歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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先日の上方出張の主な目的はここの博物館に寄託されている『信長記』関係の史料を調査することだった。
着いてみると、じつに近未来的な建築物で、博物館のイメージとあまりに異なっていたからびっくり。噂には聞いていたが、すごい。

ある調査プロジェクトで、私は協力者として末席にいるだけだが、それでも、実地の史料調査は学ぶべき点が多い。
年齢は私より下でも、キャリアははるかに上の研究者たちの動きを見ているだけで面白いもの。

着いてみると、作業室に学芸員のO澤さんがすべて手際よくお膳立てして下さっていた。
『信長記』の筆者太田牛一の子孫の家に伝来する史料群である。『信長記』は15巻本だが、天正10年分の最終巻だけが欠落していたのが残念。いろいろなチェックポイントを調べてみる。

とくに興味深かったのは、太田牛一自筆の『猪熊物語』を実見できたこと。近世初期の宮廷スキャンダルとして知られる猪熊事件を叙述したもの。
成立時期が池田家本『信長記』と同じ年で、当たり前だが、同本と同じ筆跡をじかに見て感動した。

足かけ2日間かけて、所定の調査・撮影などを終了した。
いろいろご手配いただいたO澤さん、寝屋川市教育委員会のO崎さんに感謝である。

大阪歴博

調査風景

初日の夜は、友人でリンク先でもある橋場殿下夫妻とも合流して、宿泊先近くの店で宴席と相成る。お二人には久しぶりにお会いした。

2日目の調査終了後、せっかくなので、同館で開催中の「風林火山」展を見学した。たしか、山梨県立博物館を皮切りに全国を回っている展示会だと思う。

山本勘助の実在を証明したとされる「山本菅助」と書かれた武田晴信書状を初めて見た(「市河文書」)。

面白かったのは、紀州本の「川中島合戦図屏風」。信玄と謙信が川の中で一騎打ちしている変わった図柄のものである。
右隻だったか、下面に林の中から戦場を望見している僧侶とその従者がおり、説明に「天海」とあったので、屏風をよく見ると、「南光坊天海」と書いてあるではないか。
なぜ、天海が川中島合戦を見学しているのだろうか?
天海の没年は寛永20年(1643)。第4次川中島合戦は永禄4年(1561)だから、じつに80年以上前になる。天海が100歳を超している長寿なら、20代ということになるが、にわかには信じがたい。
不勉強でよく知らないが、なぜこの屏風に天海がいるのか、どなたか明らかにしているのだろうか?
越後流軍学と天海に何らかのつながりがあるのか?

ショップで、上杉家関係の史料をいくつか購入したが、またやってしまった。二度買いである。しかも、決して安くないもの。
『国宝 上杉家文書 図説』(泣)

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【2007/11/12 23:08】 | 信長
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天海
橋場
先日は有り難うございました。
天海の件ですが、彼には明智光秀同一人物説の他にもうさんくさい伝承が多々ありまして、出典は忘れましたが晩年「若い頃川中島合戦を見た」と周囲に話していたそうです。まさにホラふきドンドン(byジョージ秋山)状態ですが、それによると天文五年(一○五歳という驚異の没年から逆算)生まれの彼は青年時代武田氏の祈祷僧にもなり、信玄・謙信一騎打ちについても触れ、あとで信玄にその事を話したら「誰にも言うな」と釘をさされたと言っています。実際、武田側は一騎打ちなどは認めていませんが、近衛前久の謙信宛「自身太刀打ちに及ばれ」という有名な書状ともリンクしてまことしやかに一騎打ち実在派に使われる事となりました。
その説に乗っかったのが紀州徳川家御用達の越後流軍学の宇佐美定佑です。一騎打ちが本当にあり、いくさも上杉方が優勢だったのだと主張する宇佐美は『北越軍記』だかを著した上、おそらくはこの紀州本川中島合戦図屏風作成にも参画して「一騎打ちの目撃者」たる天海を絵の中に描かせて「一騎打ち実在」をダメ押ししたのでしょう。

天海
戸矢学
飛び込みの初参陣にて失礼いたします。
「紀州本川中島合戦図屏風」は正確さには欠けるものの、絵師の空想だけでは天海は登場させられないので、どこかに情報源があったことは確かでしょう。当時は、けっこう知られた話だったのかもしれません。
ちなみに天海の経歴については、武田に一時期身を寄せていたと、寛永寺の記録があります。晩年の天海が語るままに弟子の聞き書きという体裁を採っています。前後関係から判断すると、当時の年齢は19歳前後と推定(私見)されます。
ただし、天海という名は天正18年からで、それ以前は随風ですから、川中島の時に「天海」であるはずはありません。しかし「随風」という名も、いつから名乗っているか確定されてはおりません。これは、そもそも天海がどこの何者か、出自が明らかでないことによっています。天海自身が出自を隠そうとしていたとも解釈できるくだりが記録にあります。芦名氏に生まれ、幼名が兵太郎であったとの説もありますが、これについて問われた際に当人は諾否いずれとも応じておりません。芦名兵太郎は天文15年に会津・龍興寺で仏門に入り、この時に随風という名を受けたという記録はあるのですが、この随風と天海の随風が同一人であるか否かは難しいところです。
ご参考までに、拙著『天眼-光秀風水綺譚』(河出書房新社)において、信玄に仕えた陰陽道の知恵者が、その後、光秀・天海へと変成して行く話を小説仕立てにしております。川中島合戦を望見するシーンも描いています。それなりに裏取りしておりますので、この辺りの関連にご関心の向きは、ぜひ、ご一読を! そしてご批判を!

