歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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一昨日(22日)、共同研究の太田牛一『信長記』調査のために、共同研究のメンバーとともに大阪・吹田市のK氏宅を訪問。
先々月の丹波市、先月の大阪歴史博物館、今月の富山県文書館に引き続いて、今月2度目の調査。
すごいペースでの調査が進んでいる。どこでも、新しい知見が出てきている。

これまでは公共機関所蔵史料が対象だったが、今回は初めて個人所蔵の史料調査。K家は近世に太田牛一の子孫家と姻戚関係になっている。
郊外の庭の広い立派な邸宅だった。あいにくの雨だったが、庭にたわわに実っていた黄色の花梨のほのかな甘い香りがした。

品のよい令夫人の出迎えともてなしに一同恐縮する。K家が高松・小豆島から吹田に移られた経緯などをうかがう。この史料も先代当主が隠居された小豆島に保管されていたために、戦災を免れて現存しているとのこと。貴重な来歴だと感じ入った。

さっそく客間の一室をお借りして調査・撮影となる。
「信長記」のほか、近世文書や絵図などもあり、目的外だったが、まことに興味深かった。K家は近世の庄屋だったようである。

「信長記」そのものもなかなか記述に興味深い点があった。
また貴重な体験をさせてもらった。

来月もまた都内で調査があるらしい。
これも楽しみである。



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【2007/12/24 14:33】 | 信長
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信長
武藤 臼
こんばんわ
すっかり押し迫りましたがお忙しいようですね

今月の歴読よみました。
信秀の勢力の消長の話、自分的には初めてのものだったのでとても興味深く読ませて頂きました。

平手政秀についてひとこと書かれていましたが、
数年前くらい?だと確執説なども見受けましたが、
桐野さん的にはあまり重きを置かれておられないのですか?

平手政秀の自害
桐野作人
武藤さん、こんばんは。

歴史読本の拙稿をさっそく読んでいただき有難うございます。

信長と平手の息子が馬をめぐって争ったということは『信長公記』にも書かれていますね。この記事が平手政秀の自害の直前に書かれているので、自害の一因ではないかと推測されているのだと思います。
おそらく確執説とは、そのことだと思いますが。

むろん、その記事は承知しておりましたが、文脈の関係で省いただけで、考慮していないわけではありません。
同書には一応、信長の不真面目さを悔やんで自害したと書いてありますので、まずはその直接的な原因を優先しただけです。


平手政秀の自害
武藤 臼
早速コメント頂き恐れ入ります
内容了解しました

『信長記』調査
磯部
桐野先生、おはようございます。

先生のおっしゃる通り、『信長記』の調査が進んでおられますね。
K家に所蔵されている『信長記』とは、W氏が、かつて「吹田に残る『信長記』」で紹介された本だと思います。同家所蔵の『太田系図』の内容についても、できれば、ご紹介いただきたいと願っております。
また、富山県での調査については、以前、簡単に触れておられましたが、先生のご調査の目的は小生の推測通りだったようです。ただし、寄託されていることは存じませんでした。ご学恩に感謝申し上げます。
大阪歴史博物館でのご調査を併せて、太田家ゆかりの家に伝来する『信長記』については網羅されたことになりますね。
調査・研究のご報告を期待して待っております。

お詳しいですね
桐野作人
磯部さん、こんばんは。

吹田の「信長記」はご指摘のように、W氏が以前に紹介されたものです。
もちろん、「大田系図」もありました。一応、ざっと目を通しましたが、共同研究ゆえ、内容を私から紹介することができません。お許し下さい。



『中古日本治乱記』と秀吉の書状
Tm.
桐野先生どうも。

『中古日本治乱記』の調査を続けておりますが、本当に秀吉の祐筆であったとされる山中長俊の手になるものかというと疑問もあります。
ただ、やはり明智秀満を「左馬助」と呼んではいるものの、「元ハ濃州ノ住人三宅弥平次ト云」とも記されており、また諱を「秀・矢見」としていたりもします。

