歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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大河ドラマ「篤姫」第6回「女の道」

今回、ドラマの本筋にはあまり関心がない。篤姫に菊本なる乳母がいたかどうか不明だし、ましてや自害など、原作のフィクションだから、無視。

史実と筋立てとのからみで、なかなか微妙で面白いコラボになっていたように思う。ただ、前回からそうだったが、時系列で多少の混乱があった。

ひとつは、ドラマの進行時点の年次が混乱していることである。
嘉永4年(1851)なのか、翌5年なのかという点。
斉彬の襲封は4年だし、ジョン万が琉球から薩摩の山川に上陸して、斉彬からじきじきに事情聴取されたのも、同4年である。
しかし、一方で、西郷吉之助が伊集院兼寛の姉と結婚するのは翌5年のことである。
わずか1年違いだが、同時進行しているのはやや奇異である。西郷の結婚の月日が明確ではないから、この程度の誤差は致し方ないかもしれないが。

今回、気づいた点。斉彬を中心になかなか興味深いセリフがあった。

1,斉彬が6人の子を失った点
 斉彬のしみじみとしたセリフだった。これは事実である。突っ込まれないように万全な手配がしてあった(笑)。亡くなった子どもたちの内訳。上から、

長男菊三郎:1歳(生後1カ月ほど)
長女澄姫:4歳
二女邦姫:3歳
二男寛之助:4歳
三男盛之進:4歳
四男篤之助:2歳

ことごとく、夭逝である。斉彬がお由羅の呪詛を信じたくなるのもわかる。
健在だったのは、

五男虎寿丸:3歳 斉彬襲封と共に世子となる
三女暐姫:嘉永4年だから生まれたばかり

虎寿丸は歴代島津家では世子に付ける幼名だが、斉彬の期待も空しく、3年後に没。
なお、暐姫は健在で、斉彬の跡を継いだ茂久(のち忠義)と婚姻。


2,斉彬の母、賢章院夫人
 斉彬が篤姫に「母に似ている、賢明で本好きで自分の甲冑まで持っていた」と懐かしそうに話していた。その母が賢章院夫人で、因幡鳥取藩主池田斉邦の妹・弥姫。
 この話はほぼ史実だろう。池田俊彦『島津斉彬公伝』(中公文庫)には次のようにある(出典はおそらく『賢章院夫人遺芳録』だと思うが、未見)。

「賢章院夫人の島津家に入輿ありし折、島津家の役人達を驚かさしめしたことは、その持参せる道具の中に本箱がたくさんありて、中に四書、左伝、史記、漢書など経書史伝の漢籍の書余多(あまた)ありし外に、鎧櫃に具足まで入れてあったことである」

「当時の諸侯や高貴の家庭においては、子供の生るるやいずれも乳母を置きて子女の養育を託するのが一般の習いであったので斉彬の生れし時も、奧女中をはじめとして御側役の人々、いずれも乳母を置くことを勧めたが、賢章院はその勧めを斥けて、お乳を呑ませることから、おむつを取り換えることまで一切を自身でなされたということである」


また斉彬の元服から、たしか3年後に賢章院夫人が亡くなったと語っていたが、これも史実である。


3,島津忠教の重富引きこもり 
 斉彬と忠教(のち久光)兄弟のかなり率直な、本音をぶつけた会話があった。そんな会話をしたのかどうかわからないが、忠教が役職を辞して重富に引きこもると言い出し、斉彬が慰留していた。斉彬が気にしていたのは、養女に忠教の一女哲姫ではなく篤姫を選んだことと、ジョン万の海防策を採用して、忠教の策を斥けたことの2点だったように思う。

哲姫の一件については、斉彬も気にしている形跡がある。斉彬が幕府奥医師の多紀元堅に宛てた書簡には「周防(忠教)娘を差し置き、安芸(忠剛)娘実子届の処、同苗(斉興)の所存計り難し」とあり、哲姫を選ばなかったことに隠居の斉興が気を悪くするのではないかと考えていたようである。

