歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第39回
―坊津に多くの伝承残す―

小生の連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、前回に引き続き、近衛父子の薩摩下向の2回目です。
息子の近衛信尹の坊津配流について書きました。
もっとも、配流に至る過程を書かないといけなかったので、坊津時代をあまり書けませんでした。

分量の関係で書けなかったことについて補足。

関白就任の望みを絶たれた信尹が急に朝鮮出兵への従軍を志願したことは、『多聞院日記』が「物狂」と評したほど、不審に思われたわけですが、これは「関白相論」をきっかけとする秀吉の関白就任だけが理由なのかどうか。
たしかに、秀吉が秀次に関白を譲ってからの「物狂」ですから、タイミング的には合っているのですけど、信尹が一時的とはいえ、近衛名字を捨てて「岡ノ屋」(近衛家領の名)と名乗ったことが気になっています。
従軍するのに、近衛名字は不要だったともいえましょうが、もしかして、よく知られている父龍山(前久)との所領争いは、この件と果たして無関係なのかどうか。

それと、素朴な疑問ですが、信尹が従軍するのは「物狂」と非難されるほど不審、不自然なんでしょうかね?
父龍山は信長時代、何度も兵を率いて従軍しています。また信長には陣参公家衆という、室町殿の昵近公家衆の系譜を引いて軍事をもって奉公する公家衆もおりました。
秀吉時代、この陣参公家衆はどうなったのか。武張ったことが好きな日野輝資などは従軍しようとはしなかったのでしょうか?

私は、前久が信長時代の陣参公家衆の統括者だと考えていますが、秀吉時代は信尹がその任を引き継いだとしてもおかしくない。つまり、従軍じたいはそれほど不自然ではないのではないかという感触もあるのですが。
余談でした。
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【2008/01/05 10:08】 | さつま人国誌
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秀吉と公家衆
板倉丈浩
遅まきながら、あけましておめでとうございます。
今年注目の小松帯刀については、かねてから私も気になっていましたので、桐野さんの研究成果が楽しみです(^^

さて、秀吉政権と昵近公家衆ですが、矢部健太郎氏の論文『豊臣秀吉の参内』(国史学165,1998)で言及されていますね。
これによりますと、秀吉と公家衆との間には、足利将軍や徳川将軍と公家衆との間に見られたような、「公武の主従的関係」が存在していなかったようです。

権威と権力の双方を有する「天下人」関白秀吉と武家公卿は、室町・江戸幕府とは明確に異なる政治権力集団として存在しており、秀吉は武家衆とのみ主従関係を結ぶことで、公家衆が政治力を有する可能性を絶ったのではないか・・・と矢部氏は推測しています。

となると、近衛信尹による「武辺の奉公」は、秀吉の政権構想からは決して受け入れ難い行為であったのかもしれませんね。

件名とは、まったく関係ありませんが!
おな
1月4日に、大阪の居酒屋「維新」に、行ってきました。
マスターとの話で、桐野先生が、来られたことも
話題になりました!
また、大阪にいかれるそうですね!
マスターに、よろしくお伝えください!

秀吉と公家勢力
ばんない
遅ればせながらあけましておめでとうございます。

板倉さんに先を越されましたが、私も同じ事を考えていました。
・信長と公家勢力との関係(お互いに利用したりされたり)
・家康以後徳川幕府と公家勢力の関係(公家を官位斡旋の特権などからは排斥し圧迫するも、一応存在は認める)
これらと比べて、秀吉政権は自分たち自身が公家のポジションに取って代わったことで、それまでいた公家は存在意義を失いかけたのではないかと思われます。
信尹が公家の由緒ある苗字「近衛」を棄てて「武辺の奉公」を願い出たのは、この辺に理由があるように思われますが如何でしょうか。


