歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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友人の松本和也氏が『歴史評論』最新号(680号)に「宣教師史料から見た日本王権論」という意欲的な論文を発表した。

日頃から、『イエズス会日本年報』などのイエズス会関係の刊本が良質な原典に拠っていないことを批判していたし、王権論にも関心を示していたから、年来の所論をまとめたようで、喜ばしい。

松本論文では、イエズス会宣教師が日本の「王権」をどのようにとらえていたかを、「rei」と「Vo」という、「王」を意味する二つの用語に基づいて詳しく展開している。しかも、ザビエル来日以来、宣教師たちの日本王権認識が深化し、二つの用語にも用法の変化が出てくるなど興味深い点を指摘している(前論文でも触れられていた)。

とくに、「rei」が「王」一般を意味し、天皇・足利将軍・統一権力(信長・秀吉)だけでなく、戦国大名にも用いられていることを明らかにしている。宣教師が戦国大名を「王」(小王権)と見たことは、近年、日本側研究者の間で盛んになった戦国大名の地域国家論とも合致しているとする。

そして、松本論文では、大王権(天皇・足利将軍・統一権力)と小王権(大名)による重層的な王権構造になっている点を指摘している点が意義深い。そして、上部王権ともいうべき大王権の構成や性格が戦国期までの「名誉的な」ものから、「天下」の登場による実質権力(いわゆる統一権力論と合致する)へと変化・移行するとする。
また日本の「大王権」には、二人の「王」がいたと見るべきではないかとも指摘する。つまり、天皇と統一権力の「王」たち(信長・秀吉・徳川将軍)である。

個人的に面白かったのは、「Vo」の意味である。これは「オー」と発音し、日本語の「オー(王)」がポルトガル語表記されたもので、宣教師が日本語の「王」を意識した語だという。しかも、「Vo」とは「rei」の「王」一般と異なり、天皇を指す言葉だという。前近代における日本語の「王」が天皇を指していたことと符合するというのだ。

そのことと関連して非常に面白かったのは、東アジア巡察使のヴァリニャーノが著した『日本巡察記』にある有名な信長の言葉である。天皇への謁見を求めたヴァリニャーノに対して、信長がそれには及ばないと述べたときのものだ。

「予は国王であり、内裏である」

これは誤訳だと、松本論文は指摘する。
『フロイス日本史』で松田毅一氏が注釈したように、正確には「予は(天)皇であり、内裏である」と訳すべきだという。原文では「国王」の部分が「Vo」になっているからである。

じつに面白い。
そのまま理解すれば、信長が自分は天皇だと語ったということになる。
となると、またぞろ信長の皇位簒奪だとかの早とちりの議論を誘発しそうだが、そうではないだろうと思う。信長はおそらく統一権力のなかに天皇も含めており、すなわち「大王権」の主宰者が自分であるという意味合いで使っているのではないか。

宣教師が価値づけした日本王権論は日本の研究状況とも合致している面が多く、今後、日本特殊論から脱却して、ヨーロッパやアジアとの比較王権論が可能であると、松本論文は締めくくる。
今後の展開が楽しみである。
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【2006/11/16 10:47】 | 信長
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「予が天皇である」
板倉丈浩
はじめまして。板倉と申します。
王権論は私も感心があってちょっと調べたことがあるのですが、確かにヨーロッパのキリスト教と封建国家の分析には有用なんでしょうけど、これを日本に適用しようとすると、各論者が言っていることがバラバラすぎますし、あまりうまくいっていないような気がします。

さて、問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王(皇)」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。
この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ・・・というのが私の印象です。

予が天皇である
桐野
板倉さま
はじめまして。
もしかして以前、ニフティとかでやりとりしたことがありませんでしたっけ?

