歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

先日いただいた柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書)に、有力な武田家臣の実名がこれまでの旧説とは異なっていることが明らかになったと書かれていた。
『山梨県史』や『戦国遺文 武田氏編』の刊行により、多くの家臣団の文書も収録されたことで、そうした解明が可能になったようである。最近、武田氏研究の最前線にはご無沙汰なもので、大変勉強になった。

柴辻氏によると、次のような家臣たちの実名が判明したという。
( )内が旧説。

馬場信春(信房)
内藤昌秀(昌豊)
真田幸綱(幸隆)
小山田虎満(昌辰)
小山田昌成(昌行)
武田信堯(信光)
両角虎定(昌清)
横田康景(綱松)
秋山虎繁(信友)
土屋昌続(昌次)
三枝昌貞(守友)

柴辻氏はこれも一部だと書いているが、それでも、武田四天王の二人まで含まれているじゃないか。とくに馬場信春については、古くはそう呼ばれていたのに、いつ頃からか、誰の説でどんな根拠かによるものか不明だが、信房が正しいというすり込みが一時期盛んに行われたが、あれは一体何だったのだろうか?

先日、小生も執筆した共著『「風林火山」の古道を往く』で、真田幸綱を幸隆と旧説で書いてしまったなと後悔している。

人物の実名・通称・官途名などの確定は歴史研究の基礎的な作業である。これを間違えると、学説構築にあたりさらに大きな間違いさえ冒しかねないから、あだやおろそかにできない。

信長家臣団研究も従来、かなりいい加減だったが、谷口克広『織田信長家臣人名辞典』が刊行されてから、そうした状況はだいぶ改善されたように思う。
スポンサーサイト

【2006/12/03 11:25】 | 戦国織豊
トラックバック(0) |

本当に困ったもので
かわい
 私も別冊歴史読本『謀将山本勘助と武田軍団』で、内藤を昌秀にするかどうか悩みに悩んだ末に、結局昌豊と書いてしまいました。小山田備中は虎満にしてあるので、なんかちぐはぐで嫌な感じです。

なじむということ
桐野
かわいさん、どうも。

一度なじんでしまった名前はそれが史実か否かは別にして、なかなか捨てがたいものがありますね。
内藤昌秀と書いても、それって誰?とイメージしにくいのです。

真田信繁については、最近、幸村から脱却してようやくなじんできましたが(笑)。


馬場美濃守
板倉丈浩
こんばんは。

>とくに馬場信春については、古くはそう呼ばれていたのに、いつ頃からか、誰の説でどんな根拠かによるものか不明だが、信房が正しいというすり込みが一時期盛んに行われたが、あれは一体何だったのだろうか?

馬場美濃守の実名については、長篠に建てられた石碑には「信房」と記されていますね。
『戦国人名辞典・増訂版』(吉川弘文館)や『戦国人名辞典・コンパクト版』(新人物往来社)を見たら「馬場信房」で別名信春としてありました。
このあたりをさらっと見る限りでは、「信房」とするのが比較的妥当なように思えます(晴信の家臣が信春というのもなんだか変ですし・・・)。
他にも調べてみたのですが、甲陽軍鑑では実名は確認できず、武家事紀や名将言行録では「信房」、寛政重修諸家譜では「氏勝」で、はじめ玄蕃、民部権大輔政光、後に美濃守信房としてありました。また姓氏家系大事典では「信房は初名景政、また氏勝、民部少輔と称す。信の字を賜いて美濃守信房、又信春と云ひ、後に信勝と云ふ」とありました。
う~ん・・・。これでは、ちょっと確定できませんね(^^

まあ、自署名のある文書があれば一発なんでしょうが、最近出された吉川弘文館の戦国人名辞典を見ると、馬場美濃守の実名が記された書状は「信松」と読めるものが1通だけ、しかも写しなので確定できない、ということのようでした。
『山梨県史』や『戦国遺文 武田氏編』は未確認なのですが、今回、柴辻氏が「実名が確定した」と仰っているので、新発見史料があったということなんでしょう。

「信春」がかつての歴史小説などで一般化していた理由ですが、三方原合戦や長篠合戦に関して、参謀本部の「日本戦史」が基本文献となっていたことが大きいと思います。

馬場信春
桐野
板倉さん。

『戦国遺文 武田氏編』をざっと見てみました。
内藤昌秀はいくつか確認できましたが、馬場信春も信房も見つかりませんでしたね。

もちろん、見落とした可能性もあります。
ただ、内藤は工藤という前名字も含めて、奉行人的な働きをしているのに、馬場はその形跡がまったくありません。
馬場の発給文書はもしかして深志城代の時代のものがあるだけなんでしょうかね。それなら、『長野県史』を見ないといけないのかもしれません。


素人の横槍ですが
かわと
ざっと見た限り、『山梨県史』県内文書には馬場美濃守の発給文書は見あたりませんね。同時代史料では甲斐での活動の痕跡すら窺えないのは、いくらなんでも少々不審ですねえ。何してた人なんでしょう?

ちなみに『長野県史』には資料編は無かったと思います(笑)。『信濃史料』ですね。


長野県史
桐野
かわとさん、どうも。

『長野県史』は近世史料編が中心でしたね。幕末の相楽総三関係史料をいくつか見たものですから、つい書いてしまいましたが、古代中世編はないんですね。

『戦国遺文 武田氏編』でも、馬場美濃守の発給・受給文書は見当たらないんですよ。山県昌景はかなりあるんですけどね。
武田義信自刃後の有名な永禄十年の家臣団起請文のなかにも馬場はありません。

あれだけ有名な人物なのに、なぜ史料がないんでしょうね。『甲陽軍鑑』にはたくさん出てくるのですが……。


有名人だけど・・・
板倉丈浩
桐野さん、かわとさん、お世話になります。

馬場美濃守は甲陽軍鑑では家老、しかも筆頭格なのですが、甫庵信長記では「足軽大将」としており、実際はそれほど有力武将ではなかったのかもしれませんね。
信玄朱印状の奉書の数でいうと、山県昌景も多いのですが、跡部勝資・土屋昌続・原昌胤が特に多いようで、柴辻俊六編『武田信玄大事典』によると、跡部は「室町期以来の最有力の宿老」、土屋と原は「信玄の領国支配を中心的に支えた人物」とされています。
ちなみに、馬場信春は「有力な宿老の一人として有名な割には関係史料は少ない」と記されています(^^;

六河衆
かわと
桐野さんが言及されている、生島足島神社蔵の起請文のうち、「六河衆」の連署起請文のなかに「馬場小太郎信盈」という人物の署判があります。一連の起請文のうち、馬場氏で見えるはこの人だけです。
名乗りから見て世代は若そうなので、美濃守と同一人物だとは思えませんが、七人連署のうちこの馬場小太郎が日下で、地位は一番低いようです。
ほかの署判者は、奥から(地位の高い)順に、柳沢壱岐守信勝・青木兵部少輔重満・横手監物満俊・宮脇清三種友・山寺源三昌吉・青木右兵衛尉信秀とあります。

