歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第38回
―信長に対する不満一因―

小生のコラム連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」からアクセスできます。

今回は織豊期の関白太政大臣・近衛前久を取り上げました。
前久は天正3年(1575)暮れから翌年にかけて、半年ほど薩摩に滞在しています。
とくに薩州家の島津義虎の所領、出水に長期滞在して、その痕跡を今に残しています。
私の郷里だということもあり、ぜひそれを紹介したいと思い、地元の歴史民俗資料館から、前久の揮毫の写真を拝借することができました。

サブタイトルが少し誤解を招くかもしれません。
信長と前久が対立するようにみえてしまいますが、それは本意ではありません。
将軍義昭との不和で出奔した前久は本願寺や丹波に在国しますが、義昭を追放した信長の帰洛要請に応じていったん帰国しました。
それからしばらくして、九州に下向するわけですが、コラムにも書いたように、信長への所領の不満を書いているのは事実です。ただ、それは織田権力内での近衛家の立ち位置が信長との間で一時的に調整できなかったというだけのことで、長期にわたる対立というわけではありません。

個人的には、『歴史読本』誌本年11月号に書いたように、近衛家の家督を信基に継がせたい前久に対して、将軍義昭がそれを認めないという状態が長く続いており、信長との間でもそれがすぐには解決していなかった点が重要ではないかと思っています。

その傍証として、前久が再帰洛すると、信長は信基を自分の二条御新造で元服させて、家督とするとともに、前久には新たに山城普賢寺1500石を与えるという大盤振る舞いをしています。家督問題と所領問題に対する信長の処置によって、前久の不満はすべて解消されたといってよいでしょう。

また、前久の九州下向には信長の暗黙の了解があったのではないかと思います。

次回は、前久の息子、左大臣信尹(旧名信基、信輔、のち関白)の坊津配流を取り上げたいと思います。
親子して薩摩に下向するという変わった摂関家です(笑)。
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【2007/12/23 01:41】 | さつま人国誌
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『中古日本治乱記』
Tm.
桐野先生どうも。
久しぶりに信長関連の話題ということでお邪魔します。

歴読最新号はまだ拝見しておりませんが、ついに津本陽氏まで「本能寺の変」本を出されましたね(笑
案の定やれやれの内容でしたが、最近k2さんがブログ(泰巖宗安記)で信長の遺体問題について興味深い史料を紹介されています。

従来『信長公阿弥陀寺由緒之記録』については良く知られており、『信長の棺』のネタ元にもなっていますが、k2さんのご紹介によれば、古くは焼け跡で信長の着ていたと思しき焦衣が発見されていたとする史料(織田家の記録にも)があったようですね。
なかでも『中古日本治乱記』は、秀吉の祐筆であった山中長俊の手になる史書ということで興味が持たれるところなのですが、先生は同書を読まれていらっしゃいますか。

同書についてはなるべく早く読んでみなくてはと思っているのですが、原書?がもし、くずし文字であったとすると、ズブの素人である自分には簡単には読めず難儀しそうに思われます。
それについて、従来なにか同書について、特に史書として採り上げた論文等についてご存知のことがあればお教え願えませんでしょうか。

ご多忙だとは存じますが宜しく願います。

中古日本治乱記
桐野作人
Tm. さん、こんばんは。

表題の史料については、一部複写はもっていたような気がしますが、該当部分ではなかったかもしれません。
それについての論文なども、不勉強で心当たりはありませんが、『甲南女子大学紀要』30号に「『中古日本治乱記』目録」という論文があるようですね(国会図書館雑誌データベース)。もしかしたら解題というか、解説はあるかもしれませんね。

ただ、信長の着物が焼け残っていたというのはどうでしょうか。それだけを見るかぎり、あまり信用できる記事だとは思えないのですが。信長の着衣だと認定できるのであれば、遺体も認定できたということですよね? にわかには信じがたいのですが……。


山科言経の墓参り
Tm.
桐野先生どうも。

確かに事の真偽については疑わしいものの、割と早い時期にそうした噂が上っていたということは自分には初耳であり、これまで表立って取り上げられたことは無かったのではないでしょうか?

