歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

NHK大河ドラマ「篤姫」第7回「父の涙」

う~ん、老女菊本の死はいくら考えても納得できませんな。
自分の身分が低いことで、篤姫が本家の養女になるのに障りになるという理屈は、原作者のひとりよがりにしか見えませんね。

乳母や老女の身分が低いのは当たり前。
島津斉興の側室お由羅は町人出身ですよ。菊本は痩せても枯れても武家の出でしょうに。

それに徳川将軍家なぞは、謀反人の娘である女性を将軍世子の乳母にしましたぞ。春日局は家光が将軍になったとき、自害しましたっけね? 晴れある将軍になられたからには、謀反人の娘である私が乳母でいることは将軍家の体面を汚すことになると言ったという話はついぞ聞きませんぞ。
あるいは、篤姫が本家の養女(本当は実子扱いですが)になったあと、役作り上で扱いかねたという裏事情でもあるんですかね?

あと、ストーリー的には、篤姫の母がくれた仏像がいまいち活かせなかったのでは。
あの胎内に焼き捨てたはずの菊本の篤姫宛て遺書が隠されているのかと思いましたが、ありませんでしたね。むしろ、ストーリー的にはそのほうが面白いと思いますが、遺書で篤姫を説得できるだけの理屈が拵えられなかったのではないかと邪推してしまいますな。


それはさておき、史実方面に少し触れると、

篤姫の実子届が嘉永6年(1853)3月には幕府に出されます。
島津斉彬がはじめてお国入りした天保6年(1835)に国許でできた実子だという仕掛けです。
この無理やりの帳尻合わせのため、篤姫の生年が翌7年にされている史料もあるから、面白いです。

あと、篤姫を本家に迎え入れる使者として、竪山武兵衛利武が登場しましたね。
この人は斉彬の側用人で、「竪山利武公用控」(『斉彬公史料』四所収)という貴重な記録を残しています。
この記録には「御一条初発より之大意」という史料が含まれています。篤姫の入輿一件についての詳細な記録です。どうも、斉彬本人が書いたようにみえます。

とくに有名な個所は、徳川将軍家が将軍家斉の御台所広大院(島津重豪の娘)の縁辺を世子家祥(のち家定)の継室にしたいという意向を示した部分。「京都の方はお好みにもあらせられず」。要するに、摂関家の御台所2人に相次いで先立たれた家祥が「京都の娘はもうこりごりじゃ」と言ったことが、篤姫入輿につながるわけです。

竪山利武は斉彬死後、茂久(のち忠義)の代に側役まで出世しています。もっとも、政治的には保守派に属したようで、何となく斉興に近い立場のようですね。


肝付尚五郎が最後の挨拶に今和泉家を訪れたとき、提灯の家紋が少し気になりました。
『薩陽武鑑』には、肝付家の家紋が2種類あって、有名な「鶴の丸」と、もうひとつ、丸に4つの渦か雲状の小丸が付いている家紋があるんですが、家紋にはうとくて何という紋なのかわかりません。提灯に付いていた家紋はこちらのほうでしたね。
鶴は肝付家にとって縁起のいいものです。伝承によれば、老松に2羽の鶴が舞いおりてきて、その脚下に赤ん坊が笑っていたそうな。その子が成長して肝付家の祖になったそうです。
また戦国時代、島津家と肝付家が断交したきっかけになったのも、この鶴の家紋でした。よかったら、拙著『島津義久』(PHP文庫)をご覧下さい。

なお、肝付尚五郎の実家の肝付家は上記の肝付家の本家ではありません。
本家は島津家に敵対したこともあって、江戸時代初期に衰退しています。
尚五郎の家は、その分家で、早くから島津家に服属して老中(家老)を出した家柄です。
もっとも、戦国時代、新たな島津宗家となった貴久・義久には一時逆らっていますが、すぐ和睦しました。
肝付家の本家と分家は島津家に対する態度が好対照だったために明暗が分かれました。江戸時代は分家の肝付家のほうが盛大で、代々家老を出し、禄高も5000石以上という立派な門閥家(一所持)です。

もうひとつ、今和泉家の晩餐で、篤姫の兄2人が相伴しておりました。
長男忠冬と、三男忠敬です。
忠敬はよく出てきましたが、忠冬は珍しかったですね。たしか病弱な人だったと思います。

じつは、篤姫にはもう一人の兄、又七郎久敬がいます。二男だったと思われます。
でも、出ていませんでしたね。
時期はよくわかりませんが、久敬は永吉島津家の養子になっています。
永吉家はご存じの方もおいででしょうが、戦国期の島津四兄弟の末弟、中務大輔家久の子孫の家です。その子豊久が関ヶ原で討死して、いったん佐土原島津家は断絶しましたが、永吉島津家という形で再興されました。
この久敬、じつは相当の放蕩者だったようで、藩命により強制的に隠居させられています。
『島津斉彬言行録』(岩波文庫)に次のような記述があります。