年功にもよるでしょうけど、これらの面々の中で日下に来るってのは、宿老クラスの一族とはちょっと考えにくいですね。ちなみに跡部・原・板垣・浅利などの宿老クラスは単独で起請文を書いてます。
もっとも名字が同じだけで一族ではないかもしれませんが、もし一族だとすれば、馬場氏って実は家中でそんなに地位は高くなくて、馬廻衆クラスぐらいかなぁ、という感もあります。馬廻だとすると、猛者のイメージにも繋がってきますし。

ちなみに「六河(六川)衆」は、甲斐巨摩郡(現北杜市)の在地武士団だそうですが、↓のようなページもありました。馬場が出てこないどころか、上記起請文に見える名が系図に無いみたいですが…。相当錯綜しているようですねえ。さすが武田(笑)。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takeka_g.html

馬場と教来石
桐野
かわとさん

六川衆=武川衆に馬場小太郎信盈なる人物がいましたか。
馬場美濃守はもともと武川衆の教来石氏の出身で、養子にいって馬場名字になったと思います。
この馬場某が美濃守の縁者なのかどうか微妙ですね。

馬場美濃守はそれほど高い身分ではないのではないかという点で、かわとさんも板倉さんも共通したお考えですね。
『甲陽軍鑑』によれば、馬場美濃守は山本勘助から城取(築城術)の指南を受けた弟子筋になっています。
もし譜代宿老クラスなら、そんなことはないかもしれませんね。むしろ、山本勘助の権威づけのために、馬場美濃守が利用されているという相関関係にあるような気もします。

近年、『甲陽軍鑑』の史料的価値は再評価される傾向にありますが、馬場美濃守については、やはり誇張、粉飾があると見たほうがよいのでしょうか。


深いテーマみたいですね…
かわと
断片的には辻褄の合う事実もあるんですね。パズルみたいです(笑)。

私はあくまでこの起請文のみからの判断ですが、馬場美濃守は、起請文にある柳沢壱岐守とおそらく家中の地位としてはせいぜい同じくらいかなぁという気がしています。
もちろん同じような出自であっても、武勇の面での能力や、当主との人的な距離の違いもありますから、家臣団の中での地位と、家中での存在感とは異なってはきますが。

信長公記から
桐野
馬場の武田家中での地位についてですが、むしろ外から見たほうがよいかもしれません。

『信長公記』巻八の長篠合戦の場面ですが、織田軍陣地に突撃する武田軍が描かれているなかで、

「五番に馬場美濃守、推太鼓にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く」とか、
「中にも馬場美濃守手前の働比類なし」

といった記事が見えます。

武田軍の先手備えの突撃順序は

1,山県昌景
2,武田逍遥軒
3,西上野小幡一党
4,武田典厩信豊
5,馬場美濃守

となります。
いずれも武田一門と有力譜代衆ですから、馬場美濃守も同等の地位にあったという見方もできますね。
少なくとも先手備えを構成できるだけの地位にあったと推測されます。その点では『甲陽軍鑑』が馬場美濃守を250騎持としているのと照応します。

織田側が馬場美濃守を高く評価しているのに、なぜ武田方の一次史料に表れないのでしょうね。不思議でなりません。



生島足島神社起請文
かわい
 自力で確認できなかったので、丸投げしてしまいますが、小林計一郎氏は同社奉納の単独起請文に「馬場美濃守信■」を含めています。単独起請文には『甲陽軍鑑』で足軽大将とされる武将も多数含まれていますから、これだけでは馬場の役職を特定するのは難しいかと思いますが、当該起請文を確認できれば一助にはなるかと。
 いずれにせよ、勝頼代の両職を務めた山県に比べれば、かなりランクが低かっただろうとは思います。

馬場の起請文の有無
桐野
かわいさん

『戦国遺文』に収録された「生島足島神社文書」のなかに「馬場美濃守信■」の起請文は見当たりませんね。同史料集ですから、収録洩れは考えにくいと思われます。もしかして、同文書は別の異本でも存在して、小林氏はそちらをご覧になったのでしょうか? それにしても馬場の実名の下の字が不明というのも不自然です。虫損なのでしょうか?

あと考えられるとすれば、馬場が信玄の奉行衆の一人で、これらの一門・家臣団の起請文の宛所側だった可能性です。『戦国遺文』で確認できるのは、

吉田信生
浅利信種
金丸昌続
跡部勝資
山県昌景
甘利信忠
水上菅兵衛
曽根昌長
原隼人祐
熊井重満

などです。奉行衆といっても、あまり名前の知られておらず、跡部・浅利・山県らとくらべると格下ではないかと思われる者もいますね。
それでも、馬場の名前は見当たりません。

また、この時期、馬場が信州深志城代だったかどうかわかりませんが、もしそうなら、馬場とは別に深志同心衆の起請文も存在していてよさそうですが、ないところを見ると、馬場や深志衆の起請文は何らかの事情で一括して欠落していると考えたほうがよいかもしれませんね。


うーむ。
かわと
私は生島足島神社で買った図録を参照したんですが、やはりありませんでした。
ただ、その図録には発給者の出身地を地図に落としたものが掲載されているんですが、そのなかに「馬場信松」という名が単独で発給したと読み取れる記載があります。
またこの地図には95までナンバリングがされていて、そのまま信じれば95通存在したことになります。しかし、神社に現存しているのは83通です。ちなみに実際に文書を確認できない人物(かつ上記地図には名前あり)としては、山県昌景も含まれています。

そこらへんの事情は図録には注記されていないのでよくわからないのですが、確かに、散佚の可能性はありますね。
山県が無いのは気づいていましたが、私は単純に山県ぐらいの側近になると要求されなかったのかなぁ、と思っていましたが(笑)。

流出してほかの所蔵になっている起請文とかでもあるんでしょうかねぇ…? 『信濃史料』を繰ってみると何かわかるかもしれませんが、『戦国遺文』にも無いとなると、その可能性もちょっと薄いような気がしますね。

馬場起請文
板倉丈浩
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

さて、問題の「馬場信松」起請文については、吉川弘文館『戦国人名事典』(前掲)に「生島足島神社文書の中に信松と読める下之郷起請文の写が存在する」とありましたので、実物が残っていないということのようです。

で、ここまで議論が盛り上がっているところで何なんですが、昨年末に出たばかりの新歴史群像シリーズ『闘神武田信玄―戦国最強・甲州軍団の激闘』を見たら、他ならぬ柴辻氏が馬場信春について「実名については信房とするものもあり確定していない」と書いていました。
うーん。。。柴辻氏が「実名確定」と断言していたのは何だったんでしょう???

