歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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小学館アカデミー古文書塾「てらこや」
特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」第4回

一昨26日夜、上記講座に出講。
天候のせいか、仕事のプレッシャーのせいか、どうも体調がかんばしくない。肩凝りがひどい。後頭部あたりがどんよりとしている。

72年前のこの日は、2・26事件があった。昔、その方面の本を作ったのを思い出した。
事件当日は大雪だったそうな。打って変わって、生暖かい日で、講座が終わると雨が降り出したほどだった。
たしか、講座会場の近くの毎日新聞社(当時、東京日日新聞)もこの事件に巻き込まれたような。


それはさておき、講座のほうを。
この間受講生から、島津久光の地位をどう理解したらよいか質問が何度かあったので、改めて考えてみることにした。
一言でいって、朝幕改革を目的とする久光とその側近グループ+門閥革新派(小松帯刀)+下級城下士(精忠組中心)の結合体であろうということ、そして構成メンバーの結束と機密性が高かったのではないかといったことを話した。

また久光権力の由来というか正統性は、

①斉彬の遺言
②藩主茂久の「国父」待遇宣言
③幕府の国政補佐の承認

などに基づくのではないかといった感触を語る。
もっとも、幕府が認めたのはあくまで国政(藩政)の補佐であり、京都手入れや率兵上京などの対外的な周旋活動ではない。だから、率兵上京は久光の政治的バクチであり、行きづまる可能性があったが、寺田屋での自藩尊攘派鎮圧により、朝廷の信任を得、勅許を得たことが久光権力の対外的な正統性も高めることになり、その結果、久光の公家成(四位少将)によって、事実上大名の地位を獲得した、といったような話をした。

肝心の小松帯刀のほうは、文久3年(1863)段階は、やはり久光の政治的意図をほぼ忠実に実現する方向での周旋活動を展開している。それが近衛家をはじめ、松平春嶽・尹宮朝彦親王などに認知されるとともに、小松自身の信任へと発展していくような見通しが得られた。

今後の方向性としては、小松が久光から自立していくのか、それが西郷・大久保などとの、いわゆる討幕派の形成とイコールなのかどうか、といったところが政治的に重要だろうという感触がある。

結局、4回の講座で読めた小松文書はわずか13点だけだった。
年次比定などに手間取った。また書簡を書いた時点での小松と文通相手である大久保の居所がどこなのか、特定するのも難しい。「小松帯刀伝」と『大久保利通文書』10所収の大久保年譜を使ったが、精度の面で十分とはいえない感じもした。

その辺を突きつめるには、誰に頼るわけにもいかず、結局、自分でやるしかないのかと暗澹たる気持ちにさせられた。
やはり、幕末の居所論は大事である。近世初期の徳川幕閣要人の居所を調べた共同の先行研究があるが、一人ではやはり大変だろうなと思う。

次回は早くも今次の最終回。
テーマは「小松と女性」をやるつもり。

①近年発見された篤姫付きの侍女が島津家に出した書簡などの紹介。
②小松が国許のお千賀(お近)に出した何点かの書簡の検討。

ができたらいいなと思っているところ。

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【2008/02/28 23:35】 | てらこや
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