「久敬、初め造酒又七郎、実は今和泉郷の領主島津忠剛二男なり、この者倫理を乱りたる罪により退隠命ぜられ、而して末家島津権五郎久籌に相続命ぜられたり」

これは斉彬が家中の門閥家の風紀が乱れているのを粛正した事例として挙げられています。事例は篤姫の兄久敬だけですから、よほど目立った不祥事だったのでしょう。ですから、今和泉家にも養子先の永吉家にも相当不名誉だったと思われます。
まあ、この兄が出てこないわけもよくわかりますね(笑)。

次回から江戸行きですね。
ペリー艦隊が来るし、将軍家慶は亡くなるし、安政の大地震は起きるし、御台所になるまでの篤姫の前途は多難です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2008/02/17 22:29】 | 篤姫
トラックバック(1) |

知られざる島津家「永吉島津家」幕末編
ばんない
今晩は。観賞お疲れさまです

篤姫の次兄の話、興味深く拝見しました。…酷い人だったようで(苦笑)。
永吉島津家は明治維新後も他の一門衆が華族になる中、華族になれずに(たぶん領地返上前の石高が1万石に達していなかったからだと思われますが)、その後口永良部島に一族移住してしまったと言う、かなり異色の島津分家ですね。現在のご子孫がどうしているかまでは調査が及ばず存じません。しかし、離島への移住という決断をした背景には、篤姫次兄の放蕩などもあったのでしょうか。


口永良部島!
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

永吉家は口永良部島まで行ってしまったのですか。
知りませんでした。どんな事情があるんでしょうね。

それはさておいても、永吉家は爵位を与えられる資格はもともとなかったと思います。
島津家で爵位を得られたのは、宗家、久光家、佐土原家のほかは、いわゆる八家(一門四家と宮之城・都城・日置・花岡)、それに久光と忠義の庶子のみです。
あっ、それに種子島家も別格の家柄ということで、爵位をもらってます。

永吉家は八家より家格が下ですしね。

なお、八家のうちで、花岡家だけが爵位(男爵)をもらえる資格があったのに、事情があって放棄してますね。


口永良部島
ばんない
こんばんは。

永吉島津家の口永良部島移住は『「さつま」の姓氏』(川口大十著)に出てくる話で、その事情にどんな物があったのかは記述が無く不明です。
以前、「佐多」さんが伊勢氏の零落についてこのブログのコメントで詳細に書かれていましたが、アレと似通った事情があったのではないかと推測します。
爵位拝領の件ですが、最初から枠から外れていたのですね。御教示ありがとうございました。それにしても島津四兄弟の中で日置島津家に比べて悪い扱いですねぇ。中書家久と豊久がなければ島津家があそこまで興隆したかアヤシイ物ですのに。
花岡島津家も一門衆の中では特異な家ですね。ここの創設は開発の遅れていた大隅半島内陸の開拓と関係があるとか何かの本に書いてあったように思いますが…。

ところで、最初「口永良部島」と「沖永良部島」を混同していたのはここだけの内緒です(爆)

まちがえた
ばんない
1つ前の「管理人しか見られないコメント」はおそらく私が間違って送信してしまった物です。
桐野様、お手数ですが、消去して下さりますと助かります。ご迷惑をおかけします。

永吉島津家
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

『「さつま」の姓氏』の永吉家の項を見てみました。
12代久陽が口永良部島の初代代官をつとめたのち、明治5年に同島に移住と書いてありますね。
口永良部島には幕末になるまで代官が置かれていなかったようですね。外国船が出没するようになったための措置でしょうか?
廃藩置県の直後に12代は移住したようですね。本家は東京に行くことになりましたし、島津一族にも明暗があったのかどうか。気になるところです。

なお、13代の事跡が省略されていますが、これが篤姫の次兄ですね(笑)。14代久籌は霧島神宮宮司を務めたりして、本土に残っている感じですね。隠居の12代だけが島に行ったように見えますが……。

○○も出たー(失礼)
ばんない
私は残念ながら見られなかったのですが、10/27放送分の「鶴瓶の家族に乾杯」で、久敬の曾孫という方が出演しておられたようです。現職はお寺の住職だそうです。

興味深い話だったので、古い記事ではありますがこちらにコメントさせていただきます。

久敬の曾孫!
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

その番組、先週に引きつづいて観ていません。
バラエティ番組だと思っていましたが、ある人に聞いたところによれば、ほかにもけっこう貴重な情報が流れていたようですね。
久敬の子孫もいるとは驚きです。

今年は雨後の竹の子のように(といったら失礼か)、いろんな家や人が出てきますね。
でも、これをきっかけに、幕末島津家臣団の研究が進むかもしれませんし。

再放送
ばんない
こんばんは。
私もバラエティ(しかも国営放送のバラエティはいまいち笑え…以下自粛)ということで、全く見てなかったのですが、ネット上で番組の話を偶然見つけてビックリしました。「その時歴史が動いた」はよく大河とのタイアップをしていますが、バラエティも便乗とは驚きました。

ということで、来週早速再放送があるようです。但しBS2、しかも時間がよろしくない(11/4(火)の夕方16:30~)ですが。

再放送
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

再放送のお知らせ、有難うございます。
個人的な関心事もあるものですから、何とか見れたらと思っています。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
知られざる島津家「永吉島津家」幕末編
今晩は。観賞お疲れさまです