馬場以外にも柴辻氏編『武田信玄大事典』では「秋山信友」「両角虎光」が正しいとされていますので、この3名については、典拠が明らかになるまで結論を保留した方がいいような気がしています。

馬場信春の役割
桐野
板倉さん、あけましておめでとうございます。

柴辻氏は歴群の最新号では、信春も信房も確定していないと書かれているのですか。自著との整合性が疑われますね。

武田氏の筑摩・安曇郡支配について、平山優氏が論文を書いており、そのなかで、馬場美濃の地位や役割について触れていますのでご紹介しておきます。

「馬場信春はその後の武田家奉書式朱印状においても、奏者として登場することは一度もない。つまり、馬場は山県昌景・原昌胤・春日虎綱らとは違って、『甲陽軍鑑』に「侍大将」「采配御免」と記されるように、軍事指揮権のみを委託された人物であり、武田氏の権力構造の内部において吏僚の一翼を担う存在ではなかったということであろう」

平山優「戦国大名武田氏の筑摩・安曇郡支配」 『武田史研究』15号、1995年

これによるかぎり、馬場美濃守は奉行人など吏僚的な役割はなく、「采配御免衆」つまり、一手の陣大将(寄親)ではあったということになりますか。そうなると、足軽大将よりは格上であろうと思われます。

ただ、武田氏の有力な譜代衆が軍事指揮権と属城の城代の役割だけで、吏僚的な機能を果たさなかったというのは、馬場のほかにも例があるんでしょうかね?

馬場の別の役割としては、『甲陽軍鑑』にあるように、馬場は山本勘助とともに、陣取や城取など軍配者をつとめていて、おのずと吏僚的ではなかったという可能性もありそうな気がします。

なお、生島足島神社起請文はその全貌をネットでも見られるようですね。もっとも、馬場信松の署名がある「下之郷起請文」写しは収録されていません。残念。

http://museum.umic.jp/ikushima/kishomon/index.html

柴辻氏の記事
かわい
 あけましておめでとうございます。

 シリーズの記事は旧原稿の再利用の可能性がありますから、単独著作の内容を優先するということでよろしいのではないでしょうか。
 それと、平山説の馬場の待遇ですが、原美濃がその先例だった可能性は高いと思います。

原美濃守虎胤
桐野
かわいさん、本年もよろしくお願いします。

歴史群像シリーズ最新号、未見なのですが、旧版も再使用しているなら、旧説のままの可能性がありますね。

なるほど、原美濃なら、あまり吏僚的な面は想像しにくいですね。
もっとも、原美濃は第四次川中島合戦前後に表舞台から退場しております。その頃までは、武田家の、いわゆる奉書式朱印状はまだ成立しておらず、奉行人的な役割も不十分だったかもしれません。
なお、原美濃の息子、隼人祐昌胤は奉書式朱印状に奏者として署名している文書があり、奉行人をつとめています(戦国遺文武田氏編1460号)。
原美濃は下総出身の外様衆ですが、息子の昌胤の代になると、おそらく譜代衆の扱いだったのでしょうね。

最近刊行されたばかりの平山優『山本勘助』(講談社現代新書)によれば、武田家中における他国衆の出世コースは足軽大将で打ち止めのようですね。
原美濃しかり、大熊朝秀しかり、横田高松しかり、山本勘助しかりだと思います。

なお、内藤昌秀や馬場信春も足軽大将でしたが、のちに采配御免衆(寄親)に出世しています。これは譜代衆、甲州出身だったことが大きいと思われます。




板倉丈浩
かわいさん、桐野さん、レスありがとうございます。

>柴辻氏の記事

うむむ。当該記事は最新の研究成果を反映、みたいな書きぶりだったのですが、昔の本の使い回しの可能性アリですか・・・。
著者というよりは出版社のスタンスの問題なんでしょうけど、何だかなーって感じですね。

>馬場信春の役割

平山論文は未見なのですが、重臣クラスでない勇将に与力や同心をつけて戦場で一手の大将を務めさせるというのはありえても、「城代」が吏僚的な役割を全くしないというのは考えがたいですねえ。
管轄地域で訴訟でも起きたら、取次ぎも文書の発給もせずに「甲府に行け」とでも言うんでしょうか(^^;
どうにも史料不足でもどかしいのですが、甲陽軍鑑では原美濃も山本勘助も家老ではなく足軽大将ですから、同じような役割をしている馬場も足軽大将とするのが妥当じゃないかなあ、という気がしています。

ところで、「原美濃の息子、隼人祐昌胤」というのは本当ですか?
原昌胤の父は陣馬奉行として活躍した加賀守昌俊として理解していたのですが、『戦国遺文・武田氏編』ではそれが否定されているということなのでしょうか・・・。

しかし本当に武田氏はわからないことだらけですねえ。困ったものです。

原昌胤
桐野
板倉さん

>ところで、「原美濃の息子、隼人祐昌胤」というのは本当ですか?

すみません。私の勘違いです。昌胤はご指摘のように、原昌俊の子どもでした。
お詫びして訂正します。



はじめまして
真田雑兵
桐野先生はじめまして。

たまたま暮れに近衛龍春さんの著された『高坂弾正』を読みまして、武田家臣団の名乗りについてちょっと興味を持ちたまたま『秋山虎繁』でググッたら先生のブログに辿り着きました次第です。
お詳しい皆様の中でド素人な質問を致しますがご容赦ください。
長年の疑問なのですが、武田家の場合『虎』や『信』は解るのですが、『昌』の字はいったい誰の『昌』なんでしょうか?

「昌」字について
桐野
真田雑兵さん、はじめまして。

諱の問題はなかなか難しいですね。
「昌」の字については、誰かからの一字拝領ではないかと推測されているのでしょうか?
「虎」や「信」はたしかに武田家当主である信虎、晴信からの一字拝領ではないかと推察されますね。

虎:甘利虎泰・原虎胤・飯富虎昌・小幡虎盛・秋山虎繁
・三枝虎吉
信:板垣信方・馬場信春・浅利信種

一方、「昌」が付く人も多いですね。

昌:内藤昌秀(昌豊)・小幡昌盛・高坂昌信・山県昌景・土屋昌次・真田昌幸・曽根昌世・駒井昌直・原昌胤

「昌」のほうが「信」「虎」より多いくらいですね。
武田信虎の祖父に信昌という人がいて、「昌」が付きますが、いかにも時代が違いすぎて、この人からの一字拝領だとは考えにくいです。

信虎や晴信が「昌」の付く諱を一時的にでも名乗っていた形跡はありませんから、「昌」の付く人たちは武田家当主からの一字拝領ではないと考えたほうがいいのではないでしょうか。

その一例が、飯富虎昌と(山県)昌景の兄弟です。虎昌の「虎」は信虎からの一字拝領だと思われます。一方、弟の昌景も「昌」が付き、昌景の息子も昌満と名乗っており、みな「昌」を共有していますから、「昌」の字が飯富家の通字だった可能性が高いですね。
通字というのはご存じだと思いますが、その家固有の一字をもっていることです。武田家なら「信」の字ですね。北条家は「氏」の字という具合です。
ほかにも、内藤昌秀の息子は昌月ですから、これも通字だった可能性があります。

