歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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歴史読本08年新年号(現在発売中)から、表題の連載を始めました。
詳しくはここです。

信長の戦争を、戦術・火器全般・軍事組織のあり方から見ていこうというものです。また他の戦国大名のそれと、どこが異なるのか、あるいは同じなのかを具体的に検証していければと考えています。

1回目は総論的なことを書きました。信長の戦争を「軍事革命」という観点から見ていこうというものです。
すでに、言い尽くされているではないかという指摘もあるでしょうし、また近年の織豊権力論や戦国大名論とは異なる部分もあるかもしれません。

何よりも史料と能力の不足から、どこまで書けるかはなはだ心細いかぎりです。
しかも、2年という長丁場、何とか完走できればと思います。
関心のある方は読んで下さいませ。
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【2007/12/02 21:10】 | 信長
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Tm.
まずは遅ればせながら、ブログの再開おめでとうございます。色々と気を揉んでおりましたが(笑、うれしい限りです。

歴読08年新年号の御論考、早速拝読させていただきました。
泰巖宗安記でも紹介されていますが、最近、信長を否定的に捉えた出版が相次いでいます。
某書の「信長は小心者だった!」などというコピーは、必ずしも著者の意図を正しく反映したものではないとおもわれますが、それらは明らかに読者の気を惹かんがため、売らんがためのモノであり、結果として、それらに然したる目新しさはありません。

2年に亘る連載には色々とご苦労もあろうかと存じますが、毎号拝読出来ることを楽しみにいたしておりますので、くれぐれもお体ご自愛、健勝ならんこと申し上げます。

PS.以前ご示唆のあった光秀の出自についてですが、女性も後家(出家)の場合、実家ではなく婚家の苗字で呼ばれることもあったようなので、光秀の妹のツマキも妻木某の後家であったのかも知れませんね。

有難うございます
桐野作人
Tm. さん、こんばんは。

お言葉有難うございます。
「泰巖宗安記」さんのブログでも、いろいろご心配をおかけしました。
またよろしくお願いします。

光秀の出自についてですが、おそらく「光秀妹妻木殿」のことですよね。光秀が妻木名字でなかった可能性も考えられるというわけですね。そういう考え方もあるのかもしれませんが、実例はあるのでしょうか?




岐阜少将
『歴史読本』さっそく拝読させていただきました。
2年間の連載ということで、織田権力に興味のある者としては毎月の楽しみが増えて嬉しい限りです。
この間に『信長帝王伝』3巻が刊行されることも期待しております(笑)


Tm.
桐野先生どうも。

以前読んだ本を通勤中に読み直していて気が付いたことなのですが、岡野友彦・著『源氏と日本国王』(/夫婦別姓は日本の伝統?P28~)には、出典は記されていないものの、婚家の苗字で表記されている実例として「久我尼」「相馬尼」という名が挙げられています。

ただし岡野氏曰く、
  婚家の苗字で表記されているのは、夫に先立たれ、
  いわゆる「後家尼」となった時に限られるようである。
とのことであり、ツマキ(妻木)も、『言経』天正七年五月二日の条では小比丘尼(子どもの比丘尼か)の名が一緒に記されていることから、出家(あるいは還俗?)していた可能性も考えられるのではないでしょうか。

また信長の側室であったお鍋の方も、高畠氏の出自とされながら、専ら「小倉」「おくら」「小椋」殿などと婚家の苗字を以って呼ばれています。
彼女の場合、前夫・小倉右京亮との間に二児を儲けていたことが理由として考えられ、ツマキもまた、妻木某との間に子を生していたことから?、信長に仕えるうえで婚家の苗字で呼ばれていたのではないでしょうか。

なるほど
桐野作人
Tm. さん、こんにちは。

婚家の名字を名乗るケースがあるとのこと。
勉強になりました。
「妻木殿」もあまり固定観念で考えないほうがいいかもしれませんね。
ご教示有難うございました。

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この記事へのコメント
まずは遅ればせながら、ブログの再開おめでとうございます。色々と気を揉んでおりましたが(笑、うれしい限りです。

歴読08年新年号の御論考、早速拝読させていただきました。
泰巖宗安記でも紹介されていますが、最近、信長を否定的に捉えた出版が相次いでいます。
某書の「信長は小心者だった!」などというコピーは、必ずしも著者の意図を正しく反映したものではないとおもわれますが、それらは明らかに読者の気を惹かんがため、売らんがためのモノであり、結果として、それらに然したる目新しさはありません。

2年に亘る連載には色々とご苦労もあろうかと存じますが、毎号拝読出来ることを楽しみにいたしておりますので、くれぐれもお体ご自愛、健勝ならんこと申し上げます。

PS.以前ご示唆のあった光秀の出自についてですが、女性も後家(出家)の場合、実家ではなく婚家の苗字で呼ばれることもあったようなので、光秀の妹のツマキも妻木某の後家であったのかも知れませんね。
2007/12/03(Mon) 06:21 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
有難うございます
Tm. さん、こんばんは。

お言葉有難うございます。
「泰巖宗安記」さんのブログでも、いろいろご心配をおかけしました。
またよろしくお願いします。

光秀の出自についてですが、おそらく「光秀妹妻木殿」のことですよね。光秀が妻木名字でなかった可能性も考えられるというわけですね。そういう考え方もあるのかもしれませんが、実例はあるのでしょうか?

2007/12/03(Mon) 23:22 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
『歴史読本』さっそく拝読させていただきました。
2年間の連載ということで、織田権力に興味のある者としては毎月の楽しみが増えて嬉しい限りです。
この間に『信長帝王伝』3巻が刊行されることも期待しております(笑)
2007/12/04(Tue) 00:03 | URL  | 岐阜少将 #fH7V5HK6[ 編集]
桐野先生どうも。

以前読んだ本を通勤中に読み直していて気が付いたことなのですが、岡野友彦・著『源氏と日本国王』(/夫婦別姓は日本の伝統?P28~)には、出典は記されていないものの、婚家の苗字で表記されている実例として「久我尼」「相馬尼」という名が挙げられています。

ただし岡野氏曰く、
  婚家の苗字で表記されているのは、夫に先立たれ、
  いわゆる「後家尼」となった時に限られるようである。
とのことであり、ツマキ(妻木)も、『言経』天正七年五月二日の条では小比丘尼(子どもの比丘尼か)の名が一緒に記されていることから、出家(あるいは還俗?)していた可能性も考えられるのではないでしょうか。

また信長の側室であったお鍋の方も、高畠氏の出自とされながら、専ら「小倉」「おくら」「小椋」殿などと婚家の苗字を以って呼ばれています。
彼女の場合、前夫・小倉右京亮との間に二児を儲けていたことが理由として考えられ、ツマキもまた、妻木某との間に子を生していたことから?、信長に仕えるうえで婚家の苗字で呼ばれていたのではないでしょうか。
2007/12/04(Tue) 12:05 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
なるほど
Tm. さん、こんにちは。

婚家の名字を名乗るケースがあるとのこと。
勉強になりました。
「妻木殿」もあまり固定観念で考えないほうがいいかもしれませんね。
ご教示有難うございました。
2007/12/05(Wed) 17:13 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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