しいという論文を読んだ覚えもあるのですが、よく覚えていません。山本博文氏だったかな?

ともあれ、両説とも義久死後であることは共通していますね。義久亡きあとも、義弘―家久ラインは一気に優位に立ったわけでもなさそうです。
家久はとにかく男子をつくらないと、家督相続者たる資格に欠けているという家中の空気が強かったのではないでしょうか。かといって、今さら別居している亀寿との間にはつくれない。だから、国松養子という奇想天外な申し入れをして側室を認めてもらうしかなかったようで。
この策を入れ知恵したのはおそらく、家老の伊勢貞昌でしょうね。もっとも、『島津国史』の編者、山本正誼からは、鎌倉以来の島津家の血統を絶やすつもりだったのかと筆誅されていますけど(笑)。

なお、家久の亀寿への追善和歌ですが、問題は「いつはり」ですよね。

あたし世の雲かくれ行神無月
 しくるゝ袖のいつはりもかな

あたし世:あだし世、無常な世の中
神無月:10月、亀寿の命日は10月5日
しくるゝ:しぐれる、晩秋の小雨模様

で、「いつはり」ですが、ふつうなら「偽り」と読みますけど、それだと、流した涙がウソだった、濡らした袖が偽りだったことになります。そんなことはふつう、和歌にしないのではないかと思います。相手(この場合、亀寿)に対する侮辱ですからね。

よくよく考えてみたら、これは「いつ晴り(晴れ)」と読むべきかと。
この場合、「濡らした袖がいつ晴れるだろうか」という詠嘆の意味にとるのが妥当ではないかと。
歌学の決まり事でも、「しぐれ」と「晴り(晴れ)」が対置関係にあって、多少の歌心は表現されているようにも思います。
いかがでしょうか?

もっとも、わざとどっちの意味でも詠めるようにという含意なら、家久はよほどの性悪だと思いますが(爆)。


「晴れ」
ばんない
>「いつ晴り」
文法的にその活用はあり得ないように思うのですが、無理矢理当てはめた可能性もなきにしもあらずでしょうか、何しろ家久(忠恒)のことですから(爆)

「国松養子申請事件」ですが、手紙の内容に
・妻(亀寿)が40になるのにまだ子供がいない
・このままじゃ自分(=忠恒)には跡継ぎがいない
という内容が出てくることから見て、やはり慶長15,6年頃かと。元和以降は側室を最低3人抱えていて子供も何人か産ませていますから、矛盾するように考えます。

文法
桐野
ばんないさん、こんばんは。

たしかに「いつ晴り」では文法的にちょっとおかしいですね。
「いつ晴るるかな」なら、座りがいいんですけどね。
ただ、この場合、「濡れた袖は乾かない」という反語的な意味合いを強調するのが本意のような気がします。「いつ晴るるかな」ではのんびりしているというか、意味が弱いですね。

もっとも、「偽り」と読んでも、ちょっと意味が不自然ではないですかね? とくに「も」が余分な気がします。文法的に間違いではないかもしれませんが、全体的に見れば、変な結びで、意味が通らない気がします。

もしかして、釈文の間違いってことないですよね?



釈文
ばんない
こんにちは。
この和歌の釈文とは『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録」5-331の「よしなきみつくきながら~」で始まる一文のことでしょうか。


そうです
桐野
ばんないさんのご紹介のものです。
ほかにもまだあるのでしょうか?


釈文
ばんない
こんばんは。風邪でダウンしておりまして返事が遅くなりました。

この和歌の釈文は、これしか存じません(^^;)
というか、これしか存在してないと私は考えています。『鹿児島県史料 旧記雑録後編』5-331には「御自筆在鮫島宗仙」「家久公御譜中ニハ正文在藤山慶右衛門トアリ」という補注があり、この補注から見るとこの和歌は(1)鮫島宗仙が持っていたという直筆の本物(2)「家久公御譜」に抜き書きされた写し の2つしか伝来してなく、しかも(1)も(2)も同文だったと推測できるからです。

どうしても「いつはり(偽り)」じゃない可能性を考えると、ズバリ『鹿児島県史料』に書き写す際に字を読み間違った!…ぐらいしか可能性は考えられません。限りなく低い可能性だと思いますが。くずし字の「り」と「れ」は書き手の癖によっては混同するかもと思うのですが…自分で書いておいて何ですが、この推測も苦しいですかねぇ(汗)

「いつはり」
桐野
まあ、『鹿児島県史料』の釈文に間違いがあるとは考えにくいですが。

ただ、仮名文字は意外と間違いやすいのも事実で。

とにかく「いつはり」=「偽り」なら、人倫の道はむろん、歌道にも反するのではないかと思うのですが……。

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コメント
この記事へのコメント
こんにちは。
ジメサァ像白塗りの儀式(苦笑)は鹿児島市役所の職員の担当と言うことですが、去年はものすごいブルーのアイシャドウが入っていたような。今年はどういう形で遊ばれちゃうんでしょうか。

