歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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新暦と旧暦の違いはあるが、昨日は坂本龍馬・中岡慎太郎の140回目の祥月命日だった。
そのせいだろうか、こんなネット企画を見つけた。ここです。

右側に「坂本龍馬を暗殺したのは誰だと思いますか?」という投票コーナーがある。その結果だけをのぞいてみたところ、

京都見廻組隊士 39%

薩摩藩士 32%


が群を抜いて多かった。

この現状を何と見るか。
近江屋事件への理解はこの程度なのだろうか。所詮、歴史と伝奇は別物と割り切ってもいいのかもしれないが、何ともやるせない結果だといわざるをえない。

常識的に考えても、見廻組の誰がやったかはすぐ具体名が上がるだろう。何よりその隊士の一人、今井信郎が自らやったと告白しているではないか。そしてその証言や記録はおおかた信頼できると、多くの研究者が指摘している。

では、薩摩藩士は誰なのか、ぜひ具体名をあげてほしいものだ。
中村半次郎だとでもいうのだろうか。
彼の『京在日記』を見てほしい。近江屋事件当日、中村は藩邸の長屋に午後8時頃に帰宅している(事件は午後10時頃)。また龍馬周辺の人物ともとても仲良しだ。

あるいは、西郷・大久保が命令したというのか。
西郷は近江屋事件当日、まだ西国の海上にいる。大久保は当日入京したばかりだったが、事件を知ると、土佐藩の真相究明に積極的に協力しつつ、坂本・中岡が暗殺されたことに義憤を表明し、(新選組が下手人だと信じていたので)近藤勇はその暴虐ゆえに自滅するだろうとまで言い切っている。

吉井幸輔に至っては、近江屋は無防備で危ないから薩摩藩邸に避難するよう、龍馬に忠告までしている。

このような史実や史料の全体を概観してみて、果たしてどこから薩摩藩士説が出てくるのか、私にはとても信じられない。

おそらく、史実を無視した某大河ドラマあたりからこの傾向は強まったと思っているが、まったく困ったものだ。

泉下の坂本・中岡の両人こそ、我々の国事周旋が果たして何のためだったか、まったく理解してもらえていないと、一番困惑し嘆いているのではないか。
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【2007/11/16 10:19】 | 幕末維新
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勉強になりました
市川
こんにちは。
龍馬暗殺事件はテレビなどでよく取り上げられる話題ですが、やはりそれほど謎が深いわけではないのですね。
今井信朗の証言は熊本鎮台の谷干城が反論したと聞きましたが、それは彼の独断偏見によるものだったのでしょうか。

薩摩藩士説でも、剣術の達人である龍馬を殺せるのは中村半次郎だけだとか、西郷が疎ましく思っていたとか……。私にとって、今回のブログは大変勉強になりました。

谷干城
桐野
市川さん、こんにちは。

谷干城は、近江屋事件当時、土佐藩の目付で、この事件の下手人探しの担当者でした。薩摩藩(大久保利通、中村半次郎)との協力で、薩摩藩の伏見藩邸で、高台寺党の生き残りを尋問し、新選組(とくに原田左之助)が犯人だという結論を下した人物です。

それは土佐藩の公式見解となり、それをもとに福岡藤次ら土佐藩重役が幕府の老中板倉勝静や若年寄格の永井尚志らに迫って、新選組が下手人だと認めさせています。

近藤勇が流山で処刑されたのも、近江屋事件の命令を下した罪が主であり、一種の土佐藩側の報復、敵討ちでした。

そのような形で近江屋事件を処理してきた土佐藩、とくにそれにもっとも貢献した谷干城ですから、新選組犯人説を否定した今井信郎証言に猛反発するのは当然です。自分が下した結論も、近藤勇を処刑したことも間違いだったということになるのですから。

細かい議論はともかく、自分の判断と土佐藩の公式見解を否定されたことが、谷干城の批判・反発の根底にあります。そのことを見誤ってはいけません。
要は、すでに決着済みのことを、今さら蒸し返すとは何事だという不快感が大きいのでしょうね。

その谷干城さえ、薩摩藩が犯人だと聞かされたら、バカいうなと一笑に付すでしょうけどね(笑)。


パルティアホースカラー
こんばんは。
私も自分のブログで何度も主張しておりますが、実行犯にせよ黒幕にせよ、龍馬殺害に薩摩藩士の関与はありえないという考えです。

思うに、龍馬暗殺前後の政局認識として、土佐や越前の公議政体派と武力討幕派の対立が決定的なものだったというイメージが一般的に強すぎるんでしょうね。そのイメージがまず先にあって、そこに肥後藩国事史料やら佐々木多門の書状やらが、都合のいい解釈で無批判に使われている気がします。

