『伊達宗城在京日記』に出て来た薩摩の「洋行人」は、やはり町田久成(民部)ではないかと思います。
佐々木高行日記『保古飛呂比』6月29日条には次のように書いてありました。
松力ニ於テ薩藩大監察町田民部に会す、田中幸助同席ス、民部ハ龍動ニ二ケ年勤学、此頃帰崎、直ニ京都ニ出ルトイフ、西洋談敷事アリ、夜ニ入リ帰宿ス
(龍動はロンドン。「二ケ年」は中井の大ボラか?)
24日に佐々木と親交をもった中井(田中幸助)が、町田を佐々木高行に紹介したものと思われます。
また、この時期の『伊達宗城在京日記』にも、町田民部は数回登場しています。例えば、6月20日条には、「町田民部参委曲西洋談且皇国大変革之密話スル懐中の折本ニ記ス」と書かれています。
町田は、長崎でも五代と共に土佐と接触していることが岩崎弥太郎日記で確認できますし、講座で取り上げていた「後藤象次郎今日崎ヨリ参候処」と「只今迄崎ヨリ来候同藩士洋行人の由」は同じ日に書かれてますので、もしかしたら、町田久成は、後藤・龍馬・中井と共に、長崎から京にやってきたのではないでしょうか。
『寺村左膳道成日記』6月29日条の「薩藩田中民部等一席也」の「田中民部」は、中井弘(田中幸助)と町田民部二人のことと考えるべきかもしれませんね。
それから、中井が、後藤のことを宇和島藩に告げていた記事がどこかにあった筈と探したところ、『伊達宗城在京日記』6月最終条に書いてありました。後藤は、今回の「大条理」で、長崎での失敗を汚名挽回しようとしていると、中井は語っています。
まいたく君さん
昨日はお疲れさまでした。
いろいろ調べていただき、有難うございました。勉強になりました。『伊達宗城在京日記』の記事は私も確認しました。
「洋行人」はやはり町田久成のようですね。
長崎から後藤・龍馬・中井弘とともに、町田久成も一緒に上京したということですが、そのメンバーが面白いですね。みな大政奉還論者です。
そうそう、左膳の日記に出てきた容堂警固の軍備役支配の深尾山九郎と山川久太夫。国許に帰らせてくれと激しく突き上げ、左膳ら重役を困惑させた二人です。
佐々木の『保古飛呂比』によれば、佐々木は山川と「同志」だと書いています。ということは、山川も勤王派だったと思われます。国許に帰りたいというのは単に里心がついただけではなく、国許で勢力を増している勤王派に合流するつもりだったのかもしれません。
京都藩邸では容堂不在のため、現状維持で何もしない方針ですから、在京していても無駄で、藩内世論を転換させるには国許に帰った方がよいという判断だったのではないでしょうか。
保古飛呂比ももっと読み込まないといけないですね。でも、読み応えがありすぎて(爆)。
深尾三九郎と山川久太夫は、勤王派でしたか(笑)
それを知って少し調べてみましたら、彼らの行動は「維新功績者調べ書」に載っていました。
二人とも、江戸から来た板垣と会ったり、中岡慎太郎の宿を訪問したりしていますね。面白いのは、会津人が集まる妓楼に入って、会津桑名の気風を探究したりもしたそうです。
板垣が京都に残っていたらよかったのでしょうが、容堂は板垣も連れ帰ってしまいましたから、早く帰国したかったのかもしれませんね。