それと、桐野さんは既にご存じとは思いますが、「ジメサァ」像は最初から亀寿像と見なされていたわけではなくて、どうも当初は「白地蔵」と呼ばれていたようですね。その後廃仏毀釈で一時行方不明となり、大正時代に今の場所で見つかってから「ジメサァ」と呼ばれるようになったらしいですが…。
そういえば、島津家縁の鶴嶺神社の縁起物に「亀寿様にあやかる紅」なる物があるそうですが、これもいつから取り扱い始まったんでしょう。

>「薩藩旧伝集」補遺
読みようによっては、泰平寺で秀吉と会った島津義久はそんなにブ男だったのか、とも読めるような逸話ですね(苦笑)。義久は肖像画や木像が残ってないですのでなんともいえませんが。

家久(忠恒)は今回、桐野さんが書いた話の通り、あれこれ画策してようやく自分の血統が後継者に確定したのですが、それでも亀寿には含むところがあったのか、亀寿が亡くなったときに詠ったという挽歌は酷い物ですね。あれに家久(忠恒)の性格がすべて出てしまってるように思います。
2007/10/06(Sat) 18:43 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
ジメサアと大乗院
ばんないさん、こんばんは。

さっそくのコメント有難うございます。

ご指摘のとおり、ジメサアの石像は由来不明のところがありますね。
現在地の前は大乗院(鹿児島市清水町だったか?)にあったとも言われています。大乗院は島津家の祈願所で、とくに貴久、義久と縁が深い密教寺院ですね。

『三国名勝図会』の大乗院の項によれば、持明夫人こと亀寿が、大乗院に本尊千手観音・旁侍勝軍地蔵・毘沙門天と一切経蔵を寄進したとあります。
亀寿が寄進した千手観音が同寺の本尊ですから、亀寿ゆかりのもの、たとえば石像があったとしてもおかしくはありません。ただ、ジメサアは現世利益が強すぎそうで、ちょっと俗っぽい気がしないでもありません。
大乗院に安置されていたから、亀寿と結びつけられたのかどうか、よくわかりませんね。

家久が幕府に国松を養子にほしいと願い出た年次については、義久他界前後の慶長16、17年と、元和2年の両説があって、後者が有力なようです。
そうだとすれば、義久が死んでもなお、家久は幕府に頼らざるをえなかったわけで、亀寿を戴く義久派の勢力がなお侮れなかったものと思われます。
どうも、単に亀寿の聟となるだけでなく、二人の間に男子ができないかぎり、家久には家督継承者としての資格がなく、そのままつなぎで終わった可能性もあるようですね。
幕府に訴え出たのは、側室の子でも後継者にできるよう、幕府のお墨付きを得て、その権威で家中の義久的論理を打ち破ろうとしたのではないかと思われます。

家久もそれなりに大変だったと思われますね(笑)。

家久の亀寿への追悼歌は、よく意味がとれないところがありますね。そのまま読めば、たしかに陰険な歌です(笑)。そんな見え見えのことをするのかなとも思いますが。別の解釈の余地はないですかね?
2007/10/06(Sat) 19:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
慶長16年?元和2年?
こんばんは。

島津家久(忠恒)の国松養子事件(?)は慶長末年と思っていたのですが、違うのですか?ちなみに慶長説は「持明夫人」(『鹿児島大学法文学部論集』1)の桃園恵真氏による物です。

大乗院には、亀寿はそういう物を寄付していたのですね。御教示ありがとうございます。つくづく明治の廃仏毀釈が惜しまれます。あと西南戦争も。これで島津氏縁の大量の物品が消滅してしまいました。

挽歌は「死人に口無し」だからついホンネが出ちゃったんじゃないでしょうか(爆)。でも、それを送った相手がどうも亀寿につかえていた奥女中らしいというのが引っかかります。
2007/10/06(Sat) 23:04 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
家久養子一件と家久の和歌
ばんないさん、どうも。

国松養子の件は、私も桃園恵真氏論文を参考にして書きました。
同氏によれば、慶長17、18年説は『大日本史料』が採用しており、桃園氏もこちらを支持していますね。

一方、元和元、2年説は『島津家文書』や『島津国史』などが採用しています。ただ、典拠のひとつとなった家久宛て本多正信書状を元和2年とするのは、正信が同年6月に他界しているので明らかに成立しませんね。

やっぱり桃園説が有力でしょうかね。私は元和元年説が正しいという論文を読んだ覚えもあるのですが、よく覚えていません。山本博文氏だったかな?