太田家伝来史料群
磯部
桐野先生、おつかれさまでした。
太田牛一の子孫の家に伝来する史料群が、現在、大阪歴史博物館に寄託されていることは知りませんでした。ご学恩に感謝致します。これらの史料群は大学や研究機関に在職する研究者にしか公開されていないのでしょうか、「ある調査プロジェクト」の内容が気になるところです。太田家蔵『信長記』について、詳細な報告がなされることを期待しております。


天海
桐野
橋場殿下、こんばんは。

ご教示有難うございます。
そういえば、高橋修『【異説】もうひとつの川中島合戦図屏風』(洋泉社新書y)というのがありましたが、たしか越後流軍学の宇佐美定祐の意図を分析したものでしたね。持っているのですが、ちゃんと読んでいませんでした(爆)。

殿下のお説を要約すると、

川中島合戦では謙信が勝った→越後流軍学は優秀である←天海が実際に見ている

という形で、自流派の優越を紀州徳川家(頼宣か)に売り込んだのでしょうね。

天海は武田家に?
桐野
戸矢学さん、こんばんは。

先日はご高著、寄贈いただき有難うございました。
天海についても、ご教示有難うございます。

天海(随風)が武田家に寄寓していたという寛永寺の記録は何というものなんでしょうか?

天海については、伝承や伝奇が多くて、私にはよくわかりません(汗)。

太田家史料
桐野
磯部さん、こんばんは。

太田家史料はおそらく寄託史料で、所蔵者がおいでですから、閲覧などは所蔵者の許可が必要だと思います。それをクリアされれば、閲覧は原則的にはどなたでも可能だと思います。
ただ、原則は原則で、現実問題としてはいろいろ難しい面もありますね。磯部さんが所属のある研究者なら、何とかなるかもしれませんが。
私も所属がないし駆け出しなので、このグループに加えてもらったのは有難いかぎりです。
『信長記』諸本については、これからも調べていきたいと思っております。

高橋氏著書
橋場
さいわいご指摘の高橋氏の本が出る直前に偶然にも「歴群」でそのあたりの事情を先に書く事ができました。そんな事もあるのですね。

失礼しました
桐野
橋場殿下

殿下のご論考をちゃんと紹介せず、失礼しました。

前コメントの→を使ったチャートの部分は殿下のお説を自分なりに咀嚼して書いたことを付け加えておきます。


いえいえ
橋場
拙文は天海の件には全く触れておりません(笑)。
あくまで「軍師・宇佐美定行」誕生の経緯についてのものでしかありませんので、どうぞお気遣いなく。
高橋氏の著書の話が出たので、笑い話としてコメントさせて戴いただけです。

