歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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太田牛一筆『信長記』諸本の調査を再開。

本日早朝、東京国立博物館に行き、所蔵の『信長公記』と甫庵『信長記』を閲覧、撮影。
応対してくれた研究員のTさんはとても親切な方で、いろいろ便宜を図っていただいた。多謝。

『信長公記』は黒川真頼所蔵のものか。
一部虫損があったが、とても保存状態がよかった。

全撮だったので、夕方までかかる。
初めて東博の研究部門に入館した。セキュリティも厳しい。スペース的には、以前お邪魔した京博のほうが広かったような気もする。

昼食は時間がなく、向かいの東京芸大の学食でとった。いかにも昔風の学食で非常に懐かしかった。

閉館まで1時間ほど余裕があったので、特別展の「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」 を駆け足で鑑賞した。さすがに1000年の歴史を誇る藤原北家・近衛家である。「御堂関白記」など目もくらむばかりの展示品だった。
ただ、織豊期は冷遇されていた感じ。書の三藐院流として知られる近衛信尹の書がとても多かった。信尹は前久の嫡男。先日、南日本新聞連載コラムにも薩摩への配流を書いたことがある。

明日もまた調査。
東急の五島美術館である。早起きしなければならない。
風邪気味の体にはこたえるなあ。

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【2008/01/22 23:13】 | 信長
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太田資方と「資房」
Tm.
桐野先生どうも。

その後もしつこく『中古日本治乱記』について調べておりますが、やはりどうも山中長俊を著者するのは疑わしく、なおかつその孫の著書かとみるのも難しいようです。

『中古』はその内容を見るに、『後太平記』に甫庵の『太閤記』を繋ぎ合わせたもであり、こと本能寺の変に関連する部分については、林羅山の『織田信長譜』(寛永18年・1641)の系譜に連なるものだと考えられます。

ただその上で注目されるのは、羅山の子の鵞峰が編纂した『本朝通鑑・続編』(寛文10年・1670)にも採録されていない織田権力と長宗我部氏の問題(※『元親記』寛永8年・1631)が収録されていることであり、また春日の局縁者の記述に詳しく、恵林寺の焼き討ちについてもかなりの紙面を割いている点が挙げられます。
前者には著者の情報収集力(情報源)について、後者にはその著述意図について考えさせられるものがあり、山中長俊の子孫にそれが有るのかというと分からないというか疑問です。

そこで視点を変え、長俊の朋友とされる「太田和泉守資方」に注目すれば、岡田正人氏の『織田信長総合事典』に牛一の諱として「資房」なるものが挙げられているのですが、それは「我自刊我書」の校者・甫喜山景雄の外題に拠るものであり、既に桑田忠親氏によって否定されているとのこと。
甫喜山が何に拠りそれを記したのかは不明ですが、同時に牛一を信長の祐筆としたのも彼であることから、それを思わせる「資房」名義の作品があったのではないかと思われ、それが磯部さんも指摘の和田さんの言われる『中古』なのではないでしょうか。

実を申せば、当初、自分は「太田和泉守資方」を牛一のことだとは思わず、太田資方なる人物についてネットで検索し探し当てていたのですが、存在年代の違いからその後、注目していなかったのですが、最近、改めて『寛政重修諸家譜』で確認したところ、「初名 資房」なる記述がありました。

ただしその資方については、延宝4年(1676)に家綱に15才で目通りし、元禄4年(1691)に30才で死去した位しか記されておらず、その他一切は不明です。
ただ注目されるのは、彼の祖父・資宗が羅山と共に『寛永諸家系図伝』(寛永20年・1643年)の編纂に携わっていたことであり、かなり強引に自家の系譜を改竄したとされます。
あくまで想像の範疇ですが、『中古』はその資方が祖父の功績(集めた資料)を踏まえ、山中長俊(と孫の関係)に仮託し作りあげたものであり、当初は「資房」名義でそれを著したのではないでしょうか。あるいは資宗が草稿を著し、孫の資方が成稿したということも考えられないでしょうか。