今井が言っていることの細かい矛盾点や不審な点を厳しく追及して薩摩藩士関与説を唱える人の多くが、肥後藩国事史料などの記述を無批判に信用して、その信憑性に疑問を抱いている人をあまり見かけませんし。今井の言っていることを疑うなら、薩摩藩士の関与を匂わせる史料の内容も疑うべきだと言いたいところです。

今井の助命に西郷が尽力したという今井家の家伝を利用して西郷の龍馬暗殺関与を疑う人も多いですが、それ以前に家伝の内容が真実を伝えているのか検証されて然るべきだと思いますが、それがなされないままに安易に信用されて都合よく使われている気がします。桐野さんも以前おっしゃられていましたが、家伝よりも一次史料を重視すべきだと思います。



龍馬は薩長の邪魔者にあらず
桐野
パルティア・ホースカラーさん、こんばんは。

筋道だったご意見有難うございます。
私も全く同意です。

武力討幕派と公議政体派の対立なるものを必要以上に強調することが、薩摩藩黒幕説の背景にある理論的根拠になっているわけですが、おおかたはそんな理屈よりも、3年ほど前の某大河ドラマをはじめ、近年のTV局が垂れ流している歴史バラエティがほとんど薩摩黒幕説を採用して面白おかしく描いていることによる刷り込みの影響がきわめて大きいのではないかと思っております。

そうした大量宣伝力の前には、所詮、蟷螂の斧かもしれませんが、言うべきことは言っていくべきだと思います。
パルティア・ホースカラーさんもブログで、この件を何度も強調されているのが心強い思いです。

ひとつ、私の方からもいえば、武力討幕派と公議政体派の対立なるもの、より具体的には西郷・大久保と後藤象次郎ら土佐藩の矛盾。これは対立というより食い違いといったほうが適切だと思います。
その矛盾のありようをどう斟酌するか、その想像力の欠如が問題だろうと思っています。

龍馬は土佐藩が遅れてきた後進藩であり、薩長のような先進的な藩でないことを十分承知しており、そのため、土佐藩を何とか薩長に伍していけるようにしたかったと思います。
でも、土佐藩ができうる最大の方策がせいぜい大政奉還建白までであり(徳川家に対して建藩の恩義があるから討幕の立場はとれない)、西郷・大久保に対しても、土佐藩はここまで頑張っている、でもこれが精一杯だ、何とか土佐藩の立場を理解してほしいという形の周旋をしていたと思います。

そして、西郷・大久保も龍馬の気持ちを了承し、土佐藩の立場と限界を斟酌したからこそ、それまでいろいろ食い違いはあったけれど、それを乗り越えて、土佐藩の大政奉還建白の提出に反対しませんでした。

龍馬は脱藩士でいまだ土佐藩の中に身の置き所がなかったけれど、自分の藩と郷里への深い愛情があり、そのためにこそ、大政奉還を後藤に働きかけたわけです。
西郷・大久保も龍馬の心中をわかっていたはずで、10月13日、龍馬が二条城に出かけていく後藤を死ぬ気で頑張ってこいと叱咤激励したのは有名ですが、そのとき、龍馬は後藤がこの建白に失策を犯せば、「小弟また薩長の督責を免れず」と語気を強めています。

この龍馬の真意を理解してあげるべきです。龍馬はもし後藤が失敗すれば、自分は薩長に対して顔向けできない、その責めを負わないといけないという論理で、後藤の尻を叩いているのです。
これは重要な言葉です。龍馬が薩長から、大政奉還建白への一定の賛意を調達したことの何よりの証です。

したがって、龍馬が薩長にとって邪魔者だったという説は、史料的根拠もない、的はずれな見方だといわざるをえません。

研究者も一般の歴史ファンとの歴史意識の乖離を埋めるための労を惜しむべきではないと思います。ぜひこの問題にも積極的に発言してもらいたいものです。

気になったこと二点
鏡川伊一郎
1、「事件は午後10時頃」と書かれていますが、そんな遅い時間ではないでしょう。桐野さんご自身、別の場所では「その時刻は幅はあるが、おおよそ戌の刻(午後8時頃)から半時(1時間)の間だと推定されている」(学研の歴史群像シリーズ「幕末群像」下巻「龍馬暗殺」)と記されていますが、今回はアリバイ成立のために意図的ですか(冗談)。事件はもっと早い時間、ほとんど宵の口、つまり「鳥新」が開店している時間に起きているはずです。(誤解のないように、私は中村半次郎が実行犯だとは思っていませんので、彼のアリバイなどどうでもいいほうです)
2、谷干城に関する誤解と偏見にみちた俗説にくみしておられるのは残念ですね。谷が今井信郎の実歴談(近畿評論)を批判したのは、記事が記者の潤色によってあまりにも事実と異なっていたからで当然のことであります。谷の講演内容は前半部分をカットした抄録史料が多いのですが、ぜひ前半部分を読まれるべきです。龍馬が「誰にやられたかということについては、未だ今に心にかけて詮議中である」と言っております。明治39年にですよ。「大学には歴史専門の諸君もたくさん御在りになさることでありますkら、どうか私が申上げる所を御参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に大慶に存じます」とも言っております。この前半部分にはむしろ谷が微妙に土佐藩の動きに疑惑の目をむけている箇所があります。