<泰巖宗安記>にも述べさせていただきましたが、山科言経が「変」から1ヶ月後の7月11日に阿弥陀寺の信長の墓に参り、以降も度々参っていることを考えると、阿弥陀寺で何かそのように喧伝するところがあったのではないでしょうか。

『中古日本治乱記』の記事も、史料としてのの信憑性は軍記ものの常として差っ引いて考える必要があるかもしれませんが、同時代を生きた人物の記録として一読の価値はあるのではないでしょうか。
そのような訳で一寸、注目しております。

近衛前久の薩摩下向
ばんない
こんばんは。年末も押し迫ってから大きな仕事が目白押しのようで、お体お大事にお過ごし下さい。

ところで近衛前久の薩摩下向ですが、織田信長の内意を受けて九州の大名間の調停を測ったのではと言われていたような(『近世公家社会の研究』橋本政宣)。

信長の「内意」?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。
体調まで心配していただき、恐縮です。今のところ、おかげさまで元気にしております。

ご紹介の論文は、橋本政宣「近衛前久の薩摩下向」ですね。
一応、承知しておりますが、近衛前久の九州下向の目的が信長の内意によって、九州の大名間の調停をするためだったという結論は筋が通っているようにも見えますが、どうも納得できかねる面もあるんですよね。

前久が島津と伊東、島津と相良の和睦調停を行おうとしたことは間違いなく、とくに後者は成就していると思います。

しかし、九州の大名間の調停が信長にとって、直接あるいは喫緊の利害に関わるとはとても思えません。信長はまだ毛利氏を敵にしていない段階ですから、九州をどうするか、積極的に関与しなければならない理由があるとは思えないのです。

むしろ、前久がどうしても九州に行きたいと言いだしたので、しかたなく追認したというところが真相に近いのではないかなと思っております。
まあ、前久に同行した伊勢貞知が信長と前久のどちらに属しているかは意外と重要ではないかと思っていますが、仮に信長に属していたからといって、信長の積極的な関与の傍証になるのかどうか、疑問がないわけでもありません。

前久自身が島津義久宛の書状で述べている「未だ家領等も渡さず、万端不如意」というのが、九州下向の一番の理由だったのではないでしょうか(それがすべてというわけではありませんが)。
おそらく、前久は家領と家督の問題で、信長に対して自分の要求を通すためにダダをこねていたんじゃないか、その手段が九州下向だったのではないかと推測しています。

その後、前久が帰洛することになったのは、信長から帰洛要請があったのがきっかけです。
それはおそらく信長が前久の要求を呑むという回答だったから、前久は帰洛する気になったのではと思います。
その証拠に、前久が帰洛するとすぐさま、信基の元服、山城普賢寺1500石知行がなされています。どうも、九州下向は前久の信長に対する条件闘争だったのではないかと思っているのですが……。

近衛前久の大名間調停
ばんない
こんばんは。

桐野さんは
「前久の九州下向=一種のストライキ(?)」
というふうにお考えなのかと受け取りました。
ただ、そうなるとお話の中にも出てきている大名間の調停を行ったという事実が腑に落ちないのです。泥沼の南九州の戦国大名間の争いの調停は、ストライキの片手間にするには面倒なお仕事に思えますし、事実、この時に相良義陽に修理大夫の官職を約束して、島津義久や大友義鎮の怒りを買ってませんでしたっけ。それとも前久お得意のお節介焼き(汗)に加えて、ただ単に下向するのはプライドが許さないので、そういう理由付けをした上で下向したんでしょうか。

ところで話が前後しますが、義虎御願で前久揮毫の三十六歌仙図の絵は狩野派の絵師なんですね。顔つきが狩野派っぽくないようにも見えますが。この絵師も前久が一緒に連れてきたんでしょうか。

狩野雄尽
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

近衛前久の九州下向は、やはり信長への「ストライキ」という面が強いのではないかと思います。
あとは、摂関家筆頭のプライドでしょうかね。草深い九州まで下向する限りは、前関白の威光を見せつけたいという気持ちもあったのでは。

一方で「万端不如意」ですから、諸大名から金銭その他を獲得する必要もあります。そのためには、大友にも伊東にも相良にも島津にも八方美人的にいい顔をしなければならなくなり、畢竟、みんな仲良くしてねという和睦調停しかないのではと思います。