篤姫の次兄の話、興味深く拝見しました。…酷い人だったようで(苦笑)。
永吉島津家は明治維新後も他の一門衆が華族になる中、華族になれずに(たぶん領地返上前の石高が1万石に達していなかったからだと思われますが)、その後口永良部島に一族移住してしまったと言う、かなり異色の島津分家ですね。現在のご子孫がどうしているかまでは調査が及ばず存じません。しかし、離島への移住という決断をした背景には、篤姫次兄の放蕩などもあったのでしょうか。
2008/02/18(Mon) 22:43 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
口永良部島!
ばんないさん、こんばんは。

永吉家は口永良部島まで行ってしまったのですか。
知りませんでした。どんな事情があるんでしょうね。

それはさておいても、永吉家は爵位を与えられる資格はもともとなかったと思います。
島津家で爵位を得られたのは、宗家、久光家、佐土原家のほかは、いわゆる八家(一門四家と宮之城・都城・日置・花岡)、それに久光と忠義の庶子のみです。
あっ、それに種子島家も別格の家柄ということで、爵位をもらってます。

永吉家は八家より家格が下ですしね。

なお、八家のうちで、花岡家だけが爵位(男爵)をもらえる資格があったのに、事情があって放棄してますね。
2008/02/19(Tue) 18:16 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
口永良部島
こんばんは。

永吉島津家の口永良部島移住は『「さつま」の姓氏』(川口大十著)に出てくる話で、その事情にどんな物があったのかは記述が無く不明です。
以前、「佐多」さんが伊勢氏の零落についてこのブログのコメントで詳細に書かれていましたが、アレと似通った事情があったのではないかと推測します。
爵位拝領の件ですが、最初から枠から外れていたのですね。御教示ありがとうございました。それにしても島津四兄弟の中で日置島津家に比べて悪い扱いですねぇ。中書家久と豊久がなければ島津家があそこまで興隆したかアヤシイ物ですのに。
花岡島津家も一門衆の中では特異な家ですね。ここの創設は開発の遅れていた大隅半島内陸の開拓と関係があるとか何かの本に書いてあったように思いますが…。

ところで、最初「口永良部島」と「沖永良部島」を混同していたのはここだけの内緒です(爆)
2008/02/20(Wed) 00:34 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
まちがえた
1つ前の「管理人しか見られないコメント」はおそらく私が間違って送信してしまった物です。
桐野様、お手数ですが、消去して下さりますと助かります。ご迷惑をおかけします。
2008/02/20(Wed) 00:36 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
永吉島津家
ばんないさん、こんばんは。

『「さつま」の姓氏』の永吉家の項を見てみました。
12代久陽が口永良部島の初代代官をつとめたのち、明治5年に同島に移住と書いてありますね。
口永良部島には幕末になるまで代官が置かれていなかったようですね。外国船が出没するようになったための措置でしょうか?
廃藩置県の直後に12代は移住したようですね。本家は東京に行くことになりましたし、島津一族にも明暗があったのかどうか。気になるところです。

なお、13代の事跡が省略されていますが、これが篤姫の次兄ですね(笑)。14代久籌は霧島神宮宮司を務めたりして、本土に残っている感じですね。隠居の12代だけが島に行ったように見えますが……。
2008/02/20(Wed) 23:22 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
○○も出たー(失礼)
私は残念ながら見られなかったのですが、10/27放送分の「鶴瓶の家族に乾杯」で、久敬の曾孫という方が出演しておられたようです。現職はお寺の住職だそうです。

興味深い話だったので、古い記事ではありますがこちらにコメントさせていただきます。
2008/10/27(Mon) 22:33 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
久敬の曾孫!
ばんないさん、こんばんは。

その番組、先週に引きつづいて観ていません。
バラエティ番組だと思っていましたが、ある人に聞いたところによれば、ほかにもけっこう貴重な情報が流れていたようですね。
久敬の子孫もいるとは驚きです。

今年は雨後の竹の子のように(といったら失礼か)、いろんな家や人が出てきますね。
でも、これをきっかけに、幕末島津家臣団の研究が進むかもしれませんし。
2008/10/28(Tue) 23:41 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
再放送
こんばんは。
私もバラエティ(しかも国営放送のバラエティはいまいち笑え…以下自粛)ということで、全く見てなかったのですが、ネット上で番組の話を偶然見つけてビックリしました。「その時歴史が動いた」はよく大河とのタイアップをしていますが、バラエティも便乗とは驚きました。

ということで、来週早速再放送があるようです。但しBS2、しかも時間がよろしくない(11/4(火)の夕方16:30~)ですが。
2008/10/29(Wed) 00:36 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
再放送
ばんないさん、こんばんは。

再放送のお知らせ、有難うございます。
個人的な関心事もあるものですから、何とか見れたらと思っています。
2008/10/29(Wed) 23:22 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
 会員一部の方は伊豆へ研修に行かれたようですが、当日本の校了と重なってしまい、行...
2008/02/19(Tue) 09:56:44 |  旅じゃ.com
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。