余談ながら、山本勘助の諱を晴幸としていますが、どうでしょうか? これは晴信からの一字拝領にも見えますが、違うと思います。「晴」は将軍足利義晴からの一字拝領ですから、将軍から頂戴した一字を家来に与えることはありえないと思います。勘助晴幸以外に、「晴」の付く、信玄時代の家臣はまずいないと思います。
晴幸が一字拝領ではない、自分の名乗りだったとしたら、主君に遠慮して「晴」の字を避けて改名すると思います。だから、晴幸名乗りは疑問がありますね。

結論としては、「昌」の字は武田家当主からの一字拝領ではなく、ふつうの名乗りだったと思われます。
ただ、武田家中でかなり多い字なので、当時流行していた字だったとか、何か縁起がいい字だったのかもしれませんね。

今のところ、それくらいしかお答えできません。


さっそくお返事畏れ入ります
真田雑兵
『昌』が流行っていたとすると、その流行の元は晴信(というか太郎)の師とも言われる荻原昌勝あたりでしょうか?
とすれば、多くの武田武士に〝荻原殿にあやかって〟といった感情が芽生えるのも解るような気がします。
さて、
勘助晴幸ですが、最近読みました井沢元彦さんの『野望』にこんな台詞が載ってました。
(勘助と晴信の出会いのシーンで勘助から「晴幸と申しまする」と名乗られ)『なに!わしと同じ字ではないか!』
そういえば。。今日は大河ドラマ『不倫火山』第一話ですね。晴幸と晴信の出会いがどのように演出されているか楽しみですね。

秋山伯耆守虎繁
板倉丈浩
こんばんは。
前回保留した3人(馬場・両角・秋山)のうち、とりあえず秋山については、次の小論考で考察がされておりました。

黒田基樹「秋山伯耆守虎繁について」(『戦国遺文武田氏編・月報2』2002.9)

これによりますと、内閣文庫所蔵の『古文書花押写』という署判部分の模写集の6冊目に「秋山伯耆守虎繁」があるとのこと。
うーん。署判部分のみ、しかも模写ですか。
これだけだと真偽の判定ができないので「実名確定」とは言い難いですねえ。
黒田氏は「ほぼ間違いないだろう」とは言っておりますが・・・。

ちょっと引っかかっているのは、黒田氏とともに『戦国遺文・武田氏編』の編者である柴辻俊六氏の著書『甲斐武田一族』(新人物往来社、2005.10)では、御聖道様(信玄次男・竜宝)衆の「秋山越前守」が虎繁とされ、秋山伯耆守信友とは明らかに別人物として扱われていたのに、柴辻氏の近著では突然「秋山伯耆守は虎繁で確定」としていることです。
記述の整合性云々の前に、なんでこうなったのか、ちょっと理解できません。
理解できないので結論はまたもや保留したいと思います(^^;


馬場美濃守信枩
板倉丈浩
自己レスです。
歴史群像シリーズ『戦国武心伝』で荒井今朝一氏が「馬場美濃守」の項を書かれていて、それによると、生島足島神社文書には「馬場美濃守信枩」とあり「枩(松)」は「春」の写し間違いとみられるので信春と名乗ったのは確実と考えられる・・・とありました。

うーん。。。確かに字の感じは似てますが、裏付けとなる史料がない以上、逆に信春の方が誤伝という可能性もあるような気がします。
そう思いながら『戦国遺文武田氏編』第6巻をめくっていたら、172ページに「下之郷起請文署判写」があり、そこにはこう書いてありました。

 金丸平八郎殿  馬場美濃守信春(花押影)
 吉田左近助殿  山県三郎兵衛昌景(花押影)

これも署判部分のみ、しかも写しで正文は散逸しているということのようです。
写し間違い云々については何の言及もありませんが、『戦国遺文』の編者も荒井氏と同様な判断をもって原文を書き換えたということなんでしょう。

こうしてみると、柴辻氏が著書で「信春で確定」としたのは、私から見るといささか勇み足のように思えますが、何となく謎は解けたのでまあいいかって感じです(苦笑)。


板倉丈浩
↑あれ?
フリップの出方が変ですね。入力ミスかなあ。
すみません。。。


桐野
板倉さん

貴重な調査報告、有難うございます。
ただいま、多忙にて詳しいコメントが書けません。一段落したら改めてお返事します。お許しのほど。

馬場美濃守信春
桐野
板倉丈浩さん

返事が遅れてすみません。

ようやく『戦国遺文 武田氏編』6の補遺の該当部分を確認しました。
たしかに「馬場美濃守信春」とありますね。
同書6の索引を見ると、この文書の馬場は収録してありません。おそらく同じ本のなかだったので、載っていないのでしょう。だから、気づかなかったわけです。
板倉さんは索引だけで満足せずに、補遺までちゃんと探されたのが結果につながりましたね。
ということは索引の利用法も今後は注意を要しますね。どうやら1~5巻までを対象にしたものと考えたほうがいいのかもしれません。

それで、補遺4210号「下之郷起請文署判写」ですが、これまで「信枩」?とされていた典拠「生島足島神社文書」の散佚分だと考えてよいのでしょうか?
所蔵が個人蔵なので、別系統の可能性はないのでしょうか? つまり、「信春」とはっきり確認できるように書かれている可能性はないのかということです。

もし「信枩」(信松)か「信春」か判読に迷うような書き方なら、『戦国遺文』の編者も断定せずに傍注で注記するのではないかと思うのです。

柴辻さんの著書での人名比定はどうも怪しい点があるようですが、「信春」で確定と書かれている部分の典拠はこの補遺文書かもしれないですね。

いずれにせよ、ご教示有難うございました。
こちらも不勉強で恥ずかしいかぎりです。


柴辻氏の人名比定
板倉丈浩
こんにちは。レスありがとうございます。
前回のコメント、「フリップ」は「トリップ」の誤記ですね。もう何やってんだか・・・。
それはともかく、

>所蔵が個人蔵なので、別系統の可能性はないのでしょうか? 
>つまり、「信春」とはっきり確認できるように書かれている可能性はないのかということです。

写しですし、しかも署判部分のみですから、複数残っていても全然おかしくないのですが、それでも「信松」とする異本の存在に全く言及していないので、同一文書ではないかという疑いは残りますね。
原文を確認できないので「くずし字辞典」の類を見たのですが、「枩」と「春」、字体によっては似ていると言えば似ているので、誤読した可能性もありますが・・・。