哲姫こと於哲は篤姫と同年代くらいに描かれていたが、篤姫より4歳年下だから13歳。そのように見えたかどうか微妙だった。篤姫が養女となった以上、もう出番はないだろう。

もう一点の海防策だが、果たしてあそこまでジョン万の意見が取り入れられたばかりか、藩内の砲台建設まで従事したかどうかは疑問。
忠教については、まだ斉興が藩主だった頃、嘉永元年(1848)4月に家老座出仕が許され、席次も城代家老の上席という最高位だった。
さらに同年11月、藩主斉興が江戸在府のときは、忠教が名代として「海岸防禦筋之儀」を指揮するよう命じられている(『島津久光公実紀』一)。
これは、当時、琉球に英仏の艦船が寄航したばかりか、乗組員がずっと上陸したまま逗留していることを幕府が重視しており、薩摩藩に海防強化を命じていたことが背景にあると思われる。

斉彬が襲封し、在国している以上、忠教はその任を自然と解かれたのではないかと思われるが、於哲の一件やジョン万のもつ海外事情とを結びつけたのは、なかなかの筋立てだったように思える。


4,篤姫は実子届
 そしてこれが一番肝心な点だが、上に述べたように、篤姫は実子として幕府に届けられた。それは篤姫を御台所に入れたいという斉彬の野望ゆえであろう。もし斉彬の養女なら、御台所になる場合、広大院(将軍家斉の御台所)の先例のように近衛家の養女となったとき、「又養女」になることが、御台所の格式として不足だという判断だったからである。
したがって、斉彬は以後、篤姫を実子として押し通し、家中にも箝口令を敷くことになる。

養女か実子届かというのは非常に重要な点なので、それが描かれなかったのはやや不満。次回にどのように描かれるか注目したい。

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【2008/02/10 22:11】 | 篤姫
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斉彬の子供達と斉彬の幼名
ばんない
こんばんは。
斉彬の子供達についての話題がでたので便乗して、かなり初心者な疑問があります。

「虎寿丸」は確かに島津家嫡子につけられる幼名なのですが、
斉彬は正室腹の長男で正真正銘の嫡子なのに、確かこの幼名ではなかったと記憶しています。その理由は判明しているのでしょうか。

また、斉彬は5番目の男子にようやくこの嫡子につける幼名をつけるのですが、この5番目の男子の母親が一橋家から来た正室だったんでしょうか。
1番目の男子が、島津忠良の幼名と同じ菊三郎というのも気になります。こちらのほうは深く考えすぎでしょうかね?


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ぶるぼん
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島津家の命名法
桐野作人
ばんないさん、おはようございます。

島津家の子弟についての命名法、たしかに一部よく分からない点はありますね。
ご指摘の斉彬の幼名も虎寿丸ではなくて、邦丸なのはやや不審です。

島津家の場合、世子の命名法の規範として史料的に遡れる先例は貴久の虎寿丸→又三郎だと思います。何といっても、伊作=相州島津家が守護職を継いだ吉例ですからね。

その後、正真正銘の世子(必ずしも正室腹とは限りません)は原則として、虎寿丸→又三郎と命名されるという一種の法則性があります。江戸時代だと、光久・綱久(襲封せず)・綱貴・斉宣あたりが該当します。

面白いのは斉興で、当初幼名は憲之助ですが、ほどなく虎寿丸となり、元服して又三郎を名乗ります。幼名が2つあるのは、斉興が鹿児島で生まれた側室腹で、しばらくたってから世子とされたため、虎寿丸に幼名変更がなされたのだと思います。

このように、法則性といっても逸脱や例外はあるようです。では、斉彬の事例はどうかということですが、正室腹で江戸生まれという正真正銘の世子なのに、虎寿丸を名乗らなかった理由は何かということになりますね。

ひとつ考えられるのは、たとえ嫡男とはいえ、虎寿丸と名づけられるのは、世子として心身共に健やかなであることを、ある程度時間の経過により見定めてから命名されるかもしれないという点と、斉彬の場合は世子となったのがわずか3歳と、異常に早い点を考える必要があるかも。