桐野作人
板倉丈浩さん、ばんないさん、こんにちは。

本年もよろしくお願いします。

矢部健太郎氏は同じ勉強会仲間でしたのに、灯台もと暗しでした。一度読んでいたはずですが、記憶から薄れていますね(爆)。

たしかに、豊臣政権の武家官位制が成立してから、秀吉の参内には公家衆(昵近公家衆のことでしょう)が供奉しなくなったというのはそのとおりだと思いますが、そのことがすなわち「公武の主従的関係」が存在しなかったのかどうか難しいところですね。儀礼的にはそうかもしれませんが、公家領の宛行・安堵という面では秀吉が主体になっていることは矢部さんも認めていますから、微妙なところではないでしょうか。
あと、室町殿の場合、昵近公家衆は年始の参賀などでは室町邸に祗候しています。これも豊臣政権時代に聚楽第や大坂・伏見城への公家衆の祗候はあったはずで、それが昵近公家衆だけではないような気もしますが、そういう公家衆の秀吉への表敬をどうとらえるかも課題でしょうね。

ちなみに、信長の場合はほとんど参内していませんし、参内したとき、昵近公家衆が供奉したかどうかはよくわかりません。ですから、信長時代の昵近公家衆と陣参公家衆を同一集団ととらえていいのかどうか、私もよくわかりません。

むしろ、矢部さんの指摘で重要なのは「公家衆と武家衆の性格を明確に区別しようとした」という点かもしれません。この観点から、公家衆の「御奉公」から「武辺之奉公」は除外された、つまり、公家衆は軍事には関われなくなったということかもしれません。

ただ、例外かもしれませんが、公家の持明院基久が大坂夏の陣で戦死か自害をしています。基久は養子で、正親町季秀の二男です。季秀は信長時代の陣参公家衆と思われることを考えると、基久の死は豊臣家に「武辺之奉公」をした陣参公家衆の最後の名残かもしれないなとも思っております。

薩長馳走処「維新」
桐野作人
おなさん、こんにちは。

本年もよろしく。
例の居酒屋に新年早々行かれたのですか。
大坂に行くことがあったら、また寄りたいと思います。

捨身上家督而存立之儀
Tm.
桐野先生どうも。

以前より気になっていたのですが、『兼見』天正10年7月18日の条には、万里小路充房の岐阜下向について、「就其自禁裏御使、今度之下向、捨身上家督而存立之儀、曲事之旨仰云々、」と問題になっていることが記されています。

『兼見』における前後の出来事を考えるに、充房は何か秀吉との間にトラブルを生じかねない状況にあり、身の危険を感じ、信孝を頼っての岐阜落ちを図っていたとのように読めるのではないかと思われるのですが、この件について先生はどのようにお考えでしょうか。また何方か言及された方はおられるのでしょうか。

万里小路充房の美濃下向
桐野作人
Tm. さん、こんばんは。

万里小路の一件は私も以前気になったのですが、ほかに史料もなく、下向理由もわからなったので放ったままでした。

『兼見卿記』を改めて見てみましたけど、やっぱりよくわかりませんね。
万里小路が「身上・家督」を捨てる覚悟というのですから、よほどのことでしょうが、それが秀吉との間の確執なのかどうか、にわかに断定はできませんね。

天皇も万里小路の美濃下向を、帰洛を条件に一応勅許はしています。そのため、万里小路はいったん美濃に下り、ほどなく帰洛しております。秀吉との確執という政治的理由なら、そう簡単には帰洛しないのではないかという気もします。

むしろ、朝廷内でのトラブルの可能性のほうが考えられませんかね。
万里小路はまだ若く、当時、右中弁・蔵人頭ですから、正親町天皇の最側近です。あるいは、同僚たちとの諍いがあって、禁裏勤めに嫌気がさしたという見方のほうがまだしもかもしれませんね。