>いずれにせよ、ご教示有難うございました。

こちらこそ、おつきあいいただき、ありがとうございました。
気軽に調べてみたら深みにはまってしまった感じですが(笑)、馬場・秋山・両角の3名の「実名確定」については、ちょっとまだ納得できません。
紙数の都合というのはわかりますが、一般向けとはいえ学問書である以上、従来と違ったことを書くときは、最低限、それなりに典拠を示して説明してもらわないと困りますよねえ・・・。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
本当に困ったもので
 私も別冊歴史読本『謀将山本勘助と武田軍団』で、内藤を昌秀にするかどうか悩みに悩んだ末に、結局昌豊と書いてしまいました。小山田備中は虎満にしてあるので、なんかちぐはぐで嫌な感じです。
2006/12/03(Sun) 15:21 | URL  | かわい #-[ 編集]
なじむということ
かわいさん、どうも。

一度なじんでしまった名前はそれが史実か否かは別にして、なかなか捨てがたいものがありますね。
内藤昌秀と書いても、それって誰?とイメージしにくいのです。

真田信繁については、最近、幸村から脱却してようやくなじんできましたが(笑)。
2006/12/03(Sun) 16:31 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
馬場美濃守
こんばんは。

>とくに馬場信春については、古くはそう呼ばれていたのに、いつ頃からか、誰の説でどんな根拠かによるものか不明だが、信房が正しいというすり込みが一時期盛んに行われたが、あれは一体何だったのだろうか?

馬場美濃守の実名については、長篠に建てられた石碑には「信房」と記されていますね。
『戦国人名辞典・増訂版』(吉川弘文館)や『戦国人名辞典・コンパクト版』(新人物往来社)を見たら「馬場信房」で別名信春としてありました。
このあたりをさらっと見る限りでは、「信房」とするのが比較的妥当なように思えます(晴信の家臣が信春というのもなんだか変ですし・・・)。
他にも調べてみたのですが、甲陽軍鑑では実名は確認できず、武家事紀や名将言行録では「信房」、寛政重修諸家譜では「氏勝」で、はじめ玄蕃、民部権大輔政光、後に美濃守信房としてありました。また姓氏家系大事典では「信房は初名景政、また氏勝、民部少輔と称す。信の字を賜いて美濃守信房、又信春と云ひ、後に信勝と云ふ」とありました。
う~ん・・・。これでは、ちょっと確定できませんね(^^

まあ、自署名のある文書があれば一発なんでしょうが、最近出された吉川弘文館の戦国人名辞典を見ると、馬場美濃守の実名が記された書状は「信松」と読めるものが1通だけ、しかも写しなので確定できない、ということのようでした。
『山梨県史』や『戦国遺文 武田氏編』は未確認なのですが、今回、柴辻氏が「実名が確定した」と仰っているので、新発見史料があったということなんでしょう。

「信春」がかつての歴史小説などで一般化していた理由ですが、三方原合戦や長篠合戦に関して、参謀本部の「日本戦史」が基本文献となっていたことが大きいと思います。
2006/12/10(Sun) 20:13 | URL  | 板倉丈浩 #-[ 編集]
馬場信春
板倉さん。

『戦国遺文 武田氏編』をざっと見てみました。
内藤昌秀はいくつか確認できましたが、馬場信春も信房も見つかりませんでしたね。

もちろん、見落とした可能性もあります。
ただ、内藤は工藤という前名字も含めて、奉行人的な働きをしているのに、馬場はその形跡がまったくありません。
馬場の発給文書はもしかして深志城代の時代のものがあるだけなんでしょうかね。それなら、『長野県史』を見ないといけないのかもしれません。
2006/12/11(Mon) 17:50 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
素人の横槍ですが
ざっと見た限り、『山梨県史』県内文書には馬場美濃守の発給文書は見あたりませんね。同時代史料では甲斐での活動の痕跡すら窺えないのは、いくらなんでも少々不審ですねえ。何してた人なんでしょう?

ちなみに『長野県史』には資料編は無かったと思います(笑)。『信濃史料』ですね。
2006/12/11(Mon) 18:31 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
長野県史
かわとさん、どうも。

『長野県史』は近世史料編が中心でしたね。幕末の相楽総三関係史料をいくつか見たものですから、つい書いてしまいましたが、古代中世編はないんですね。

『戦国遺文 武田氏編』でも、馬場美濃守の発給・受給文書は見当たらないんですよ。山県昌景はかなりあるんですけどね。
武田義信自刃後の有名な永禄十年の家臣団起請文のなかにも馬場はありません。

あれだけ有名な人物なのに、なぜ史料がないんでしょうね。『甲陽軍鑑』にはたくさん出てくるのですが……。
2006/12/11(Mon) 22:05 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
有名人だけど・・・
桐野さん、かわとさん、お世話になります。

馬場美濃守は甲陽軍鑑では家老、しかも筆頭格なのですが、甫庵信長記では「足軽大将」としており、実際はそれほど有力武将ではなかったのかもしれませんね。
信玄朱印状の奉書の数でいうと、山県昌景も多いのですが、跡部勝資・土屋昌続・原昌胤が特に多いようで、柴辻俊六編『武田信玄大事典』によると、跡部は「室町期以来の最有力の宿老」、土屋と原は「信玄の領国支配を中心的に支えた人物」とされています。
ちなみに、馬場信春は「有力な宿老の一人として有名な割には関係史料は少ない」と記されています(^^;
2006/12/11(Mon) 23:49 | URL  | 板倉丈浩 #-[ 編集]
六河衆
桐野さんが言及されている、生島足島神社蔵の起請文のうち、「六河衆」の連署起請文のなかに「馬場小太郎信盈」という人物の署判があります。一連の起請文のうち、馬場氏で見えるはこの人だけです。
名乗りから見て世代は若そうなので、美濃守と同一人物だとは思えませんが、七人連署のうちこの馬場小太郎が日下で、地位は一番低いようです。
ほかの署判者は、奥から(地位の高い)順に、柳沢壱岐守信勝・青木兵部少輔重満・横手監物満俊・宮脇清三種友・山寺源三昌吉・青木右兵衛尉信秀とあります。

年功にもよるでしょうけど、これらの面々の中で日下に来るってのは、宿老クラスの一族とはちょっと考えにくいですね。ちなみに跡部・原・板垣・浅利などの宿老クラスは単独で起請文を書いてます。
もっとも名字が同じだけで一族ではないかもしれませんが、もし一族だとすれば、馬場氏って実は家中でそんなに地位は高くなくて、馬廻衆クラスぐらいかなぁ、という感もあります。馬廻だとすると、猛者のイメージにも繋がってきますし。

ちなみに「六河(六川)衆」は、甲斐巨摩郡(現北杜市)の在地武士団だそうですが、↓のようなページもありました。馬場が出てこないどころか、上記起請文に見える名が系図に無いみたいですが…。相当錯綜しているようですねえ。さすが武田(笑)。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takeka_g.html
2006/12/12(Tue) 00:53 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
馬場と教来石
かわとさん

六川衆=武川衆に馬場小太郎信盈なる人物がいましたか。
馬場美濃守はもともと武川衆の教来石氏の出身で、養子にいって馬場名字になったと思います。
この馬場某が美濃守の縁者なのかどうか微妙ですね。