御礼
桐野
鏡川伊一郎さん、どうも。

微細な点のご指摘有難うございます。

1,犯行時刻と中村半次郎

近江屋事件を網羅的に調べた菊地明氏によれば、犯行時刻は午後8時から同35分の間だと結論しています。いろいろ矛盾する史料を詳しく読み解いての結論でしょうから、比較的妥当だと思われます。

で、中村の帰邸時刻ですが、『京在日記』の近江屋事件当日の条には、次のようにあります。

「永山士同行、坂元彦右エ門旅宿日光屋迄越し、夜五ツ前帰邸」

「五ツ前帰邸」について。
ご承知のとおり、五ツは当時の時制では、午後8時前後を指します。しかも、「~前」と書いていますから、中村の帰邸時刻は午後7時台であることは間違いありません。
菊地氏の出した結論と照らし合わせて、中村の犯行が時間的・物理的に成立しないことは明らかです。

あまりそれ以上の指摘をされないのですが、中村の日記は別の情報も伝えています。中村は当日、単独行動をしていません。「永山士」(永山弥一郎だと思われる)と一緒に、友人の坂元彦右衛門宅を訪ねて歓談してから帰っているわけで、当日の行動を偽装できようはずもありません。

いずれにせよ、些細な勘違いはありましたが、前回書いたことは私の意見の趣旨を変えるほどの間違いではありませんので、悪しからず。

2,谷干城の真意

これについても同様ですね。
今井信郎の証言には矛盾したり背馳したりする部分があるのは慥かでしょう。それは長い時間の経過による記憶違い(私なんかご指摘のように数年前のことも忘れていますから)だけでなく、自己保身や韜晦、さらには自己顕示欲も混じっているからでして。
だからといって、その証言の主要部分まで否定し去ることはできないと思います。

谷干城は、今井証言の矛盾を突くことで、今井の卑劣な功名心だと非難し、自説の正当性を主張したいのが本意でしょう。
谷が自説に固執していることは随所にうかがえます。たとえば現場に落ちていた鞘を原田左之助のものだというくだりで、

「斯う云ふことに私共に一斉に極めて居る」
「紀州人が新選組を唆かして新選組の者が斬りにきた。鞘は全く原田左之助の鞘と、斯う云ふことになって居る」

と、何度も同じことを一方的に決めつけて強調していることでも明らかでしょう。この部分は、今井証言への反駁のための生命線ですから、谷も譲れないはずですからね。

ご指摘のような部分は、谷の講演の場が龍馬・慎太郎の40年忌だったため、さまざまな聴衆に自説の押しつけにならないように気をつかって、付けたり的に加えただけで、いわば、刺身のつまでしょう。
むしろ、今井証言の出現で、谷が自説の堅持に動揺的になっているとさえ見えないこともないです。


おはようございます
鏡川伊一郎
ブログ凍結、ご受難でしたね。解除されてなによりです。

凍結中に、私は自分のブログの方に、時刻の件は書かせていただいております。私宛の桐野さんのコメント、いま拝見したところですが、殺人事件の時刻の特定は決して「微細な」問題ではないとだけ申し上げておきましょう。
谷に関しては、これも以前に自分のブログに「谷干城は誤解されていないか」を書き、自分なりに検証したつもりです。ところで新撰組犯人説が土佐藩公認説という桐野さんの主張はどこに根拠があるのでしょうか。

土佐藩の公式見解
桐野作人
鏡川さん

土佐藩が新選組犯行説を正式の結論としたのは、いろいろ史料がありますよ。あえて私の論拠を問うまでもないと思いますが……。
まずは網羅的に史料を掲載してある『坂本龍馬日記』下(新人物往来社)をご覧下さい。

また、上記で引用してある『谷干城遺稿』にも、紀州藩(三浦久太郎)が新選組を煽動してやらせたと書いていますね。そして原田左之助が実行犯の一人であると。谷は高台寺党を尋問した本人ですから、間違いないでしょう。谷(と毛利恭助)の尋問結果が土佐藩の公式見解の基礎になったということでしょう。だから、谷は40年経っても、それを主張しているわけでしょう。

ほかにも『神山郡廉日記』『嵯峨実愛手記』『贈従一位池田慶徳公御伝記』などに、土佐藩重役の後藤象二郎や福岡孝弟が新選組が犯人だとして幕閣の永井尚志などに抗議していると書いてありますよ。永井もそれを受けて近藤勇を尋問しています。