あるいは、信孝と個人的な親交でもあったのでしょうかね?
万里小路は勧修寺晴豊の弟で、誠仁親王妃の勧修寺晴子の弟でもあります。
織田家との縁が生じたとすれば、信長の甲州陣のとき、万里小路は見舞の勅使として甲州に下っています。信忠が万里小路に御礼の書状を送っているので、信長の子どもたちとの間に交流は生まれた可能性はあるとは思いますが、それだけでは決定打にはなりませんね。

というわけで、申しわけありませんが、私にはよくわかりません。

充房の「武辺之奉公」
Tm.
桐野先生どうも。

>万里小路が「身上・家督」を捨てる覚悟というのですから、

「捨身上家督而存立之儀」についてそれをどのように読むべきかですが、「身上を捨て、而して家督(而して)存立の儀」であり、つまり「公家の身分を捨て、なお家名を存立させるとの事」なのでないでしょうか?
それは、充房が信孝の許での「武辺之奉公」を考えていたことを伝えているのではないかと思います。

先に「秀吉との間にトラブル」と申しましたが、秀吉自身がどうのこうのという訳ではなく、秀吉に取り入り讒言する輩がおり、充房は、このままでは秀吉からの糾明を受けるとの恐れを抱いていたのではないかと思います。その為、充房は、信孝を頼ろうとしていたのではないでしょうか。そう考えるのも、まさに当時の近衛前久の身上に符合するところが多いからです。

山崎の戦いの後、前久は信孝の追及を恐れ嵯峨に逼塞しますが(6/17)、信孝の誤解はすぐに解けたとされ、にも拘らず結局、家康の許に身を寄せることとなっています。
それは清洲会議(6/27)の後、京を支配するようになった秀吉に讒言する者がいたためとされ、事実、古田織部や細川家家中による秀吉の威を借るような(明智への与党を糾明する)強請り集りも横行していました。

その前久が嵯峨に逃れたときに同道していたのがご存知の充房の祖父、勧修寺尹豊です。
なぜ尹豊が前久に同道したのかは定かではありませんが、やはり尹豊自身にも何か身に覚えがあったのではないでしょうか。
惹いてはそれが充房にも及んできた(恐れての)ことが美濃下向になったものと推察します。


>天皇も万里小路の美濃下向を、帰洛を条件に一応勅許はしています。
 そのため、万里小路はいったん美濃に下り、ほどなく帰洛しております。
 秀吉との確執という政治的理由なら、そう簡単には帰洛しないのではないかという気もします。

まさに兼見の説得により充房も翻意したのだと思われます。
兼見自身も色々糾明を受けていますが、秀吉側近の徳運軒全宗らを頼り事無きを得ています。
充房にはそうした伝手がなく、甲州陣のときの勅使という立場を頼りに、秀吉に対抗しうる立場の信孝を頼ろうとしたのではないでしょうか。

「存立」
桐野作人
Tm. さん、こんにちは。

コメントをたくさんいただき、なかなか応じきれずにおり、申しわけありません。

議論が細かくて何ですが、

「存立」の部分は、お説のようには読みにくいと思います。微細なことで申し訳ないですが、「而」の読み位置と「存立」のとらえ方が違うのではないでしょうか。

「捨身上家督而存立之儀」

「身上・家督を捨てて(捨而)、存じ立ちの儀」と読んだほうがよいのでは。
また「存立」は家督を存立させるという意味ではなく、次のような意味だと思います(小学館国語辞典より)。

ぞんじたち【存じ立】
思い立つこと。思いつき。

「存立」は家督の存立というより、美濃下向を思い立ったというニュアンスでは?