ご示唆あった論文の著者の菊池眞一さんにメールでお尋ねしたところ、
  『中古日本治乱記』は手におえず、放り出してしまいました。
  山中長俊について詳細が不明なので、何とも言えません。
  後人の仮託の可能性がかなりあるかと存じます。
  歴史家が扱わない所をみると、歴史家は仮託作と見ているのだと思います。
  日本史・中世史・戦国史・近世史に詳しい方にお尋ねください。
との回答をいただきました。

してみれば、『太平記』の後を承ける形で著されたとのこと(序文)からも、元禄期刊行の『後太平記』との関連が窺われ、『後太平』が『中古』を参照にしているとの論文(西丸桂子・『甲南国文』44)もありますが、その逆もありかなと考えたりもしています。

ただ、明らかに偽作と思われる跋文の主「太田和泉守資方」(序文によれば長俊の朋友)とは太田牛一のことだと考えられ、「方」は「房」の誤記と思われますが、「資房」という諱は一般的(=信定)ではないだけに注目されるのではないでしょうか。
わざわざ牛一の名を持ち出しているあたり、小瀬甫庵への対抗意識が窺えるのではないかと思われます。

つまり『中古』は、『甫庵信長記』の刊行に刺激された長俊の嫡孫が、祖父の素稿に手を加え成立させたものと考えられるのではないでしょうか。

それと同書には、秀吉が信長の出馬を乞い菅谷長頼に送った書状(天正10・5/15付)が収録されているのですが、既知のものでしょうか。やはり偽作なのでしょうか。


菅屋長頼宛て羽柴秀吉書状
桐野作人
Tm.さん、こんばんは。

『中古日本治乱記』は難物のようですね。
もっとも、織豊移行期だけに絞り込めば、さほどではないかもしれませんが。
ただ、「太田和泉守資方」なる記述を見ると、やはり信頼性という点では?が付きますね。

菅屋長頼宛て秀吉書状ですが、『甫庵太閤記』所収のものと同文でしょうか? 同文なら、甫庵から転写した可能性が高く、極めて怪しいですね。



Tm.
桐野先生どうも。

>菅屋長頼宛て秀吉書状ですが、『甫庵太閤記』所収のものと同文でしょうか?
 同文なら、甫庵から転写した可能性が高く、極めて怪しいですね。

これまで『甫太』は読んだことがありませんでしたが、確かに東大史料編纂所のデータベースで検索したところ同じものです。既に同書状への疑問は『真説本能寺』でも述べられていましたね(笑
同じく『後太平記』も読んだことがないのですが、本能寺の変以前で終わっているとのことなので、『中古日本治乱記』はその後を追加補足し成立したものかもしれません。

ただそれが、『甫太』のみならず『川角太閤記』(家康饗応役の一件)や『稲葉家記』『明智軍記』(齋藤利三の処分)そして『元親記』(四国政策の転換)等々と、先の「信長の焦衣」の件を含め多岐に亘っており、あたかも現代の本能寺本を読んでいるようなのですが、他にそうした文献はあるのでしょうか?
何れにしても、同一の逸話の載る各文献との照合が必要なようですから大変です。

それと『中古』では、『川角』のような生魚が腐っていた云々はなく、光秀が不要となった饗応の諸道具を琵琶湖へ投げ捨てたとあるのですが、この一件と『多聞院日記』5月18日の条に見られる「寺門ノハ盃臺不入御意、」は何か関連はないでしょうか?
光秀と大和の関わりを考えるに、「去十五(日)ニ盃臺・樽三荷・小折二合・畑茶[十斤]進上ノ處、」というのが光秀の指示によるものであり、光秀の饗応役解任(予定通り?)と相俟ってそのように伝わったのではないでしょうか。

