歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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歴史公論信長

昨日書いた戦前の雑誌というのは、『歴史公論』誌の1936年(昭和11)6月号のことで、織田信長の特集である。
以前からその一部はコピーしてもっていたが、古書で格安な値段で出ていたから、思い切って購入した。

徳富蘇峰が巻頭言を書き、東京帝大の史料編纂官の花見朔巳、伊木寿一のほか、
イエズス会研究者の岡田章雄、
城郭研究者の鳥羽正雄、
のちに著名な史家となる桑田忠親、
国文学者の暉峻康隆、
茶道史研究でも知られる永島福太郎、
伝記作家の坂本箕山

などが執筆者に名を連ねている(敬称略)。

時代の制約もあろうが、収録された論考は玉石混淆である。史実と物語がごっちゃになっているのも多く、とくに坂本箕山のものは読むに堪えない。

そんななか、面白かったのは永島福太郎の「洞ヶ峠と湖水渡り」という論考である。
題名からもわかるように、筒井順慶の日和見の代名詞となった洞ヶ峠と、明智秀満の琵琶湖渡りを史料に基づいて検証しようというものである。

洞ヶ峠については、『多聞院日記』などに基づいて、筒井順慶は郡山城に籠城していたから同峠にいるはずがなく、むしろ、『蓮成院記録』の記事から光秀がいた可能性が高い、その目的は順慶を手中にするためだったとする。現在でも十分通用する論考である。

明智秀満の湖水渡りについては、まず秀満の呼称を問題にし、左馬助とか秀俊とか光春は間違いであり、明智弥平次秀満が正しいと論じるなど、じつに的確である。
そして、湖水渡りについても、『川角太閤記』などの記事は俗説で信用できないと切り捨て、『秀吉事記』(いわゆる『天正記』)にある小舟で渡ったというのが正しく、そこから尾ヒレが付いて俗説が形成されたと論じる。
70年前の論考だが、実証主義に徹したその研究態度はじつに見事である。

あと、年来の疑問がぶり返ったのが、伊木寿一の「織田信長の自筆文書及び天下布武の印に就いて」という論考である。
年来の疑問が何かというと、細川家所蔵の信長朱印状の年次と、文中にある「猿」が誰かという問題である。この朱印状の全文を掲げる。

  猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、
 又一□を差遣候、其面無油断雖相聞候、猶以可入勢候、
 各辛労令察候、今日之趣徳□ニ可申越候也、
     三月十五日  (天下布武朱印)
   長岡兵部大輔とのへ
   惟住五郎左衛門尉とのへ
   滝川左近とのへ
   惟任日向守とのへ


まず年次の問題。
伊木はこの朱印状の年次を不詳としている。信長文書の年次といえば、まず奥野高広『織田信長文書の研究』下をチェックしないとならないが、これには上の信長文書は収録されていないのではないか。補遺編も含めて見てみたが、見当たらない(見落としの可能性もあり)。

一方、細川家譜である『綿考輯録』一(藤孝公)には、この信長文書がちゃんと収録してあって、年次を天正六年(1578)の丹波攻めのものだとしている。さらに、上の不明文字も「一□」が一若、「徳□」が徳若と翻刻している。一若は若い頃、秀吉と一緒に信長に仕えた小者である。徳若もおそらくそうだろう。
『太閤素生記』(改訂史籍集覧)に、秀吉が信長に仕え始めた頃の記事がある。

 其比、信長小人ニガンマク・一若ト云テ小人頭二人アリ、
 彼一若中々村ノ者也、


秀吉と同郷の一若が実在したことはほぼ確実である。なお、ガンマクも本能寺の変を安土に急報した人物である。

年次が天正六年というのはほぼ動かないだろう。『信長公記』同年の四月十日条に「滝川・惟任・惟住両三人丹波へ差遣はされ」云々とある。上記朱印状は三月で一月ずれているし、宛所が四人で一人藤孝が足りないが、これとは別に同年三月四日付で、信長が藤孝に宛てて丹波に出陣するよう命じた朱印状があるから、四人が揃うし、丹波攻めの軍令が下ったのが三月だったことが確認できる。