また『中古』に『明智軍記』(元禄15年・1702)の影響(光秀辞世の句など)が見られないことも、その成立時期の下限を窺えるのではないかと思われます。

別人?
桐野作人
Tm. さん、こんばんは。

調査お疲れさまです。

「太田和泉守資方」、『寛政譜』第四で私も確認しました。後北条氏旧臣のようですね。同書によれば、「資房」とも名乗っていた由。
太田牛一とは明らかに別人ですから、「中古」の考証も再検討の要がありそうですね。調査の進展をお祈りします。


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2008/01/23(Wed) 15:52 |   |  #[ 編集]
太田資方と「資房」
桐野先生どうも。

その後もしつこく『中古日本治乱記』について調べておりますが、やはりどうも山中長俊を著者するのは疑わしく、なおかつその孫の著書かとみるのも難しいようです。

『中古』はその内容を見るに、『後太平記』に甫庵の『太閤記』を繋ぎ合わせたもであり、こと本能寺の変に関連する部分については、林羅山の『織田信長譜』(寛永18年・1641)の系譜に連なるものだと考えられます。

ただその上で注目されるのは、羅山の子の鵞峰が編纂した『本朝通鑑・続編』(寛文10年・1670)にも採録されていない織田権力と長宗我部氏の問題(※『元親記』寛永8年・1631)が収録されていることであり、また春日の局縁者の記述に詳しく、恵林寺の焼き討ちについてもかなりの紙面を割いている点が挙げられます。
前者には著者の情報収集力(情報源)について、後者にはその著述意図について考えさせられるものがあり、山中長俊の子孫にそれが有るのかというと分からないというか疑問です。

そこで視点を変え、長俊の朋友とされる「太田和泉守資方」に注目すれば、岡田正人氏の『織田信長総合事典』に牛一の諱として「資房」なるものが挙げられているのですが、それは「我自刊我書」の校者・甫喜山景雄の外題に拠るものであり、既に桑田忠親氏によって否定されているとのこと。
甫喜山が何に拠りそれを記したのかは不明ですが、同時に牛一を信長の祐筆としたのも彼であることから、それを思わせる「資房」名義の作品があったのではないかと思われ、それが磯部さんも指摘の和田さんの言われる『中古』なのではないでしょうか。

実を申せば、当初、自分は「太田和泉守資方」を牛一のことだとは思わず、太田資方なる人物についてネットで検索し探し当てていたのですが、存在年代の違いからその後、注目していなかったのですが、最近、改めて『寛政重修諸家譜』で確認したところ、「初名 資房」なる記述がありました。

ただしその資方については、延宝4年(1676)に家綱に15才で目通りし、元禄4年(1691)に30才で死去した位しか記されておらず、その他一切は不明です。
ただ注目されるのは、彼の祖父・資宗が羅山と共に『寛永諸家系図伝』(寛永20年・1643年)の編纂に携わっていたことであり、かなり強引に自家の系譜を改竄したとされます。
あくまで想像の範疇ですが、『中古』はその資方が祖父の功績(集めた資料)を踏まえ、山中長俊(と孫の関係)に仮託し作りあげたものであり、当初は「資房」名義でそれを著したのではないでしょうか。あるいは資宗が草稿を著し、孫の資方が成稿したということも考えられないでしょうか。

また『中古』に『明智軍記』(元禄15年・1702)の影響(光秀辞世の句など)が見られないことも、その成立時期の下限を窺えるのではないかと思われます。
2008/01/23(Wed) 17:24 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
別人?
Tm. さん、こんばんは。

調査お疲れさまです。

「太田和泉守資方」、『寛政譜』第四で私も確認しました。後北条氏旧臣のようですね。同書によれば、「資房」とも名乗っていた由。
太田牛一とは明らかに別人ですから、「中古」の考証も再検討の要がありそうですね。調査の進展をお祈りします。
2008/01/23(Wed) 23:23 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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