さらに『中古』ではその一件に続いて、信州出陣中に起きた利三を巡る一件が光秀の謀叛の理由の一つとして述べられているのですが、フロイスが『日本史』で饗応準備中の信長と光秀の確執を伝えているのは、日本側で語られるところのそうした時系列を理解出来ずに、あたかも安土での出来事と誤認していたのではないでしょうか。
密室の出来事ながらフロイスがそれを知り得たのを、イエズス会関係者が織田権力内に云々とするよりも、そう考えるのが自然ではないでしょうか。
以前の議論にも関わることなので・・・・


考えすぎでは
桐野作人
Tm.さん、こんにちは。

『中古~』と『多聞院日記』の記事を結びつけるのは多少強引ではないでしょうか。光秀が興福寺の献上品までいちいちチェックしているとは思えないのです。『多聞院』には光秀の名前は出てきませんし、興福寺側があれこれ工夫を凝らして準備したようにしか読めませんが……。

『多聞院』天正10年5月18日条ですが、これは興福寺の両門跡である大乗院と一乗院の双方から安土へ献上品を贈った記事ですが、大乗院(大門)のほうは「比類無し」と褒められたのに、「寺門」(一乗院か学侶方か)の「盃臺」は信長の「御意に入らず」ということになったわけですね。

これは拙著『真説本能寺』(31頁あたり)にも少し書きましたが、『多聞院』5月12日条にある「従学侶サヰシキノアヤツリ張良[三尺五寸ノ臺]」が信長の気に入らなかったということではないでしょうか。
「臺」というのは、どうやら一種の工芸品のようで、この場合、1メートルくらいのかなり大きい彩色された張良の操り人形のようですね。

なぜ、信長が気に入らなかったのか、多聞院英俊は「張良」と「鞍馬天狗」という能の演目が牛若丸=源義経を賛美するもので、平家の都落ちを描いていることから、平氏を自称する信長の意に添わなかったのではないかという解釈ですね。

これはあくまで英俊の推測であって、信長がそう思っていたかどうかはわかりません。
いずれにしろ、光秀とは無関係の文脈ではないでしょうか。

余談ですが、『中古~』の成立時期はわかっているのでしょうか?
最近、ある資料を読んでいたら、同書の成立が慶長7年(1602)と書かれているのを見ました。それが妥当なのかどうか、不勉強で知りませんが、もしそうなら、太田牛一『信長記』や甫庵『太閤記』よりも早く成立していることになるのでしょうかね。
前回書いた、菅屋長頼宛て羽柴秀吉書状も甫庵→中古へと転写されたというのも、逆だったかもしれませんね。

中山幸俊と黒川道祐
Tm.
桐野先生どうも。

まあ実際に『中古』や『川角』のような出来事があったとは思いませんが、後代そのような咄が作られる一端が『多聞』のそれにあったのではないかと思った次第です。

『中古』の成立時期ですが、齋藤利三の第4子について「後ニハ春日局ト云」とあることからも、最終的には寛永7年(1629)を下るものと思われます。
尤も部分部分で後代の加筆があるのかも知れませんが、少なくとも慶長7年(1602)ではないでしょうね。
その点からも、真の著者は長俊の嫡孫の幸俊ではなかったのかと考える次第です。

ちなみに、幸俊は当初、秀頼に仕え、大坂落城後は一時京に隠棲し、後に安芸浅野家に仕えたとされますが、その浅野家の儒医であったのが『雍州府志』の著者の黒川道祐とのことですから、両者に何らかの交遊があったのではないかとも推測され、先の「信長の焦衣」絡みでそこに『中古』の成立時期を解く鍵があるのではないかと考えています。