なお、拙稿「龍馬遭難事件の新視角」1~3(『歴史読本』2006年7~9月号)に上記史料を使って書いています。よかったら、ご覧下さい。




鏡川伊一郎
ご丁寧にありがとうございます。
ちょっと舌足らずなお問合せでしたから、やはり時点がすれ違いましたね。土佐藩が新選組の仕業だと幕府に告発し、永井尚志が近藤勇を取り調べ、関与は否定されています。当然、土佐藩はそのことを承知しているわけですから、この時点で、明治までひきずる土佐藩の公式見解というものはないわけです。謎のまま放置されたのです。そのことを言いたかったのです。

そうでしょうか
桐野作人
鏡川さん

幕府は新選組の関与を否定していませんよ。大政奉還とのからみで、土佐藩を怒らせたくなかったので、土佐藩の抗議を丸飲みして認めています。王政復古政変がなければ、近藤か新選組への処分があったかもしれません。
ですから、土佐藩は幕府も認めたからこそ、新選組犯行説を公式見解として維持していたと思います。薩摩藩の反対を押し切ってまで、流山で近藤を処刑したのも、それゆえでしょう。
谷干城はその処置への自負と確信があったから、40年後も同じ立場を堅持していたのでしょう。
私は先に紹介した拙稿でそのことを書いたんですけどね。


補足・公式見解について
桐野作人
若干の補足です。

土佐藩の公式見解ですが、幕府に否定されようとしまいと、確信さえあれば維持するものだと思います。たとえていえば、現在の日本政府が拉致問題で、北朝鮮政府に否定されたからといって、拉致問題は解決していないという公式見解を撤回することがあるでしょうか。それと同じです。

土佐藩に戻せば、同藩の公式見解を幕府が認めたことは、公式見解の正当性がさらに増したことになるという意味で、前回コメントしました。

RE そうでしょうか
鏡川伊一郎
 宮内省の「殉難録稿」(明治40年発行)の編纂で取調役だった外崎覚は、龍馬の暗殺犯について書かねばならず、色々と苦労されています。このことに関して土佐藩に公式見解のようなものがあったとしたら、外崎はなにも苦労することはなかったでしょう。彼は取材源から、「わからない」というコメントばかりしか得られず、最後は大鳥圭介に直接会って、今井信郎の名を引き出しています。
 
 私が真摯な発言と見る谷の言葉を、「刺身のつま」として、空疎なものと解釈される桐野さんとではしょせん議論は平行線をたどるでしょう。(谷をもう少し柔軟な目でみてほしいとは思いますが)近藤勇の処刑は龍馬事件の報復だったというような単眼的見方や大石鍬次郎もまたしかりというような誤解(彼の罪状は伊東甲子太郎殺害)には、ささやかながら今後も異を唱えて行きたいと思っております。
 

2年遅れのコメント
未到散人
「中岡暗殺」という角度からの説というのは存在しないのでしょうか。「竜馬伝」を前にして、中岡慎太郎の扱いのひどさに、中岡慎太郎暗殺主目的説を探し回っております。雑誌にそういう説が載っていたという程度で、一つHPを見つけましたが、序文で止まったままになっています。どういう展開になるのか楽しみにしてはおりますが、もっと、中岡慎太郎の評価は高くてもいいのではと残念でなりません。竜馬の命日に風呂の中で、ふと中岡暗殺云々があり得るなと思いついてから、一気に中岡慎太郎追及を始めております。坂本龍馬こそ巻き添えでは?初動捜査の誤り、意図的なミスリード、推理小説の世界でしょうか。

中岡慎太郎の死
桐野
未到散人さん、はじめましてでしょうか?

中岡慎太郎主目的説ですか。
難しい問題ですが、それを積極的に裏づける史料は現存していないのではないかと思います。

実行犯だと思われる見廻組の今井信郎と渡辺篤の証言や記録が残っていますが、どちらも龍馬が標的だった旨書いていますね。
とくに、今井証言では、龍馬と海援隊を実態よりはるかに過大視していて、深刻な危機感を抱いていたように思われます。曰く、海援隊の軍艦が江戸湾に乗り込んでくる云々。
両者の証言や記録に、中岡慎太郎の名前はほとんど出てきません。

したがって、中岡より龍馬暗殺が主目的で、中岡が巻き添えを食ったと考えたほうが妥当かもしれません。

もっとも、ご指摘のように、中岡は龍馬に劣らぬ存在だという点には私も賛同します。
薩土盟約が結ばれた際、中岡は龍馬とともに「浪士の首魁」として立ち会っています。ともに土佐藩出身ながら、二人は独立した政治勢力として浪士集団の代表だと認識されていた証左だと思います。
龍馬だけでなく、もっと中岡も脚光を浴びてしかるべきですね。大河では誰が中岡を演じるのでしょうね? おそらくドラマ後半からの登場と思われ、まだキャスティングされていないのかもしれませんが。

