歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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瀬戸内の海賊

瀬戸内海賊研究で知られる山内譲氏の昨年刊の著書である。
最近は古書ばかりに目がいって、新刊はついおろそかになりがちで、迂濶にも知らずにいた。これも新古書の形で購入したものである。

副題に「村上武吉の戦い」とあるように、三島村上水軍の総帥、村上武吉を中心にした叙述である。
最近、村上水軍の拙稿をまとめたことがあった。そのとき、山内氏の論考も参考させてもらい、大変勉強になった。

私はまったくの門外漢なので御説を拝聴するしかないが、村上武吉といえば、個人的に興味のあるテーマが二つある。

ひとつは、有名な厳島合戦に参戦したのかどうかという点。これは宇田川武久氏が村上水軍(来島と能島の両村上水軍)の不参戦説を唱えてから、自明のことと思われていたことに疑問符が投げかけられた。

この点について山内氏の結論は、
①一次史料に、能島村上氏の参戦を証明するものは確認できない。
②後世史料のうち、比較的信頼できる『森脇覚書』に能島・来島の両村上氏の参戦を記してある。
この①②が現在のところ整合しないので、性急な結論は保留し不明とするというものである。なお、山内氏は来島村上氏の参戦はほぼたしかではないかとしている。

ただ、①について、まったく一次史料がないと断言してよいものか。
毛利元就の嫡男隆元が村上武吉に宛てた感状があり、日付や知行給与の場所から見て、厳島合戦があった弘治元年(1555)のものである可能性がある。山内氏はこの史料には触れていない。
また、山内氏が信頼性が低いとした『万代記』(毛利直轄水軍の川ノ内警固衆の関係者によるもの)のなかに、元就が武吉に宛てた感状が収録されている。これは明らかに厳島合戦に関するものだが、山内氏から見ると、偽文書になるのだろうか?

次に、天正九年(1581)から翌十年初めにかけて、羽柴秀吉が来島村上氏を調略したのに伴って、武吉も調略したのではないかという点である。
これに関連して、福川一徳氏が「天正十年沖家騒動再考」(『四国中世史研究』7号、2003)という論考で、武吉押し込め説を発表した。能島村上氏のうち、武吉が秀吉の調略に応じたため、毛利方に味方する嫡男元吉らが一種の家中クーデターを起こして武吉を押し込め、無理やり元吉に家督相続させたという新説だった。

これに対して、山内氏は福川説とは逆に、元吉が秀吉の調略に応じそうになったため、武吉がこれを引き止めたとしている。
その論拠として、毛利輝元が側近の二宮就辰に宛てた書状を挙げている(『萩藩閥閲録』所収)。そのなかに「此方(毛利方)より心付うすく候故、元吉と家中の者ども腹立ちの由候」云々とある。非常に説得的な史料である。

もっとも、福川説を批判して元吉離反説を唱えたのは西尾和美氏が先である。西尾氏の最近の論考「織田政権の西国侵攻と瀬戸内海賊衆」(『松山東雲女子大学人文学部紀要』12巻、2004)がそうだが、拙稿執筆時点ではこれを知らずに福川説で書いてしまった。恥ずかしい。

西尾氏はこの論考を『戦国期の権力と婚姻』(清文堂出版、2005)に収録している。この本はたまたま別件で買ってもっていた。
それによれば、元吉が秀吉方に奔った来島村上氏と密接な関係にあり、行動を共にしていたが、最終的に父武吉の説得に応じる形で辛うじて毛利陣営に留まったという。
この問題は、西尾氏ならびに山内氏の元吉離反未遂説のほうが説得力がありそうである。

いずれにせよ、村上武吉のまとまった伝記が刊行されたことは喜ばしい。

瀬戸内の海賊―村上武吉の戦い―:講談社選書メチエ
著者:山内譲
発行年月日:2005/02/10
ISBN:4-06-258322-4
定価(税込):1,575円

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【2006/12/10 01:25】 | 戦国織豊
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