また、『中古』と同じ話は『増補信長記』にも記載されているとのことですから、『総見記』や『織田軍記』ではどうなっているのかも確認しなければなりませんね。

ご教示多謝
桐野作人
Tm. さん、こんにちは。

成立はやはり寛永以降ですか。
ご教示有難うございました。

『中古日本治乱記』
磯部
桐野先生、こんばんは。

『信長記』共同研究の内容については、たいへん興味深いです。いずれ、成果については発表されるでしょうから、そのときが来るまで期待して待っております。『太田系図』に関する前回の発言も、そのときに紹介していただきたいと希望してのものです。

ところで、『中古日本治乱記』について話題になっていますが、、桐野先生のご友人の和田様は『「信長記」の大研究』の第三章において、本書について触れておられますね。「秀吉の右筆だった山中長俊作といわれるが、太田牛一に仮託している写本もある」と説明しておられます。『中古日本治乱記』は写本で伝わっているので、諸本に異同があるのかもしれませんが、太田牛一が書いたとする本が存在するのでしょうか。


よくわかりませんね
桐野作人
磯部さん、おはようございます。

和田さんも言及しているのは忘れていました(笑)。
「太田牛一に仮託している写本」というのが、Tm.さんご紹介の「大田和泉守資方」なんでしょうね。

同時に、和田さんは大村由己の「天正記」とも合冊されたものがあるとも指摘しており、ますますよくわかりませんね。この「天正記」はどんな内容なのか、なぜ合冊されたのか(誤ってのことか?)、いずれにしてもよくわかりません。

今度、和田さんに聞いてきます。

お礼
磯部
桐野先生、お考えをお教えいただき、厚く御礼申し上げます。

お礼が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。

『増補信長記』
Tm.
桐野先生どうも。

その後も『中古日本治乱記』について色々調べておりますが、類似の指摘されている『後太平記』との関係は別として、『後太平』以降の部分はやはり『甫庵太閤記』がベースのようです。
ただそうしたなかで、こと本能寺の変に関する部分については、松平忠房が著者とされる『増補信長記』からの引用が濃厚ではないかと思われます。
ただし、その『増補』に『元親記』の逸話は収録されていませんので、『中古』の成立時期もそれ(寛文2年・1662)以降かと考えられます。

その『増補信長記』ですが、『甫庵・信長記』の補撰を謳いつつも、一寸、異質な存在ではないかと思われるのですが、桐野先生は読まれいらっしゃいますか。また何方か言及された方はいらっしゃいますか。
ちなみに、『将軍記』うちの「織田信長記」も『増補』からの引用と見られます。


毎度毎度の質問ですいません。

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この記事へのコメント
信長
こんばんわ
すっかり押し迫りましたがお忙しいようですね

今月の歴読よみました。
信秀の勢力の消長の話、自分的には初めてのものだったのでとても興味深く読ませて頂きました。

平手政秀についてひとこと書かれていましたが、
数年前くらい?だと確執説なども見受けましたが、
桐野さん的にはあまり重きを置かれておられないのですか?
2007/12/24(Mon) 19:54 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
平手政秀の自害
武藤さん、こんばんは。

歴史読本の拙稿をさっそく読んでいただき有難うございます。

信長と平手の息子が馬をめぐって争ったということは『信長公記』にも書かれていますね。この記事が平手政秀の自害の直前に書かれているので、自害の一因ではないかと推測されているのだと思います。
おそらく確執説とは、そのことだと思いますが。

むろん、その記事は承知しておりましたが、文脈の関係で省いただけで、考慮していないわけではありません。
同書には一応、信長の不真面目さを悔やんで自害したと書いてありますので、まずはその直接的な原因を優先しただけです。
2007/12/24(Mon) 20:54 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
平手政秀の自害
早速コメント頂き恐れ入ります
内容了解しました
2007/12/24(Mon) 22:54 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
『信長記』調査
桐野先生、おはようございます。

