歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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日次記です。

3月12日(水) 天晴
午後3時頃から雑誌や新聞連載で使う写真の撮影にでかける。
春分の日も近いから、陽もだいぶ長くなったので、この時間帯でも大丈夫だと思った。

まず、比較的近場にありながら、なかなか行けずにいた杉並区永福町の大円寺に行く。
ここは島津家の江戸での菩提寺。
江戸初期の藩主、島津光久の嫡男綱久が他界して、同寺に葬られたのがきっかけで、以後、島津家ゆかりの寺となった。

もっとも、もともとは徳川家ゆかりの寺である。
最初、赤坂溜池あたりにあったが、伊皿子に移転している。
伊皿子は現在の港区三田3丁目と高輪2丁目あたり。
つまり、三田(芝)の薩摩藩上屋敷の近くにある。
綱久がここに葬られたのは、藩邸に近かったのと、島津家の鹿児島の菩提寺である福昌寺と同じ宗派(曹洞宗)だったからだろう。

その後、永福町に移転したのは、関東大震災か先の戦災のためだろうか。
よく知らないので、ご教示いただければ幸いである。

井の頭線永福町駅から徒歩10分くらいのところにあった。
面白かったのは、本堂正面に付いている家紋。
葵紋と丸十紋が仲よく同居している(写真参照)。
これだと、丸十紋が優勢だが、山門の瓦の紋は葵紋だったので、五分五分である。
葵紋

墓所には、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士75名の名を刻んだ慰霊碑が建っている(写真参照)。
戦死者碑

碑の土台にプレートが嵌め込まれていたが、そのなかには、

益満休之助

肝付十郎

など、知られた名前もある。
益満


杉並区が立てた案内プレートには、ほかにも

横山安武(森有礼の兄、太政官政府に抗議の割腹自殺をした人)

八田知紀(歌人)

の墓もあるとあったが、探し出せなかった。

この寺に天璋院篤姫が養父斉彬と義理の祖父斉興を供養するために石塔を建てたということが『旧記雑録追録』に書かれている。
篤姫の入輿後、ほどなく斉彬は他界する。江戸城大奥にいては、斉彬の供養もままならないから、せめてもと大円寺に供養塔を建てたものか。もっとも、本人は参拝に行けず、代参だったろうなと思う。
じつは、その供養塔を探すのがいちばんの目的だったが、それらしいのは見当たらなかった。
もしかして山門を入って、すぐ右手にある高い宝篋印塔がそれだったのだろうか? ご存じの方がおいでなら、教えて下さいまし。

その代わり、西郷隆盛の三男、午次郎とその一族の墓を見つけた。

墓所の奧には、保科家の墓もあった。巨大な五輪塔が立っていた。保科正之以前のもののようだった。


その後、井の頭線で渋谷まで行く。
薩摩藩の渋谷藩邸跡に行くため。
ここは島津斉彬が外国船の攻撃から難を避けるために購入した下屋敷。
斉彬はここで電信の実験をしたことが記録に残っている。
また江戸入りした篤姫が最初に入った邸もここ。入輿するときも、ここを発して江戸城に入っている。

ここは以前も取材で行ったことがあったが、そのときはゆかりの碑の存在を知らず、撮影できずにいたので、それを押さえに行った。

それはともかく、K学院大学キャンパスの景観の変貌ぶりに驚く。
5、6年前までここの大学院棟でよく輪読会をしていたが、その建物は壊され、立派な建物が建設中。
本キャンパスにはW木タワーと呼ばれる超高層のビルが……。
近日中に、このタワーで勉強会があるが、これほどまで変わってしまうとは……。

で、その先の坂を下ったところに、例の碑があった。
碑そのものは「常盤松」の碑といって、源義朝の側室、常盤が植えたという伝説がある。
このあたりに鎌倉時代、渋谷城があり、渋谷一族が住んでいたという。
のちに彼らは薩摩に下ることになるが。

その後、千駄ヶ谷まで移動し、天璋院篤姫が晩年を過ごした千駄ヶ谷の徳川屋敷周辺を彷徨う。
何か碑でも立っていないかと、ひとしきり探したが、見当たらなかった。
もしご存じの方がおいでなら教えて下さい。