馬場美濃守はそれほど高い身分ではないのではないかという点で、かわとさんも板倉さんも共通したお考えですね。
『甲陽軍鑑』によれば、馬場美濃守は山本勘助から城取(築城術)の指南を受けた弟子筋になっています。
もし譜代宿老クラスなら、そんなことはないかもしれませんね。むしろ、山本勘助の権威づけのために、馬場美濃守が利用されているという相関関係にあるような気もします。

近年、『甲陽軍鑑』の史料的価値は再評価される傾向にありますが、馬場美濃守については、やはり誇張、粉飾があると見たほうがよいのでしょうか。
2006/12/12(Tue) 01:02 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
深いテーマみたいですね…
断片的には辻褄の合う事実もあるんですね。パズルみたいです(笑)。

私はあくまでこの起請文のみからの判断ですが、馬場美濃守は、起請文にある柳沢壱岐守とおそらく家中の地位としてはせいぜい同じくらいかなぁという気がしています。
もちろん同じような出自であっても、武勇の面での能力や、当主との人的な距離の違いもありますから、家臣団の中での地位と、家中での存在感とは異なってはきますが。
2006/12/12(Tue) 01:22 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
信長公記から
馬場の武田家中での地位についてですが、むしろ外から見たほうがよいかもしれません。

『信長公記』巻八の長篠合戦の場面ですが、織田軍陣地に突撃する武田軍が描かれているなかで、

「五番に馬場美濃守、推太鼓にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く」とか、
「中にも馬場美濃守手前の働比類なし」

といった記事が見えます。

武田軍の先手備えの突撃順序は

1,山県昌景
2,武田逍遥軒
3,西上野小幡一党
4,武田典厩信豊
5,馬場美濃守

となります。
いずれも武田一門と有力譜代衆ですから、馬場美濃守も同等の地位にあったという見方もできますね。
少なくとも先手備えを構成できるだけの地位にあったと推測されます。その点では『甲陽軍鑑』が馬場美濃守を250騎持としているのと照応します。

織田側が馬場美濃守を高く評価しているのに、なぜ武田方の一次史料に表れないのでしょうね。不思議でなりません。

2006/12/12(Tue) 02:26 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
生島足島神社起請文
 自力で確認できなかったので、丸投げしてしまいますが、小林計一郎氏は同社奉納の単独起請文に「馬場美濃守信■」を含めています。単独起請文には『甲陽軍鑑』で足軽大将とされる武将も多数含まれていますから、これだけでは馬場の役職を特定するのは難しいかと思いますが、当該起請文を確認できれば一助にはなるかと。
 いずれにせよ、勝頼代の両職を務めた山県に比べれば、かなりランクが低かっただろうとは思います。
2006/12/26(Tue) 10:06 | URL  | かわい #-[ 編集]
馬場の起請文の有無
かわいさん

『戦国遺文』に収録された「生島足島神社文書」のなかに「馬場美濃守信■」の起請文は見当たりませんね。同史料集ですから、収録洩れは考えにくいと思われます。もしかして、同文書は別の異本でも存在して、小林氏はそちらをご覧になったのでしょうか? それにしても馬場の実名の下の字が不明というのも不自然です。虫損なのでしょうか?

あと考えられるとすれば、馬場が信玄の奉行衆の一人で、これらの一門・家臣団の起請文の宛所側だった可能性です。『戦国遺文』で確認できるのは、

吉田信生
浅利信種
金丸昌続
跡部勝資
山県昌景
甘利信忠
水上菅兵衛
曽根昌長
原隼人祐
熊井重満

などです。奉行衆といっても、あまり名前の知られておらず、跡部・浅利・山県らとくらべると格下ではないかと思われる者もいますね。
それでも、馬場の名前は見当たりません。

また、この時期、馬場が信州深志城代だったかどうかわかりませんが、もしそうなら、馬場とは別に深志同心衆の起請文も存在していてよさそうですが、ないところを見ると、馬場や深志衆の起請文は何らかの事情で一括して欠落していると考えたほうがよいかもしれませんね。
2006/12/26(Tue) 13:54 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
うーむ。
私は生島足島神社で買った図録を参照したんですが、やはりありませんでした。
ただ、その図録には発給者の出身地を地図に落としたものが掲載されているんですが、そのなかに「馬場信松」という名が単独で発給したと読み取れる記載があります。
またこの地図には95までナンバリングがされていて、そのまま信じれば95通存在したことになります。しかし、神社に現存しているのは83通です。ちなみに実際に文書を確認できない人物(かつ上記地図には名前あり)としては、山県昌景も含まれています。

そこらへんの事情は図録には注記されていないのでよくわからないのですが、確かに、散佚の可能性はありますね。
山県が無いのは気づいていましたが、私は単純に山県ぐらいの側近になると要求されなかったのかなぁ、と思っていましたが(笑)。

流出してほかの所蔵になっている起請文とかでもあるんでしょうかねぇ…? 『信濃史料』を繰ってみると何かわかるかもしれませんが、『戦国遺文』にも無いとなると、その可能性もちょっと薄いような気がしますね。
2006/12/26(Tue) 18:23 | URL  | かわと #klRpdzBA[ 編集]
馬場起請文
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

さて、問題の「馬場信松」起請文については、吉川弘文館『戦国人名事典』(前掲)に「生島足島神社文書の中に信松と読める下之郷起請文の写が存在する」とありましたので、実物が残っていないということのようです。

で、ここまで議論が盛り上がっているところで何なんですが、昨年末に出たばかりの新歴史群像シリーズ『闘神武田信玄―戦国最強・甲州軍団の激闘』を見たら、他ならぬ柴辻氏が馬場信春について「実名については信房とするものもあり確定していない」と書いていました。
うーん。。。柴辻氏が「実名確定」と断言していたのは何だったんでしょう???

馬場以外にも柴辻氏編『武田信玄大事典』では「秋山信友」「両角虎光」が正しいとされていますので、この3名については、典拠が明らかになるまで結論を保留した方がいいような気がしています。
2007/01/04(Thu) 22:28 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
馬場信春の役割
板倉さん、あけましておめでとうございます。

柴辻氏は歴群の最新号では、信春も信房も確定していないと書かれているのですか。自著との整合性が疑われますね。

武田氏の筑摩・安曇郡支配について、平山優氏が論文を書いており、そのなかで、馬場美濃の地位や役割について触れていますのでご紹介しておきます。

「馬場信春はその後の武田家奉書式朱印状においても、奏者として登場することは一度もない。つまり、馬場は山県昌景・原昌胤・春日虎綱らとは違って、『甲陽軍鑑』に「侍大将」「采配御免」と記されるように、軍事指揮権のみを委託された人物であり、武田氏の権力構造の内部において吏僚の一翼を担う存在ではなかったということであろう」

平山優「戦国大名武田氏の筑摩・安曇郡支配」 『武田史研究』15号、1995年

これによるかぎり、馬場美濃守は奉行人など吏僚的な役割はなく、「采配御免衆」つまり、一手の陣大将(寄親)ではあったということになりますか。そうなると、足軽大将よりは格上であろうと思われます。

ただ、武田氏の有力な譜代衆が軍事指揮権と属城の城代の役割だけで、吏僚的な機能を果たさなかったというのは、馬場のほかにも例があるんでしょうかね?