しかし、諸大名の利害が対立しているわけですから、到底それは無理で、諸大名は前久の面子を立てながらも、その提案を慎重に取捨選択したということでは。
たとえば、島津は相良との和睦は受け容れても、伊東との和睦は受け容れないという具合で、自分の利害に即して判断したということではないでしょうか。

あと、「三十六歌仙絵扁額」の絵師狩野雄尽ですが、どこのどういう人だか、まったくわかりません。忘れられた絵師ではないでしょうか。おそらく狩野永徳かその父、松栄と同時代の絵師ですよね。狩野一族ではなく、弟子筋でしょうね。

また前久一行のメンバーは『旧記雑録後編一』825号に掲載されていますが、狩野雄尽はおりません。

考えられるのは、薩州家の島津義虎が永禄6年(1563)に上洛しています。そのとき、雄尽に絵扁額を描いてもらったのではないでしょうか。
そして、前久が下向したとき、和歌の部分を追筆してもらったのではと推定しております。

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『中古日本治乱記』
桐野先生どうも。
久しぶりに信長関連の話題ということでお邪魔します。

歴読最新号はまだ拝見しておりませんが、ついに津本陽氏まで「本能寺の変」本を出されましたね(笑
案の定やれやれの内容でしたが、最近k2さんがブログ(泰巖宗安記)で信長の遺体問題について興味深い史料を紹介されています。

従来『信長公阿弥陀寺由緒之記録』については良く知られており、『信長の棺』のネタ元にもなっていますが、k2さんのご紹介によれば、古くは焼け跡で信長の着ていたと思しき焦衣が発見されていたとする史料(織田家の記録にも)があったようですね。
なかでも『中古日本治乱記』は、秀吉の祐筆であった山中長俊の手になる史書ということで興味が持たれるところなのですが、先生は同書を読まれていらっしゃいますか。

同書についてはなるべく早く読んでみなくてはと思っているのですが、原書?がもし、くずし文字であったとすると、ズブの素人である自分には簡単には読めず難儀しそうに思われます。
それについて、従来なにか同書について、特に史書として採り上げた論文等についてご存知のことがあればお教え願えませんでしょうか。

ご多忙だとは存じますが宜しく願います。
2007/12/23(Sun) 23:36 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
中古日本治乱記
Tm. さん、こんばんは。

表題の史料については、一部複写はもっていたような気がしますが、該当部分ではなかったかもしれません。
それについての論文なども、不勉強で心当たりはありませんが、『甲南女子大学紀要』30号に「『中古日本治乱記』目録」という論文があるようですね(国会図書館雑誌データベース)。もしかしたら解題というか、解説はあるかもしれませんね。

ただ、信長の着物が焼け残っていたというのはどうでしょうか。それだけを見るかぎり、あまり信用できる記事だとは思えないのですが。信長の着衣だと認定できるのであれば、遺体も認定できたということですよね? にわかには信じがたいのですが……。
2007/12/24(Mon) 21:09 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
山科言経の墓参り
桐野先生どうも。

確かに事の真偽については疑わしいものの、割と早い時期にそうした噂が上っていたということは自分には初耳であり、これまで表立って取り上げられたことは無かったのではないでしょうか?

<泰巖宗安記>にも述べさせていただきましたが、山科言経が「変」から1ヶ月後の7月11日に阿弥陀寺の信長の墓に参り、以降も度々参っていることを考えると、阿弥陀寺で何かそのように喧伝するところがあったのではないでしょうか。

『中古日本治乱記』の記事も、史料としてのの信憑性は軍記ものの常として差っ引いて考える必要があるかもしれませんが、同時代を生きた人物の記録として一読の価値はあるのではないでしょうか。
そのような訳で一寸、注目しております。
2007/12/24(Mon) 21:47 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
近衛前久の薩摩下向
こんばんは。年末も押し迫ってから大きな仕事が目白押しのようで、お体お大事にお過ごし下さい。

ところで近衛前久の薩摩下向ですが、織田信長の内意を受けて九州の大名間の調停を測ったのではと言われていたような(『近世公家社会の研究』橋本政宣)。
2007/12/24(Mon) 22:20 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
信長の「内意」?
ばんないさん、こんばんは。
体調まで心配していただき、恐縮です。今のところ、おかげさまで元気にしております。

ご紹介の論文は、橋本政宣「近衛前久の薩摩下向」ですね。
一応、承知しておりますが、近衛前久の九州下向の目的が信長の内意によって、九州の大名間の調停をするためだったという結論は筋が通っているようにも見えますが、どうも納得できかねる面もあるんですよね。