わずか3時間足らずだったが、久しぶりによく歩いた。
心なしか体も軽くなったような気がした。

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【2008/03/14 15:33】 | 日次記
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大円寺
調所
私が聞いてることや過去帳などの資料から分かる範囲で申しますね。芝大円寺には笑左衛門(広郷)が葬られておりましたが、廃仏毀釈からしばらくして神道に改宗した島津家の加護が徐々に縮小され、明治41年に代替地として大幅に規模の小さくなった現在地に移らざるを得なかったそうです。その移動の前に、嘉永年間すでに遺髪を納めてあった鹿児島福昌寺の墓へ笑左の遺骨が曾祖父の名前で改葬されてます。


移転理由
桐野作人
調所さん、こんにちは。

ご先祖も大円寺に葬られていましたか。
もしかして、位牌はまだ同寺にあるんでしょうかね?

大円寺が明治末年に現在地に移転したとのこと。
ご教示感謝です。
大震災でも戦災でもなく、財政的な理由だったのですね。
島津家が神道に改宗したあおりだったとは知りませんでした。



ばんない
便乗して質問があります。

同じく島津家の菩提寺である東福寺即宗院も場所こそ移転していませんが、現在残っている建物などは貧弱(失礼)な印象が否めませんでした。これも島津家改宗により庇護を失ったことが起因しているのでしょうか。

廃藩置県
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

改宗も考えられますが、藩がなくなって経済的援助がなくなったことのほうが大きいかもしれませんね。

幾島の墓発見
ばんない
といっても招魂墓で中身はないみたいですが、墓碑には今まで一般的に知られてなかったいろんな事が書いてあったようですね。
http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=10654

以下追記ですが
こちらにある保科家の墓は正之の系統ではなくて、飯野藩の物です。2代をのぞく9代藩主まではこちらのお寺にお墓がありますが、明治維新以降はご多分に漏れずこちらの寺とは縁が薄くなられたようで青山墓地に墓があるようです。
http://www.geocities.jp/daitabou/yamanotedaiennzi.html

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大円寺
私が聞いてることや過去帳などの資料から分かる範囲で申しますね。芝大円寺には笑左衛門(広郷)が葬られておりましたが、廃仏毀釈からしばらくして神道に改宗した島津家の加護が徐々に縮小され、明治41年に代替地として大幅に規模の小さくなった現在地に移らざるを得なかったそうです。その移動の前に、嘉永年間すでに遺髪を納めてあった鹿児島福昌寺の墓へ笑左の遺骨が曾祖父の名前で改葬されてます。
2008/03/15(Sat) 09:54 | URL  | 調所 #-[ 編集]
移転理由
調所さん、こんにちは。

ご先祖も大円寺に葬られていましたか。
もしかして、位牌はまだ同寺にあるんでしょうかね?

大円寺が明治末年に現在地に移転したとのこと。
ご教示感謝です。
大震災でも戦災でもなく、財政的な理由だったのですね。
島津家が神道に改宗したあおりだったとは知りませんでした。
2008/03/15(Sat) 12:13 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
便乗して質問があります。

同じく島津家の菩提寺である東福寺即宗院も場所こそ移転していませんが、現在残っている建物などは貧弱(失礼)な印象が否めませんでした。これも島津家改宗により庇護を失ったことが起因しているのでしょうか。
2008/03/17(Mon) 19:55 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
廃藩置県
ばんないさん、こんばんは。

改宗も考えられますが、藩がなくなって経済的援助がなくなったことのほうが大きいかもしれませんね。
2008/03/17(Mon) 23:59 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
幾島の墓発見
といっても招魂墓で中身はないみたいですが、墓碑には今まで一般的に知られてなかったいろんな事が書いてあったようですね。
http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=10654

以下追記ですが
こちらにある保科家の墓は正之の系統ではなくて、飯野藩の物です。2代をのぞく9代藩主まではこちらのお寺にお墓がありますが、明治維新以降はご多分に漏れずこちらの寺とは縁が薄くなられたようで青山墓地に墓があるようです。
http://www.geocities.jp/daitabou/yamanotedaiennzi.html
2008/05/15(Thu) 22:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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