天海関連文書
戸矢学
『慈恵慈眼両大師伝記』
『東叡山開山慈眼大師縁起』
いずれも、弟子の胤海が著したものです。

ご教示多謝
桐野
戸矢学さん、こんばんは。

史料紹介有難うございます。
でも、あまり一般には見られそうもない史料でしょうかね。


お礼
磯部
桐野先生、ご返事をいただき、厚く御礼申し上げます。
『信長記』については、たいへん関心がありますので、先生のご研究に期待しております。

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この記事へのコメント
天海
先日は有り難うございました。
天海の件ですが、彼には明智光秀同一人物説の他にもうさんくさい伝承が多々ありまして、出典は忘れましたが晩年「若い頃川中島合戦を見た」と周囲に話していたそうです。まさにホラふきドンドン(byジョージ秋山)状態ですが、それによると天文五年(一○五歳という驚異の没年から逆算)生まれの彼は青年時代武田氏の祈祷僧にもなり、信玄・謙信一騎打ちについても触れ、あとで信玄にその事を話したら「誰にも言うな」と釘をさされたと言っています。実際、武田側は一騎打ちなどは認めていませんが、近衛前久の謙信宛「自身太刀打ちに及ばれ」という有名な書状ともリンクしてまことしやかに一騎打ち実在派に使われる事となりました。
その説に乗っかったのが紀州徳川家御用達の越後流軍学の宇佐美定佑です。一騎打ちが本当にあり、いくさも上杉方が優勢だったのだと主張する宇佐美は『北越軍記』だかを著した上、おそらくはこの紀州本川中島合戦図屏風作成にも参画して「一騎打ちの目撃者」たる天海を絵の中に描かせて「一騎打ち実在」をダメ押ししたのでしょう。
2007/11/13(Tue) 00:54 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
天海
飛び込みの初参陣にて失礼いたします。
「紀州本川中島合戦図屏風」は正確さには欠けるものの、絵師の空想だけでは天海は登場させられないので、どこかに情報源があったことは確かでしょう。当時は、けっこう知られた話だったのかもしれません。
ちなみに天海の経歴については、武田に一時期身を寄せていたと、寛永寺の記録があります。晩年の天海が語るままに弟子の聞き書きという体裁を採っています。前後関係から判断すると、当時の年齢は19歳前後と推定(私見)されます。
ただし、天海という名は天正18年からで、それ以前は随風ですから、川中島の時に「天海」であるはずはありません。しかし「随風」という名も、いつから名乗っているか確定されてはおりません。これは、そもそも天海がどこの何者か、出自が明らかでないことによっています。天海自身が出自を隠そうとしていたとも解釈できるくだりが記録にあります。芦名氏に生まれ、幼名が兵太郎であったとの説もありますが、これについて問われた際に当人は諾否いずれとも応じておりません。芦名兵太郎は天文15年に会津・龍興寺で仏門に入り、この時に随風という名を受けたという記録はあるのですが、この随風と天海の随風が同一人であるか否かは難しいところです。
ご参考までに、拙著『天眼-光秀風水綺譚』(河出書房新社)において、信玄に仕えた陰陽道の知恵者が、その後、光秀・天海へと変成して行く話を小説仕立てにしております。川中島合戦を望見するシーンも描いています。それなりに裏取りしておりますので、この辺りの関連にご関心の向きは、ぜひ、ご一読を! そしてご批判を!
2007/11/13(Tue) 08:55 | URL  | 戸矢学 #wsWRnZfc[ 編集]
太田家伝来史料群
桐野先生、おつかれさまでした。
太田牛一の子孫の家に伝来する史料群が、現在、大阪歴史博物館に寄託されていることは知りませんでした。ご学恩に感謝致します。これらの史料群は大学や研究機関に在職する研究者にしか公開されていないのでしょうか、「ある調査プロジェクト」の内容が気になるところです。太田家蔵『信長記』について、詳細な報告がなされることを期待しております。
2007/11/13(Tue) 16:10 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
天海
橋場殿下、こんばんは。

ご教示有難うございます。
そういえば、高橋修『【異説】もうひとつの川中島合戦図屏風』(洋泉社新書y)というのがありましたが、たしか越後流軍学の宇佐美定祐の意図を分析したものでしたね。持っているのですが、ちゃんと読んでいませんでした(爆)。

殿下のお説を要約すると、

川中島合戦では謙信が勝った→越後流軍学は優秀である←天海が実際に見ている

という形で、自流派の優越を紀州徳川家(頼宣か)に売り込んだのでしょうね。
2007/11/13(Tue) 21:57 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
天海は武田家に?
戸矢学さん、こんばんは。

先日はご高著、寄贈いただき有難うございました。
天海についても、ご教示有難うございます。

天海(随風)が武田家に寄寓していたという寛永寺の記録は何というものなんでしょうか?

天海については、伝承や伝奇が多くて、私にはよくわかりません(汗)。
2007/11/13(Tue) 22:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
太田家史料
磯部さん、こんばんは。

太田家史料はおそらく寄託史料で、所蔵者がおいでですから、閲覧などは所蔵者の許可が必要だと思います。それをクリアされれば、閲覧は原則的にはどなたでも可能だと思います。
ただ、原則は原則で、現実問題としてはいろいろ難しい面もありますね。磯部さんが所属のある研究者なら、何とかなるかもしれませんが。
私も所属がないし駆け出しなので、このグループに加えてもらったのは有難いかぎりです。
『信長記』諸本については、これからも調べていきたいと思っております。
2007/11/13(Tue) 22:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
高橋氏著書
さいわいご指摘の高橋氏の本が出る直前に偶然にも「歴群」でそのあたりの事情を先に書く事ができました。そんな事もあるのですね。
2007/11/13(Tue) 22:08 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
失礼しました
橋場殿下

殿下のご論考をちゃんと紹介せず、失礼しました。

前コメントの→を使ったチャートの部分は殿下のお説を自分なりに咀嚼して書いたことを付け加えておきます。
2007/11/13(Tue) 22:25 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
いえいえ
拙文は天海の件には全く触れておりません(笑)。
あくまで「軍師・宇佐美定行」誕生の経緯についてのものでしかありませんので、どうぞお気遣いなく。
高橋氏の著書の話が出たので、笑い話としてコメントさせて戴いただけです。
2007/11/14(Wed) 08:30 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
天海関連文書
『慈恵慈眼両大師伝記』
『東叡山開山慈眼大師縁起』
いずれも、弟子の胤海が著したものです。
2007/11/14(Wed) 08:55 | URL  | 戸矢学 #wsWRnZfc[ 編集]
ご教示多謝
戸矢学さん、こんばんは。

史料紹介有難うございます。
でも、あまり一般には見られそうもない史料でしょうかね。
2007/11/15(Thu) 00:27 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
お礼
桐野先生、ご返事をいただき、厚く御礼申し上げます。
『信長記』については、たいへん関心がありますので、先生のご研究に期待しております。
2007/11/16(Fri) 09:47 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
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