先生のおっしゃる通り、『信長記』の調査が進んでおられますね。
K家に所蔵されている『信長記』とは、W氏が、かつて「吹田に残る『信長記』」で紹介された本だと思います。同家所蔵の『太田系図』の内容についても、できれば、ご紹介いただきたいと願っております。
また、富山県での調査については、以前、簡単に触れておられましたが、先生のご調査の目的は小生の推測通りだったようです。ただし、寄託されていることは存じませんでした。ご学恩に感謝申し上げます。
大阪歴史博物館でのご調査を併せて、太田家ゆかりの家に伝来する『信長記』については網羅されたことになりますね。
調査・研究のご報告を期待して待っております。
2007/12/25(Tue) 08:58 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
お詳しいですね
磯部さん、こんばんは。

吹田の「信長記」はご指摘のように、W氏が以前に紹介されたものです。
もちろん、「大田系図」もありました。一応、ざっと目を通しましたが、共同研究ゆえ、内容を私から紹介することができません。お許し下さい。

2007/12/25(Tue) 20:44 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
『中古日本治乱記』と秀吉の書状
桐野先生どうも。

『中古日本治乱記』の調査を続けておりますが、本当に秀吉の祐筆であったとされる山中長俊の手になるものかというと疑問もあります。
ただ、やはり明智秀満を「左馬助」と呼んではいるものの、「元ハ濃州ノ住人三宅弥平次ト云」とも記されており、また諱を「秀・矢見」としていたりもします。

ご示唆あった論文の著者の菊池眞一さんにメールでお尋ねしたところ、
  『中古日本治乱記』は手におえず、放り出してしまいました。
  山中長俊について詳細が不明なので、何とも言えません。
  後人の仮託の可能性がかなりあるかと存じます。
  歴史家が扱わない所をみると、歴史家は仮託作と見ているのだと思います。
  日本史・中世史・戦国史・近世史に詳しい方にお尋ねください。
との回答をいただきました。

してみれば、『太平記』の後を承ける形で著されたとのこと(序文)からも、元禄期刊行の『後太平記』との関連が窺われ、『後太平』が『中古』を参照にしているとの論文(西丸桂子・『甲南国文』44)もありますが、その逆もありかなと考えたりもしています。

ただ、明らかに偽作と思われる跋文の主「太田和泉守資方」(序文によれば長俊の朋友)とは太田牛一のことだと考えられ、「方」は「房」の誤記と思われますが、「資房」という諱は一般的(=信定)ではないだけに注目されるのではないでしょうか。
わざわざ牛一の名を持ち出しているあたり、小瀬甫庵への対抗意識が窺えるのではないかと思われます。

つまり『中古』は、『甫庵信長記』の刊行に刺激された長俊の嫡孫が、祖父の素稿に手を加え成立させたものと考えられるのではないでしょうか。

それと同書には、秀吉が信長の出馬を乞い菅谷長頼に送った書状(天正10・5/15付)が収録されているのですが、既知のものでしょうか。やはり偽作なのでしょうか。
2007/12/29(Sat) 22:50 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
菅屋長頼宛て羽柴秀吉書状
Tm.さん、こんばんは。

『中古日本治乱記』は難物のようですね。
もっとも、織豊移行期だけに絞り込めば、さほどではないかもしれませんが。
ただ、「太田和泉守資方」なる記述を見ると、やはり信頼性という点では?が付きますね。

菅屋長頼宛て秀吉書状ですが、『甫庵太閤記』所収のものと同文でしょうか? 同文なら、甫庵から転写した可能性が高く、極めて怪しいですね。
2007/12/30(Sun) 23:59 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
桐野先生どうも。

>菅屋長頼宛て秀吉書状ですが、『甫庵太閤記』所収のものと同文でしょうか?
 同文なら、甫庵から転写した可能性が高く、極めて怪しいですね。

これまで『甫太』は読んだことがありませんでしたが、確かに東大史料編纂所のデータベースで検索したところ同じものです。既に同書状への疑問は『真説本能寺』でも述べられていましたね(笑
同じく『後太平記』も読んだことがないのですが、本能寺の変以前で終わっているとのことなので、『中古日本治乱記』はその後を追加補足し成立したものかもしれません。