世子のほとんどが10歳を過ぎて元服し、又三郎を名乗ってから世子となっているのにくらべると、斉彬の早さが際立ちます。
それだけ、斉興の斉彬への期待が高かったことをうかがわせます。あるいは曾祖父重豪の意向かもしれませんが。
世子指名が早かったというのが邦丸→又三郎という逸脱となり、虎寿丸を名乗るいとまがなかったのかもと考えますが、どうでしょうかね。

あと、斉彬の男子についてですが、
長男菊三郎は正室腹ですから、虎寿丸と名乗っていいはずですが、名乗っていません。考えるに、わずか40日足らずで夭逝したからではないかと。おそらく菊三郎は没後の命名じゃないかと思います。没した時点で世子ではなくなるので、当然虎寿丸は付けられなかったのでは。
その後、寛之助、盛之進、篤之助と生まれますが、いずれも側室腹で、虎寿丸候補ではなかったと思います。

そして、五男虎寿丸は側室腹(田宮氏)ではありますが、4人の男子に先立たれた斉彬も今度こそは是が非でも跡取りにという、なりふり構わぬ願いを込めて、命名されたのではないでしょうか。これも親の心がなせる逸脱ではないかと思います。

そして末子で六男の哲丸ですが、わずか2歳(実質半年)で世子に指名されます。これも斉彬のワラをもすがる思いでしょうね。これも斉彬の事例と同じように、世子したのが早かったので、虎寿丸と命名するいとまがなかったのでは……。

法則性からはずれる逸脱や例外をとりあえず、以上のような大胆な臆測で書いてみました。
ばんないさんのご意見をお聞かせ願えればと思います。


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桐野作人
ぶるぼんさん、こんにちは。

私には仕組みがよくわかりませんが、とにかくトラックバックが張れる方法がわかってよかったですね。
これからもよろしくお願いします。


三郎
ばんない
特に反論はありません、というか余りその辺りは詳しくないのでつっこまれても反論のしようがない(汗)ご返答ありがとうございました。

桐野さんご指摘の斉興は、興味深い事例と考えます。他の「虎寿丸」が正室腹、或いは比較的身分の高い側室出生などであるのに対し、斉興の生母・鈴木氏女は江戸の浪人の娘であり(勿論その前にしかるべき旗本の養女になっていますが)、それが家臣の間でやり玉に挙がったこともあるようです。
また、先日『お家相続』(大森映子著 角川新書)という本を読んだのですが、江戸大名は早々と世子を指名すると、彼が夭折した場合に末期養子を指名しにくくなる、下手すると御家取りつぶしにつながりかねないなどの弊害があるため、なかなか実子の披露も出来にくかったという事情が紹介されていました。なので、正室出生とはいえ、斉彬が3歳で公式に世子となったのはかなり珍しい例になるのでしょうね。ただ、世子になったときは「虎寿丸」改名の機会だったのに、という疑問は残ります。

ところで、「虎寿丸」と共に島津家世子を象徴する名前であった字「又三郎」ですが、島津久光が一時期「三郎」という字を名乗っていますね。既にこの点については個人サイト(URL参照)など、指摘されている方は多いようですが、これについて学術的な検証がされたことはあるのでしょうか。

陪臣名乗りはイヤ
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

久光の「和泉」から「三郎」への改称について。
一言でいえば、理由は表題のとおりだと思います。

『島津久光公実紀』一、文久2年5月11日条に記事があります。
「近衛家ノ垂示」により改めたとあり、その理由はやはり老中水野和泉守(忠精)と重複するので改めたらどうかと言われたからとあります。
ただ、近衛家からの提案は文書ではなく、「口述」だったとして、それを書き留めています。史料的な信頼性としてはやや?です。

それで一応、『~実紀』には「三郎」が「島津家嫡統ノ通称ナリ」とたしかに書いてあります。
しかし、「嫡統ノ通称」というのはどうですかね。貴久以降は前回書いたように、「又三郎」こそ「嫡統」ですし、貴久以前は「又三郎」と「三郎左衛門尉」が混在しています。
おそらく「三郎左衛門尉」の略称という位置づけのつもりだったのでしょうか? そして世子が名乗る「又三郎」を名乗れないがゆえの、苦肉の選択だったのではないでしょうか。

