歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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備忘を兼ねた日次記の真似事

8日(火)
夜、新宿の某中華店で、薩摩関係者との新年会。
昨年暮れの調所広郷の法事でお会いした方々との約束だった。
私以外は、ほとんど薬丸自顕流の猛者たちである。毎週末、猛稽古をされているらしい。

新しい大河ドラマが始まったこともあり、調所広郷の話題で盛り上がった。ドラマが終了してからしばらく、調所氏宅の電話が鳴りやまなかったそうである。
一時は従来の悪役のままなのかと思っていたら、最後に少し救われて安堵したとのこと。

西南戦争や薩摩藩の身分制の話題が出てきて、少し驚く。ふつうなら私が切り出してもよい話題だったが、史実にかなり詳しい方がいてびっくり。

郷里の高校の3年先輩もおいでで、思い出話で盛り上がる。
ずっと空手部に所属されていたらしい。当時の高校はバンカラだったと仰せだったが、たった3年違いで、軟弱だった私たちの代とは大違い。これまた驚く。

9日(水)
「さつま人国誌」の原稿を仕上げてから、国会図書館へ。
調査ではなく、知り合いのI先生とお会いする。
昨年購入した西郷隆盛文書の解読がとても難しく、ご教授を仰いでいたもの。
かなり不明部分がわかった。
対馬問題が話題の中心になっているのがわかった。文久年間、対馬はロシアに一時占拠されたことがある。対馬問題が重要な外交課題だったと思われ、西郷も深い関心を寄せていたものか。
もっとも、いまだに西郷の真筆なのかどうか、疑念は拭いきれずにいる。
もう少し検討を続けてみたい。

また、I先生が最近入手された近世の武家文書を見せて下さる。
「嶋津」名字の宛所だったため、私に見せようと思われたらしい。ご厚意に感謝。
もっとも、薩摩島津一族ではないと思った。佐土原島津家でもないと思った。
どうも、豊前小倉藩関係の文書らしい。
石炭役所などがあって、非常に興味深かった。筑豊か。

古書店の目録で和刻本の三国志を注文していたら、抽選にあたったとのこと。
以前からほしかったのでうれしい。
最近、それなりに古書を購入しているのだが、なかなか紹介できないでいる。
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【2008/01/09 22:24】 | 日次記
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崎陽・織田
桐野さん、今晩は。
いつも楽しく拝見させていただいております。
お書きなられている西郷の文書も豊前小倉藩の文書も、興味深いですね。そういえば、島津重豪の侍医をつとめた曾はんも、養子を小倉藩士からもらっているので、薩摩と小倉と関係があったのかしれませんね。
これからも、期待しております。

小笠原家
桐野作人
崎陽・織田さん、こんにちは。

わざわざのコメント有難うございます。
豊前小倉藩の「嶋津氏」ですが、小笠原家がもともと信濃國守護の家柄ですから、北信の領主だった島津氏(その嫡流は上杉家の家来)の分家あたりが、小笠原氏が譜代大名に取り立てられたときに従った可能性がありますね。

島津重豪の侍医の「曾はん」というのは不勉強でよく知らないのですが、教えていただけますか。


崎陽・織田
説明が不足していましてすみません。
「曾はん」は「曾槃」のことで、江戸時代中期から
後期にかけての本草学者・医者です。島津重豪に
召抱えられ、白尾国柱と共に『成形図説』を編さん
したことでも知られています。なお、彼は江戸初期に
来日した中国人の末裔で、代々長崎に居住していました。

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コメント
この記事へのコメント
桐野さん、今晩は。
いつも楽しく拝見させていただいております。
お書きなられている西郷の文書も豊前小倉藩の文書も、興味深いですね。そういえば、島津重豪の侍医をつとめた曾はんも、養子を小倉藩士からもらっているので、薩摩と小倉と関係があったのかしれませんね。
これからも、期待しております。
2008/01/10(Thu) 22:57 | URL  | 崎陽・織田 #-[ 編集]
小笠原家
崎陽・織田さん、こんにちは。

わざわざのコメント有難うございます。
豊前小倉藩の「嶋津氏」ですが、小笠原家がもともと信濃國守護の家柄ですから、北信の領主だった島津氏(その嫡流は上杉家の家来)の分家あたりが、小笠原氏が譜代大名に取り立てられたときに従った可能性がありますね。

島津重豪の侍医の「曾はん」というのは不勉強でよく知らないのですが、教えていただけますか。
2008/01/11(Fri) 17:12 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
説明が不足していましてすみません。
「曾はん」は「曾槃」のことで、江戸時代中期から
後期にかけての本草学者・医者です。島津重豪に
召抱えられ、白尾国柱と共に『成形図説』を編さん
したことでも知られています。なお、彼は江戸初期に
来日した中国人の末裔で、代々長崎に居住していました。
2008/01/11(Fri) 23:29 | URL  | 崎陽・織田 #-[ 編集]
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