歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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小学館アカデミー古文書塾「てらこや」特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」

29日(火)夕方、第2回講座に出講。

今回のテーマは表題のとおり。
第1回が小松の出自や略歴などを押さえ、鹿児島時代から藩政への登場あたりをカバーした。だから、今回は本来なら、文久2年(1862)の島津久光の率兵上京と朝幕改革運動に焦点を当てるのが順当だがったが、『大久保利通関係文書』所収の小松文書を基本史料として扱うとしたら、同文書には小松の文久2年の書簡が1点もないのである。

おそらく、小松と大久保は京都でも江戸でもずっと一緒だったから、書簡をやりとりする必要がなったのだろうということを逆に気づかされた。文久2年における小松を知るには、別の史料にあたらないとならない。

そういうわけで、話が飛んで文久3年を読む。
実際に読めた文書は5点だけだった。そんなものだろう。
そのなかで、明らかに年次比定の違う文書を見つけた。久光を「中将公」と呼んでいるので、明らかに慶応元年以降でなければならない。私は慶応2年か3年ではないかと推定したが、受講者から明治初年ではないかというご指摘。
書簡中に出てくる中井弘は慶応年間には田中幸助と呼ばれており、中井に改姓するのは明治になってからとか、久光の明治2年上京の屋敷問題と平仄が合うのではというもっともなご指摘があり、明治2年で決まりだろうということになった。さすがにレベルの高い受講生のみなさんである。

今回の中心の話題は、久光の再度の上京と周旋活動の挫折についてだった。
久光の15ヵ条の改革案が朝廷を牛耳る尊攘派との全面対決になるため、近衛家や中川宮が久光案の上奏を渋って日和見したので、久光は失望して、わずか1週間ほどで帰国してしまう。

それと、この時期、松平春嶽が奉勅攘夷ができないなら政権を返上すべきだとして、政事総裁職を辞職している。春嶽の大政奉還論の論理がどのようなものであったか、『続再夢紀事』で確認しようとしたが、時間切れで一部しかできなかった。
この時期の春嶽は原則主義者だったように思われる。その分、政治的には淡泊で、山内容堂から辞職を「不忠不義の人」と非難されているほど。
しかし、春嶽の本意は大政奉還ではなく、将軍・幕府は大政奉還をするくらいの不退転の覚悟で臨まなければならないという逆説的な表現にも読めた。

次回は8・18政変あたりになりそうだ。

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【2008/01/31 18:38】 | てらこや
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