しかし、私はそこに問題の本質はないと思っています。要するに、久光が薩摩守や修理大夫はおろか、大隅守も名乗れない点こそが重要だと思います。

この問題は、近世武家官位制の視点から見るべきだと思っています。本来なら、修理大夫や薩摩守は島津家が排他的に独占する名乗り(通称官名)ですから、よそからあれこれ言われる筋合いはありません。
久光が藩主でないから、それらの名乗りが不可能であることと、「和泉」が「和泉守」ではないことが重要です。
「~守」といった受領名は通称官名で、五位(叙爵)の諸大夫か、侍従以上の公家成の大名や一部旗本の名乗りです。

久光は島津一門つまり、徳川将軍家から見たら陪臣なので、叙爵できず、「~守」と名乗れないのです。「和泉」はあくまで国名であり、国司名ではありません。そして、国名の名乗りは大名家の一門や家老といった陪臣を表象する通称です。

問題の本質はここにあります。「和泉」がダメなら、なぜ「薩摩」なり他の国名(国司名ではなく)を名乗らなかったのか。答えは簡単です。「薩摩」も国名であり、陪臣の称号であることには変わりないからです。

だから、こうした近世武家官位制の規制から離脱するために、久光は「三郎」を名乗ったのだと思います。
これだと、大名か陪臣かの区別がにわかにはつきません。もっとも、ふつう大名か世子が三郎もしくは三郎左衛門といった通称を名乗るのは将軍に御目見する以前の若年の通称なんですけど、久光はそれでも、陪臣扱いよりましだという判断で、三郎を名乗ったのだと思います。
そして、後づけの理屈として、「三郎(左衛門尉)」は「島津家嫡統ノ通称」だと正当化する必要が生じたのではないでしょうか。

以上が私の考えているところです。



ばんない
ご返答ありがとうございます。

息子で藩主の茂久(後の忠義)にかわって京や江戸に出張っている出たがりで気位の高い(苦笑)久光ですから、陪臣の名乗りがイヤだったというのは分かるんです。
桐野さんは大した問題ではないと思ってらっしゃるようですが、些末なことかもしれませんが「一郎」などではなく、嫡子名の「又三郎」「三郎左衛門尉」を発想させる「三郎」を選んだその真意が気になります。私程度の人間でも気になるのですから、当時の藩士にはかちんと来た人も多かったのではないかと思うのですが、考えすぎでしょうか。「三男だったから三郎なんだよ」と久光なら言いそうですが、実際は五男だったと思うのですが。「五郎」は嫌だったんでしょうかね。

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斉彬の子供達と斉彬の幼名
こんばんは。
斉彬の子供達についての話題がでたので便乗して、かなり初心者な疑問があります。

「虎寿丸」は確かに島津家嫡子につけられる幼名なのですが、
斉彬は正室腹の長男で正真正銘の嫡子なのに、確かこの幼名ではなかったと記憶しています。その理由は判明しているのでしょうか。

また、斉彬は5番目の男子にようやくこの嫡子につける幼名をつけるのですが、この5番目の男子の母親が一橋家から来た正室だったんでしょうか。
1番目の男子が、島津忠良の幼名と同じ菊三郎というのも気になります。こちらのほうは深く考えすぎでしょうかね?
2008/02/10(Sun) 23:53 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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2008/02/10(Sun) 23:53 | URL  | ぶるぼん #41Gd1xPo[ 編集]
島津家の命名法
ばんないさん、おはようございます。

島津家の子弟についての命名法、たしかに一部よく分からない点はありますね。
ご指摘の斉彬の幼名も虎寿丸ではなくて、邦丸なのはやや不審です。

島津家の場合、世子の命名法の規範として史料的に遡れる先例は貴久の虎寿丸→又三郎だと思います。何といっても、伊作=相州島津家が守護職を継いだ吉例ですからね。

その後、正真正銘の世子(必ずしも正室腹とは限りません)は原則として、虎寿丸→又三郎と命名されるという一種の法則性があります。江戸時代だと、光久・綱久(襲封せず)・綱貴・斉宣あたりが該当します。