コメント有難うございます。
「王権論」については、日本史研究者の間で定義の混乱があるのはたしかですね。「公儀」とか「国家」など別の言葉に置き換えてもさほど支障がない使い方をしている例があります。
松本論文は、それらを意識して、ある程度、「王権」の定義を絞り込んでいるように思われます。

それと、宣教師追放の綸旨ですが、おそらく永禄末年に、朝山日乗らの進言によって出されたことを指摘されたと思われます。
あのときは、フロイスらが信長に綸旨の撤回を懇願したので、信長は「汝らは気にするに及ばぬ。好きなようにてよい」という趣旨を述べて、信長は綸旨を否定しております。
信長の意向は天皇の綸旨や将軍の御内書よりも優越していたというのが実態だったろうと思います。
さらに、その後、イエズス会は信長の許可と支援により、洛中に南蛮寺をつくりました。
したがいまして、信長の意向が綸旨に優越しているのは明らかであり、天皇の宗教統制権が実際に機能したとは思えません。また、そうした権限を天皇がもっていたのかという根本的な疑義さえあるのですが、いかがでしょうか。






板倉丈浩
こんにちは。

>もしかして以前、ニフティとかでやりとりしたことがありませんでしたっけ?

ありゃりゃ。これは大変失礼しました(汗)
このハンドル、あちこちで使い回しているのですが・・・歴史部屋でしょうか。
いろいろ駄文・雑文・乱文を書き散らして、失礼なレスもあったとは思いますが、この場を借りてお詫び申し上げますm(_ _)m

>松本論文

意欲が行間からあふれ出てくるような論文で、好印象を受けました(^^
ただ、西洋人が王と呼んでいるから王権かというと、そうでもないんじゃないかなあと思っています。
西洋史だと、「王権」に対するのは「教皇権」や「封建的諸特権」であり、国王への権力集中のシステムが「王権」だったという理解をしているんで、違和感をどうしても感じてしまうのです。

>宣教師追放の綸旨

これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。その後、永禄12年4月に義昭・信長から相次いで京都居住の許可が出された後に、ご指摘の追放綸旨が発せられたのです。
また、信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから(フロイス日本史)、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。

>天皇の宗教統制権

宣教師による天皇への面会希望が、天正9年の京都馬揃えという、まさに信長の絶頂期に出されている点が重要です。信長の「自分が天皇だ」という回答に、宣教師側はとうてい納得できなかったものの、信長の性格を考えてあきらめたとしており、外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。

宗教統制権の所在
桐野
板倉さん、またコメント有難うございます。

松本論文も、誰かが「王」と呼ばれているから、「王権」という単純な議論ではないと思います。日本に「王権」が存在するなら、その構造や構成はどのようなものかを明らかにしようとしているように読めました。

>これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。

周知のように将軍義輝はキリシタンに寛容でしたから、この綸旨は義輝暗殺後の反動でもあったと思います。なお、信長上京以前の出来事ですから、信長が関知しないことですが。

キリシタン追放の綸旨の効力はやはり信長の権力の前には無力に等しかったと思います。京都・堺での南蛮寺の建立、安土でのセミナリオ建設など、信長のその後のキリシタン保護政策の展開は、朝山日乗の意図とは逆の形で既成事実化されています。これは綸旨の事実上の否定であり、それを信長が正面切って宣言しなかったのは朝廷の体面に配慮したからだと思います。

>宣教師による天皇への面会希望が、天正9年の京都馬揃えという、まさに信長の絶頂期に出されている点が重要です。

これは同年にたまたま東アジア巡察師のヴァリニャーノが来日したからでしょう。彼はイエズス会ではインド以東でもっとも高位の宣教師です。ですから、信長もしかるべく遇して、馬揃えの見学も許したのだと思います。
ヴァリニャーノは、日本に「rei」と「Vo」という二種類の「王」がおり、「rei」はたくさんいるが、「Vo」は天皇一人しかおらず、しかも、宣教師のみならず、ほとんどの日本人がまだ見たことがないという神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて、イエズス会の代表として挨拶しておくべきだと考えたのではないでしょうか。
信長がそれを断ったのはご推察のとおりだと思います。

>外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。

上記で述べたように、これは天皇が「Vo」という他の「王」と異なる格別の存在だったからではないでしょうか。ただ、その影響力が絶大だったことと必ずしもイコールではなかったような気がします。
たとえば、天正三年(1575)、常陸の天台宗と真言宗の間で絹衣相論という両宗派の地位の高低をめぐる訴訟がありました。最初、綸旨が発せられますが、まったく効力がなく、挙句は一方の取次の公家が買収されて綸旨の改竄までする始末で、綸旨の権威も何もありません。結局、朝廷が解決できなかったために、信長のところに訴訟が持ち込まれ、信長の裁定によって決着しました。
ことほど左様に、[宗教統制権」の所在が奈辺にあるか、明らかだと思います。この問題については以下の論文が参考になります。
堀新「織田信長と絹衣相論--関連史料の整理と検討」(『共立女子大学文芸学部紀要』51号、2005年)