前久が島津と伊東、島津と相良の和睦調停を行おうとしたことは間違いなく、とくに後者は成就していると思います。

しかし、九州の大名間の調停が信長にとって、直接あるいは喫緊の利害に関わるとはとても思えません。信長はまだ毛利氏を敵にしていない段階ですから、九州をどうするか、積極的に関与しなければならない理由があるとは思えないのです。

むしろ、前久がどうしても九州に行きたいと言いだしたので、しかたなく追認したというところが真相に近いのではないかなと思っております。
まあ、前久に同行した伊勢貞知が信長と前久のどちらに属しているかは意外と重要ではないかと思っていますが、仮に信長に属していたからといって、信長の積極的な関与の傍証になるのかどうか、疑問がないわけでもありません。

前久自身が島津義久宛の書状で述べている「未だ家領等も渡さず、万端不如意」というのが、九州下向の一番の理由だったのではないでしょうか(それがすべてというわけではありませんが)。
おそらく、前久は家領と家督の問題で、信長に対して自分の要求を通すためにダダをこねていたんじゃないか、その手段が九州下向だったのではないかと推測しています。

その後、前久が帰洛することになったのは、信長から帰洛要請があったのがきっかけです。
それはおそらく信長が前久の要求を呑むという回答だったから、前久は帰洛する気になったのではと思います。
その証拠に、前久が帰洛するとすぐさま、信基の元服、山城普賢寺1500石知行がなされています。どうも、九州下向は前久の信長に対する条件闘争だったのではないかと思っているのですが……。
2007/12/24(Mon) 22:55 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
近衛前久の大名間調停
こんばんは。

桐野さんは
「前久の九州下向=一種のストライキ(?)」
というふうにお考えなのかと受け取りました。
ただ、そうなるとお話の中にも出てきている大名間の調停を行ったという事実が腑に落ちないのです。泥沼の南九州の戦国大名間の争いの調停は、ストライキの片手間にするには面倒なお仕事に思えますし、事実、この時に相良義陽に修理大夫の官職を約束して、島津義久や大友義鎮の怒りを買ってませんでしたっけ。それとも前久お得意のお節介焼き(汗)に加えて、ただ単に下向するのはプライドが許さないので、そういう理由付けをした上で下向したんでしょうか。

ところで話が前後しますが、義虎御願で前久揮毫の三十六歌仙図の絵は狩野派の絵師なんですね。顔つきが狩野派っぽくないようにも見えますが。この絵師も前久が一緒に連れてきたんでしょうか。
2007/12/25(Tue) 22:37 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
狩野雄尽
ばんないさん、こんばんは。

近衛前久の九州下向は、やはり信長への「ストライキ」という面が強いのではないかと思います。
あとは、摂関家筆頭のプライドでしょうかね。草深い九州まで下向する限りは、前関白の威光を見せつけたいという気持ちもあったのでは。

一方で「万端不如意」ですから、諸大名から金銭その他を獲得する必要もあります。そのためには、大友にも伊東にも相良にも島津にも八方美人的にいい顔をしなければならなくなり、畢竟、みんな仲良くしてねという和睦調停しかないのではと思います。

しかし、諸大名の利害が対立しているわけですから、到底それは無理で、諸大名は前久の面子を立てながらも、その提案を慎重に取捨選択したということでは。
たとえば、島津は相良との和睦は受け容れても、伊東との和睦は受け容れないという具合で、自分の利害に即して判断したということではないでしょうか。

あと、「三十六歌仙絵扁額」の絵師狩野雄尽ですが、どこのどういう人だか、まったくわかりません。忘れられた絵師ではないでしょうか。おそらく狩野永徳かその父、松栄と同時代の絵師ですよね。狩野一族ではなく、弟子筋でしょうね。

また前久一行のメンバーは『旧記雑録後編一』825号に掲載されていますが、狩野雄尽はおりません。

考えられるのは、薩州家の島津義虎が永禄6年(1563)に上洛しています。そのとき、雄尽に絵扁額を描いてもらったのではないでしょうか。
そして、前久が下向したとき、和歌の部分を追筆してもらったのではと推定しております。
2007/12/26(Wed) 02:22 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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