ただそれが、『甫太』のみならず『川角太閤記』(家康饗応役の一件)や『稲葉家記』『明智軍記』(齋藤利三の処分)そして『元親記』(四国政策の転換)等々と、先の「信長の焦衣」の件を含め多岐に亘っており、あたかも現代の本能寺本を読んでいるようなのですが、他にそうした文献はあるのでしょうか?
何れにしても、同一の逸話の載る各文献との照合が必要なようですから大変です。

それと『中古』では、『川角』のような生魚が腐っていた云々はなく、光秀が不要となった饗応の諸道具を琵琶湖へ投げ捨てたとあるのですが、この一件と『多聞院日記』5月18日の条に見られる「寺門ノハ盃臺不入御意、」は何か関連はないでしょうか?
光秀と大和の関わりを考えるに、「去十五(日)ニ盃臺・樽三荷・小折二合・畑茶[十斤]進上ノ處、」というのが光秀の指示によるものであり、光秀の饗応役解任(予定通り?)と相俟ってそのように伝わったのではないでしょうか。

さらに『中古』ではその一件に続いて、信州出陣中に起きた利三を巡る一件が光秀の謀叛の理由の一つとして述べられているのですが、フロイスが『日本史』で饗応準備中の信長と光秀の確執を伝えているのは、日本側で語られるところのそうした時系列を理解出来ずに、あたかも安土での出来事と誤認していたのではないでしょうか。
密室の出来事ながらフロイスがそれを知り得たのを、イエズス会関係者が織田権力内に云々とするよりも、そう考えるのが自然ではないでしょうか。
以前の議論にも関わることなので・・・・
2007/12/31(Mon) 07:31 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
考えすぎでは
Tm.さん、こんにちは。

『中古~』と『多聞院日記』の記事を結びつけるのは多少強引ではないでしょうか。光秀が興福寺の献上品までいちいちチェックしているとは思えないのです。『多聞院』には光秀の名前は出てきませんし、興福寺側があれこれ工夫を凝らして準備したようにしか読めませんが……。

『多聞院』天正10年5月18日条ですが、これは興福寺の両門跡である大乗院と一乗院の双方から安土へ献上品を贈った記事ですが、大乗院(大門)のほうは「比類無し」と褒められたのに、「寺門」(一乗院か学侶方か)の「盃臺」は信長の「御意に入らず」ということになったわけですね。

これは拙著『真説本能寺』(31頁あたり)にも少し書きましたが、『多聞院』5月12日条にある「従学侶サヰシキノアヤツリ張良[三尺五寸ノ臺]」が信長の気に入らなかったということではないでしょうか。
「臺」というのは、どうやら一種の工芸品のようで、この場合、1メートルくらいのかなり大きい彩色された張良の操り人形のようですね。

なぜ、信長が気に入らなかったのか、多聞院英俊は「張良」と「鞍馬天狗」という能の演目が牛若丸=源義経を賛美するもので、平家の都落ちを描いていることから、平氏を自称する信長の意に添わなかったのではないかという解釈ですね。

これはあくまで英俊の推測であって、信長がそう思っていたかどうかはわかりません。
いずれにしろ、光秀とは無関係の文脈ではないでしょうか。

余談ですが、『中古~』の成立時期はわかっているのでしょうか?
最近、ある資料を読んでいたら、同書の成立が慶長7年(1602)と書かれているのを見ました。それが妥当なのかどうか、不勉強で知りませんが、もしそうなら、太田牛一『信長記』や甫庵『太閤記』よりも早く成立していることになるのでしょうかね。
前回書いた、菅屋長頼宛て羽柴秀吉書状も甫庵→中古へと転写されたというのも、逆だったかもしれませんね。
2008/01/02(Wed) 12:23 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
中山幸俊と黒川道祐
桐野先生どうも。