馬場の別の役割としては、『甲陽軍鑑』にあるように、馬場は山本勘助とともに、陣取や城取など軍配者をつとめていて、おのずと吏僚的ではなかったという可能性もありそうな気がします。

なお、生島足島神社起請文はその全貌をネットでも見られるようですね。もっとも、馬場信松の署名がある「下之郷起請文」写しは収録されていません。残念。

http://museum.umic.jp/ikushima/kishomon/index.html
2007/01/05(Fri) 16:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
柴辻氏の記事
 あけましておめでとうございます。

 シリーズの記事は旧原稿の再利用の可能性がありますから、単独著作の内容を優先するということでよろしいのではないでしょうか。
 それと、平山説の馬場の待遇ですが、原美濃がその先例だった可能性は高いと思います。
2007/01/05(Fri) 18:37 | URL  | かわい #-[ 編集]
原美濃守虎胤
かわいさん、本年もよろしくお願いします。

歴史群像シリーズ最新号、未見なのですが、旧版も再使用しているなら、旧説のままの可能性がありますね。

なるほど、原美濃なら、あまり吏僚的な面は想像しにくいですね。
もっとも、原美濃は第四次川中島合戦前後に表舞台から退場しております。その頃までは、武田家の、いわゆる奉書式朱印状はまだ成立しておらず、奉行人的な役割も不十分だったかもしれません。
なお、原美濃の息子、隼人祐昌胤は奉書式朱印状に奏者として署名している文書があり、奉行人をつとめています(戦国遺文武田氏編1460号)。
原美濃は下総出身の外様衆ですが、息子の昌胤の代になると、おそらく譜代衆の扱いだったのでしょうね。

最近刊行されたばかりの平山優『山本勘助』(講談社現代新書)によれば、武田家中における他国衆の出世コースは足軽大将で打ち止めのようですね。
原美濃しかり、大熊朝秀しかり、横田高松しかり、山本勘助しかりだと思います。

なお、内藤昌秀や馬場信春も足軽大将でしたが、のちに采配御免衆(寄親)に出世しています。これは譜代衆、甲州出身だったことが大きいと思われます。

2007/01/06(Sat) 00:47 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
かわいさん、桐野さん、レスありがとうございます。

>柴辻氏の記事

うむむ。当該記事は最新の研究成果を反映、みたいな書きぶりだったのですが、昔の本の使い回しの可能性アリですか・・・。
著者というよりは出版社のスタンスの問題なんでしょうけど、何だかなーって感じですね。

>馬場信春の役割

平山論文は未見なのですが、重臣クラスでない勇将に与力や同心をつけて戦場で一手の大将を務めさせるというのはありえても、「城代」が吏僚的な役割を全くしないというのは考えがたいですねえ。
管轄地域で訴訟でも起きたら、取次ぎも文書の発給もせずに「甲府に行け」とでも言うんでしょうか(^^;
どうにも史料不足でもどかしいのですが、甲陽軍鑑では原美濃も山本勘助も家老ではなく足軽大将ですから、同じような役割をしている馬場も足軽大将とするのが妥当じゃないかなあ、という気がしています。

ところで、「原美濃の息子、隼人祐昌胤」というのは本当ですか?
原昌胤の父は陣馬奉行として活躍した加賀守昌俊として理解していたのですが、『戦国遺文・武田氏編』ではそれが否定されているということなのでしょうか・・・。

しかし本当に武田氏はわからないことだらけですねえ。困ったものです。
2007/01/06(Sat) 10:11 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
原昌胤
板倉さん

>ところで、「原美濃の息子、隼人祐昌胤」というのは本当ですか?

すみません。私の勘違いです。昌胤はご指摘のように、原昌俊の子どもでした。
お詫びして訂正します。

2007/01/06(Sat) 10:51 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
はじめまして
桐野先生はじめまして。

たまたま暮れに近衛龍春さんの著された『高坂弾正』を読みまして、武田家臣団の名乗りについてちょっと興味を持ちたまたま『秋山虎繁』でググッたら先生のブログに辿り着きました次第です。
お詳しい皆様の中でド素人な質問を致しますがご容赦ください。
長年の疑問なのですが、武田家の場合『虎』や『信』は解るのですが、『昌』の字はいったい誰の『昌』なんでしょうか?
2007/01/06(Sat) 12:19 | URL  | 真田雑兵 #-[ 編集]
「昌」字について
真田雑兵さん、はじめまして。

諱の問題はなかなか難しいですね。
「昌」の字については、誰かからの一字拝領ではないかと推測されているのでしょうか?
「虎」や「信」はたしかに武田家当主である信虎、晴信からの一字拝領ではないかと推察されますね。

虎:甘利虎泰・原虎胤・飯富虎昌・小幡虎盛・秋山虎繁
・三枝虎吉
信:板垣信方・馬場信春・浅利信種

一方、「昌」が付く人も多いですね。

昌:内藤昌秀(昌豊)・小幡昌盛・高坂昌信・山県昌景・土屋昌次・真田昌幸・曽根昌世・駒井昌直・原昌胤

「昌」のほうが「信」「虎」より多いくらいですね。
武田信虎の祖父に信昌という人がいて、「昌」が付きますが、いかにも時代が違いすぎて、この人からの一字拝領だとは考えにくいです。

信虎や晴信が「昌」の付く諱を一時的にでも名乗っていた形跡はありませんから、「昌」の付く人たちは武田家当主からの一字拝領ではないと考えたほうがいいのではないでしょうか。

その一例が、飯富虎昌と(山県)昌景の兄弟です。虎昌の「虎」は信虎からの一字拝領だと思われます。一方、弟の昌景も「昌」が付き、昌景の息子も昌満と名乗っており、みな「昌」を共有していますから、「昌」の字が飯富家の通字だった可能性が高いですね。
通字というのはご存じだと思いますが、その家固有の一字をもっていることです。武田家なら「信」の字ですね。北条家は「氏」の字という具合です。
ほかにも、内藤昌秀の息子は昌月ですから、これも通字だった可能性があります。

余談ながら、山本勘助の諱を晴幸としていますが、どうでしょうか? これは晴信からの一字拝領にも見えますが、違うと思います。「晴」は将軍足利義晴からの一字拝領ですから、将軍から頂戴した一字を家来に与えることはありえないと思います。勘助晴幸以外に、「晴」の付く、信玄時代の家臣はまずいないと思います。
晴幸が一字拝領ではない、自分の名乗りだったとしたら、主君に遠慮して「晴」の字を避けて改名すると思います。だから、晴幸名乗りは疑問がありますね。