面白いのは斉興で、当初幼名は憲之助ですが、ほどなく虎寿丸となり、元服して又三郎を名乗ります。幼名が2つあるのは、斉興が鹿児島で生まれた側室腹で、しばらくたってから世子とされたため、虎寿丸に幼名変更がなされたのだと思います。

このように、法則性といっても逸脱や例外はあるようです。では、斉彬の事例はどうかということですが、正室腹で江戸生まれという正真正銘の世子なのに、虎寿丸を名乗らなかった理由は何かということになりますね。

ひとつ考えられるのは、たとえ嫡男とはいえ、虎寿丸と名づけられるのは、世子として心身共に健やかなであることを、ある程度時間の経過により見定めてから命名されるかもしれないという点と、斉彬の場合は世子となったのがわずか3歳と、異常に早い点を考える必要があるかも。

世子のほとんどが10歳を過ぎて元服し、又三郎を名乗ってから世子となっているのにくらべると、斉彬の早さが際立ちます。
それだけ、斉興の斉彬への期待が高かったことをうかがわせます。あるいは曾祖父重豪の意向かもしれませんが。
世子指名が早かったというのが邦丸→又三郎という逸脱となり、虎寿丸を名乗るいとまがなかったのかもと考えますが、どうでしょうかね。

あと、斉彬の男子についてですが、
長男菊三郎は正室腹ですから、虎寿丸と名乗っていいはずですが、名乗っていません。考えるに、わずか40日足らずで夭逝したからではないかと。おそらく菊三郎は没後の命名じゃないかと思います。没した時点で世子ではなくなるので、当然虎寿丸は付けられなかったのでは。
その後、寛之助、盛之進、篤之助と生まれますが、いずれも側室腹で、虎寿丸候補ではなかったと思います。

そして、五男虎寿丸は側室腹(田宮氏)ではありますが、4人の男子に先立たれた斉彬も今度こそは是が非でも跡取りにという、なりふり構わぬ願いを込めて、命名されたのではないでしょうか。これも親の心がなせる逸脱ではないかと思います。

そして末子で六男の哲丸ですが、わずか2歳(実質半年)で世子に指名されます。これも斉彬のワラをもすがる思いでしょうね。これも斉彬の事例と同じように、世子したのが早かったので、虎寿丸と命名するいとまがなかったのでは……。

法則性からはずれる逸脱や例外をとりあえず、以上のような大胆な臆測で書いてみました。
ばんないさんのご意見をお聞かせ願えればと思います。
2008/02/11(Mon) 10:56 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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ぶるぼんさん、こんにちは。

私には仕組みがよくわかりませんが、とにかくトラックバックが張れる方法がわかってよかったですね。
これからもよろしくお願いします。
2008/02/11(Mon) 11:15 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
三郎
特に反論はありません、というか余りその辺りは詳しくないのでつっこまれても反論のしようがない(汗)ご返答ありがとうございました。

桐野さんご指摘の斉興は、興味深い事例と考えます。他の「虎寿丸」が正室腹、或いは比較的身分の高い側室出生などであるのに対し、斉興の生母・鈴木氏女は江戸の浪人の娘であり(勿論その前にしかるべき旗本の養女になっていますが)、それが家臣の間でやり玉に挙がったこともあるようです。
また、先日『お家相続』(大森映子著 角川新書)という本を読んだのですが、江戸大名は早々と世子を指名すると、彼が夭折した場合に末期養子を指名しにくくなる、下手すると御家取りつぶしにつながりかねないなどの弊害があるため、なかなか実子の披露も出来にくかったという事情が紹介されていました。なので、正室出生とはいえ、斉彬が3歳で公式に世子となったのはかなり珍しい例になるのでしょうね。ただ、世子になったときは「虎寿丸」改名の機会だったのに、という疑問は残ります。