2度目の訪問になります
未到散人
松尾多勢子で一度コメント入れたことがありますが、中岡慎太郎も国学絡みであり、そちらの知識が皆無で困っております。
中岡慎太郎の名前がほとんど出てこない所が盲点なのではないでしょうか?中岡が先に死んで坂本がおくれてと逆になっていたらどうでしょう。推理小説家の出番でしょうが、まだそういう筋書きで書いた人はいないようですね。歴史のエアーポケット状態かと。お一人HPで書き始めた方がいらっしゃいますので注目しております。

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コメント
この記事へのコメント
勉強になりました
こんにちは。
龍馬暗殺事件はテレビなどでよく取り上げられる話題ですが、やはりそれほど謎が深いわけではないのですね。
今井信朗の証言は熊本鎮台の谷干城が反論したと聞きましたが、それは彼の独断偏見によるものだったのでしょうか。

薩摩藩士説でも、剣術の達人である龍馬を殺せるのは中村半次郎だけだとか、西郷が疎ましく思っていたとか……。私にとって、今回のブログは大変勉強になりました。
2007/11/16(Fri) 15:09 | URL  | 市川 #-[ 編集]
谷干城
市川さん、こんにちは。

谷干城は、近江屋事件当時、土佐藩の目付で、この事件の下手人探しの担当者でした。薩摩藩(大久保利通、中村半次郎)との協力で、薩摩藩の伏見藩邸で、高台寺党の生き残りを尋問し、新選組(とくに原田左之助)が犯人だという結論を下した人物です。

それは土佐藩の公式見解となり、それをもとに福岡藤次ら土佐藩重役が幕府の老中板倉勝静や若年寄格の永井尚志らに迫って、新選組が下手人だと認めさせています。

近藤勇が流山で処刑されたのも、近江屋事件の命令を下した罪が主であり、一種の土佐藩側の報復、敵討ちでした。

そのような形で近江屋事件を処理してきた土佐藩、とくにそれにもっとも貢献した谷干城ですから、新選組犯人説を否定した今井信郎証言に猛反発するのは当然です。自分が下した結論も、近藤勇を処刑したことも間違いだったということになるのですから。

細かい議論はともかく、自分の判断と土佐藩の公式見解を否定されたことが、谷干城の批判・反発の根底にあります。そのことを見誤ってはいけません。
要は、すでに決着済みのことを、今さら蒸し返すとは何事だという不快感が大きいのでしょうね。

その谷干城さえ、薩摩藩が犯人だと聞かされたら、バカいうなと一笑に付すでしょうけどね(笑)。
2007/11/16(Fri) 15:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。
私も自分のブログで何度も主張しておりますが、実行犯にせよ黒幕にせよ、龍馬殺害に薩摩藩士の関与はありえないという考えです。

思うに、龍馬暗殺前後の政局認識として、土佐や越前の公議政体派と武力討幕派の対立が決定的なものだったというイメージが一般的に強すぎるんでしょうね。そのイメージがまず先にあって、そこに肥後藩国事史料やら佐々木多門の書状やらが、都合のいい解釈で無批判に使われている気がします。

今井が言っていることの細かい矛盾点や不審な点を厳しく追及して薩摩藩士関与説を唱える人の多くが、肥後藩国事史料などの記述を無批判に信用して、その信憑性に疑問を抱いている人をあまり見かけませんし。今井の言っていることを疑うなら、薩摩藩士の関与を匂わせる史料の内容も疑うべきだと言いたいところです。

今井の助命に西郷が尽力したという今井家の家伝を利用して西郷の龍馬暗殺関与を疑う人も多いですが、それ以前に家伝の内容が真実を伝えているのか検証されて然るべきだと思いますが、それがなされないままに安易に信用されて都合よく使われている気がします。桐野さんも以前おっしゃられていましたが、家伝よりも一次史料を重視すべきだと思います。

2007/11/16(Fri) 21:28 | URL  | パルティアホースカラー #-[ 編集]
龍馬は薩長の邪魔者にあらず
パルティア・ホースカラーさん、こんばんは。

筋道だったご意見有難うございます。
私も全く同意です。

武力討幕派と公議政体派の対立なるものを必要以上に強調することが、薩摩藩黒幕説の背景にある理論的根拠になっているわけですが、おおかたはそんな理屈よりも、3年ほど前の某大河ドラマをはじめ、近年のTV局が垂れ流している歴史バラエティがほとんど薩摩黒幕説を採用して面白おかしく描いていることによる刷り込みの影響がきわめて大きいのではないかと思っております。

