歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第32回
―先祖の名誉回復期する―

いつもの連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすればご覧になれます。

今回からしばらく、桐野利秋を書くことにしました。
名字が一緒ということもあり、以前から注目していた人物でした。せっかく地元紙に書く機会を与えられたので、思うところを書いてみるつもりです。

今回は、桐野の改姓・改名事情について書きました。
意外と知られてないのではないかと思ったからです。
桐野利秋の文書も数は多くありませんが、おそらく数十点はあるのではないかと思います。また桐野のことを書いた薩摩藩士などの文書を併せて、いつから桐野名字が始まるのか年次を検討してみました。

桐野文書を調べてみると、意外にも一番多く所蔵しているのが大久保利通家で、9点あります。いずれも中村半次郎時代です。
ほかにも、近年、鹿児島の黎明館が西南戦争中かその直前の桐野文書を2,3点購入しているとも聞きます。
桐野文書の全貌が明らかになれば、もう少し実像がわかるかもしれません。

次回は幕末期の桐野について書く予定です。


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【2007/11/10 13:48】 | さつま人国誌
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島津家版「ゴルゴ十三」と汚れ仕事
ばんない
こんにちは。本文の方も拝読しました。桐野利秋の先祖が島津家家督争いに絡んでいたとは知りませんでした。

改めて「本藩人物志」の「押川讃岐守」の押川強兵衛の話を読むと協力者として”桐野九郎左衛門”なる武士の名前が見えますね。
押川は非常に島津義弘に近い武将で、朝鮮出兵、伏見城攻めや関ヶ原の合戦、そしてこの平田増宗暗殺と、スナイパーとして活躍した人物のようです。その後も義弘の命により代官となったり、病気になったときには70石あまりしかもらってない中下級武士であるにもかかわらず島津家久(忠恒)直々に見舞いをされているなどの丁重な扱いを受けていますが、ここからも「押川の平田増宗暗殺」が義弘・家久(忠恒)親子にとってどれほど重要度の高い事件だったのかが伺い知れるような気がします。ただ、私は旧記雑録の内容から、この事件には家久(忠恒)の方が積極的に関わって義弘の方は余り気が進まなかったんじゃないかという印象を持っています。

話が脱線しましたが、「桐野九郎左衛門」も「本藩人物志」に記載がありますが、押川強兵衛に比べると一時金銀子と御切米10石と軽い扱いですね。あと、桐野さんの指摘通り外戚の「中村」に改名してますが、その理由については触れてませんでした。

中村(桐野)家についてはともかくとして、押川家もその後は余り出世した形跡がないようですから、島津本宗家としては汚れ仕事に関わった”影の仕事人”は早く消えて欲しかったのがホンネなのかも知れませんね。

平田増宗暗殺と伊集院忠真暗殺の類似性
桐野
ばんないさん、こんばんは。

押川強兵衛に指令を下したのは、私も家久の可能性が高いと思います。
たしか、家久はあのとき、川内の久見崎から上洛のため出航しています。増宗はその見送りに行き、帰途、所領に立ち寄ったところで暗殺されました。

自分のアリバイを作っているから疑われないというわけですが、かえって怪しいですね。
上洛にこと寄せて、政敵を暗殺するというのは伊集院忠真のときと同じパターンですから、家久の手口と見ていいかもしれませんね。

桐野九郎左衛門の子について
レギオン・ペリクレス
 桐野九郎左衛門の子を桐野源之亟のちに中村与兵衛といいますが、『寛永13年鹿児島衆中屋敷御検地帳』の『新堀の下』の住人で薬丸伴左衛門や東郷肥後守の近所に『中村源之允・与兵衛』という人物がいますが、この人ではないかとおもうのですが?
 といいますのも「三州御治世要覧」の「当事役人」で児玉早之丞を「早之允」と書いていますし、「丞」も「允」もほぼ同意らしいので。

お礼
桐野作人
レギオン・ペリクレスさん

ご教示有難うございます。
今後の参考にさせていただきます。

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島津家版「ゴルゴ十三」と汚れ仕事
こんにちは。本文の方も拝読しました。桐野利秋の先祖が島津家家督争いに絡んでいたとは知りませんでした。

改めて「本藩人物志」の「押川讃岐守」の押川強兵衛の話を読むと協力者として”桐野九郎左衛門”なる武士の名前が見えますね。
押川は非常に島津義弘に近い武将で、朝鮮出兵、伏見城攻めや関ヶ原の合戦、そしてこの平田増宗暗殺と、スナイパーとして活躍した人物のようです。その後も義弘の命により代官となったり、病気になったときには70石あまりしかもらってない中下級武士であるにもかかわらず島津家久(忠恒)直々に見舞いをされているなどの丁重な扱いを受けていますが、ここからも「押川の平田増宗暗殺」が義弘・家久(忠恒)親子にとってどれほど重要度の高い事件だったのかが伺い知れるような気がします。ただ、私は旧記雑録の内容から、この事件には家久(忠恒)の方が積極的に関わって義弘の方は余り気が進まなかったんじゃないかという印象を持っています。

話が脱線しましたが、「桐野九郎左衛門」も「本藩人物志」に記載がありますが、押川強兵衛に比べると一時金銀子と御切米10石と軽い扱いですね。あと、桐野さんの指摘通り外戚の「中村」に改名してますが、その理由については触れてませんでした。

中村(桐野)家についてはともかくとして、押川家もその後は余り出世した形跡がないようですから、島津本宗家としては汚れ仕事に関わった”影の仕事人”は早く消えて欲しかったのがホンネなのかも知れませんね。
2007/11/12(Mon) 12:31 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
平田増宗暗殺と伊集院忠真暗殺の類似性
ばんないさん、こんばんは。

押川強兵衛に指令を下したのは、私も家久の可能性が高いと思います。
たしか、家久はあのとき、川内の久見崎から上洛のため出航しています。増宗はその見送りに行き、帰途、所領に立ち寄ったところで暗殺されました。

自分のアリバイを作っているから疑われないというわけですが、かえって怪しいですね。
上洛にこと寄せて、政敵を暗殺するというのは伊集院忠真のときと同じパターンですから、家久の手口と見ていいかもしれませんね。
2007/11/12(Mon) 19:35 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野九郎左衛門の子について
 桐野九郎左衛門の子を桐野源之亟のちに中村与兵衛といいますが、『寛永13年鹿児島衆中屋敷御検地帳』の『新堀の下』の住人で薬丸伴左衛門や東郷肥後守の近所に『中村源之允・与兵衛』という人物がいますが、この人ではないかとおもうのですが?
 といいますのも「三州御治世要覧」の「当事役人」で児玉早之丞を「早之允」と書いていますし、「丞」も「允」もほぼ同意らしいので。
2008/10/15(Wed) 18:09 | URL  | レギオン・ペリクレス #-[ 編集]
お礼
レギオン・ペリクレスさん

ご教示有難うございます。
今後の参考にさせていただきます。
2008/10/16(Thu) 23:34 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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