ともあれ、両説とも義久死後であることは共通していますね。義久亡きあとも、義弘―家久ラインは一気に優位に立ったわけでもなさそうです。
家久はとにかく男子をつくらないと、家督相続者たる資格に欠けているという家中の空気が強かったのではないでしょうか。かといって、今さら別居している亀寿との間にはつくれない。だから、国松養子という奇想天外な申し入れをして側室を認めてもらうしかなかったようで。
この策を入れ知恵したのはおそらく、家老の伊勢貞昌でしょうね。もっとも、『島津国史』の編者、山本正誼からは、鎌倉以来の島津家の血統を絶やすつもりだったのかと筆誅されていますけど(笑)。

なお、家久の亀寿への追善和歌ですが、問題は「いつはり」ですよね。

あたし世の雲かくれ行神無月
 しくるゝ袖のいつはりもかな

あたし世:あだし世、無常な世の中
神無月:10月、亀寿の命日は10月5日
しくるゝ:しぐれる、晩秋の小雨模様

で、「いつはり」ですが、ふつうなら「偽り」と読みますけど、それだと、流した涙がウソだった、濡らした袖が偽りだったことになります。そんなことはふつう、和歌にしないのではないかと思います。相手(この場合、亀寿)に対する侮辱ですからね。

よくよく考えてみたら、これは「いつ晴り(晴れ)」と読むべきかと。
この場合、「濡らした袖がいつ晴れるだろうか」という詠嘆の意味にとるのが妥当ではないかと。
歌学の決まり事でも、「しぐれ」と「晴り(晴れ)」が対置関係にあって、多少の歌心は表現されているようにも思います。
いかがでしょうか?

もっとも、わざとどっちの意味でも詠めるようにという含意なら、家久はよほどの性悪だと思いますが(爆)。
2007/10/07(Sun) 16:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
「晴れ」
>「いつ晴り」
文法的にその活用はあり得ないように思うのですが、無理矢理当てはめた可能性もなきにしもあらずでしょうか、何しろ家久(忠恒)のことですから(爆)

「国松養子申請事件」ですが、手紙の内容に
・妻(亀寿)が40になるのにまだ子供がいない
・このままじゃ自分(=忠恒)には跡継ぎがいない
という内容が出てくることから見て、やはり慶長15,6年頃かと。元和以降は側室を最低3人抱えていて子供も何人か産ませていますから、矛盾するように考えます。
2007/10/08(Mon) 16:38 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
文法
ばんないさん、こんばんは。

たしかに「いつ晴り」では文法的にちょっとおかしいですね。
「いつ晴るるかな」なら、座りがいいんですけどね。
ただ、この場合、「濡れた袖は乾かない」という反語的な意味合いを強調するのが本意のような気がします。「いつ晴るるかな」ではのんびりしているというか、意味が弱いですね。

もっとも、「偽り」と読んでも、ちょっと意味が不自然ではないですかね? とくに「も」が余分な気がします。文法的に間違いではないかもしれませんが、全体的に見れば、変な結びで、意味が通らない気がします。

もしかして、釈文の間違いってことないですよね?

2007/10/08(Mon) 22:52 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
釈文
こんにちは。
この和歌の釈文とは『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録」5-331の「よしなきみつくきながら~」で始まる一文のことでしょうか。
2007/10/11(Thu) 12:50 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
そうです
ばんないさんのご紹介のものです。
ほかにもまだあるのでしょうか?
2007/10/12(Fri) 00:25 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
釈文
こんばんは。風邪でダウンしておりまして返事が遅くなりました。

この和歌の釈文は、これしか存じません(^^;)
というか、これしか存在してないと私は考えています。『鹿児島県史料 旧記雑録後編』5-331には「御自筆在鮫島宗仙」「家久公御譜中ニハ正文在藤山慶右衛門トアリ」という補注があり、この補注から見るとこの和歌は(1)鮫島宗仙が持っていたという直筆の本物(2)「家久公御譜」に抜き書きされた写し の2つしか伝来してなく、しかも(1)も(2)も同文だったと推測できるからです。

どうしても「いつはり(偽り)」じゃない可能性を考えると、ズバリ『鹿児島県史料』に書き写す際に字を読み間違った!…ぐらいしか可能性は考えられません。限りなく低い可能性だと思いますが。くずし字の「り」と「れ」は書き手の癖によっては混同するかもと思うのですが…自分で書いておいて何ですが、この推測も苦しいですかねぇ(汗)
2007/10/17(Wed) 00:00 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
「いつはり」
まあ、『鹿児島県史料』の釈文に間違いがあるとは考えにくいですが。

ただ、仮名文字は意外と間違いやすいのも事実で。

とにかく「いつはり」=「偽り」なら、人倫の道はむろん、歌道にも反するのではないかと思うのですが……。
2007/10/18(Thu) 00:10 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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