なお、奥野はこの文書を収録していないが、上に挙げた藤孝宛ての信長朱印状(三月四日付)の解説で、「三月十五日信長は光秀・一益・長秀・藤孝の四人の行動を是認し、なお油断するなと戒めている」と述べている。これは明らかに上の信長朱印状の内容を念頭に置いたものだろう(存在を知っているのに、なぜ収録してないのか)。

次に「」は誰かという問題。
伊木はこれを羽柴秀吉だとし、俗説も満更捨てたものではないと解説している。その後、この説を多くの研究者が踏襲している。だが、果たしてそうなのか。

①まず、この時期、秀吉は播磨にあって、本願寺=毛利方に寝返った別所長治の三木城を攻めていた。その秀吉が安土の信長のところに帰って「夜前之様子」を伝えたことになるが、まったく具体性がない。丹波方面に在陣している四将にとってみれば、播磨表の情報がこれだけでは何のことだかさっぱり不得要領ではないだろうか。明らかに筋違いの情報伝達である。

②この時期の秀吉を、いかに信長とはいえ、公式文書で気軽に「」と呼ぶとは思えない。三年前に秀吉は筑前守を勅許されている。その正式名称を用いないのは、家臣の手前どうなのか。

③「」は信長お抱えの小物頭ではないのか(秀吉も小者から小者頭に昇進した)。
」を「一若」「徳若」とともに三人をセットで考えたほうがよいのではないか。この三人が信長の命を受けて、丹波表にいる四将との連絡にあたっていると解したほうが自然ではないか。

④そうだとすれば、「」という名の、秀吉ではない別の小者が信長のそば近くにいたことになる。考えてみれば、信長が秀吉夫人おねに宛てた有名な訓戒状では、秀吉のことを「はげねずみ」と呼んでいた。秀吉の綽名としてはこちらのほうが信憑性があるのではないか。

というような疑問を抱いていたのだが、結局、よくわからないままで、疑問がさらに深まるのである。
このところ話題が幕末ばかりで、久しぶりに信長を書いたような気がする(笑)。


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【2006/12/15 01:48】 | 信長
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ロアン
初めまして、ロアンと申します。

早速ですが、ご指摘の信長黒印状は、『織田信長文書の研究』下巻の271ページに写真と共に掲載されてます。年次は、天正6年ではなく、天正5年に比定されてます。
「猿」については、以前より秀吉ではないと思っていましたが、年次の確定など、なかなか面白い信長文書だと思います。以前、岐阜の博物館で特別展示されているのを見て、猿は秀吉ではあり得ないと直感しました(笑)。文書自体は、かなり虫食いが激しかったです。

『歴史公論』の該当号、僕もかなり以前に、やはり古書店で入手して書架に収めています。
その頃は、ネットなど無い時代でしたので、店頭で見つけて早速購入しました。
論文のいくつかは、今日の批判にはも十分に耐えられるものがあると思います。


天正五年か六年か
桐野
ロアンさん、はじめまして。

ハンドルは半井驢庵から取られたのでしょうか。
コメント有難うございました。

例の細川家文書、『織田信長文書の研究』の天正五年に掲載されているとのこと。さっそく確認しました。信長の自筆文書だとのことで、わざわざ写真版まで掲載されているのに見落としてしまい、恥ずかしいかぎりです。ご指摘有難うございました。

う~ん。天正五年説もありそうですね。
『信長公記』によれば、雑賀攻めのとき、浜手を進軍した織田軍に滝川・惟任・惟住・長岡の四将がそろい踏みしていますね。

私は『綿考輯録』の年次比定に従って、天正六年だと書いてしまいましたが、同年との整合性はあるというだけで、同五年との整合性もあるとなると、決められませんね。短い書状ですし、ほかに年次を推定できるような材料がありそうもないですね。

