歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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宍戸元続といっても、あまり知られている人物ではない。
毛利元就の一女五竜を娶った宍戸隆家の嫡孫にあたる。

ある原稿を執筆中、毛利家中の系譜『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社刊、マツノ書店復刻)を見ていたら、宍戸家の元続の系譜のなかに興味深い記事を見つけた。

「室 織田内大臣信長公女 生一女 後離縁」

つまり、宍戸元続は信長の一女を妻にし、一女を儲けたのち離縁したというのだ。同系譜によれば、その一女は毛利分家の右田毛利山城守元倶に嫁している。

とりあえず、織田家の系譜『織田家雑録』や岡田正人氏『織田信長総合事典』などを見てみたが、該当する信長の娘を探し出せなかった。
見落とした可能性もあるし、ほかにあたるべき系譜類を見ていないものの、ほとんど聞いたことがない話である。

この信長の娘は誰なのだろうか?
元続は永禄6年(1563)生まれとあるから、世代的には信長の娘を娶ってもおかしくはないが、織田権力と毛利家の対立、信長と元続の地位・家柄の格差を考えると、なかなか想定しにくい。
仮に事実だとしても、明らかに信長死後の天正10年(1582)以降のことだろう。

もし、この信長の娘をご存じの方、あるいはこの縁組が事実であるとご存じの方がおいでなら、ご教示いただければ幸いです。
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【2008/01/03 12:39】 | 信長
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おめでとうございます
武藤 臼
今年もお世話になります

さすが信長・・・というべきなんでしょうか。
伝説的な話が残っているということでしょうか。

墓があるようですが、寺になにか記録が残っていないものか。山口まで行く機会があったら寄ってみたいですね。
小説までは手がでないかな・・・



k2
桐野様
こちらでは、初めまして本年もこちらのブログで勉強させて頂きます。毛利の信長女ですが、歴読の豊臣家崩壊の一小論で、知り少し調べたのですが、寛政譜巻第十 毛利秀元(右田毛利家)のあ室になったとあり、太閤秀吉の姪女とも、養女ともと記されています。この女が、その方が分かりませんが、その後調べてませんので、何とも言えませんが、分かれば新発見になりますが、、、

管理人のみ閲覧できます
-


墓?
桐野作人
武藤臼さん、こんばんは。

本年もよろしく。
墓というのは、宍戸元続夫妻のものでしょうか? 萩かどこかに墓所はあるんでしょうかね。


毛利秀元前妻
桐野作人
K2さん、こんばんは。

こちらでは初めてでしたっけ? そんな気がしませんね。

いろいろご教示有難うございます。
毛利秀元は右田毛利ではなくて、穂田毛利の出ではなかったでしたっけ。
上記の『近世防長諸家系図綜覧』の長府毛利家の系譜によれば、秀元の正室、後室について次のように記されています。

室 大和大納言秀長女 秀吉公之養女也(中略)京都大徳寺ニ葬ル 牌所功山寺

継室 松平因幡守康元女 家康公之養女也(中略)泉岳寺ニ葬ル 牌所功山寺

同書は秀元クラスの情報を間違えるとは思えませんから、上記記事はほぼ正確だろうと思われます。
だとすると、信長の娘もしくは養女ではないかもしれませんね。謎が深まりました。








k2
桐野様
誤解してました、少し謎が解けました。
豊臣家崩壊 小早川秀秋の死をめぐる謎 村上公一著で知ったのですが、それに右田毛利家と出てまして、それが桐野様ガ今回紹介された娘です。
先のコメントに出した毛利秀元は、違う女のようですね。
混乱させましてすみません。ただ、寛政譜の子光広の母には何故か織田氏となっております。


宍戸元続夫人の墓
武藤 臼
ネットで見つけたものですが、下のひとつめのリンクの先、ページの下の方で紹介されています。ここでは信長娘とはありませんが、二つ目のリンク先に「織田信長の女」とあるので、なんらかの案内か印刷物でもあるのだろうと想像してます。
場所は周南市の旧熊毛町です。

http://yoshiko.client.jp/mituo.html
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/kenf/bosyo/bosyo-si-sisidomototuguzensai.htm

