歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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以前から、連載中の「さつま人国誌」に書きたいと思っているテーマなのだが、それにふさわしい写真を所持していないために、ずっと書けないでいる。

猪熊事件は御存じの方もおいでだろうが、江戸時代初め、慶長年間に起きた有名な宮廷スキャンダル。
公家の少将猪熊教利らが起こしたので、その名前で呼ばれている。

この事件は、ときの後陽成天皇から関係者が勅勘を受け、徳川幕府も公家や女官を斬罪・配流などの処罰をした。女官は伊豆七島に流されたことは知られている。

そのうちの一人、左少将松木宗信は薩摩の硫黄島に配流と決まったが、島津家久の計らいにより、甑島に配流替えになったという。同じ離島でも、硫黄島より甑島のほうが本土に近く、島も大きく利便性があるという配慮だったのだろうか。

それはともあれ、松木宗信は甑島のうち、上甑島の里村で没している。墓は同村の西昌寺跡にあるらしいというところまではわかっている。もし彼を取り上げるなら、ぜひともこの写真がほしいのだが、残念ながら、甑島は未踏の地で、写真をもっていない。
もし松木宗信の墓の写真をお持ちの方がおいでなら、ぜひご一報下さいませ。相応のお返しをしますので。

それで、彼を取り上げる一番の理由だが、彼の末裔に有名な人物がいるからである。幕末から明治にかけて活躍した松木名字の薩摩藩士といえば……。
もうおわかりでしょう。

余談
島流しつながりでいえば、宇喜多秀家八丈島にある墓の写真をお持ちの方はおいでではないですか? 秀家も島津家に匿われているので、いつか取り上げたいと思っております。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2008/02/03 11:48】 | 戦国織豊
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崎陽・織田
桐野先生、今晩は。
いつも拝見させていただいております。
毎回、とても勉強になります。
さて、松木弘安の先祖がそんな人物だったとは驚きですが、
個人的には、弘安の養父・松木宗保(雲徳)の方が興味があります。シーボルトの高弟であった彼が、シーボルト事件の後も長崎にいたのは、なぜか。そこに島津重豪の意図があったのかが知りたいところです。面白い人物だとは思うのですが。

「松木」宗信
ばんない
…で調べたら最初分かりませんでした。中御門宗信と同一人物なんですね。猪熊事件は徳川幕府初頭の公家弾圧事件ですが、幕府のパフォーマンスにしたら、結構厳罰だったんですね。ほとんどの人が帰国できなかったとは。

松木宗信の写真はちょっと検索した限りでは出てきませんでしたが、宇喜多秀家は人気武将なので、岡山市の公式HPなどにも写真が載っていますね。八丈島の他に東京本土にもう一箇所招魂墓があるようですが。

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2家の中御門
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

猪熊事件は後陽成天皇が激怒し、穏便に取り計らおうとした幕府に対しても怒って、譲位するとまで言っていますから、家康も厳罰に処せざるをえなくなりましたね。

公家の中御門家は2つありますね。
ひとつは松木の別称をもつ中御門。こちらは系統でいえば、中御門流で「なかのみかど」と読みます。

もうひとつの中御門は文官系の勧修寺流の一流で、「なかみかど」です。

松木も本来は「まつのき」と読みますから、松木弘安も「まつのき・~」と呼ぶべきかもしれません。もっとも、配流ののち、読み方が変わったかもしれません。


宇喜多秀家の供養碑
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

思い出しました。
宇喜多秀家の供養碑は、板橋の近藤勇の墓(永倉新八が建立)の近くにあったと思います。
たしか、明治になってから、秀家の末裔が八丈島から戻ることができて、あの周辺に居住したのではなかったかと思います。

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松木の件
森重和雄
松木宗保は天保四年頃長崎行きを薩摩藩より拝命し天保一〇年以来かねて昵懇の上野俊之丞の旧宅を借りて住んでいました。


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2008/02/03(Sun) 23:07 |   |  #[ 編集]
桐野先生、今晩は。
いつも拝見させていただいております。
毎回、とても勉強になります。
さて、松木弘安の先祖がそんな人物だったとは驚きですが、
個人的には、弘安の養父・松木宗保(雲徳)の方が興味があります。シーボルトの高弟であった彼が、シーボルト事件の後も長崎にいたのは、なぜか。そこに島津重豪の意図があったのかが知りたいところです。面白い人物だとは思うのですが。
2008/02/03(Sun) 23:14 | URL  | 崎陽・織田 #-[ 編集]
「松木」宗信
…で調べたら最初分かりませんでした。中御門宗信と同一人物なんですね。猪熊事件は徳川幕府初頭の公家弾圧事件ですが、幕府のパフォーマンスにしたら、結構厳罰だったんですね。ほとんどの人が帰国できなかったとは。

松木宗信の写真はちょっと検索した限りでは出てきませんでしたが、宇喜多秀家は人気武将なので、岡山市の公式HPなどにも写真が載っていますね。八丈島の他に東京本土にもう一箇所招魂墓があるようですが。
2008/02/04(Mon) 17:11 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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2008/02/04(Mon) 22:09 |   |  #[ 編集]
2家の中御門
ばんないさん、こんばんは。

猪熊事件は後陽成天皇が激怒し、穏便に取り計らおうとした幕府に対しても怒って、譲位するとまで言っていますから、家康も厳罰に処せざるをえなくなりましたね。

公家の中御門家は2つありますね。
ひとつは松木の別称をもつ中御門。こちらは系統でいえば、中御門流で「なかのみかど」と読みます。

もうひとつの中御門は文官系の勧修寺流の一流で、「なかみかど」です。

松木も本来は「まつのき」と読みますから、松木弘安も「まつのき・~」と呼ぶべきかもしれません。もっとも、配流ののち、読み方が変わったかもしれません。
2008/02/04(Mon) 23:06 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
宇喜多秀家の供養碑
ばんないさん、こんばんは。

思い出しました。
宇喜多秀家の供養碑は、板橋の近藤勇の墓(永倉新八が建立)の近くにあったと思います。
たしか、明治になってから、秀家の末裔が八丈島から戻ることができて、あの周辺に居住したのではなかったかと思います。
2008/02/04(Mon) 23:38 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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2008/02/07(Thu) 09:11 |   |  #[ 編集]
松木の件
松木宗保は天保四年頃長崎行きを薩摩藩より拝命し天保一〇年以来かねて昵懇の上野俊之丞の旧宅を借りて住んでいました。
2009/12/29(Tue) 12:44 | URL  | 森重和雄 #-[ 編集]
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