ロアンさんはこの原文書を肉眼で見られたのですね。そして「猿」≠秀吉というお説とのこと。心強く思いました。差し支えなかったら、そう思われた理由などお聞かせ下さい。

猿=秀吉について
岐阜少将
はじめまして。
いつも興味深く読ませていただいています。

今回の記事を読み、一つ思うことがあったので伺いたいのですが、秀吉のあだ名が猿というのは一体どこから来たものなのでしょうか?
ドラマや小説等で秀吉が「猿」と呼ばれることが多いので「秀吉のあだ名=猿」とさも当たり前のように思ってきたのですが「はげねずみ」のように文書などの一次史料に残っているものなのでしょうか?それとも後の編纂物等によって書かれたものが由来なのでしょうか?

有名な話なのかもしれませんが、私自身専門的な知識を持ち合わせていないもので…御教示頂ければありがたいです。

秀吉の「猿」呼称
桐野
岐阜少将さん、はじめまして。

ロアンさんといい、いかにもなハンドルでとても楽しいです(笑)。

コメント有難うございます。
秀吉が「猿」と呼ばれたかどうかというのは難しい問題ですね。

まず、信長が秀吉を何と呼んだのかという点に関して、現存の一次史料で確認できるのは「はげねずみ」だけだということ。
また紹介した信長朱印状に「猿」という文言があるが、秀吉を指すかどうか不明だということです(『綿考輯録』の解説には、信長の忍びだとしています)。

あと、一次史料で秀吉を「猿」と呼んだ例もありますね。「京中落書」と呼ばれるもので、天正19年(1591)に成立したものです。秀吉のたび重なる天下普請による負担強化に対する諷刺です。

 まつせ(末世)とは別にはあらじ、 木の下のさる(猿)関白を見るに付ても

という強烈な落首です(笑)。
一般庶民にも秀吉の猿顔は有名だったようです。

編纂史料には、秀吉が「猿」と呼ばれたと思わせるものがありますね。
『太閤素生記』(改訂史籍集覧十三)は、秀吉を知る人への聞書である程度の信はおけるとのことですが、たとえば、秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とあります。これなどは家族が「猿」と呼んでいたことを示しているのかもしれません。

また放浪時代の秀吉が松下加兵衛に見出されたとき、加兵衛が秀吉を見た印象を次のように書いて居ます。

「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」

さらに時代が下って『絵本太閤記』になると、幼少の秀吉の容貌について「其面猿に似たり、名を日吉丸と号けれど(名付けれど)猿によく似たりとて人みな猿之助とよび習はせり」とあります。

日吉丸という幼名は真偽定かではありませんが、比叡山の日吉山王のご神体は猿ですから、日吉信仰と何か関連があるともいわれていますね。

以上から、一次史料でも秀吉が「猿」顔だったことは確認できます。
編纂史料でも、秀吉が「猿」かそれと類似した名前もしくは綽名があったようですね。

あまりお答えにはなっていないかもしれません。
この問題について、ある程度論じているのは、小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)がありますので、ご紹介しておきます。


横レスですが・・・
板倉丈浩
桐野さんの説明に補足しますと、『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」としていますね。「ガンマク・一若・猿三人の小人頭の内、猿は秀吉也」とも記しています。
また、蒲生氏郷が朝鮮出兵を批判して「猿め、死処を失うて狂うたか」と吐き捨てたというエピソードは有名です(武功雑記)。
秀吉の字(あざな)が猿に似ていたので「猿之助」だとするのは『明良洪範』が元ネタのようです。