そうした大量宣伝力の前には、所詮、蟷螂の斧かもしれませんが、言うべきことは言っていくべきだと思います。
パルティア・ホースカラーさんもブログで、この件を何度も強調されているのが心強い思いです。

ひとつ、私の方からもいえば、武力討幕派と公議政体派の対立なるもの、より具体的には西郷・大久保と後藤象次郎ら土佐藩の矛盾。これは対立というより食い違いといったほうが適切だと思います。
その矛盾のありようをどう斟酌するか、その想像力の欠如が問題だろうと思っています。

龍馬は土佐藩が遅れてきた後進藩であり、薩長のような先進的な藩でないことを十分承知しており、そのため、土佐藩を何とか薩長に伍していけるようにしたかったと思います。
でも、土佐藩ができうる最大の方策がせいぜい大政奉還建白までであり(徳川家に対して建藩の恩義があるから討幕の立場はとれない)、西郷・大久保に対しても、土佐藩はここまで頑張っている、でもこれが精一杯だ、何とか土佐藩の立場を理解してほしいという形の周旋をしていたと思います。

そして、西郷・大久保も龍馬の気持ちを了承し、土佐藩の立場と限界を斟酌したからこそ、それまでいろいろ食い違いはあったけれど、それを乗り越えて、土佐藩の大政奉還建白の提出に反対しませんでした。

龍馬は脱藩士でいまだ土佐藩の中に身の置き所がなかったけれど、自分の藩と郷里への深い愛情があり、そのためにこそ、大政奉還を後藤に働きかけたわけです。
西郷・大久保も龍馬の心中をわかっていたはずで、10月13日、龍馬が二条城に出かけていく後藤を死ぬ気で頑張ってこいと叱咤激励したのは有名ですが、そのとき、龍馬は後藤がこの建白に失策を犯せば、「小弟また薩長の督責を免れず」と語気を強めています。

この龍馬の真意を理解してあげるべきです。龍馬はもし後藤が失敗すれば、自分は薩長に対して顔向けできない、その責めを負わないといけないという論理で、後藤の尻を叩いているのです。
これは重要な言葉です。龍馬が薩長から、大政奉還建白への一定の賛意を調達したことの何よりの証です。

したがって、龍馬が薩長にとって邪魔者だったという説は、史料的根拠もない、的はずれな見方だといわざるをえません。

研究者も一般の歴史ファンとの歴史意識の乖離を埋めるための労を惜しむべきではないと思います。ぜひこの問題にも積極的に発言してもらいたいものです。
2007/11/16(Fri) 23:24 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
気になったこと二点
1、「事件は午後10時頃」と書かれていますが、そんな遅い時間ではないでしょう。桐野さんご自身、別の場所では「その時刻は幅はあるが、おおよそ戌の刻(午後8時頃)から半時(1時間)の間だと推定されている」(学研の歴史群像シリーズ「幕末群像」下巻「龍馬暗殺」)と記されていますが、今回はアリバイ成立のために意図的ですか(冗談)。事件はもっと早い時間、ほとんど宵の口、つまり「鳥新」が開店している時間に起きているはずです。(誤解のないように、私は中村半次郎が実行犯だとは思っていませんので、彼のアリバイなどどうでもいいほうです)
2、谷干城に関する誤解と偏見にみちた俗説にくみしておられるのは残念ですね。谷が今井信郎の実歴談(近畿評論)を批判したのは、記事が記者の潤色によってあまりにも事実と異なっていたからで当然のことであります。谷の講演内容は前半部分をカットした抄録史料が多いのですが、ぜひ前半部分を読まれるべきです。龍馬が「誰にやられたかということについては、未だ今に心にかけて詮議中である」と言っております。明治39年にですよ。「大学には歴史専門の諸君もたくさん御在りになさることでありますkら、どうか私が申上げる所を御参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に大慶に存じます」とも言っております。この前半部分にはむしろ谷が微妙に土佐藩の動きに疑惑の目をむけている箇所があります。
2007/11/17(Sat) 08:08 | URL  | 鏡川伊一郎 #RAa2TALo[ 編集]
御礼
鏡川伊一郎さん、どうも。

微細な点のご指摘有難うございます。

1,犯行時刻と中村半次郎

近江屋事件を網羅的に調べた菊地明氏によれば、犯行時刻は午後8時から同35分の間だと結論しています。いろいろ矛盾する史料を詳しく読み解いての結論でしょうから、比較的妥当だと思われます。

で、中村の帰邸時刻ですが、『京在日記』の近江屋事件当日の条には、次のようにあります。

「永山士同行、坂元彦右エ門旅宿日光屋迄越し、夜五ツ前帰邸」

「五ツ前帰邸」について。
ご承知のとおり、五ツは当時の時制では、午後8時前後を指します。しかも、「~前」と書いていますから、中村の帰邸時刻は午後7時台であることは間違いありません。
菊地氏の出した結論と照らし合わせて、中村の犯行が時間的・物理的に成立しないことは明らかです。