いずれにせよ、「王権」をどうとらえるか難しいですね。西洋で確立した概念と、わが国の実態をどのように整合させるのか、理論的作業と史料的検討の双方が要求されそうです。



板倉丈浩
桐野さん、レスありがとうございます。

>日本に「王権」が存在するなら

ここが本当にポイントなんですが、松本論文は宣教師が王と呼んでいる事実の指摘に止まっているのが残念でした。「宣教師は自国の王との共通性を見い出していたはずである」と言われても、そうかなあ・・・って感じで。

>信長のその後のキリシタン保護政策の展開

仰るとおりなんですが、ただ「既成事実化」や「朝廷の体面に配慮」ということからして、この問題をウヤムヤにしたい、棚上げにしたいという信長の政治的意図があり、その延長線上で「予が天皇」という遁辞を弄するに至ったのではないでしょうか。

>神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて

興味本位というのはどうでしょう?
実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。

>絹衣相論

むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。

>理論的作業と史料的検討の双方が要求されそうです。

まったくそのとおりですね。
ここは松本氏が論文の最後で述べている「日本王権論を比較王権論として発展させたい」という言葉に期待したいところです(^ ^

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この記事へのコメント
「予が天皇である」
はじめまして。板倉と申します。
王権論は私も感心があってちょっと調べたことがあるのですが、確かにヨーロッパのキリスト教と封建国家の分析には有用なんでしょうけど、これを日本に適用しようとすると、各論者が言っていることがバラバラすぎますし、あまりうまくいっていないような気がします。

さて、問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王(皇)」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。
この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ・・・というのが私の印象です。
2006/11/29(Wed) 21:19 | URL  | 板倉丈浩 #-[ 編集]
予が天皇である
板倉さま
はじめまして。
もしかして以前、ニフティとかでやりとりしたことがありませんでしたっけ?

コメント有難うございます。
「王権論」については、日本史研究者の間で定義の混乱があるのはたしかですね。「公儀」とか「国家」など別の言葉に置き換えてもさほど支障がない使い方をしている例があります。
松本論文は、それらを意識して、ある程度、「王権」の定義を絞り込んでいるように思われます。

それと、宣教師追放の綸旨ですが、おそらく永禄末年に、朝山日乗らの進言によって出されたことを指摘されたと思われます。
あのときは、フロイスらが信長に綸旨の撤回を懇願したので、信長は「汝らは気にするに及ばぬ。好きなようにてよい」という趣旨を述べて、信長は綸旨を否定しております。
信長の意向は天皇の綸旨や将軍の御内書よりも優越していたというのが実態だったろうと思います。
さらに、その後、イエズス会は信長の許可と支援により、洛中に南蛮寺をつくりました。
したがいまして、信長の意向が綸旨に優越しているのは明らかであり、天皇の宗教統制権が実際に機能したとは思えません。また、そうした権限を天皇がもっていたのかという根本的な疑義さえあるのですが、いかがでしょうか。



2006/12/01(Fri) 00:46 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
こんにちは。

>もしかして以前、ニフティとかでやりとりしたことがありませんでしたっけ?

ありゃりゃ。これは大変失礼しました(汗)
このハンドル、あちこちで使い回しているのですが・・・歴史部屋でしょうか。
いろいろ駄文・雑文・乱文を書き散らして、失礼なレスもあったとは思いますが、この場を借りてお詫び申し上げますm(_ _)m

>松本論文

意欲が行間からあふれ出てくるような論文で、好印象を受けました(^^
ただ、西洋人が王と呼んでいるから王権かというと、そうでもないんじゃないかなあと思っています。
西洋史だと、「王権」に対するのは「教皇権」や「封建的諸特権」であり、国王への権力集中のシステムが「王権」だったという理解をしているんで、違和感をどうしても感じてしまうのです。

>宣教師追放の綸旨

これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。その後、永禄12年4月に義昭・信長から相次いで京都居住の許可が出された後に、ご指摘の追放綸旨が発せられたのです。
また、信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから(フロイス日本史)、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。