信憑性の高そうな史料で見ますと、毛利家臣・玉木吉保はその自伝で秀吉を「赤ひげ・猿眼」と描写しています(身自鏡)。
秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告しています(懲録)。
イエズス会宣教師の報告書の中にも、信長の鷹が足に縄をつけたまま飛んで高い木に引っかかって動けなくなったときに、秀吉が素早く木に登ってほどいたことがあり、また容貌も猿に似ていたので「サル」と呼ばれるようになったという記述がありました(1600年報)。

こうして見ると、秀吉の顔が猿に似ていたのは間違いないようなのですが、もともとの名前が猿なのか、ニックネームが猿なのかは史料不足でちょっと確定できませんね。
当時の史料で秀吉を猿と呼んだ記録がほとんどないので、秀吉がそう呼ばれることを嫌ったとも考えられます。自分の過去を語ることがほとんどなかったようですし、過去を消し去りたかったのかもしれません。

ありがとうございます
岐阜少将
桐野様、板倉様、ありがとうございます。
小和田氏の著作は読んでみようと思います。
大変参考になりました。

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コメント
この記事へのコメント
初めまして、ロアンと申します。

早速ですが、ご指摘の信長黒印状は、『織田信長文書の研究』下巻の271ページに写真と共に掲載されてます。年次は、天正6年ではなく、天正5年に比定されてます。
「猿」については、以前より秀吉ではないと思っていましたが、年次の確定など、なかなか面白い信長文書だと思います。以前、岐阜の博物館で特別展示されているのを見て、猿は秀吉ではあり得ないと直感しました(笑)。文書自体は、かなり虫食いが激しかったです。

『歴史公論』の該当号、僕もかなり以前に、やはり古書店で入手して書架に収めています。
その頃は、ネットなど無い時代でしたので、店頭で見つけて早速購入しました。
論文のいくつかは、今日の批判にはも十分に耐えられるものがあると思います。
2006/12/15(Fri) 22:02 | URL  | ロアン #-[ 編集]
天正五年か六年か
ロアンさん、はじめまして。

ハンドルは半井驢庵から取られたのでしょうか。
コメント有難うございました。

例の細川家文書、『織田信長文書の研究』の天正五年に掲載されているとのこと。さっそく確認しました。信長の自筆文書だとのことで、わざわざ写真版まで掲載されているのに見落としてしまい、恥ずかしいかぎりです。ご指摘有難うございました。

う~ん。天正五年説もありそうですね。
『信長公記』によれば、雑賀攻めのとき、浜手を進軍した織田軍に滝川・惟任・惟住・長岡の四将がそろい踏みしていますね。

私は『綿考輯録』の年次比定に従って、天正六年だと書いてしまいましたが、同年との整合性はあるというだけで、同五年との整合性もあるとなると、決められませんね。短い書状ですし、ほかに年次を推定できるような材料がありそうもないですね。

ロアンさんはこの原文書を肉眼で見られたのですね。そして「猿」≠秀吉というお説とのこと。心強く思いました。差し支えなかったら、そう思われた理由などお聞かせ下さい。
2006/12/16(Sat) 00:36 | URL  | 桐野 #-[ 編集]
猿=秀吉について
はじめまして。
いつも興味深く読ませていただいています。

今回の記事を読み、一つ思うことがあったので伺いたいのですが、秀吉のあだ名が猿というのは一体どこから来たものなのでしょうか?
ドラマや小説等で秀吉が「猿」と呼ばれることが多いので「秀吉のあだ名=猿」とさも当たり前のように思ってきたのですが「はげねずみ」のように文書などの一次史料に残っているものなのでしょうか?それとも後の編纂物等によって書かれたものが由来なのでしょうか?