まあ実際に『中古』や『川角』のような出来事があったとは思いませんが、後代そのような咄が作られる一端が『多聞』のそれにあったのではないかと思った次第です。

『中古』の成立時期ですが、齋藤利三の第4子について「後ニハ春日局ト云」とあることからも、最終的には寛永7年(1629)を下るものと思われます。
尤も部分部分で後代の加筆があるのかも知れませんが、少なくとも慶長7年(1602)ではないでしょうね。
その点からも、真の著者は長俊の嫡孫の幸俊ではなかったのかと考える次第です。

ちなみに、幸俊は当初、秀頼に仕え、大坂落城後は一時京に隠棲し、後に安芸浅野家に仕えたとされますが、その浅野家の儒医であったのが『雍州府志』の著者の黒川道祐とのことですから、両者に何らかの交遊があったのではないかとも推測され、先の「信長の焦衣」絡みでそこに『中古』の成立時期を解く鍵があるのではないかと考えています。

また、『中古』と同じ話は『増補信長記』にも記載されているとのことですから、『総見記』や『織田軍記』ではどうなっているのかも確認しなければなりませんね。
2008/01/03(Thu) 01:21 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
ご教示多謝
Tm. さん、こんにちは。

成立はやはり寛永以降ですか。
ご教示有難うございました。
2008/01/04(Fri) 09:35 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
『中古日本治乱記』
桐野先生、こんばんは。

『信長記』共同研究の内容については、たいへん興味深いです。いずれ、成果については発表されるでしょうから、そのときが来るまで期待して待っております。『太田系図』に関する前回の発言も、そのときに紹介していただきたいと希望してのものです。

ところで、『中古日本治乱記』について話題になっていますが、、桐野先生のご友人の和田様は『「信長記」の大研究』の第三章において、本書について触れておられますね。「秀吉の右筆だった山中長俊作といわれるが、太田牛一に仮託している写本もある」と説明しておられます。『中古日本治乱記』は写本で伝わっているので、諸本に異同があるのかもしれませんが、太田牛一が書いたとする本が存在するのでしょうか。
2008/01/04(Fri) 21:31 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
よくわかりませんね
磯部さん、おはようございます。

和田さんも言及しているのは忘れていました(笑)。
「太田牛一に仮託している写本」というのが、Tm.さんご紹介の「大田和泉守資方」なんでしょうね。

同時に、和田さんは大村由己の「天正記」とも合冊されたものがあるとも指摘しており、ますますよくわかりませんね。この「天正記」はどんな内容なのか、なぜ合冊されたのか(誤ってのことか?)、いずれにしてもよくわかりません。

今度、和田さんに聞いてきます。
2008/01/05(Sat) 09:00 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
お礼
桐野先生、お考えをお教えいただき、厚く御礼申し上げます。

お礼が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。
2008/01/12(Sat) 06:12 | URL  | 磯部 #-[ 編集]
『増補信長記』
桐野先生どうも。

その後も『中古日本治乱記』について色々調べておりますが、類似の指摘されている『後太平記』との関係は別として、『後太平』以降の部分はやはり『甫庵太閤記』がベースのようです。
ただそうしたなかで、こと本能寺の変に関する部分については、松平忠房が著者とされる『増補信長記』からの引用が濃厚ではないかと思われます。
ただし、その『増補』に『元親記』の逸話は収録されていませんので、『中古』の成立時期もそれ(寛文2年・1662)以降かと考えられます。

その『増補信長記』ですが、『甫庵・信長記』の補撰を謳いつつも、一寸、異質な存在ではないかと思われるのですが、桐野先生は読まれいらっしゃいますか。また何方か言及された方はいらっしゃいますか。
ちなみに、『将軍記』うちの「織田信長記」も『増補』からの引用と見られます。


毎度毎度の質問ですいません。
2008/01/12(Sat) 18:54 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
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