あまりそれ以上の指摘をされないのですが、中村の日記は別の情報も伝えています。中村は当日、単独行動をしていません。「永山士」(永山弥一郎だと思われる)と一緒に、友人の坂元彦右衛門宅を訪ねて歓談してから帰っているわけで、当日の行動を偽装できようはずもありません。

いずれにせよ、些細な勘違いはありましたが、前回書いたことは私の意見の趣旨を変えるほどの間違いではありませんので、悪しからず。

2,谷干城の真意

これについても同様ですね。
今井信郎の証言には矛盾したり背馳したりする部分があるのは慥かでしょう。それは長い時間の経過による記憶違い(私なんかご指摘のように数年前のことも忘れていますから)だけでなく、自己保身や韜晦、さらには自己顕示欲も混じっているからでして。
だからといって、その証言の主要部分まで否定し去ることはできないと思います。

谷干城は、今井証言の矛盾を突くことで、今井の卑劣な功名心だと非難し、自説の正当性を主張したいのが本意でしょう。
谷が自説に固執していることは随所にうかがえます。たとえば現場に落ちていた鞘を原田左之助のものだというくだりで、

「斯う云ふことに私共に一斉に極めて居る」
「紀州人が新選組を唆かして新選組の者が斬りにきた。鞘は全く原田左之助の鞘と、斯う云ふことになって居る」

と、何度も同じことを一方的に決めつけて強調していることでも明らかでしょう。この部分は、今井証言への反駁のための生命線ですから、谷も譲れないはずですからね。

ご指摘のような部分は、谷の講演の場が龍馬・慎太郎の40年忌だったため、さまざまな聴衆に自説の押しつけにならないように気をつかって、付けたり的に加えただけで、いわば、刺身のつまでしょう。
むしろ、今井証言の出現で、谷が自説の堅持に動揺的になっているとさえ見えないこともないです。
2007/11/17(Sat) 11:08 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
おはようございます
ブログ凍結、ご受難でしたね。解除されてなによりです。

凍結中に、私は自分のブログの方に、時刻の件は書かせていただいております。私宛の桐野さんのコメント、いま拝見したところですが、殺人事件の時刻の特定は決して「微細な」問題ではないとだけ申し上げておきましょう。
谷に関しては、これも以前に自分のブログに「谷干城は誤解されていないか」を書き、自分なりに検証したつもりです。ところで新撰組犯人説が土佐藩公認説という桐野さんの主張はどこに根拠があるのでしょうか。
2007/11/30(Fri) 06:34 | URL  | 鏡川伊一郎 #-[ 編集]
土佐藩の公式見解
鏡川さん

土佐藩が新選組犯行説を正式の結論としたのは、いろいろ史料がありますよ。あえて私の論拠を問うまでもないと思いますが……。
まずは網羅的に史料を掲載してある『坂本龍馬日記』下(新人物往来社)をご覧下さい。

また、上記で引用してある『谷干城遺稿』にも、紀州藩(三浦久太郎)が新選組を煽動してやらせたと書いていますね。そして原田左之助が実行犯の一人であると。谷は高台寺党を尋問した本人ですから、間違いないでしょう。谷(と毛利恭助)の尋問結果が土佐藩の公式見解の基礎になったということでしょう。だから、谷は40年経っても、それを主張しているわけでしょう。

ほかにも『神山郡廉日記』『嵯峨実愛手記』『贈従一位池田慶徳公御伝記』などに、土佐藩重役の後藤象二郎や福岡孝弟が新選組が犯人だとして幕閣の永井尚志などに抗議していると書いてありますよ。永井もそれを受けて近藤勇を尋問しています。

なお、拙稿「龍馬遭難事件の新視角」1~3(『歴史読本』2006年7~9月号)に上記史料を使って書いています。よかったら、ご覧下さい。

2007/11/30(Fri) 19:27 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ご丁寧にありがとうございます。
ちょっと舌足らずなお問合せでしたから、やはり時点がすれ違いましたね。土佐藩が新選組の仕業だと幕府に告発し、永井尚志が近藤勇を取り調べ、関与は否定されています。当然、土佐藩はそのことを承知しているわけですから、この時点で、明治までひきずる土佐藩の公式見解というものはないわけです。謎のまま放置されたのです。そのことを言いたかったのです。
2007/11/30(Fri) 19:54 | URL  | 鏡川伊一郎 #-[ 編集]
そうでしょうか
鏡川さん