有名な話なのかもしれませんが、私自身専門的な知識を持ち合わせていないもので…御教示頂ければありがたいです。
2006/12/16(Sat) 02:03 | URL  | 岐阜少将 #fH7V5HK6[ 編集]
秀吉の「猿」呼称
岐阜少将さん、はじめまして。

ロアンさんといい、いかにもなハンドルでとても楽しいです(笑)。

コメント有難うございます。
秀吉が「猿」と呼ばれたかどうかというのは難しい問題ですね。

まず、信長が秀吉を何と呼んだのかという点に関して、現存の一次史料で確認できるのは「はげねずみ」だけだということ。
また紹介した信長朱印状に「猿」という文言があるが、秀吉を指すかどうか不明だということです(『綿考輯録』の解説には、信長の忍びだとしています)。

あと、一次史料で秀吉を「猿」と呼んだ例もありますね。「京中落書」と呼ばれるもので、天正19年(1591)に成立したものです。秀吉のたび重なる天下普請による負担強化に対する諷刺です。

 まつせ(末世)とは別にはあらじ、 木の下のさる(猿)関白を見るに付ても

という強烈な落首です(笑)。
一般庶民にも秀吉の猿顔は有名だったようです。

編纂史料には、秀吉が「猿」と呼ばれたと思わせるものがありますね。
『太閤素生記』(改訂史籍集覧十三)は、秀吉を知る人への聞書である程度の信はおけるとのことですが、たとえば、秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とあります。これなどは家族が「猿」と呼んでいたことを示しているのかもしれません。

また放浪時代の秀吉が松下加兵衛に見出されたとき、加兵衛が秀吉を見た印象を次のように書いて居ます。

「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」

さらに時代が下って『絵本太閤記』になると、幼少の秀吉の容貌について「其面猿に似たり、名を日吉丸と号けれど(名付けれど)猿によく似たりとて人みな猿之助とよび習はせり」とあります。

日吉丸という幼名は真偽定かではありませんが、比叡山の日吉山王のご神体は猿ですから、日吉信仰と何か関連があるともいわれていますね。

以上から、一次史料でも秀吉が「猿」顔だったことは確認できます。
編纂史料でも、秀吉が「猿」かそれと類似した名前もしくは綽名があったようですね。

あまりお答えにはなっていないかもしれません。
この問題について、ある程度論じているのは、小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)がありますので、ご紹介しておきます。
2006/12/16(Sat) 11:11 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
横レスですが・・・
桐野さんの説明に補足しますと、『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」としていますね。「ガンマク・一若・猿三人の小人頭の内、猿は秀吉也」とも記しています。
また、蒲生氏郷が朝鮮出兵を批判して「猿め、死処を失うて狂うたか」と吐き捨てたというエピソードは有名です(武功雑記)。
秀吉の字(あざな)が猿に似ていたので「猿之助」だとするのは『明良洪範』が元ネタのようです。

信憑性の高そうな史料で見ますと、毛利家臣・玉木吉保はその自伝で秀吉を「赤ひげ・猿眼」と描写しています(身自鏡)。
秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告しています(懲録)。
イエズス会宣教師の報告書の中にも、信長の鷹が足に縄をつけたまま飛んで高い木に引っかかって動けなくなったときに、秀吉が素早く木に登ってほどいたことがあり、また容貌も猿に似ていたので「サル」と呼ばれるようになったという記述がありました(1600年報)。

こうして見ると、秀吉の顔が猿に似ていたのは間違いないようなのですが、もともとの名前が猿なのか、ニックネームが猿なのかは史料不足でちょっと確定できませんね。
当時の史料で秀吉を猿と呼んだ記録がほとんどないので、秀吉がそう呼ばれることを嫌ったとも考えられます。自分の過去を語ることがほとんどなかったようですし、過去を消し去りたかったのかもしれません。
2006/12/16(Sat) 18:06 | URL  | 板倉丈浩 #-[ 編集]
ありがとうございます
桐野様、板倉様、ありがとうございます。
小和田氏の著作は読んでみようと思います。
大変参考になりました。
2006/12/17(Sun) 22:04 | URL  | 岐阜少将 #fH7V5HK6[ 編集]
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2011/02/03(Thu) 21:07:18 |  国家鮟鱇
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