また、勧修寺尹豊が近衛前久に同行した一件は私も不可解で、よく理由がわかりませんが、そのことで充房に危難が及ぶなら、他家に養子に出た充房よりも尹豊嫡孫の勧修寺晴豊こそ該当するのではと思いますが。でも、晴豊が蟄居したり出奔したりした形跡はありませんよね。
だから、充房の美濃下向は別の文脈で読むべきではないでしょうかね。
憶測ばかりですみません。



公儀外聞尤祝着候(之ヵ)由被申談
Tm.
桐野先生どうも。

確かに「存立」は「存じ立ち」と読むのが一般的かもしれませんが、それは謙譲語であり、本件の場合、充房本人に当てることには少々違和感がないでしょうか?
それと「身上家督」というのも、重複した表記のように思われます。

「身分・財産・家名」全てを捨てての隠棲ということかも知れませんが、京を遠く離れ、特に親しいとは思われない信孝を頼るというのも疑問があります。
やはり前久が家康を頼り、利三の娘の於福らが長宗我部氏を頼りその領国に下った事例を思い浮かべずには置けません。

その上での「捨身上家督而存立之儀」ですが、「身上を捨て而して家督をと、存じ立つの儀」とは読めないでしょうか。
それはすなわち、兼見自身の考えを述べたものであり、「(充房殿は)公家の身分を捨てるとのことだが、それにより(信孝殿に仕え)家名を起すものと思われるその事」と意訳できないでしょうか。
あるいは第三者的に、「存候」の代わりに「存立」と表記されたのではないでしょうか。


>また、勧修寺尹豊が近衛前久に同行した一件は私も不可解で、
 よく理由がわかりませんが、中略、だから、充房の美濃下向は
 別の文脈で読むべきではないでしょうかね。

おそらく尹豊のそれは杞憂であったと思いますが、充房は兼見とも親しかっただけに杞憂に納まらず、本気で都落ちを考え、それが信孝への「武辺之奉公」だっただけに、正親町天皇も「曲事」だと言ったのではないでしょうか。

また兼見の説得に下向が延期されたことに対し、親王方で「公儀外聞尤祝着候(之ヵ)由被申談、」と大仰な喜ばれ方がなされているのも、充房の美濃下向が重大な政治問題でもあったことを物語っているのではないでしょうか。

訂正
板倉丈浩
↑上記引用箇所は「P159~160」の誤りです。
大変失礼しました。

本能寺の変後の公家社会
板倉丈浩
横レス失礼します。
私もこの問題に詳しいわけではないですが、『流浪の戦国貴族 近衛前久』(谷口研語著、中公新書)のP161~162に次のような記述があります。

「この当時の公家社会は、政権の行方を考えるような状態にはない」
「多くの公家衆にとって、所領問題こそが最大の関心事だった」
「本能寺の変後に起こった公家社会の所領をめぐる争いは、まさに「仁義なき戦い」だった」

万里小路充房の美濃下向も御多分に漏れず、所領をめぐるトラブルだった可能性が高いのではないでしょうか。

※一個上のコメントは入力ミスです。パスワードを入れ間違って削除できません(涙)ので、無視してください。

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この記事へのコメント
秀吉と公家衆
遅まきながら、あけましておめでとうございます。
今年注目の小松帯刀については、かねてから私も気になっていましたので、桐野さんの研究成果が楽しみです(^^

さて、秀吉政権と昵近公家衆ですが、矢部健太郎氏の論文『豊臣秀吉の参内』(国史学165,1998)で言及されていますね。
これによりますと、秀吉と公家衆との間には、足利将軍や徳川将軍と公家衆との間に見られたような、「公武の主従的関係」が存在していなかったようです。

権威と権力の双方を有する「天下人」関白秀吉と武家公卿は、室町・江戸幕府とは明確に異なる政治権力集団として存在しており、秀吉は武家衆とのみ主従関係を結ぶことで、公家衆が政治力を有する可能性を絶ったのではないか・・・と矢部氏は推測しています。

となると、近衛信尹による「武辺の奉公」は、秀吉の政権構想からは決して受け入れ難い行為であったのかもしれませんね。
2008/01/06(Sun) 00:43 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
件名とは、まったく関係ありませんが!
1月4日に、大阪の居酒屋「維新」に、行ってきました。
マスターとの話で、桐野先生が、来られたことも
話題になりました!
また、大阪にいかれるそうですね!
マスターに、よろしくお伝えください!
2008/01/06(Sun) 12:44 | URL  | おな #-[ 編集]
秀吉と公家勢力
遅ればせながらあけましておめでとうございます。

