歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今朝の南日本新聞サイトに面白い記事があった。ここです。

わが国最初の新婚旅行は、慶応2年(1866)、坂本龍馬とお龍夫妻による霧島湯治だといわれているが、それよりも前に小松帯刀夫妻が同じ霧島の栄之尾温泉に湯治旅行しており、これが龍馬夫妻より早いという主張のようである。

たしかに『小松帯刀日記』安政3年(1856)4月19日条に次のように書かれている。

「一、御トヽ様ニハ今日ヨリ踊之内栄之尾温泉エ御湯治トシテ六ツ過御船ヨリ御出ナリ、尤チカ(お近)ニモ御同道申上、差越候事、拙者ニハ来ル廿二日方ヨリ差越賦(つもり)ナリ」

小松の義父清穆が霧島の栄之尾温泉に湯治に出かけるので、お近も同道し、小松もあとから追いかけるという意味だろう。
実際、小松は22日に出かけ、5月5日まで湯治している。その後、2人とは別行動をとって、都城・安永・福山などを見学している。清穆とお近の父娘は5月10日まで栄之尾温泉で湯治してから帰郷したようである。

小松帯刀とお近が婚姻したのは安政3年正月頃と思われる。この霧島湯治はそれから3カ月後なので、新婚旅行といってもよいというわけだろう。もしそうなら、龍馬夫妻より10年も早いことになる。

ただ、この湯治じたい、小松の義父清穆のために企画されたもので、それに娘のお近と婿の帯刀が同道することになっただけで、夫婦2人の水入らずというわけではない。このあたりが少し弱いかもしれない。

もっとも、龍馬夫妻の鹿児島下向がそもそも新婚旅行なのか、またわが国初の新婚旅行なのか、疑問がないわけではない。
夫婦して湯治に出かけた事例は近世どころか、中世まで遡ってもあるのではないだろうか。

どっちが最初でもいいが、これを機に、歴史に興味をもったり、実際に史料にあたってみようという人が1人でも増えればいいなと思う。

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【2008/01/27 12:26】 | 幕末維新
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カミタク(リンク先は「坂本龍馬の日本初の新婚旅行の地)
【リンク報告】
 こんにちは。神山卓也
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
と申します。

 私が運営しております、鹿児島県内外の温泉と観光スポットとを紹介するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/K_RYOMA.HTM
から、貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

 『関ケ原島津退き口 敵中突破三〇〇里』拝読しました。島津退き口の背景事情に家久公に家督を相続させるために、義弘公がとらざるを得なかった立場があるとの仮説モデル、「そうだったのか」と思いながら読みました。先生の本を読みながら私は、島津久章の哀れな最期を思い浮かべていました。家久公の系統の血統の人達による、垂水島津家への憎悪の原点をかいまみたような気がしました。島津久章の最後については、先生も貴ブログで書いておられますよね。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-777.html

 私は東京が生まれ故郷で鹿児島を第2の故郷とする者であり、徳川も島津も両方共好きですので、従来の定説どおり伏見城を守るように家康から依頼されながら、鳥居に断られたという話が事実であって欲しいとは思いますが、「思い」で歴史を曲げてはいけないという点と、伏見城のエピソードは後日の島津側の釈明である可能性が高いことから、先生の仮説モデルは否定できないかも知れないとも思いました。

 何はともあれ、今後とも、よろしくお願い申し上げます。


有難うございます
桐野
神山卓也さん

コメント有難うございます。
熱心なご活動に敬意を表します。

また拙著、拙稿をお読みいただき、有難うございます。
仰せのとおり、垂水島津家は島津義久の血統だけに、いろいろな災難が降りかかっていますね。

義弘の退き口についてですが、伏見城の守備を家康から一度は命じられたのはたしかだと思います。その後の情勢変化と、義弘の兵力が少なかったことがあのような結果になったのでしょうね。

そういえば、来年は島津義久没後400周年です。義弘と異なり、注目度が少なく、おそらく何のイベントもないと思いますので、ぜひ神山さんに宣伝していただけたらと思います。


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 こんにちは。神山卓也
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
と申します。

 私が運営しております、鹿児島県内外の温泉と観光スポットとを紹介するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「「坂本龍馬・おりょうの日本初の新婚旅行(日本初のハネムーン)」ゆかりの観光スポット案内」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/K_RYOMA.HTM
から、貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

 『関ケ原島津退き口 敵中突破三〇〇里』拝読しました。島津退き口の背景事情に家久公に家督を相続させるために、義弘公がとらざるを得なかった立場があるとの仮説モデル、「そうだったのか」と思いながら読みました。先生の本を読みながら私は、島津久章の哀れな最期を思い浮かべていました。家久公の系統の血統の人達による、垂水島津家への憎悪の原点をかいまみたような気がしました。島津久章の最後については、先生も貴ブログで書いておられますよね。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-777.html

 私は東京が生まれ故郷で鹿児島を第2の故郷とする者であり、徳川も島津も両方共好きですので、従来の定説どおり伏見城を守るように家康から依頼されながら、鳥居に断られたという話が事実であって欲しいとは思いますが、「思い」で歴史を曲げてはいけないという点と、伏見城のエピソードは後日の島津側の釈明である可能性が高いことから、先生の仮説モデルは否定できないかも知れないとも思いました。

 何はともあれ、今後とも、よろしくお願い申し上げます。
2010/08/31(Tue) 23:14 | URL  | カミタク(リンク先は「坂本龍馬の日本初の新婚旅行の地) #O/BmnR6Q[ 編集]
有難うございます
神山卓也さん

コメント有難うございます。
熱心なご活動に敬意を表します。

また拙著、拙稿をお読みいただき、有難うございます。
仰せのとおり、垂水島津家は島津義久の血統だけに、いろいろな災難が降りかかっていますね。

義弘の退き口についてですが、伏見城の守備を家康から一度は命じられたのはたしかだと思います。その後の情勢変化と、義弘の兵力が少なかったことがあのような結果になったのでしょうね。

そういえば、来年は島津義久没後400周年です。義弘と異なり、注目度が少なく、おそらく何のイベントもないと思いますので、ぜひ神山さんに宣伝していただけたらと思います。
2010/09/02(Thu) 08:58 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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01.27記【新婚旅行、日本初は小松帯刀? かごしま探検の会 龍馬の10年前、霧
2008/01/28(Mon) 09:03:14 |  堂中日録
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