結論としては、「昌」の字は武田家当主からの一字拝領ではなく、ふつうの名乗りだったと思われます。
ただ、武田家中でかなり多い字なので、当時流行していた字だったとか、何か縁起がいい字だったのかもしれませんね。

今のところ、それくらいしかお答えできません。
2007/01/07(Sun) 10:19 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
さっそくお返事畏れ入ります
『昌』が流行っていたとすると、その流行の元は晴信(というか太郎)の師とも言われる荻原昌勝あたりでしょうか?
とすれば、多くの武田武士に〝荻原殿にあやかって〟といった感情が芽生えるのも解るような気がします。
さて、
勘助晴幸ですが、最近読みました井沢元彦さんの『野望』にこんな台詞が載ってました。
(勘助と晴信の出会いのシーンで勘助から「晴幸と申しまする」と名乗られ)『なに!わしと同じ字ではないか!』
そういえば。。今日は大河ドラマ『不倫火山』第一話ですね。晴幸と晴信の出会いがどのように演出されているか楽しみですね。
2007/01/07(Sun) 11:23 | URL  | 真田雑兵 #-[ 編集]
秋山伯耆守虎繁
こんばんは。
前回保留した3人(馬場・両角・秋山)のうち、とりあえず秋山については、次の小論考で考察がされておりました。

黒田基樹「秋山伯耆守虎繁について」(『戦国遺文武田氏編・月報2』2002.9)

これによりますと、内閣文庫所蔵の『古文書花押写』という署判部分の模写集の6冊目に「秋山伯耆守虎繁」があるとのこと。
うーん。署判部分のみ、しかも模写ですか。
これだけだと真偽の判定ができないので「実名確定」とは言い難いですねえ。
黒田氏は「ほぼ間違いないだろう」とは言っておりますが・・・。

ちょっと引っかかっているのは、黒田氏とともに『戦国遺文・武田氏編』の編者である柴辻俊六氏の著書『甲斐武田一族』(新人物往来社、2005.10)では、御聖道様(信玄次男・竜宝)衆の「秋山越前守」が虎繁とされ、秋山伯耆守信友とは明らかに別人物として扱われていたのに、柴辻氏の近著では突然「秋山伯耆守は虎繁で確定」としていることです。
記述の整合性云々の前に、なんでこうなったのか、ちょっと理解できません。
理解できないので結論はまたもや保留したいと思います(^^;
2007/01/18(Thu) 23:52 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
馬場美濃守信枩
自己レスです。
歴史群像シリーズ『戦国武心伝』で荒井今朝一氏が「馬場美濃守」の項を書かれていて、それによると、生島足島神社文書には「馬場美濃守信枩」とあり「枩(松)」は「春」の写し間違いとみられるので信春と名乗ったのは確実と考えられる・・・とありました。

うーん。。。確かに字の感じは似てますが、裏付けとなる史料がない以上、逆に信春の方が誤伝という可能性もあるような気がします。
そう思いながら『戦国遺文武田氏編』第6巻をめくっていたら、172ページに「下之郷起請文署判写」があり、そこにはこう書いてありました。

 金丸平八郎殿  馬場美濃守信春(花押影)
 吉田左近助殿  山県三郎兵衛昌景(花押影)

これも署判部分のみ、しかも写しで正文は散逸しているということのようです。
写し間違い云々については何の言及もありませんが、『戦国遺文』の編者も荒井氏と同様な判断をもって原文を書き換えたということなんでしょう。

こうしてみると、柴辻氏が著書で「信春で確定」としたのは、私から見るといささか勇み足のように思えますが、何となく謎は解けたのでまあいいかって感じです(苦笑)。
2007/01/24(Wed) 21:42 | URL  | 板倉丈浩 #OeYiU9x6[ 編集]
↑あれ?
フリップの出方が変ですね。入力ミスかなあ。
すみません。。。
2007/01/25(Thu) 01:47 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
板倉さん

貴重な調査報告、有難うございます。
ただいま、多忙にて詳しいコメントが書けません。一段落したら改めてお返事します。お許しのほど。
2007/01/25(Thu) 02:13 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
馬場美濃守信春
板倉丈浩さん

返事が遅れてすみません。

ようやく『戦国遺文 武田氏編』6の補遺の該当部分を確認しました。
たしかに「馬場美濃守信春」とありますね。
同書6の索引を見ると、この文書の馬場は収録してありません。おそらく同じ本のなかだったので、載っていないのでしょう。だから、気づかなかったわけです。
板倉さんは索引だけで満足せずに、補遺までちゃんと探されたのが結果につながりましたね。
ということは索引の利用法も今後は注意を要しますね。どうやら1~5巻までを対象にしたものと考えたほうがいいのかもしれません。

それで、補遺4210号「下之郷起請文署判写」ですが、これまで「信枩」?とされていた典拠「生島足島神社文書」の散佚分だと考えてよいのでしょうか?
所蔵が個人蔵なので、別系統の可能性はないのでしょうか? つまり、「信春」とはっきり確認できるように書かれている可能性はないのかということです。

もし「信枩」(信松)か「信春」か判読に迷うような書き方なら、『戦国遺文』の編者も断定せずに傍注で注記するのではないかと思うのです。

柴辻さんの著書での人名比定はどうも怪しい点があるようですが、「信春」で確定と書かれている部分の典拠はこの補遺文書かもしれないですね。

いずれにせよ、ご教示有難うございました。
こちらも不勉強で恥ずかしいかぎりです。
2007/01/26(Fri) 16:06 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
柴辻氏の人名比定
こんにちは。レスありがとうございます。
前回のコメント、「フリップ」は「トリップ」の誤記ですね。もう何やってんだか・・・。
それはともかく、

>所蔵が個人蔵なので、別系統の可能性はないのでしょうか? 
>つまり、「信春」とはっきり確認できるように書かれている可能性はないのかということです。

写しですし、しかも署判部分のみですから、複数残っていても全然おかしくないのですが、それでも「信松」とする異本の存在に全く言及していないので、同一文書ではないかという疑いは残りますね。
原文を確認できないので「くずし字辞典」の類を見たのですが、「枩」と「春」、字体によっては似ていると言えば似ているので、誤読した可能性もありますが・・・。

>いずれにせよ、ご教示有難うございました。

こちらこそ、おつきあいいただき、ありがとうございました。
気軽に調べてみたら深みにはまってしまった感じですが(笑)、馬場・秋山・両角の3名の「実名確定」については、ちょっとまだ納得できません。
紙数の都合というのはわかりますが、一般向けとはいえ学問書である以上、従来と違ったことを書くときは、最低限、それなりに典拠を示して説明してもらわないと困りますよねえ・・・。
2007/01/27(Sat) 11:10 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。