板倉さんに先を越されましたが、私も同じ事を考えていました。
・信長と公家勢力との関係(お互いに利用したりされたり)
・家康以後徳川幕府と公家勢力の関係(公家を官位斡旋の特権などからは排斥し圧迫するも、一応存在は認める)
これらと比べて、秀吉政権は自分たち自身が公家のポジションに取って代わったことで、それまでいた公家は存在意義を失いかけたのではないかと思われます。
信尹が公家の由緒ある苗字「近衛」を棄てて「武辺の奉公」を願い出たのは、この辺に理由があるように思われますが如何でしょうか。
2008/01/06(Sun) 17:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
板倉丈浩さん、ばんないさん、こんにちは。

本年もよろしくお願いします。

矢部健太郎氏は同じ勉強会仲間でしたのに、灯台もと暗しでした。一度読んでいたはずですが、記憶から薄れていますね(爆)。

たしかに、豊臣政権の武家官位制が成立してから、秀吉の参内には公家衆(昵近公家衆のことでしょう)が供奉しなくなったというのはそのとおりだと思いますが、そのことがすなわち「公武の主従的関係」が存在しなかったのかどうか難しいところですね。儀礼的にはそうかもしれませんが、公家領の宛行・安堵という面では秀吉が主体になっていることは矢部さんも認めていますから、微妙なところではないでしょうか。
あと、室町殿の場合、昵近公家衆は年始の参賀などでは室町邸に祗候しています。これも豊臣政権時代に聚楽第や大坂・伏見城への公家衆の祗候はあったはずで、それが昵近公家衆だけではないような気もしますが、そういう公家衆の秀吉への表敬をどうとらえるかも課題でしょうね。

ちなみに、信長の場合はほとんど参内していませんし、参内したとき、昵近公家衆が供奉したかどうかはよくわかりません。ですから、信長時代の昵近公家衆と陣参公家衆を同一集団ととらえていいのかどうか、私もよくわかりません。

むしろ、矢部さんの指摘で重要なのは「公家衆と武家衆の性格を明確に区別しようとした」という点かもしれません。この観点から、公家衆の「御奉公」から「武辺之奉公」は除外された、つまり、公家衆は軍事には関われなくなったということかもしれません。

ただ、例外かもしれませんが、公家の持明院基久が大坂夏の陣で戦死か自害をしています。基久は養子で、正親町季秀の二男です。季秀は信長時代の陣参公家衆と思われることを考えると、基久の死は豊臣家に「武辺之奉公」をした陣参公家衆の最後の名残かもしれないなとも思っております。
2008/01/07(Mon) 16:19 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
薩長馳走処「維新」
おなさん、こんにちは。

本年もよろしく。
例の居酒屋に新年早々行かれたのですか。
大坂に行くことがあったら、また寄りたいと思います。
2008/01/07(Mon) 16:21 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
捨身上家督而存立之儀
桐野先生どうも。

以前より気になっていたのですが、『兼見』天正10年7月18日の条には、万里小路充房の岐阜下向について、「就其自禁裏御使、今度之下向、捨身上家督而存立之儀、曲事之旨仰云々、」と問題になっていることが記されています。

『兼見』における前後の出来事を考えるに、充房は何か秀吉との間にトラブルを生じかねない状況にあり、身の危険を感じ、信孝を頼っての岐阜落ちを図っていたとのように読めるのではないかと思われるのですが、この件について先生はどのようにお考えでしょうか。また何方か言及された方はおられるのでしょうか。
2008/01/08(Tue) 13:48 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
万里小路充房の美濃下向
Tm. さん、こんばんは。