毛利光広の母
桐野作人
K2さん、こんばんは。

毛利秀元の嫡子光広の生母について、ある程度謎が解けました。前回紹介した『近世防長諸家系図綜覧』の毛利秀元・光広の系譜には、

「毛利秀元譜」
妾 オシユク 織田氏女 天和二壬戌九月朔日卒ス 法名正福院竜雲久松

「毛利光広譜」
母 家女織田氏 オシユク

毛利秀元の側室の一人が織田氏で、光広を生んだということのようです。
織田氏ということは、必ずしも信長の娘を意味しません。むしろ、庶流の出と見たほうがいいのではないでしょうか。
光広が元和2年(1616)生まれですから、信長の死後34年も経っています。年代的にみて、信長の娘である可能性は低いのでは。


宍戸元続夫人の墓
桐野作人
武藤臼さん、こんばんは。

写真の紹介有難うございます。
よく撮影している方がおいでですね。

宍戸家は周防国熊毛郡三尾というところを所領のひとつにしているようですから、おそらくここに墓所があるんでしょうね。


企画展「長府毛利十四代記」
市野澤 永
企画展「長府毛利十四代記」
【会期】平成23年1月29日(土)~2月27日(日)
【開館】9:30~17:00(但し、入館は16:30まで)
【休館】月曜日及び休日・祝日の翌日。
    会期中の休館日は1月31日・2月7・14・21日
【料金】一般400円(320円) 大学生200円(160円)
    () 内は20名以上の団体料金。※常設展示の観覧料と異なる。

 毛利家総大将として文禄・慶長の役、関ヶ原合戦に参戦、
武人として名を馳せた長府藩祖毛利秀元は、
その武才と政治手腕を認められ、将軍家光の御咄衆に加わり、
さらに品川御殿で大茶会を催すなど文人としても活躍。
関ヶ原合戦後の混迷した時期、
迅速果断な行動で長府毛利家の存続に心魂を傾けた人物である。 
 その後、秀元が実践した文武両道を受け継いだ歴代藩主は、
時勢にあった藩政を展開し、萩藩の支藩で公称5万石の小藩でありながら、幕末まで存続する雄藩に成長させた。 
 本展は、藩祖毛利秀元を中心に、秀元の遺志を継往開来した歴代藩主の事績にも焦点をあて、江戸時代約260年の間、当地を領有し続けた長府毛利家の政治戦略、さらには長府城下町の発展を探ろうとするもの

お問い合わせ
下関市立長府博物館
郵便番号 752-0979
所 在 地 山口県下関市長府川端一丁目2番5号
電 話 083-245-0555
F A X 083-245-0783

詳しくは、こちら ↓
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kyoiku/chohuhak/

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この記事へのコメント
おめでとうございます
今年もお世話になります

さすが信長・・・というべきなんでしょうか。
伝説的な話が残っているということでしょうか。

墓があるようですが、寺になにか記録が残っていないものか。山口まで行く機会があったら寄ってみたいですね。
小説までは手がでないかな・・・
2008/01/05(Sat) 15:04 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
桐野様
こちらでは、初めまして本年もこちらのブログで勉強させて頂きます。毛利の信長女ですが、歴読の豊臣家崩壊の一小論で、知り少し調べたのですが、寛政譜巻第十 毛利秀元(右田毛利家)のあ室になったとあり、太閤秀吉の姪女とも、養女ともと記されています。この女が、その方が分かりませんが、その後調べてませんので、何とも言えませんが、分かれば新発見になりますが、、、
2008/01/05(Sat) 17:35 | URL  | k2 #-[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008/01/05(Sat) 22:25 |   |  #[ 編集]
墓?
武藤臼さん、こんばんは。

本年もよろしく。
墓というのは、宍戸元続夫妻のものでしょうか? 萩かどこかに墓所はあるんでしょうかね。
2008/01/06(Sun) 18:05 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
毛利秀元前妻
K2さん、こんばんは。

こちらでは初めてでしたっけ? そんな気がしませんね。

いろいろご教示有難うございます。
毛利秀元は右田毛利ではなくて、穂田毛利の出ではなかったでしたっけ。
上記の『近世防長諸家系図綜覧』の長府毛利家の系譜によれば、秀元の正室、後室について次のように記されています。