ところで、「虎寿丸」と共に島津家世子を象徴する名前であった字「又三郎」ですが、島津久光が一時期「三郎」という字を名乗っていますね。既にこの点については個人サイト(URL参照)など、指摘されている方は多いようですが、これについて学術的な検証がされたことはあるのでしょうか。
2008/02/11(Mon) 16:39 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
陪臣名乗りはイヤ
ばんないさん、こんにちは。

久光の「和泉」から「三郎」への改称について。
一言でいえば、理由は表題のとおりだと思います。

『島津久光公実紀』一、文久2年5月11日条に記事があります。
「近衛家ノ垂示」により改めたとあり、その理由はやはり老中水野和泉守(忠精)と重複するので改めたらどうかと言われたからとあります。
ただ、近衛家からの提案は文書ではなく、「口述」だったとして、それを書き留めています。史料的な信頼性としてはやや?です。

それで一応、『~実紀』には「三郎」が「島津家嫡統ノ通称ナリ」とたしかに書いてあります。
しかし、「嫡統ノ通称」というのはどうですかね。貴久以降は前回書いたように、「又三郎」こそ「嫡統」ですし、貴久以前は「又三郎」と「三郎左衛門尉」が混在しています。
おそらく「三郎左衛門尉」の略称という位置づけのつもりだったのでしょうか? そして世子が名乗る「又三郎」を名乗れないがゆえの、苦肉の選択だったのではないでしょうか。

しかし、私はそこに問題の本質はないと思っています。要するに、久光が薩摩守や修理大夫はおろか、大隅守も名乗れない点こそが重要だと思います。

この問題は、近世武家官位制の視点から見るべきだと思っています。本来なら、修理大夫や薩摩守は島津家が排他的に独占する名乗り(通称官名)ですから、よそからあれこれ言われる筋合いはありません。
久光が藩主でないから、それらの名乗りが不可能であることと、「和泉」が「和泉守」ではないことが重要です。
「~守」といった受領名は通称官名で、五位(叙爵)の諸大夫か、侍従以上の公家成の大名や一部旗本の名乗りです。

久光は島津一門つまり、徳川将軍家から見たら陪臣なので、叙爵できず、「~守」と名乗れないのです。「和泉」はあくまで国名であり、国司名ではありません。そして、国名の名乗りは大名家の一門や家老といった陪臣を表象する通称です。

問題の本質はここにあります。「和泉」がダメなら、なぜ「薩摩」なり他の国名(国司名ではなく)を名乗らなかったのか。答えは簡単です。「薩摩」も国名であり、陪臣の称号であることには変わりないからです。

だから、こうした近世武家官位制の規制から離脱するために、久光は「三郎」を名乗ったのだと思います。
これだと、大名か陪臣かの区別がにわかにはつきません。もっとも、ふつう大名か世子が三郎もしくは三郎左衛門といった通称を名乗るのは将軍に御目見する以前の若年の通称なんですけど、久光はそれでも、陪臣扱いよりましだという判断で、三郎を名乗ったのだと思います。
そして、後づけの理屈として、「三郎(左衛門尉)」は「島津家嫡統ノ通称」だと正当化する必要が生じたのではないでしょうか。

以上が私の考えているところです。
2008/02/11(Mon) 17:54 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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息子で藩主の茂久(後の忠義)にかわって京や江戸に出張っている出たがりで気位の高い(苦笑)久光ですから、陪臣の名乗りがイヤだったというのは分かるんです。
桐野さんは大した問題ではないと思ってらっしゃるようですが、些末なことかもしれませんが「一郎」などではなく、嫡子名の「又三郎」「三郎左衛門尉」を発想させる「三郎」を選んだその真意が気になります。私程度の人間でも気になるのですから、当時の藩士にはかちんと来た人も多かったのではないかと思うのですが、考えすぎでしょうか。「三男だったから三郎なんだよ」と久光なら言いそうですが、実際は五男だったと思うのですが。「五郎」は嫌だったんでしょうかね。
2008/02/12(Tue) 18:28 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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