万里小路の一件は私も以前気になったのですが、ほかに史料もなく、下向理由もわからなったので放ったままでした。

『兼見卿記』を改めて見てみましたけど、やっぱりよくわかりませんね。
万里小路が「身上・家督」を捨てる覚悟というのですから、よほどのことでしょうが、それが秀吉との間の確執なのかどうか、にわかに断定はできませんね。

天皇も万里小路の美濃下向を、帰洛を条件に一応勅許はしています。そのため、万里小路はいったん美濃に下り、ほどなく帰洛しております。秀吉との確執という政治的理由なら、そう簡単には帰洛しないのではないかという気もします。

むしろ、朝廷内でのトラブルの可能性のほうが考えられませんかね。
万里小路はまだ若く、当時、右中弁・蔵人頭ですから、正親町天皇の最側近です。あるいは、同僚たちとの諍いがあって、禁裏勤めに嫌気がさしたという見方のほうがまだしもかもしれませんね。

あるいは、信孝と個人的な親交でもあったのでしょうかね?
万里小路は勧修寺晴豊の弟で、誠仁親王妃の勧修寺晴子の弟でもあります。
織田家との縁が生じたとすれば、信長の甲州陣のとき、万里小路は見舞の勅使として甲州に下っています。信忠が万里小路に御礼の書状を送っているので、信長の子どもたちとの間に交流は生まれた可能性はあるとは思いますが、それだけでは決定打にはなりませんね。

というわけで、申しわけありませんが、私にはよくわかりません。
2008/01/08(Tue) 23:46 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
充房の「武辺之奉公」
桐野先生どうも。

>万里小路が「身上・家督」を捨てる覚悟というのですから、

「捨身上家督而存立之儀」についてそれをどのように読むべきかですが、「身上を捨て、而して家督(而して)存立の儀」であり、つまり「公家の身分を捨て、なお家名を存立させるとの事」なのでないでしょうか?
それは、充房が信孝の許での「武辺之奉公」を考えていたことを伝えているのではないかと思います。

先に「秀吉との間にトラブル」と申しましたが、秀吉自身がどうのこうのという訳ではなく、秀吉に取り入り讒言する輩がおり、充房は、このままでは秀吉からの糾明を受けるとの恐れを抱いていたのではないかと思います。その為、充房は、信孝を頼ろうとしていたのではないでしょうか。そう考えるのも、まさに当時の近衛前久の身上に符合するところが多いからです。

山崎の戦いの後、前久は信孝の追及を恐れ嵯峨に逼塞しますが(6/17)、信孝の誤解はすぐに解けたとされ、にも拘らず結局、家康の許に身を寄せることとなっています。
それは清洲会議(6/27)の後、京を支配するようになった秀吉に讒言する者がいたためとされ、事実、古田織部や細川家家中による秀吉の威を借るような(明智への与党を糾明する)強請り集りも横行していました。

その前久が嵯峨に逃れたときに同道していたのがご存知の充房の祖父、勧修寺尹豊です。
なぜ尹豊が前久に同道したのかは定かではありませんが、やはり尹豊自身にも何か身に覚えがあったのではないでしょうか。
惹いてはそれが充房にも及んできた(恐れての)ことが美濃下向になったものと推察します。


>天皇も万里小路の美濃下向を、帰洛を条件に一応勅許はしています。
 そのため、万里小路はいったん美濃に下り、ほどなく帰洛しております。
 秀吉との確執という政治的理由なら、そう簡単には帰洛しないのではないかという気もします。

まさに兼見の説得により充房も翻意したのだと思われます。
兼見自身も色々糾明を受けていますが、秀吉側近の徳運軒全宗らを頼り事無きを得ています。
充房にはそうした伝手がなく、甲州陣のときの勅使という立場を頼りに、秀吉に対抗しうる立場の信孝を頼ろうとしたのではないでしょうか。
2008/01/14(Mon) 06:56 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
「存立」
Tm. さん、こんにちは。

コメントをたくさんいただき、なかなか応じきれずにおり、申しわけありません。

議論が細かくて何ですが、

「存立」の部分は、お説のようには読みにくいと思います。微細なことで申し訳ないですが、「而」の読み位置と「存立」のとらえ方が違うのではないでしょうか。

「捨身上家督而存立之儀」

「身上・家督を捨てて(捨而)、存じ立ちの儀」と読んだほうがよいのでは。
また「存立」は家督を存立させるという意味ではなく、次のような意味だと思います(小学館国語辞典より)。

ぞんじたち【存じ立】
思い立つこと。思いつき。

「存立」は家督の存立というより、美濃下向を思い立ったというニュアンスでは?