室 大和大納言秀長女 秀吉公之養女也(中略)京都大徳寺ニ葬ル 牌所功山寺

継室 松平因幡守康元女 家康公之養女也(中略)泉岳寺ニ葬ル 牌所功山寺

同書は秀元クラスの情報を間違えるとは思えませんから、上記記事はほぼ正確だろうと思われます。
だとすると、信長の娘もしくは養女ではないかもしれませんね。謎が深まりました。





2008/01/06(Sun) 18:12 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様
誤解してました、少し謎が解けました。
豊臣家崩壊 小早川秀秋の死をめぐる謎 村上公一著で知ったのですが、それに右田毛利家と出てまして、それが桐野様ガ今回紹介された娘です。
先のコメントに出した毛利秀元は、違う女のようですね。
混乱させましてすみません。ただ、寛政譜の子光広の母には何故か織田氏となっております。
2008/01/06(Sun) 21:21 | URL  | k2 #-[ 編集]
宍戸元続夫人の墓
ネットで見つけたものですが、下のひとつめのリンクの先、ページの下の方で紹介されています。ここでは信長娘とはありませんが、二つ目のリンク先に「織田信長の女」とあるので、なんらかの案内か印刷物でもあるのだろうと想像してます。
場所は周南市の旧熊毛町です。

http://yoshiko.client.jp/mituo.html
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/kenf/bosyo/bosyo-si-sisidomototuguzensai.htm
2008/01/06(Sun) 23:28 | URL  | 武藤 臼 #-[ 編集]
毛利光広の母
K2さん、こんばんは。

毛利秀元の嫡子光広の生母について、ある程度謎が解けました。前回紹介した『近世防長諸家系図綜覧』の毛利秀元・光広の系譜には、

「毛利秀元譜」
妾 オシユク 織田氏女 天和二壬戌九月朔日卒ス 法名正福院竜雲久松

「毛利光広譜」
母 家女織田氏 オシユク

毛利秀元の側室の一人が織田氏で、光広を生んだということのようです。
織田氏ということは、必ずしも信長の娘を意味しません。むしろ、庶流の出と見たほうがいいのではないでしょうか。
光広が元和2年(1616)生まれですから、信長の死後34年も経っています。年代的にみて、信長の娘である可能性は低いのでは。
2008/01/07(Mon) 03:23 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
宍戸元続夫人の墓
武藤臼さん、こんばんは。

写真の紹介有難うございます。
よく撮影している方がおいでですね。

宍戸家は周防国熊毛郡三尾というところを所領のひとつにしているようですから、おそらくここに墓所があるんでしょうね。
2008/01/07(Mon) 03:28 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
企画展「長府毛利十四代記」
企画展「長府毛利十四代記」
【会期】平成23年1月29日(土)~2月27日(日)
【開館】9:30~17:00(但し、入館は16:30まで)
【休館】月曜日及び休日・祝日の翌日。
    会期中の休館日は1月31日・2月7・14・21日
【料金】一般400円(320円) 大学生200円(160円)
    () 内は20名以上の団体料金。※常設展示の観覧料と異なる。

 毛利家総大将として文禄・慶長の役、関ヶ原合戦に参戦、
武人として名を馳せた長府藩祖毛利秀元は、
その武才と政治手腕を認められ、将軍家光の御咄衆に加わり、
さらに品川御殿で大茶会を催すなど文人としても活躍。
関ヶ原合戦後の混迷した時期、
迅速果断な行動で長府毛利家の存続に心魂を傾けた人物である。 
 その後、秀元が実践した文武両道を受け継いだ歴代藩主は、
時勢にあった藩政を展開し、萩藩の支藩で公称5万石の小藩でありながら、幕末まで存続する雄藩に成長させた。 
 本展は、藩祖毛利秀元を中心に、秀元の遺志を継往開来した歴代藩主の事績にも焦点をあて、江戸時代約260年の間、当地を領有し続けた長府毛利家の政治戦略、さらには長府城下町の発展を探ろうとするもの

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郵便番号 752-0979
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電 話 083-245-0555
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2010/12/20(Mon) 20:36 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
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2008/01/04(Fri) 22:15:28 |  本ナビ!by Tamecom,宍戸元続夫人
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