>天皇の宗教統制権

宣教師による天皇への面会希望が、天正9年の京都馬揃えという、まさに信長の絶頂期に出されている点が重要です。信長の「自分が天皇だ」という回答に、宣教師側はとうてい納得できなかったものの、信長の性格を考えてあきらめたとしており、外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。
2006/12/02(Sat) 17:15 | URL  | 板倉丈浩 #-[ 編集]
宗教統制権の所在
板倉さん、またコメント有難うございます。

松本論文も、誰かが「王」と呼ばれているから、「王権」という単純な議論ではないと思います。日本に「王権」が存在するなら、その構造や構成はどのようなものかを明らかにしようとしているように読めました。

>これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。

周知のように将軍義輝はキリシタンに寛容でしたから、この綸旨は義輝暗殺後の反動でもあったと思います。なお、信長上京以前の出来事ですから、信長が関知しないことですが。

キリシタン追放の綸旨の効力はやはり信長の権力の前には無力に等しかったと思います。京都・堺での南蛮寺の建立、安土でのセミナリオ建設など、信長のその後のキリシタン保護政策の展開は、朝山日乗の意図とは逆の形で既成事実化されています。これは綸旨の事実上の否定であり、それを信長が正面切って宣言しなかったのは朝廷の体面に配慮したからだと思います。

>宣教師による天皇への面会希望が、天正9年の京都馬揃えという、まさに信長の絶頂期に出されている点が重要です。

これは同年にたまたま東アジア巡察師のヴァリニャーノが来日したからでしょう。彼はイエズス会ではインド以東でもっとも高位の宣教師です。ですから、信長もしかるべく遇して、馬揃えの見学も許したのだと思います。
ヴァリニャーノは、日本に「rei」と「Vo」という二種類の「王」がおり、「rei」はたくさんいるが、「Vo」は天皇一人しかおらず、しかも、宣教師のみならず、ほとんどの日本人がまだ見たことがないという神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて、イエズス会の代表として挨拶しておくべきだと考えたのではないでしょうか。
信長がそれを断ったのはご推察のとおりだと思います。

>外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。

上記で述べたように、これは天皇が「Vo」という他の「王」と異なる格別の存在だったからではないでしょうか。ただ、その影響力が絶大だったことと必ずしもイコールではなかったような気がします。
たとえば、天正三年(1575)、常陸の天台宗と真言宗の間で絹衣相論という両宗派の地位の高低をめぐる訴訟がありました。最初、綸旨が発せられますが、まったく効力がなく、挙句は一方の取次の公家が買収されて綸旨の改竄までする始末で、綸旨の権威も何もありません。結局、朝廷が解決できなかったために、信長のところに訴訟が持ち込まれ、信長の裁定によって決着しました。
ことほど左様に、[宗教統制権」の所在が奈辺にあるか、明らかだと思います。この問題については以下の論文が参考になります。
堀新「織田信長と絹衣相論--関連史料の整理と検討」(『共立女子大学文芸学部紀要』51号、2005年)

いずれにせよ、「王権」をどうとらえるか難しいですね。西洋で確立した概念と、わが国の実態をどのように整合させるのか、理論的作業と史料的検討の双方が要求されそうです。
2006/12/03(Sun) 10:59 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
桐野さん、レスありがとうございます。

>日本に「王権」が存在するなら

ここが本当にポイントなんですが、松本論文は宣教師が王と呼んでいる事実の指摘に止まっているのが残念でした。「宣教師は自国の王との共通性を見い出していたはずである」と言われても、そうかなあ・・・って感じで。

>信長のその後のキリシタン保護政策の展開

仰るとおりなんですが、ただ「既成事実化」や「朝廷の体面に配慮」ということからして、この問題をウヤムヤにしたい、棚上げにしたいという信長の政治的意図があり、その延長線上で「予が天皇」という遁辞を弄するに至ったのではないでしょうか。

>神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて

興味本位というのはどうでしょう?
実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。

>絹衣相論

むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。

>理論的作業と史料的検討の双方が要求されそうです。

まったくそのとおりですね。
ここは松本氏が論文の最後で述べている「日本王権論を比較王権論として発展させたい」という言葉に期待したいところです(^ ^
2006/12/03(Sun) 16:09 | URL  | 板倉丈浩 #-[ 編集]
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