また、勧修寺尹豊が近衛前久に同行した一件は私も不可解で、よく理由がわかりませんが、そのことで充房に危難が及ぶなら、他家に養子に出た充房よりも尹豊嫡孫の勧修寺晴豊こそ該当するのではと思いますが。でも、晴豊が蟄居したり出奔したりした形跡はありませんよね。
だから、充房の美濃下向は別の文脈で読むべきではないでしょうかね。
憶測ばかりですみません。

2008/01/14(Mon) 08:22 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
公儀外聞尤祝着候(之ヵ)由被申談
桐野先生どうも。

確かに「存立」は「存じ立ち」と読むのが一般的かもしれませんが、それは謙譲語であり、本件の場合、充房本人に当てることには少々違和感がないでしょうか?
それと「身上家督」というのも、重複した表記のように思われます。

「身分・財産・家名」全てを捨てての隠棲ということかも知れませんが、京を遠く離れ、特に親しいとは思われない信孝を頼るというのも疑問があります。
やはり前久が家康を頼り、利三の娘の於福らが長宗我部氏を頼りその領国に下った事例を思い浮かべずには置けません。

その上での「捨身上家督而存立之儀」ですが、「身上を捨て而して家督をと、存じ立つの儀」とは読めないでしょうか。
それはすなわち、兼見自身の考えを述べたものであり、「(充房殿は)公家の身分を捨てるとのことだが、それにより(信孝殿に仕え)家名を起すものと思われるその事」と意訳できないでしょうか。
あるいは第三者的に、「存候」の代わりに「存立」と表記されたのではないでしょうか。


>また、勧修寺尹豊が近衛前久に同行した一件は私も不可解で、
 よく理由がわかりませんが、中略、だから、充房の美濃下向は
 別の文脈で読むべきではないでしょうかね。

おそらく尹豊のそれは杞憂であったと思いますが、充房は兼見とも親しかっただけに杞憂に納まらず、本気で都落ちを考え、それが信孝への「武辺之奉公」だっただけに、正親町天皇も「曲事」だと言ったのではないでしょうか。

また兼見の説得に下向が延期されたことに対し、親王方で「公儀外聞尤祝着候(之ヵ)由被申談、」と大仰な喜ばれ方がなされているのも、充房の美濃下向が重大な政治問題でもあったことを物語っているのではないでしょうか。
2008/01/14(Mon) 15:39 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
訂正
↑上記引用箇所は「P159~160」の誤りです。
大変失礼しました。
2008/01/14(Mon) 20:50 | URL  | 板倉丈浩 #reycNv9A[ 編集]
本能寺の変後の公家社会
横レス失礼します。
私もこの問題に詳しいわけではないですが、『流浪の戦国貴族 近衛前久』(谷口研語著、中公新書)のP161~162に次のような記述があります。

「この当時の公家社会は、政権の行方を考えるような状態にはない」
「多くの公家衆にとって、所領問題こそが最大の関心事だった」
「本能寺の変後に起こった公家社会の所領をめぐる争いは、まさに「仁義なき戦い」だった」

万里小路充房の美濃下向も御多分に漏れず、所領をめぐるトラブルだった可能性が高いのではないでしょうか。

※一個上のコメントは入力ミスです。パスワードを入れ間違って削除できません(涙)ので、無視してください。
2008/01/14(Mon) 21:02 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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