幕府は新選組の関与を否定していませんよ。大政奉還とのからみで、土佐藩を怒らせたくなかったので、土佐藩の抗議を丸飲みして認めています。王政復古政変がなければ、近藤か新選組への処分があったかもしれません。
ですから、土佐藩は幕府も認めたからこそ、新選組犯行説を公式見解として維持していたと思います。薩摩藩の反対を押し切ってまで、流山で近藤を処刑したのも、それゆえでしょう。
谷干城はその処置への自負と確信があったから、40年後も同じ立場を堅持していたのでしょう。
私は先に紹介した拙稿でそのことを書いたんですけどね。
2007/11/30(Fri) 19:59 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
補足・公式見解について
若干の補足です。

土佐藩の公式見解ですが、幕府に否定されようとしまいと、確信さえあれば維持するものだと思います。たとえていえば、現在の日本政府が拉致問題で、北朝鮮政府に否定されたからといって、拉致問題は解決していないという公式見解を撤回することがあるでしょうか。それと同じです。

土佐藩に戻せば、同藩の公式見解を幕府が認めたことは、公式見解の正当性がさらに増したことになるという意味で、前回コメントしました。
2007/11/30(Fri) 20:45 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
RE そうでしょうか
 宮内省の「殉難録稿」(明治40年発行)の編纂で取調役だった外崎覚は、龍馬の暗殺犯について書かねばならず、色々と苦労されています。このことに関して土佐藩に公式見解のようなものがあったとしたら、外崎はなにも苦労することはなかったでしょう。彼は取材源から、「わからない」というコメントばかりしか得られず、最後は大鳥圭介に直接会って、今井信郎の名を引き出しています。
 
 私が真摯な発言と見る谷の言葉を、「刺身のつま」として、空疎なものと解釈される桐野さんとではしょせん議論は平行線をたどるでしょう。(谷をもう少し柔軟な目でみてほしいとは思いますが)近藤勇の処刑は龍馬事件の報復だったというような単眼的見方や大石鍬次郎もまたしかりというような誤解(彼の罪状は伊東甲子太郎殺害)には、ささやかながら今後も異を唱えて行きたいと思っております。
 
2007/12/01(Sat) 09:07 | URL  | 鏡川伊一郎 #-[ 編集]
2年遅れのコメント
「中岡暗殺」という角度からの説というのは存在しないのでしょうか。「竜馬伝」を前にして、中岡慎太郎の扱いのひどさに、中岡慎太郎暗殺主目的説を探し回っております。雑誌にそういう説が載っていたという程度で、一つHPを見つけましたが、序文で止まったままになっています。どういう展開になるのか楽しみにしてはおりますが、もっと、中岡慎太郎の評価は高くてもいいのではと残念でなりません。竜馬の命日に風呂の中で、ふと中岡暗殺云々があり得るなと思いついてから、一気に中岡慎太郎追及を始めております。坂本龍馬こそ巻き添えでは?初動捜査の誤り、意図的なミスリード、推理小説の世界でしょうか。
2009/12/08(Tue) 15:27 | URL  | 未到散人 #-[ 編集]
中岡慎太郎の死
未到散人さん、はじめましてでしょうか?

中岡慎太郎主目的説ですか。
難しい問題ですが、それを積極的に裏づける史料は現存していないのではないかと思います。

実行犯だと思われる見廻組の今井信郎と渡辺篤の証言や記録が残っていますが、どちらも龍馬が標的だった旨書いていますね。
とくに、今井証言では、龍馬と海援隊を実態よりはるかに過大視していて、深刻な危機感を抱いていたように思われます。曰く、海援隊の軍艦が江戸湾に乗り込んでくる云々。
両者の証言や記録に、中岡慎太郎の名前はほとんど出てきません。

したがって、中岡より龍馬暗殺が主目的で、中岡が巻き添えを食ったと考えたほうが妥当かもしれません。

もっとも、ご指摘のように、中岡は龍馬に劣らぬ存在だという点には私も賛同します。
薩土盟約が結ばれた際、中岡は龍馬とともに「浪士の首魁」として立ち会っています。ともに土佐藩出身ながら、二人は独立した政治勢力として浪士集団の代表だと認識されていた証左だと思います。
龍馬だけでなく、もっと中岡も脚光を浴びてしかるべきですね。大河では誰が中岡を演じるのでしょうね? おそらくドラマ後半からの登場と思われ、まだキャスティングされていないのかもしれませんが。
2009/12/09(Wed) 19:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
2度目の訪問になります
松尾多勢子で一度コメント入れたことがありますが、中岡慎太郎も国学絡みであり、そちらの知識が皆無で困っております。
中岡慎太郎の名前がほとんど出てこない所が盲点なのではないでしょうか?中岡が先に死んで坂本がおくれてと逆になっていたらどうでしょう。推理小説家の出番でしょうが、まだそういう筋書きで書いた人はいないようですね。歴史のエアーポケット状態かと。お一人HPで書き始めた方がいらっしゃいますので注目しております。
2009/12/09(Wed) 19:56 | URL  | 未到散人 #-[ 編集]
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